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エルデナの祈り  作者: 春乃


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第44話 歪む心

王宮へ近づくにつれ、門前の空気がいつもと違うのがわかった。


朝の光の中、正門には普段より多くの騎士が立ち、出入りする者たちの表情にも張りつめたものがある。

大きな混乱が起きているわけではない。

けれど、抑え込まれた緊張が確かにそこにあった。


馬が石畳の手前で止まり、ダレンがすぐに先に降りる。


「足元にお気をつけください」


差し出された手を借りて地面へ降りると、慣れない揺れのせいか足元がわずかにふらついた。


「……ありがとうございます」


小さく礼を言うと、ダレンは短く一礼する。


「お気になさらず。急ぎましょう」


その直後、正門の騎士がこちらへ進み出た。


「失礼ですが、現在――」


制止の言葉より早く、ダレンが懐から小さな銀の徽章を取り出すと、騎士の表情がすぐに引き締まる。


「失礼いたしました。どうぞお通りください」


重い門の内側へ足を踏み入れる。


ダレンの案内で、政務監室の前に着いた。


扉は開いたままで、その奥でオルディアス公爵――アーサー様が次々と指示を飛ばしていた。


廊下を行き交う騎士や文官たちは足早に動き、報告の声が絶え間なく飛び交っている。

――魔物の活発化によって、各地の警備は逼迫しており、王都の警備隊だけでは手が足りない。

すでにハンターギルドにも依頼が出され、城下町の警備も増員されているという。


張り詰めた空気の中で、公爵様の声だけが静かに通る。


「南側の巡回も増やしてください。念のため、門の出入りも確認。ハンターギルドに追加の依頼を出すように」


短く指示を終えたところで、ようやくこちらに気づき、視線を向けた。


ダレンが静かに一礼するのに合わせ、私も一歩下がって頭を下げた。


「旦那様。公爵邸敷地内を使用人総出でもう一度捜索いたしましたが、セレーネ様は見つかっておりません」


その声に、周囲の空気がわずかに張る。


「……加えて、セレーネ様付きの侍女ロニの姿も確認できておりません」


公爵様の表情がわずかに険しくなった。


「グレイスには、セレーネがこれまで行ったことのある王宮内の建物を探してもらっています。まだ知らせはない」


その時、セラの声が頭に響いた。


『……東だ』


思わず息をのむ。セラの声だ――。


『東側だ。少し離れた建物の近くにいる』


私は思わず一歩前へ出た。


「……公爵様、よろしいでしょうか」


呼びかける声が少しだけ強張る。


公爵様は短く頷き、私の言葉を待った。


「東にある建物は、もう探されましたか」


私の問いに、公爵様がわずかに眉を寄せる。


「東なら琥珀宮です。第二王子殿下の王子宮ですが……セレーネはあそこへ行ったことはないはずです」


「……今朝、セレーネ様はアレクシス殿下のことを心配されていました。探すなら、そこかもしれません」


わずかな沈黙。


――その瞬間、再び意識の奥へ声が落ちる。


『……もう一つある。ミラベルも、そちらへ向かっている。急げ』


空気が一段、冷えた気がした。


(ミラベル様も……?)


