~彼らは救いを与えているのではなく、~
深緋家に日常の生活が戻ってきたのは秋も終わろうとしていた頃だった。
…日常になるはずだった。旧姓浅葱が二階の一室で籠城を始めるまでは。
「沙良、お願いだから出てきて」
コンコン、とノックをしながら扉の向こうに声を掛ける。パンドラの箱の中身は、彼女には刺激が強すぎたようだ。
「篤志さんは知ってたの?」
締めた扉の向こうで拗ねた妻がそう言った。扉に背を預けて、膝を抱えている様子も目に浮かぶようだ。そんな場合ではないのに目尻が下がり、口角が上がった。
「あの時の基樹くんと瑠璃くんは僕にとってそれだけ衝撃的で、誰も信じられなくなってたんです」
証拠としてオペビデオを見せた。基樹は、愕然をした表情でそれを見ていた。
成人する直前の彼は、食い入るようにそれを見て、静かに顔をふせた。
「これを、父が指示したんですか?」
次は自分の番だと言われて、ショックを受けたのだろうと思った。パソコンのモニターから逃れるように顔を両の手で覆った線の細い大学生に、掛ける言葉が見つからなかった。
医学部に進学した彼は利き腕を骨折してその道を絶たれた。さらにその未来も父によって絶たれようとしていて、どうして彼がこんな業を背負わなければと深緋はそっとその肩に手を置いた。
細かく震えているのは怒りか悲しみか、と、胸を痛めた彼に聞こえたのは、笑い声だった。
「父さんが俺と?ハハッ、」
アハハ、と愉快そうに、涙すら浮かべて笑う基樹を、深緋は呆然と見ていた。笑いの治まらぬ顔で声で楽しそうに「深緋先生、」と呼び掛けられて、ぞっとしたのを覚えている。
「先生には申し訳ありませんが、俺は逃げませんよ。父さんがその気なら俺は受けて立ちます」
椅子から立ち上がった基樹にゆっくりと詰め寄られて、その目に狂気を見た。背中に壁が当たって、壁と基樹に挟まれて、下から差し込むような視線に深緋は問えなかった。何故、どうして。
「先生は、ボクの味方ですよね」
父親そっくりの目に深緋は抗うことができなかった。
どちらからも命を弄ぶような手術を依頼されて、それでも基樹を選んだのはそれまでの子どもたちへの贖罪の意識からか、あるいは、正幸のその最期をこの手にしたかったからか。
そして瑠璃が写真を届けに来たあの日。深緋は彼らが両親を人質に取ったのだと信じた。
電話口では二人とも元気そうで、彼には、それを否定する材料も確かめる術もなかった。
昨年、結婚式ぶりに会った両親に、「そう言えば」と郷里の訛りで渡されたものを見るまでは総てが敵だと思っていたのだ。浅葱でさえ信用しきれていなかった。
夕食も風呂も落ち着いて、妻は息子たちを寝かしつけに行った。
戻ってこないところを見ると、そのまま眠ってしまったのだろう。寝るに寝れなかった頃を思うといい傾向だ。
ペールグリーンの定形封筒に、見覚えはあるが持ち主は知らない筆跡で、深緋篤志宛になっていた。こちらが一方的に仲間と思っている相手だ。裏書を見て、寒さには慣れたはずの身体に鳥肌が立った。
“笹原諒”
両親になんと言ってその場を離れたのかは記憶にない。妻たちのいる客間ではなく、昔使っていた自分の部屋に駆け込んで、電気をつけた。
震える手を堪えて、カッターナイフで封を開ける。中から出てきたのは、やはり写真だった。
L判の光沢紙に鮮やかにプリントされた両親と瑠璃のそれは最初に彼に渡されたもので、何故今更これをと訝しんだ。
二枚目は妻が息子二人と戯れる写真。
三枚目は警察手帳を掲げた男性と、こちらに背を向けた藤枝が写る。
封筒に入っていたのはそれだけだ。送られてきた意図が分からなくてそれを見比べていたら、指先が写真の裏に細い違和感を捕えた。
“未知の証明”
“鏡の向こう”
“物語の語り手はその覚悟がある?”
