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FAKERS  作者: 宇津木
彼らは、救いを与えてはならない
27/35

~それでもいい、と彼らはそれを改めようとはしない~

 

 警察署に訪れたのは母娘らしい二人組だった。困惑した様子の娘が、泣きじゃくる母親の背中をさすっている。通された部屋の物々しさに、娘はさらに眉根を寄せた。

 場所は取調室ではなく、本部の一角に設けられたブースだ。応接セットの周りをパーテーションで簡易的に区切ってあるだけなので、きっとその向こうで他の捜査員も聞き耳を立てていることだろう。

 ハンカチで間に合わず、ハンドタオルに顔を埋めた女性はまだ話ができそうにないので、代わりに隣に座る娘に声を掛けた。グレーのパンツスーツにほっそりとした身を包んだ、母親によく似た雰囲気を持った女性だ。不安げな瞳が庇護欲を掻き立てる。

「お二人のお名前とご関係をお伺いしてもよろしいですか?」

 母親と刑事の顔の間を何度か視線を行き来させて、一度唇を舐めて湿らせた女性が、「常磐梢と、母の優樹です」と答えた。彼が頷く。

「お母様とは何度かお会いしています。それで、お話というのは?」

「それは母が…、目を覚ました直後からこの状態なんですが、ここに電話しなければ、瑠璃のことを話さなければと言って…あとは話ができない状態で」

「梢さんは金山瑠璃のことを知ってらっしゃる?」

「え?もちろん。幼馴染、というか…」

 視線が泳いだ先を彼は見逃さなかった。母親に聞かれたくない話なのだろう。だが彼女はまた一度唇を舐めて口を開いた。母を撫でていたのとは反対の指がそっと腿の上で握られる。

 躊躇いがちな上目遣いに、そんな場合ではないのに心臓が一つ、大きく跳ねた。

「一時期、交際関係にありました。世間一般のそれとは少し違うかもしれませんが…」

「…と言うと?」

 上目遣いが母に移り、そして自嘲気味に手元に落ちた。二言三言しか交わしていないというのに引き込まれるような澄んだ声が迷うような色を帯びる。

「付き合っていると思っていたのは私だけだったんだと思います。たぶんあの人はそう言った意味では私を好いてはいなかった」

「時期はいつ頃ですか?」

「五年ほど前に一年弱、と言ったところでしょうか。大学受験を控えた夏でした」

 それを聞いた常磐優樹が、喉の奥で、か細く悲鳴のような声を出した。目元を抑えて背を丸める様は、まるで幼子のようだ。小さな嗚咽が何度も繰り返される。

 申し訳なさそうに母の背を撫でた梢が、視線をそっとパーテーションの向こうを伺うように動かした。化粧をしていても血の気が引いているとわかる唇が、僅かに開く。

「ずっと疑問だったんです。なんで瑠璃は逃げ続けているのか」

「っ!?」

 彼の動揺が漣のようにパーテーションの向こうに伝播した。彼女は、何故それを知っているのか。どこまで知っているのか問い掛けようと口を開いた彼より先に、か細い声がそれを遮った。

「違うの」

「え?」

「あの子は誰も殺めてない!」

 叫びのような訴えに、パーテーションの向こうがざわついた。目元や鼻の頭を赤らめた常磐優樹は、狂ったように息を切らせて、「お願い、信じて」と応接用の低いテーブルの向こうにいた彼に手を伸ばした。

「ちょ、落ち着いてください」

 常磐優樹の膝がテーブルに当たり、紙コップに入った安いコーヒーが波打ってわずかに零れる。春めいたとはいえまだコーヒーはホットの時期で、火傷しないかと慌てたが、静止するにもどこに触れていいか迷っているうちに脇から常磐梢が母を止めた。

 そして、その一言で彼女は理解したようだった。

「瑠璃が、殺人事件の犯人だっていうんですか?」

 困惑していた彼女の声が、言い終えるまでに怒気を孕んだ。母の腕を拘束する手には力が籠り、先ほどまで血の気が引いていた顔は紅潮しているのが分かる。

「ありえない」

 断言する彼女に、今度は彼が困惑する番だった。

 常磐家の兄弟はあの頃も男の嫌疑を否定していた。

 遠く回れば親族。まして家族のように過ごしてきた彼らの言をそのまま信ずるわけにもいかず、さらにいえば物的証拠は犯人が金山瑠璃だと示していた。あの部屋に、他の誰かがいた形跡はないのだ。

 被害者が陥るストックホルム症候群か?あるいは幼馴染の名を借りたグルーミングか?彼が言葉を選んでいる間に、一度深く息を吸い込んだ彼女は、怒りを堪えるように話始めた。