「っ――」


わずかな息の詰まりを、公爵様は見逃さなかった。


「……何か、気づいたのですか」


その問いに、私は一瞬だけ迷い――すぐに口を開いた。


「……急いだ方がいい気がします」


うまく言葉にできないまま、それでも続ける。


「琥珀宮を、先に……確認させてください」


公爵様の視線がわずかに鋭くなる。

一瞬の沈黙。


「……わかりました。ダレン、琥珀宮へ――」


言いかけたその時、別の報告が割り込む。


「政務監! 東門付近にて魔物の集まりが確認されています!数が増えています。周辺住民の避難を開始しました!」


公爵様の表情が一瞬で切り替わる。


「東門に?」


「はい。原因は不明ですが、急激に――」


一瞬の判断のあと、公爵様は短く指示を出した。


「騎士団へ増援を。ギルドとも連携を取ってください。門は封鎖、住民の誘導を優先に」


「はっ!」


報告の足音が遠ざかる。張り詰めた空気の中で、公爵様はわずかに息を吐いた。


「……こちらも放ってはおけません」


その時、廊下の奥から急ぐ足音が近づいてくる。


「アーサー!」


振り向いた先に現れたのは、公爵夫人――グレイス様だった。

その視線がこちらに向き、わずかに目を見開く。


「……エルリーナさん?」


一瞬の驚き。

けれどすぐに表情を引き締める。


「セレーネは、まだ見つかっていないのね」


「……ああ」


短いやり取りのあと、公爵夫人の視線が再びこちらへ向く。


私は小さく息を整え、口を開いた。


「セレーネ様は、東の琥珀宮の近くにいるかもしれません」


公爵夫人の目がわずかに細められる。


「……理由を聞いても?」


「今朝、アレクシス殿下を心配されていました。それに……」


一瞬だけ言葉を選ぶ。


「セラが、そう言っています」


公爵夫人は迷うことなく頷いた。


「わかったわ。私が行くわ」


そのやり取りを、公爵様は静かに見ていた。


「……頼む」


短く告げたあと、公爵様はわずかに視線を伏せた。

ほんの一瞬――何かを押しとどめるように。


公爵夫人はその様子を見つめ、すっと手を伸ばす。

そっと、その手に触れた。

強く握るわけでもない、ほんの一瞬の接触。


「あなたはここを」


静かな声だった。

公爵様はわずかに目を細め、小さく頷く。


♦︎♦︎♦︎


公爵夫人とダレンに続き、私は王宮の奥――東へと足を進めた。


進むにつれて、空気が少しずつ変わっていく。

本来なら昼の光が差し込んでいるはずの回廊は、どこか薄暗い。

窓の外を見れば、いつの間にか黒い雲が空を覆っていた。


(……こんな天気だった?)


足取りは自然と早まっていた。

裾を気にせず動けるのは、出る前にオルガが用意してくれた服のおかげだ。


(……あとで、ちゃんとお礼を言わないと)


そう思いながらも、意識はすぐに前へ戻る。


『……近い』


ふいに、セラの声が意識の奥に落ちる。

その時だった。


「――っ、あれは……」


先を行くダレンが足を止める。

視線の先――回廊の端に、人影が倒れていた。


「クラリッサ様……!」


気づいた瞬間、私は思わず駆け寄っていた。

膝をつき、その肩に手を伸ばす。


「しっかりしてください……!」


遅れて公爵夫人もすぐそばに来る。


「エルリーナさん、少し失礼します」


そう言って静かに状態を確かめる。

その落ち着いた手つきに、私はわずかに息を整えた。


「……しっかりして」


公爵夫人の呼びかけに、かすかに瞼が揺れる。

けれど焦点は合っていない。

唇がわずかに動いた。


「ミ……ミラ……ベル様……」


うわごとのように、繰り返す。

その声に、背筋がひやりとした。


ダレンがすぐに状況を見極め、静かに告げる。


「医師のもとへお連れします。ここはお任せください」


公爵夫人は一瞬だけクラリッサ様を見つめ、それから静かに頷いた。


「……お願い」


ダレンにクラリッサ様を託し、私たちは再び東へと足を進めた。


やがて視界の先に現れた建物――それが、琥珀宮だった。


その周囲だけが、異様なほど静まり返っている。

風の音すら、遠く感じた。


(……本当に、ここに……?)


胸のざわつきが、かすかに揺らぐ。

気配はある。けれど――あまりにも静かすぎる。


その、次の瞬間だった。


――どんっ!!