それぞれの裏に書かれた文字の意味を、はじめは理解できなかった。何度も何度も写真と文字を見比べて、その瞬間は唐突に訪れた。火球が光を放ったかと思うほど目の前が眩んだ。
慌てて部屋を出て携帯を探した。結婚してからは掛けることもなくなった番号を呼び出して、興奮に任せて発信した。
相手が出るまで、永遠が流れたかと思うほど長かった。相手が応答する気配がして、被せるように「もしもし?」と吹き込んだ。低い咳払いが深緋を止めなければそのまま話し始めていただろう。
我に返って、相手の準備が整うのを待つ。
数秒後にようやく「何?」と低い声が答えて、何を言うか考えていなかったと慌てた。
「え…、と、写真」
深緋が何とかそれだけを絞り出すと電話の向こうで驚く気配がして、珍しく声を上げて笑った。その声が少年の時の彼そのままで、涙があふれた。
『じいちゃん、まだ渡してなかったんだ』
「え?」
『消印、読めます?』
低い声に促されて、ペールグリーンをひっくり返す。薄く消えているそれに目を凝らしていたら『ウソウソ、そんな必死に見なくていいですって』と笑った声が電話口から聞こえた。揶揄しているわけではなく、ただ明るい声だった。
『四年前です、送ったの。なんの反応もなかったから諦めたかなって思ってました』
向こう側で何かに腰掛ける気配がして、ハッとした。何も考えずに電話してしまったが彼は大丈夫だろうか。その気配を読んだのか、『大丈夫です。さすがに家です』と答えた。
その読み方は的確で定例会議でしか会わない彼そのままだった。だが、その声色はどうだ?低く、けれど、その警戒の解けた、柔らかく優しい声は。
止まらない涙に、重ねた年月を感じた。
『すみません、ずっと気負わせて』
見えない相手に、必死に頭を振る。彼の生きざまを思えばますます涙はこぼれた。
深緋の男泣きを瑠璃は辛抱強く、ずっと待っていてくれた。何度かせき込んで、ようやく呼吸が整って、聞きたいことがまとまった気がした。
「両親に、監視なんかついていないんだね」
『はい』
「沙良には、キミのことは内緒?」
『杞憂でしょうけどね。オレはともかく、フジが危険なので』
「藤枝くんは?」
『…あいつは、ポラリスなんかじゃありませんよ』
声が苦笑を纏った。
そんなお高く留まって人を導ける星なんかじゃない。汗に塗れて泥に塗れて、時に汚名を着ても、人の隣を歩きたがる大馬鹿です。
言い方はひどいが、その声は優しかった。その表情を見ることのできない距離がもどかしかった。
「瑠璃くん」
『はい』
「キミに、話しておかなければならないことがある」
『Shhhh』
柔らかい声が穏やかに深緋の言葉を遮って、息を飲んだ深緋に、聞き覚えのあるフレーズを告げた。
『それは、知っている人が知っていればいいんです』
「…気付いていたの?」
『えぇ』
「キミは、どうするの?」
『深緋先生には申し訳ありませんが、どうにかするには飼い殺された期間が長すぎました。今はもう、何もなければ、と願うしかありません』
それだけ瑠璃の首輪は頑丈だったのだろうと推測される声色だった。何か…例えば蒼一や、他の誰かに危害を加えることがなければ、瑠璃はそのまま基樹と共に生きていくのだろう。あるいはその罪を代わりに償うこともあるか。
「キミは、三代目の中身が誰だったか知ってる?」
『知ってますよ』
「じゃあ彼は、なんで自分ではなく、正幸のクローンを創ったの?」
『…あの男は、自分の身体が信用できなかったんですよ。また病に侵されるかもしれない自分の身体より、健康な息子の身体を選んだ』
胸糞わりぃ話です。そう言って、瑠璃は黙り込んだ。それを知るために、彼はどれだけのものを犠牲にしたのか。どちらも何も言えないまましばらく時間が過ぎた。
「…瑠璃くん」
『はい』
ありがとう、と言うのは違う気がした。申し訳ない、と謝ることもできない。費やした時間はあまりにも長すぎた。
「…気を付けて」
『ありがとうごさいます』
それが最後で、二度と電話は繋がらなかった。そして、次に飛び込んできたのは瑠璃が救急に担ぎ込まれたと言う報告で、あれよ、あれよと言う間に警察に連れていかれて事情を聴かれた。
