第48話 踏み出す準備
あれから――
これまで以上に勉強に励み、資料を集めては、リュミエール先生に何度も相談を重ねた。
気がつけば、窓の外の季節は、短い冬を迎えようとしていた。
冷たい風が、静かに硝子を鳴らしている。
私は、古代語の研究室で、資料を前にしていた。
「提出する書類はこれで大丈夫だ。あとは、伯爵家にそろそろ言わないといけないな」
「そうですね」
手元の書類に目を落とす。
「まずは、一歩前に……ですね」
「……私は、エルリーナの決断を尊重する」
背筋を伸ばして、先生が私を見つめた。
「だが、無理はしないことだ。頼ることも大事だぞ。私は、いつでもここにいる」
「ありがとうございます。……ルキウス叔父様」
先生は微笑み、そっと頭に手を置いた。
研究室に、静かな時間が戻る。
窓の外では、すでに日が傾きはじめていた。
(……行こう)
書類をそっとまとめる。
「今日は、これで失礼します」
「ああ。またな」
短い返事を背に、研究室を後にした。
外に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
いつものように、馬車乗り場へ向かう。
「リーナ様、お疲れ様です。寒くなってきたので、中でお待ちください」
オルガに手を引かれ、馬車に乗り込む。
「うん。ありがとう、オルガ」
手にした書類を、そっと抱き直した。
(……大丈夫)
しばらくすると、足音が近づいてきた。
「待たせた」
ルーカス兄様が、馬車に乗り込んできた。
「兄様、お疲れ様です」
変わらない光景。
変わらない会話。
ただ――
膝の上の書類だけが、重く感じられた。
♦︎♦︎♦︎
馬車は、ゆっくりと屋敷の門をくぐった。
見慣れた景色に、ほっと息がゆるむ。
「ただいま戻りました」
いつものように迎えられ、
いつものように、屋敷の中へと入る。
自室で、持ってきた書類を引き出しにしまった。
(……うまく話せるかな)
私は窓辺に目を向けた。
ふと、視線が揺れる。
もう、どこにもいないとわかっているのに。
頬に、あのときの感触がよみがえった気がした。
(しっかりしないと……)
控えめなノックの音が響いた。
「リーナ様、夕食のご用意が整っております」
「ありがとう、今行くね」
食堂には、あたたかな灯りがともっていた。
いつもの美味しい料理に、穏やかな会話。
ここにいる時間が、当たり前のものになっていることに気づく。
伯爵家の人たちは――
もう、私の家族なのだと。
やがて食事が終わり、お茶の時間へと移った。
カップから立ちのぼる湯気が、やわらかく揺れている。
指先でカップに触れる。
じんわりとした温もりが伝わってきた。
(……大丈夫)
カップを静かにソーサーへ戻し、ひとつ息を吸う。
「……あの」
視線を上げる。
「少し、お話があります」
「どうした? エルリーナ」
マーカス叔父様の声に、セラフィナ叔母様も静かにこちらを見ていた。
隣で、ルーカス兄様がわずかに姿勢を正す。
「今年最後の試験で――飛び級に挑戦したいと思っています」
「……飛び級? そういえば……そんな制度があったな」
低い声で、叔父様が口を開いた。
まっすぐに向けられる視線。
「合格者は、ほんのわずかと聞いたが……」
その横で、兄様がわずかに目を細める。
「そうか……だから、毎日遅くまで図書館にいたのか」
その言葉に、頷いた。
「書類も……すでに準備してあります」
静かに目線を上げる。
わずかな沈黙が落ちた。
「……それと、来年のデビュタントには、参加しないつもりです」
「……え」
叔母様が息を呑む。
手にしていたカップが、かすかに揺れた。
「それは……どういうことかしら」
落ち着いた声の奥に、隠しきれない動揺が滲む。
「理由はなんだ?」
叔父様の表情が険しくなる。
「……私には、エルデナとしての役目があるからです」
静かな空気の中で、言葉を続ける。
「でも……学ぶことは、好きです。だから――」
もう一度、まっすぐに顔を上げた。
「この一年で、できる限りのことを学んで……きちんと学園を卒業したいと思っています」
膝の上で、そっと手を握る。
「そのあと、エルデナとして……闇と向き合っていきたいと考えています」
しばらくの沈黙。
やがて、叔父様が口を開いた。
「……王子宮での戦いのことも、お前が背負っているものも――すべて聞いている」
視線は逸らさないまま。
「理解していないわけではない……だが、そんなに急がなくてもいいじゃないか」
その言葉を、静かに受け止める。
それでも、ゆっくりと首を振った。
「……急ぎたいわけでは、ありません」
ひとつ息を整える。
「次代のエルデナに伝えるために……多くの経験を積みたいんです」
「……そんな……危険なことを、自分から選ばなくても……」
叔母様の静かな声に、はっきりとした動揺が滲んでいた。
「あなたは、ここで……」
その先の言葉は、続かなかった。
叔父様がじっとこちらを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
視線が、わずかに遠くを見た。
「……セドリック」
低く落ちた声に、思わず瞬きをする。
「昔、あいつも……家を出ると決めた時、同じ目をしていた」
過去を振り返るように、静かに目を伏せる。
「止めても、無駄だとわかる目だ」
苦笑のように呟いてから、もう一度こちらを見る。
「……まったく、似なくてもいいところまで似ている」
そう言って、叔父様は静かに姿勢を正した。
「……いいだろう。まずは、飛び級に合格してみせろ」
まっすぐに向けられる視線。
「合格したとしても、卒業まではまだ一年ある。デビュタントも、一年や二年遅れたところで問題はない」
一度、言葉を区切る。
「その時に、どうするか――改めて話し合えばいい」
静かな声だった。
けれど、その真剣な目は父様に似ていた。
完全に認められたわけではない。
それでも――
私の意思を、頭ごなしに否定しなかった。
「……もう、本当にあなたは……」
小さく呟いたあと、叔母様がそっと私を抱きしめた。
「危ないことなんて、してほしくないのに……」
声は震えていた。
けれど、その腕はとても優しかった。
♢♢♢
翌日――
伯爵家の書庫には、静かな朝の光が差し込んでいた。
私は机に資料を広げ、古代語の本へ視線を落としていた。
紙をめくる音だけが響く中、不意に扉が開く。
「こんなところにいたのか」
顔を上げると、ルーカス兄様がこちらへ歩いてきた。
「兄様」
「昨日の話……ちゃんと考えて決めたことなんだろう?」
その言葉に、小さく頷いた。
「……はい」
兄様は少しだけ視線を落とし、小さく笑う。
「正直、寂しくないわけじゃないけどな」
穏やかな声だった。
「でも、エルリーナが自分で決めたことなら……俺は応援する」
静かに、けれどはっきりと言い切る。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「だから、まずは試験だな」
机の上の資料へ視線を向ける。
「勉強でわからないことがあったら、いつでも聞け」
「はい、ありがとうございます」
そう返すと、兄様は小さく目を細めた。
書庫には、また静かな時間が戻っていった。




