第50話 扉を開けた先には
新学期を迎え、学園の空気も少しずつ変わっていった。
アメリアや、元クラスメイトたちも多く参加したデビュタントは、華やかに執り行われた。
その場で、アレクシス殿下とセレーネ様の正式な婚約も発表される。
さらに、ルーカス兄様とアメリアの婚約もほぼ決まり、来年春には婚約式が行われる予定だ。
皆が少しずつ未来へ進んでいく。
そんな変化を感じながら、私もまた、自分にできることへ向き合っていた。
薬草学では、お祖父様の残した本を読み解きながら、セレーネ様や庭師のバルドから多くを学んだ。
魔術科でも、学ぶべき課程はすでに終えていた。
ある日、講師室へ呼ばれた私は、リュミエール先生をはじめとする魔術科の教師たちから、正式に修了証を授与された。
本来なら卒業時に渡されるものらしい。
「あなたに教えられることは、もう多くありません」
そう告げられ、思わず修了証を見つめる。
けれど、不思議と終わりの気はしなかった。
まだ学びたいことは、たくさんある。
最後の学生生活を悔いなく過ごしたくて、私は以前にも増して勉強へ打ち込んでいた。
放課後には、ラファエル様やルイス様たちと、魔術について議論することも増えた。
時には難しい連携魔術の話で盛り上がり、気付けば日が暮れていることもある。
そんな何気ない時間さえ、今では大切に思えた。
休日には、バルドと共に王都のハンターギルドへ足を運ぶようにもなった。
元騎士団弓兵隊長だったバルドは、かつてハンターとして活動していた時期もある。
しかも、現在のギルドマスターはその頃の弟子だったようで、登録は驚くほどスムーズに進んだ。
薬草採取や素材収集、小型魔物の討伐補助――。
最初は簡単な依頼ばかりだったけれど、学園の中だけでは知れないことも多かった。
前を歩くバルドの背中は、どこか昔より頼もしく見えた。
そうして、季節は巡っていった。
学び、時に依頼をこなしながら、私は最後の学生生活を穏やかに過ごし、ルーカス兄様と共に無事卒業した。
そして春――
兄様とアメリアの婚約式の日。
春の陽射しに包まれた会場は、穏やかな祝福の空気に満ちていた。
けれど、主役の二人はというと――
(……兄様、顔が怖いな)
「ルーカス様、なんだか怒ってらっしゃる?」
セレーネ様が隣で呟いた。
よく見れば、僅かに肩が強張っている。
その表情はどこかマーカス叔父様や父様にも似ていて、思わず少しだけ懐かしい気持ちになった。
「イグナリエル家の人は、緊張すると顔が怖くなるんですよ」
思わず小声でそう言えば、隣のセレーネ様が小さく吹き出した。
「ふふ。そうなのね」
対するアメリアは、緊張した様子を見せながらも、懸命に笑顔を浮かべていた。
隣に立つセラフィナ叔母様も優しく彼女を見守っていて、以前よりずっと自然な空気を感じる。
クローデル子爵夫妻はというと、愛娘の晴れ姿に感極まってしまったらしく、何度も目元を押さえていた。
「本当に……立派になって……」
震える声に、アメリアも少しだけ目を潤ませる。
その姿を、私は静かに見つめていた。
皆、それぞれの未来へ進んでいくのだと――
改めて実感していた。
♦︎♦︎♦︎
婚約式からしばらく後――
私は正式に貴族籍を抜き、ハンターとして生きる道を選んだ。
名も、新たに改める。
エルリーナ・リュミエール。
その名を名乗ることを許してくれた先生へ、深く頭を下げた日のことは、きっと忘れないだろう。
もっとも、ハンターギルドへ登録した名は、もっと短い。
『リナ』
その名で呼ばれる方が、今の自分にはしっくりくる気がした。
イグナリエル伯爵家との縁が切れたわけではない。
むしろ伯爵家は、今後も私の後見人として支えてくれることになっていた。
新たな拠点に選んだのは、隣国との国境近くにある小さな町だった。
かつて、実の両親と共に暮らしていた家。
長い間空き家になっていたそこを整えながら、少しずつ新しい生活を始めていく予定だ。
旅立ちの日の朝は、驚くほど穏やかだった。
空はよく晴れていて、風が庭の木々を静かに揺らしている。
まとめ終えた荷物を馬車へ積み込みながら、私は小さく息を吐いた。
長く過ごしたイグナリエル伯爵家を離れる日が、本当に来たのだ。
玄関前には、伯爵家の人々と使用人たちが集まっていた。
バルドはすでに馬車の側に立っていて、黙ったままこちらを見守っている。
「……本当に行ってしまうのね」
叔母様が、少し寂しそうに微笑んだ。
以前のようなぎこちなさは、もうほとんどない。
私は小さく頷く。
「はい。でも、後見人契約もありますし、また顔を出します」
そう答えると、叔母様はどこか安心したように目を細めた。