おそらく妻も拘束されたはずで、子どもたちは気がかりだったが、そこは公権力を信じるしかなかった。
沙良は犯人隠避と証拠偽造に、深緋は殺人の罪に問われたが、どちらも起訴猶予となった。
拘留中に、子どもたちは失踪したはずの常磐優樹が預かっていると聞いて、彼はどこまで手を回していたのかと舌を巻いた。
「ね?早くお迎えに行ってあげよう?」
辛抱強く待って、ようやく控えめに扉が開いた。泣きはらした顔を深緋に押し付ける。
親子と言って差し支えない年の妻を女性と認識したのは、藤枝を伴って現れた会議の時だ。
彼女より年下の、それでも似合いの年の頃の二人が並んで、同じパソコンを覗き込んでいる姿に、嫉妬が沸き上がった。その子を笑顔にするのは僕だと、二十歳に届かない藤枝に声を上げそうになった。
だからこそ付箋の“鏡”が意味する相手がアリスだと、彼女なのだと疑いもなく信じた。そんな表情も瑠璃に見られていたのならどこかで誘導が入っていたのかもしれない。
恋愛の仲介役のようなことをされた気恥しさも、彼に掛かると吹き飛ばされてしまう。
妻に気取られないように苦笑して、彼女を連れて階段を降りた。助手席に乗せて、社宅のあるエリアをゆっくりと抜ける。
その外れに、リフォームも建て替えもされていない古いそれが残されていた。それは、深緋も浅葱も知らない、金山瑠璃の育った家だった。
※
藤枝の前から退いた瑠璃は、二階の一室に彼を案内した。手前の和室に布団が敷いてあり、抱く抱かぬの話を思い出してしり込みした藤枝は蹴飛ばされてその部屋に入った。
「送ってくの面倒だから泊ってけ」
瑠璃が階段を降りていく音を聞いて、緊張が切れたのか、急激に瞼が重くなって、藤枝はそのまま布団に倒れこんで泥のように眠った。
※
藤枝が寝入ってからしばらくして、リビングでまだお茶を飲んでいた瑠璃のもとに一人の青年がやってきた。神妙な顔をして、先ほどまで藤枝が座っていた椅子に腰掛け、瑠璃を静かに見つめる。
その目の前には、その家で彼専用となっていたマグカップに、温かいお茶が準備されていた。中身はほうじ茶らしい。ゆっくり手を付けて、寒くはなかったが冷えた何かを温めた。
「あそこまで行くと才能だな。普通、仇だと思っていた男にされた話、信じるか?」
「…あなたが信じ込むように手を尽くしたんでしょう。普段吸わないのに、あの子の父親と同じ銘柄の煙草吸って、食器類も取り替えて、母親と同じ化粧品使って、髪型まで似せて」
滝澤健太郎は、早口でそうまくしたてた。まくし立ててから、自分の膝の上に置いた拳に目を落とす。
「…俺だって、初めて聞く話でしたよ」
「聞かせて楽しい話じゃねぇからな」
「…薬、飲ませたんですか?」
健太郎の視線は、瑠璃がお茶を淹れていた流しの脇に置かれていた。喉の奥で小さく笑った瑠璃が、ポケットから、粉薬が入っていたのであろう半透明の袋の残骸を出して見せた。
「こんな話聞かされたらお前も乗り込んでくると思ったからな」
浅葱には使わなかった。一杯目も何も入ってなかった。胸襟を開いた様子を数時間見せつけられれば、二杯目以降を警戒するのは難しい。
「よく言いますよ。聞かせたんでしょう」
健太郎は、玄関先で眼鏡を外す瑠璃を木陰の中で見ていた。“聞け”の指示に携帯を取り出して、瑠璃からの着信を急いで取った。
スピーカーが拾う音声を聞き漏らさないようにイヤホンで聞き、藤枝が感じた衝撃以上のそれに襲われた。
「お前はどっちだと思う?」
本当に理事長がオレを手に入れるためにあいつの親を手に掛けたのか、それともまた別に理由があってオレが殺ったのか。
「今更試すようなことやめてください。あなたが理事長の駒なら俺はあなたの手足でいい。ただし、今後理事長に会いに行く時は俺か藤枝くんを連れて行って下さい。俺はあなたがこれ以上侮辱されるのは我慢がならない」
理知的な顔はひどく怒りで満ちていて、母親とは違うが意志の強さを瑠璃に教えた。
だが、瑠璃はそれを意に介さなかった。おどけたように肩をすくめて唇の端を上げ、嗤う。自身の眉間に皺が寄ったのが分かる。
「あなたが一人で蒼一くんを探しに行くのもそのためですか?」
