自らが救われているのだ~S~
古い家特有の狭くて急な階段を駆け下りて、道場までの渡り廊下を走った。冬の冷えた空気が首元から足元からひやりと襲ってきたが、それ以上の興奮が美琴を走らせて、道場の扉を開けたその先にいたスーツ姿の名を呼ばせた。
「芳さん!」
呼び掛けたその人が振り返った。驚いたような表情を向けられて、(あ、)と胸が冷えた。スイッチが切り替わったかのように、感情が百八十度そのベクトルを変える。
(間違えた)
彼が必要だったのは父と母で、自分は二人のための餌だったのだとその表情で理解した。彼は大人で、こんな子どもに本気で感情を向けることなどあり得なかったのだ。
当たり前だ。彼と時間を共にしたのはたった数時間。美琴のほうはその手管にのぼせ上ったが、彼が美琴に興味を持つ理由がない。
恥ずかしい。何をあたしは勘違いしたのだろう。頬に熱が上がる。
「ごめんなさい!」と踵を返した。一瞬で目からあふれた熱い水滴が頬を転がり落ちて、それを拭きながらその場から逃げ出した。
逃げ出そうとした。痛いほどの力で二の腕を掴まれて、背後から捕えられた。
「ヤダ!離して!」
「蒼一さんに聞かれたら誤解されるから落ち着いて」
耳に直接吹き込まれる静かな声に、背中に当たる身体に、最初とは違う香水に、美琴の意思が揺らぐ。有無を言わせないまま道場に引きずり込まれて、壁を背にその高い身長で囲い込まれた。
「何がごめんなの?」
顔を見れないままに「だって…」と子どものようなセリフが転がり落ちた。
「藤枝さんは、こんな子ども、もう興味ないでしょう?」
言っている間に悲しくなって、ヒクヒクとしゃくりあげながら訴えた。興味ない子どもをこんなに追い詰めないでよ。帰してよ。頑張って忘れるから。ランチ中に見せてくれた笑顔も、エスコートしてくれた温かい手も、全部全部、あたしじゃない誰かに向けられるものなんでしょう?
深い深いため息が聞こえて、肩が跳ねた。そうだよ。こんな子ども、面倒くさいでしょう。早くその腕を開け放してよ。
けれど、美琴の意思に反して、その囲いは低く、狭くなった。
膝を折った藤枝が、下から美琴の顔を覗き込む。腕は完全に美琴の腰を抱いて、その目はやっぱり困っていた。
「それ、俺が言った?俺から聞いた?」
言ってない。聞いてない。でも、驚いた顔をしたのは、名前を呼ばれたからでしょう?もうそんなつもりなかったんでしょう?
「そうだね、もうそんな風に呼んでもらえると思ってなかったから、驚いたよ」
泣かないで、と、冷えた手のひらが、頬に流れた涙を拭った。
熱の上がった頬にそれが気持ちよくて何も考えずに頬擦りしたら、頬を撫でるのとは反対の、美琴を抱いた腕がピクリと跳ねた。
がくりと藤枝の頭が下を向いて、また深くため息を吐いた。
「帰る前に誤解は解いておきたいんだけど、美琴ちゃんに交際を申込みにって言うのは本当だからね?」
蒼一はまだ戻ってこない。寒い道場で、美琴に自分のダウンジャケットを掛けてから、藤枝は小柄な彼女と並んで座った。手をつなぐくらいはあの父親も許してくれるだろうか。美琴の手を上にして、離れたい時は離れられるように柔く握った。
美琴の目元ははっきりと赤く、瞳も洗ったように濡れている。泣かせたことが知られたら、また恐ろしいことになりそうだ。
「きっかけは言い訳できないよ。でもね、キミをずっと見ているうちに大事にしてあげたいな、って思ったの」
瑠璃と同じ顔をして、でも、その表情をクルリクルリと変えて、竹刀を持った時の凛々しい表情も友達と笑い合う表情も、気付けば愛おしくなっていた。彼はその権利を途中で奪われた。彼女も奪われようとしていて、それをさせたくなくて、理事長に声を上げた。
物のようなやり取りにしかならなかった。彼女には聞かせられない言葉でその所有権を藤枝は手に入れた。
「確かに俺はいい年した大人で、順番は間違えられないから同年代の子たちがしてあげられることもできないことが多いと思う。遠距離にもなるし、きっとキミの近くにいる同級生たちに嫉妬もする。それでも俺はキミを大事にしたい」
あぁ、もう。この子はどうやったら泣き止むのかな。それは瑠璃にも教わらなかった。
はらはらと涙を流す少女を抱きしめるわけにもいかなくて、藤枝はハンカチで目元を隠してあげた。
「簡単に離してあげられなくなるけど、それでもいい?」
しゃくりあげるのに忙しくて、美琴はうなずくことで了承した。
階段を降りてくる足音が聞こえる。これは恐ろしいことになるのは確定だな、と覚悟を決めながら、「近いうちにまた来るよ。そしたら、何か形になるものを買いに行こう」と目線を合わせた。
藤枝のハンカチから上目遣いで美琴が顔を出した。涙を流しながら笑って、その顔は晴れやかだった。