「身体には気を付けるのですよ」
「ありがとうございます」
隣では、アメリアが今にも泣きそうな顔をしている。
「エルリーナ……手紙、絶対に書いてよね……!」
「ふふ、ちゃんと書くから」
手を握り、今までの感謝を伝えた。
兄様は相変わらず難しい顔をしていたけれど、しばらく黙ったあと、不器用に口を開く。
「……無茶はするな」
短い言葉だった。
けれど、その声には確かな心配が滲んでいる。
「はい」
そう返すと、兄様は微笑んだ。
少し離れた場所では、叔父様が腕を組んだままこちらを見ていた。
視線が合う。
沈黙のあと、低い声が静かに響いた。
「……困ったことがあれば戻ってこい」
思わず目を見開く。
「ここは、お前の家でもある」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
昔の私なら、きっと想像もできなかった。
私は静かに頭を下げる。
「……はい」
そう返した、その時だった。
「さあ、ふたりとも」
叔母様が後ろへ声をかけた。
すると次の瞬間、ぱたぱたと慌ただしい足音が響いた。
「「リーナ様!」」
駆け寄ってきたのは、オルガとミリアだった。
二人とも、どこか泣きそうな顔をしている。
「お体に気を付けてくださいね」
「そうですよ! オルガ姉さんも、私もいないからって、無茶をしてはだめですよ!」
思わず小さく笑ってしまう。
気付けば、一番長い時間を共に過ごしていたのは、この二人だった。
つらかった時も、嬉しかった時も。
いつも傍にいてくれた。
「……ありがとう」
そう呟くと、ミリアはとうとう目元を潤ませ、オルガも困ったように微笑んだ。
「……そろそろ出るぞ」
馬車の側に立っていたバルドが、静かに声をかける。
はっとして空を見上げれば、日差しはすでに高く昇っていた。
「はい」
小さく返事をして、私は皆へ向き直る。
見慣れた屋敷。
見慣れた庭。
そして、見慣れた人たち。
ここで過ごした時間は、決して短くなかった。
楽しいことばかりではなかったけれど――それでも、確かに大切な日々だった。
胸の奥に温かなものを抱えたまま、私は静かに頭を下げる。
「……みなさん、ありがとうございました。行ってきます」
その言葉に、皆が穏やかに笑った。
春の風が優しく吹き抜ける。
私は新しい名と、新しい人生を胸に、ゆっくりと前を向いた。
♢♢♢
あれから――
ひとりでの生活にも慣れ、ギルドでの依頼もこなしながら、旅の資金を貯めていた。
(薬草採取や、簡単な討伐じゃなかなか貯まらないな……)
小さな机に頬杖をつきながら、ふとバルドの言葉を思い出していた。
『……ハンターとして生きるなら、信頼できる仲間を見つけろ』
(そろそろ本格的に、探さないと……)
ハンターの仕事は、基本的にパーティ前提のものも多い。
ギルドでも何度か声はかけられた。
新人らしい私を誘う者もいれば、掲示板にはパーティ募集の張り紙も並んでいる。
けれど、どうにも決め手がない。
そんなある日だった。
「なあ、だから俺たちと組めって言ってるだろ?」
昼過ぎのギルドで、私はげんなりした気持ちのままため息を飲み込んだ。
ここ数日、しつこく声をかけてくる男がいるのだ。
断っているのに妙に馴れ馴れしく、距離も近い。
「組まない。何度も断っているよね」
「そんなこと言うなって。新人一人じゃ危ないだろ?」
半ば行く手を塞ぐように立たれ、内心うんざりする。
周囲のハンターたちも見てはいるが、面倒事に関わりたくないのか、誰も口を挟まない。
――その時だった。
「嫌がってるだろ」
低く落ち着いた声が響く。
男の肩を、後ろから誰かが軽く掴んだ。
「……あ?」
振り返った男が顔をしかめる。
けれど、相手の姿を見た途端、舌打ちして手を離した。
「……ちっ」
そのまま不機嫌そうに去っていく。
内心ほっとしながらも、また新たな勧誘かと少し身構えた。
「……ありがとうございます」
とりあえず礼を、と顔を上げる。
そこで初めて、相手の顔をしっかり見た。
黒い髪。
この世界では珍しい色。
けれど――それ以上に、その顔には見覚えがあった。
「……え?」
思わず目を見開く。
見間違えるはずがない。
「……セラ?」
「久しぶりだな、リナ」
懐かしいその“声”が、耳に響いた。
間違いない。
王宮での戦いの最後。
制約を破り、私を庇った天使。
光がほどけるように消えていった。
「……どうして」
掠れた声しか出ない。
今にも涙が溢れそうになる。
セラは周囲を軽く見回し、静かに呟いた。
「ここじゃ目立つ。話なら、場所を変えよう」
そうして――
止まっていた運命が、再び動き始めた。