マグカップが節だった指に持ち上げられた。ゆっくりと傾けられて、瑠璃の喉仏がコクリと鳴る。
「お前連れてって、蒼一とやり合える?」
どこまでも瑠璃は健太郎を揶揄した。瑠璃は健太郎にさえ喧嘩を売っているようだ。ダメだ。買えば瑠璃の思うつぼだ。
「…そこまで弱いつもりはありません」
腹筋にひたすら力を籠める。
顎を引いて、拳を握って、息を抑えて。瑠璃を初めて睨みつけた。
「そうか?それでもあのガキに同情してるだろ?親に似てお人好しだよな、お前も」
理性が飛ぶ感覚を、健太郎は初めて知った。
剣呑な音を立てて椅子が蹴倒され、瑠璃に伸ばした手はけれど逆に捉えられて、上半身丸ごとテーブルに押し付けられていた。お茶の入ったカップはいつの間にか避難させているのが瑠璃らしい。鼻で笑う音が聞こえた。
「この状態で言い訳立つのかよ」
健太郎の腕を後ろ手に拘束したまま、瑠璃は自身より頭一つ分背の高い男を見下ろした。
「こんなんじゃ、理事長の兵隊にも丸め込まれるぞ」
じゃあなんで。声が泣いてしまった。テーブルに落ちた自分の涙を見ていられなくて、目を強く閉じた。
「なんで今日だったんですか」
浅葱から電話をもらった時、瑠璃は総務課に居て、健太郎は同じ部屋の反対側で患者のリハビリ計画を立てていた。その日、予定などなかったはずだ。
それでも瑠璃は自身のパソコンで何かを確認して、今日を指定した。
「緊急ですか」
動くなら準備しますが、と声を掛けた健太郎に、「正也の店、予約しといて。三人。細かい指定はメールする」と楽しそうに答えた。瑠璃に気付かれないように盗み見た画面には、スケジュールの詳細が呼び出してあった。限られた人間しか閲覧できないはずの理事長の動向予定で、瑠璃が指定した日は北海道で医療法人協会の会議の予定が入っていた。帯同は笹原真澄。
完全に理事長の目の届かない今、監視を健太郎に指示して。これであなたを信じるなと言うほうが無理だ。あなたが俺たちを守っていたんだと強烈に聞かせて、その目的はなんですか。
「状況が変わったのは分かってんだろ?」
背中に肩に掛かっていた圧力が消えた。椅子を戻して、身体を起こした健太郎の襟を引いて荒々しく座らせる。そして自分はまた向かいに座ってマグカップを手にした。
「唯一ストッパーになるかと思った優樹を手放した。箍が外れたあいつは何をしでかすか分かんねぇ上に藤枝に目ぇ付けた」
「手元に置くため、ですか」
深いため息が、それを否定した。健太郎が肩をさする手を、顎で示す。
「自分のざまぁ見ろよ。お前も藤枝も、兵隊ども一人、二人なら何とかなるだろうが囲まれたら対応は難しいだろ?いい加減、手も、目も足りねぇ。敵を認識させて、自分の身を、もう一つ言えば他の人間一人くらい守れる力つけてもらわねぇと困るんだよ」
そこから二、三、言葉を交わしたような気もする。健太郎の携帯に着信があって、掛けてきた相手は弟だった。今は書き入れ時のはずだが、火急だろうかと、瑠璃に目線で許可を取って応答した。
『あ、兄ちゃん?リュウちゃんに連絡してほしいんだけど。いろいろ聞きだしたよ』
「何を?」
『店に来た時さ、背後確認のサインがあったんだよね。 “尾行二人”って。後から入ってきた該当者カウンターに案内して、それとなく話したよ。写真もばっちり』
母親の仇云々を聞いた弟は、「オレはよく分かんない」と積極的に基樹に手を貸そうとはしなかった。それでも調理師学校に進学し、地元の店で何年か修行して、その店を継ぐことが決まってからは、ことあるごとに場所を提供し続けた。あるいは今日のように諜報員のまねごとをすることもあった。
話好きなこともあって、警戒心を持たせずに聞き出すのが得意らしい。
通話を切った後、届いたメールに添付されていた写真を見た瑠璃が、ようやく笑った。獲物を見つけた顔だ。
「ビンゴ」
「何の確認ですか?」
「病院の中にいる兵隊。権限預けても顔と名前はたぶん全部預けてねぇんだよ。それでも十年以上やってりゃぼんやりとは分かったんだが、これが最後の一人、だ」
画面に映る男を指で弾く動作をした瑠璃に、「他のメンバーは?」と、携帯を仕舞ながら聞いた。