「暴力に訴えることが悪い、ということは重々承知の上で申し上げますが、彼が手を上げるのは他の誰かのためだけです。誰かが笑っていても、たった一人が嫌がっている気配を感じたら真っ先に飛び込むような人です」

 あるいは、昔々、みんなで、山で、海で、川で遊んだ。その場で最年長だった蒼一と瑠璃がじゃんけんをした。その勝負のどちらが勝ちだろうと、瑠璃は蒼一に子どもたちを預けた。自身が大変だからではない。幼馴染の一人が自分を怖がっていることを知っていたからだ。かといって忌避するわけでなく、例えば蒼一の手が間に合わない時は絶対に助けに入った。

 そんな人が、人を殺めることなど。

「ですが、人は変わります」

「変わっていません!」

 強硬に訴えたのは母親だった。「あの子は、助けてくれた」

 味方を得た常磐優樹は、僅かながら理性を取り戻したようだ。へたり込むように娘の隣に座り込み、娘に半ば抱き付きながら必死に言葉を紡いだ。

「常磐が犯した罪を明かしに来たんです。あの子は巻き込まれただけです」

 その秘密をようやく、優樹は話した。昨夜、理事長と話合って死を覚悟したことも。それを救ったのが瑠璃だということも。

 母親の話を聞いて、娘が頭を抱えた。

「それ、この人たちの管轄じゃないよね」

 何事かを巡らせて、「すみません、ちょっと外します」と携帯電話が使えるスペースを聞いて部屋を出ていった。

 その間に話は上層部に伝えられ、常磐会研究室爆破事件の捜査資料も併せて準備されて、その証拠品は再度鑑識に掛けられることになった。鑑識から回答が来たのは数日後のことで、「今の技術でも白黒つけられないほど巧妙に作られた代物」だいうことだった。

 部屋に戻ってきた梢は、改めて名刺を差し出した。そこには厚生労働省の所属が書いてあって、「担当から改めてご挨拶があるかと思います。私は関係者ですので調整などできませんので」と頭を下げられた。

「本当なら乗り込んでいきたいんですが…」

「それは…」

 証拠がないうえ、危険すぎる。こちらではない、向こうにいる彼らが、だ。言い淀んだ先に気付いたのだろう。先ほどより血の気の戻った唇が苦笑を形作る。

 丘の上の白亜は、茨に囲まれたそれだったらしい、と年若い彼女は悔しそうに言った。

 黙り込んだ梢に、提案を一つ。

「梢さんにも事件の概要を説明させてください。何か見つかるかもしれない」

 その提案に母の優樹も頷いた。コーヒーを一度片付けたテーブルの上に、捜査資料を広げる。

 時系列を追って説明をして、写真を並べた。女性には刺激が強いかと思ったが、梢は腹をくくったように赤に染まったナイフや部屋の写真を順に目にしていった。

 その視線が、一枚の写真で止まった。背中側が焼けた開襟シャツだ。

 痛々し気に目が眇められて、その写真を手に取った。

「…瑠璃の背中に、火傷の跡がありました。ちょうど、この、服の焼けた部分です」

 悔しそうにジッと写真を見ていた梢が、何かに気付いて首を傾げた。声を掛けた先は母親だ。

「ね、お母さん、これ、瑠璃ってこんな服持ってたっけ?」

「どうだったかしら?あの頃は立て続けにいろいろあって…」

「イメージが湧かないんだよね、これを着てる瑠璃って。どっちかっていうとお兄ちゃんたちが着てるような…ちがう、お兄ちゃんじゃないんだっけ」

 そんな話をしているうちに、誰かの携帯が着信を知らせた。辛抱強く鳴るそれは電話のようで、震えるそれを取り出したのは梢だった。相手を確認した梢が、眉根に皺を寄せる。

「兄の番号です」

 タイミングを読んだような着信に、部屋に緊張が走った。録音機器を準備している間に着信は切れたが、不自然にならないように打ち合わせをして、折り返した。

「もしもし」

『久しぶりだね。アレからどう?』

「何が?」

『瑠璃とさ。最近なかなか話してくれないんだ』

「報告することじゃないでしょう」

『後継者はキミたちの子どもに期待してるんだけどなぁ』

「やめてよ。話がそれだけなら切るよ」

『本題はこれからだよ。母さんが書置きしていなくなってね。そっちに行ってない?』

「来てないけど…そんなついでみたいに話すことじゃないでしょ」

『突然知らせるよりいいと思ったんだけどね。これから警察に届けるから、そのつもりでいて』

「分かった」

 通話を切って、梢は深く息を吐いた。顔をふせたその姿に「お疲れ様です」と声を掛ける。

 そうして次に着信があったのは彼の携帯だった。梢の携帯と同じように録音機をセットして通話ボタンを押す。

「お待たせしてすみません」

『いえ、お忙しいところ申し訳ありません。そちらのご担当ではないので恐縮の限りなのですが、実は母の優樹が本日無断欠勤しておりまして…連絡を受けて家に戻りましたら妹の部屋に書置きがあったので、捜索をお願いできないかと思いまして』