重く鈍い衝撃音が、空気を震わせる。


「……っ!」


反射的に顔を上げる。今のは――


「奥から聞こえたわ!」


公爵夫人が駆け出す。

私もすぐに後を追った。


回廊を抜けた先で、視界が一気に開けた。


――中庭だった。


足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。


壊れた石壁の破片が散らばり、白いガゼボは無残に崩れ落ちていた。つい先ほどまで保たれていたはずの景観が、まるで踏み荒らされたように歪んでいる。


その中心に、三つの影があった。


一人は、ミラベル様。


少し離れた先に、セレーネ様。

そして、そのすぐ前にアレクシス殿下が、セレーネ様を庇うようにわずかに前へ出ている。


張り詰めた空気が、肌を刺す。


ふわり、とミラベル様の周囲で何かが揺らいだ。

淡く滲む、黒い靄のようなもの。

静かで、穏やかで――それでいて、どこか歪んでいる。


ミラベル様が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。

その動きはあまりにも優雅で、場違いなほどに落ち着いている。


「あら……」


小さく首を傾げ、柔らかく微笑む。


「あなたは、どなたかしら」


穏やかな声音。

けれど。


「……邪魔をなさらないでいただける?」


ぞくり、と背筋が粟立つ。


その視線はすぐに逸れ、再びセレーネ様へ向けられた。


「今、少し取り込み中なの」


静かに告げてから、ふっと息を吐くように続ける。


「私、取り返しに来たのよ」


その声音に、わずかな熱が混じる。


「アナスタシアに奪われたものを――返してもらうために」


空気が、重く沈んだ。

その中心にいるミラベル様から、目が離せない。


(……このままじゃ)


胸の奥が強く鳴る。


『……止めろ』


低く、セラの声が落ちた。

次の瞬間、私は一歩踏み出していた。


「――待ってください!」


張り詰めた空気を切り裂くように、声が響いた。

全員の視線が、一斉にこちらへ向く。


私はまっすぐ、ミラベル様を見据える。


「……美咲さん」


その名を呼んだ瞬間――


わずかに、空気が揺らいだ。

ほんの一瞬、ミラベル様の瞳が細くなる。


「あら……」


その表情から、すっと色が抜けた。

ミラベル様は無言のまま、じっと私を見つめた。


わずかな間。


「誰のことを、おっしゃっているのかしら」


穏やかな声。

けれど、その奥に引っかかるものがある。


私は一歩、踏み込んだ。


「……あなたが、本当に望んでいるものは――」


言葉を選びながら、それでも視線は逸らさない。


「私の力だったんじゃないですか」


わずかな沈黙。


ミラベル様は、ゆっくりと瞬きをした。

それから、くすりと笑う。


「……何をおっしゃっているの?」


やわらかな声音。

けれど、その奥にわずかな揺らぎが混じる。


「もう……そんなもの――必要ないわ」


あまりにもあっさりとした否定。

けれど。


「私が取り戻したいのは、もっと大切なものよ」


その声音が、ほんの少しだけ沈む。

黒い靄が、静かに揺れた。


「私は――」


一瞬、言葉が途切れる。


「……ちゃんと、選ばれていたはずなの」


空気が、きしむ。


「聖女として、皆に敬われて……」


ゆっくりと、視線がアレクシス殿下へ向く。


「殿下にだって、必要とされていた」


その瞳に宿るのは、疑いのない確信。

けれど――どこか歪んでいる。


「それなのに……」


声が、わずかに揺れた。


「私は――ちゃんと、愛されるはずだったのに」


その視線が、アレクシス殿下へ向く。


「……ねえ、ルシエン様」


空気が凍りつく。


「……誰のことだ」


低く抑えた声で、アレクシス殿下が返す。


けれどミラベル様は気にした様子もなく、微笑みを深めた。


「アナスタシア。あなたは覚えていらっしゃるはずでしょう?」


その言葉に、セレーネ様の肩が小さく揺れる。


「……違います」


かすれた声。


「私は……アナスタシア様では……」


最後まで言葉は続かなかった。


ミラベル様の視線が、ゆっくりとセレーネ様へ移る。


「――アナスタシア」


その呼び名は、冷たく歪んでいた。


「全部、奪ったくせに」


張り詰めた空気の中で、黒い靄が大きくうねる。


「私は……そこにいるはずだったのに」


その瞬間――


「下がれ、セレーネ!」


アレクシス殿下が、庇うように前へ出た。


『……来るぞ』


セラの声が、意識の奥に落ちる。


「――っ!」


考えるより先に、身体が動いていた。

私はさらに前へ踏み込み、両手をかざす。


その視界の端で、公爵夫人がセレーネ様とアレクシス殿下の腕を引いた。


「こちらへ!」


黒い気配が、一気に膨れ上がる。

空気が色を変えて、こちらに押し寄せてきた。


(……来る!)


息を詰める間もなく、私は力を解き放った。




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