立ち上がった瑠璃は、こちらに背を向けて、使った食器を洗い始めている。急須も片付けているところを見ると、話はもう終わりらしい。背を向けたまま、低い声が機嫌いい。
「酔狂で大魔神なんかやってねぇんだよ。敵さんの戦力分かんなけりゃお前らに仕込みようもねぇからな」
兵隊は、兵隊だが軍隊じゃねぇ。ともすれば警察ですらねぇ。武器なんかたかが知れてるし、飛び道具だって使えねぇ。使えるのは一般人と同じ機材と、一般人より薄い倫理観しか持ち合わせてない自分だけだ。
師範含め三十人弱。あの頃はまだ十人を少し超えた人数で、手合わせすればその相手がどちらの性格なのか判断できた。それから増えたメンバーを探すのにだいぶてこずったらしい。話しながらも手は止まらず、食器を戸棚に戻していく。
「あいつらに喧嘩売られたのは渡りに船だったんだよ。仕事以外でオレから話し掛けらんなかったからな」
総務の仕事をまともにこなしながらそんなこともしていたのか。わずかな食器を片付け切り、一重がこちらを向いた。
「気が済んだら帰れよ。あんまり嫁さん放置すんな」
時計の針は二十三時を過ぎたところだ。子どもが生まれてからこんなに帰宅が遅くなったことはなく、玄関で退去の挨拶をしたところで、肩を拳で叩かれた。あまりにも軽いそれの意味が分からず、肩に置かれた拳と伏せられた顔を見比べる。
「お前は降りてもいいんだぞ」
低く、小さく。三和土の段差のおかげで、彼がうつむいていてもその表情が垣間見える。離れてほしくない、でも、危険に晒したくないと雄弁に。それが本音なのか。さっきまで腹を立ててた理由を思い出した。
「なんであなたがそこまでしんどい思いをしなきゃならないんですか」
肉体的にも精神的にも追い詰められて、社会的にも自身をひたすら偽って。
「うちの親どもが始めたんだ。オレがけじめ付けなきゃなんねぇだろ」
何でもないことのように簡単に告げられて、一瞬納得しそうになった。違う。こんな時、彼が背中を預けてた人ならなんと言う?
「それは親の責任であってあなたの責任じゃないでしょう」
弾かれたように顔を上げた彼は、少しの間呆気に取られて、悲し気に笑った。
「それでも、オレがやりたいことなんだよ」
それ以上、何も言うことはできなかった。促されて玄関を出て、家路についた健太郎の耳に玄関の鍵が掛けられる音が小さく聞こえた。
古い家を振り返る。二階に点いていた明かりも、しばらくして消えた。それを見届けて、健太郎はまた歩き出した。
秋の虫の音が、耳にうるさかった。
※
二階に上がって、その部屋にまだ電気が点いているのに気付いた。薬を盛ったとはいえ健やかに眠る子どものような寝顔を見て、思わず苦笑が漏れる。足を踏み入れてしまったのは、その空間の居心地がよかったからだろう。
一組の布団しかないその部屋の壁に背を預けて座り、その寝顔を静かに見つめる。
高校を卒業したら出るはずだった家。高校を卒業せずに自ら囚われることを決めた。
あの頃は出ていきたかった家が、今は唯一、何も考えず眠れる場所になった。
本当ならこの子どもには何も知らせず、こんな危険に巻き込ませず、できることなら外部に就職させて、まっとうに生きてほしいと思っていた。
そんな子どもに礼を言われて、茶を濁そうとしていた思惑をふっ飛ばされた。
「ありがとう」なんていわれる筋合いはない。オレに、オレたちに社会的な力があれば、二人は死なずに済んだはずだ。それを言えなかったのは、ただオレが臆病だったからだ。
気付かれたくないと、なぜオレは思ったのだろう。
結局、二人とも引き込む羽目になった。
「逃げなさい」と、手を引いてくれた温かい手を思い出す。
―――嘘をついた。朝倉蓮華と話をしたのは二回だ。
一度目は、手紙を託した。二度目は、監視カメラの死角で、健太郎と同じことをそっくりそのまま言われた。それに背を向けて、それが最期になった。
「ん、」と寝返りを打った子どもに軽いデコピンをお見舞いし、電気を消した。
ポラリスなんかじゃない。こいつは、奪われたら終わりのFLAGSHIP。こいつの意思が、オレたちの旗頭だ。
慣れた家は暗闇でも瑠璃の動きを妨げない。一度は空になった自室に戻り、瑠璃は自分の布団に潜り込んだ。