「書置きというのは?」

『ごめんなさい、と一言だけ』

「分かりました。担当を向かわせます。ただ、成人の自発的な失踪となると事件性がないと判断されてお力になれないこともありますのでそこはご了承ください」

『えぇ、もちろんです。届出はそちらに伺ったほうがよろしいですか?』

「いえ、このお電話でひとまず受理させていただきます。詳細は伺った担当にお話しください。この後のお時間は大丈夫ですか?」

『はい。最優先で対応するように周知しておきます』

 『それでは失礼いたします』と、丁寧に通話は切れた。切れたことを確認して、ようやく部屋の緊張が解けた。

「使い分けがすごいですね」

 部屋に居た誰かそう呟いた。

 テーブルの上の捜査資料を片付けて仕切り直した。正直パーテーションも邪魔だったが、二人を威圧しないようにそこに置いたまま、その外側でまた他の捜査員が聞き耳を立てた。

 事務員がコーヒーを淹れるのを待って、彼は口火を切った。

「理事長は優樹さんが失踪…いえ、亡くなったと思っているんですね。優樹さんはどうやって梢さんのもとに?」

「昨日の遅い時間に、眠っている母を瑠璃が連れて来たんです。母が起きれば詳細は分かるからと言ってそれ以上は何も…」

「梢さんは今も彼と関係が?」

「いえ、昨夜が数年ぶりで…先ほども言いましたが五年ほど経っています」

「理事長はまだ関係があると思っておられるようでしたが…」

「えぇ、時折ああ言った電話がありました。訂正するのもつらくて聞き流していたんですが、今日の話で理由が分かりました」

 綺麗にそろえられた腿の上に乗せられていた手がぎゅっと握られた。「あのバカ」と小さく呟かれた言葉は聞き流す。

「金山瑠璃の最近のモンタージュを作成させてください。他にも何か情報があれば」

 彼がそう促したら、優樹が何かに気付いた。

「あの子、今は笹原諒と名乗って、常磐会の総務課にいます」

 そうやって、警察に金山瑠璃の存在が知られた。


 優樹は、事情を知る者が経営する居酒屋に匿われることになった。市役所近くの飲み屋街に軒を連ねたその店の年若き店主は、優樹や梢に「正也くん」と呼ばれていた。

 警察署を後にする梢に、最後、彼は気になっていたことを尋ねた。

「梢さんは最初から彼を信じていたようですが、なぜですか?」

 暴力云々は、なんとなく後付けのような気がした。母親の前では言いにくいことだったのだろうと察しがついたのは、その時の表情が彼との関係に言及した時と類似していたからだ。

 先に立った母親が梢の車に乗り込むのを見届けてから、ようやく梢は彼に向き合った。

「当時、私の見識が狭かった、と言う話です。私が大学受験の際、彼は体調やスケジュール、金銭面の管理をサポートをしてくれました。私が受験とは言え母は養護施設の施設長をしておりましたので不在にすることも多くて。普通は入学金の振込やアパートの契約まで付き合うなんて、しないでしょう?」

「…他にも理由が?」

 少し言い淀んだ。その理由はすぐに分かった。自嘲気味に表情を歪めた彼女が身を守るように、腕を組んだ。

「こんなことを言うのもアレですけど、瑠璃とだけは子どもができる心配をしなくて済んでたんです」


 ※


 警察の動きを瑠璃が知ったのは、人事異動があった翌日だった。

 養護施設の事務室で、瑠璃が藤枝の背後から耳打ちした。

「店から連絡があったよ。警察がクレジットカードの利用状況を聞きに来たって。優樹は無事、保護されてたみたいだぜ」

「どういうことですか?」

「警察に、オレの偽名が伝わったってことだよ」

 この刑事の名前、見覚えあるか?と真四角の付箋に書かれていたのは、幼い頃話を聞いてくれた刑事のものだった。あ、と反応した藤枝を「零点」と酷評したのは別の話だ。

「今週末、理事長が関東の医師会に出張する。その間になら出掛けてもいいぞ」

「一緒に行きませんか」

「ヤだよ。ヤツがいない間くらい自由を謳歌すんの」

「休みの日って何してるんですか」

「ヒミツ」

 この前の話は警察には言うなよ。と釘を刺されて、時間を相談したうえでその刑事に電話をした。

 曰く、理事長と金山瑠璃の動向を教えてほしい。キミたちの事情も把握しているので、手は回して置く。だが、キミたちが声を上げない限りこちらは動けない。できれば一度会って話をしたい。

 そう言われて、翌日の土曜日、藤枝が(引いては瑠璃が)指定した、商業施設の中のチェーン店でその刑事と会うことになった。

 内部事情を話して、時折情報を交換することが決まった。


 ※


「だから事後処理が早かったんだ」

 そう言った蒼一に、藤枝は頷いた。

 前例のない、人道に悖る行為が行われてたにしてはその後の処理がスピーディだったことに、疑問は持っていた。ことの大きさを踏まえれば蒼一の就籍などもっと時間が掛かりそうなものだし、逆に未成年者誘拐の嫌疑だって掛かりそうなものなのにそれもなかった。

 養父・弘の件があったので深く追及せずに出てきてしまったが、そう言った事情があったのかと藤枝をみた。

 ほっとしたような表情で、笑みが浮かんでいた。

「蒼一さんに見てもらいたくて、持ってきたものがあるんです」

 その顔で取り出したのはノートパソコンだった。立ち上がってテーブルを回り込んだ藤枝が、蒼一の前にシルバーのそれを置き、置いてからフォルダを開けていく。

 画面に映し出されたのは、常磐会の道場を映した動画だった。

「リュウさん、総務課の大魔神って異名を持ってたんですが、そのきっかけになった時の映像です」

 映像の古さと瑠璃の動きを見る限り、かなり前の映像のようだ。対峙した相手というよりは審判が悪かったのか、有効の判定を取られて、次の行動は予想がついた。

 二人、三人と相手を苛め抜き、そのあと言葉を交わした男性とはまともな試合ができたようだ。際どい様子はなく、二十代の頃だろうに、相手を立てながら指導稽古のような動きをする瑠璃を意外な思いで見つめた。実力を見誤れば自分も怪我をするのに、危な気がないのが可愛くない。

(実戦的な格闘技のほうが向いてる…か)

 彼らがまだ同じ道場に通っていた頃。道場から代表を選出して大会に出場する機会が何度かあった。全員エントリーできるものではなく、限られた者しか出場できないそれに選ばれるのはいつも蒼一か他数人で、瑠璃が選ばれることは終ぞなかった。

 師範に何故を問うたことがある。スピードなど蒼一は足元にも及ばない。実力だって他の数人と見劣りしないのに、なぜ瑠璃は選ばれないのか、と。

「確かにスピードは申し分ない。だが、あいつはすぐ次に意識を切り替える。残心が疎かになっているのには気付いてるだろう。これが剣道でなく、剣術や、もっと実践的な格闘技なら否やはないが、心技体のすべてを見られる剣道に置いて、あいつはこれ以上伸びないだろうよ」

 まぁ、本人以外の全員が同じことを聞きに来るくらいには、あいつの心根も捨てたものではないんだがな。

 その後、瑠璃は昇段試験を受けることなく、道場から姿を消した。

 その瑠璃が、また防具を付けた剣士と対峙している。瑠璃が防具を付けていないのは自身の攻撃が鈍るからだろう。とことん特化したんだな、と、その続きに目を向ける。

 踏み込んだ。

 一つ、二つ。

 一、で竹刀ギリギリのところに踏み込み、相手の視界を潰したのが見えた。狭い視界すら奪われた相手の衝撃は並大抵ではないだろう。剣道に置いて、そんな想像はしていないのだ。

 ほぼ同時の二で喉を突かれた。容赦のない急所攻撃は、喉当てがついていたとしても庇いきれるものではない。膝から崩れ落ちた彼は、心折られてはいないだろうか。

 二人、三人と対峙する人数が増える。

 その場面は知っている。囲み稽古だ。だが、何人いても攻撃は一人ずつにならざるを得ず、相手は防具をつけていないという事実が武器を持つ人間に心理的足枷を嵌める。

 先ほどと同じように、先鋒と中堅でそれぞれ後方の人間の視界を奪い、先鋒は瑠璃のスピードに対応できていない。これがせめて大将クラスの相手が一番前なら一矢報いるくらいはできただろうが、その戦法を取るまでには至らなかったようだ。

 最後は柔道の師範らしい人と寝技を掛け合って、そこで映像は止まった。

 柔道部を相手した時と剣道部と対峙した時とでは何か瑠璃の心持が違うような気がして、蒼一は首を傾げた。

 我を失ったわけではない。どこか自暴自棄になったような粗っぽさが蒼一の心に引っかかった。

「どうですか?」

 蒼一の斜め後ろに立って同じ画面を見ていた藤枝は答えを明かす気はないようだ。それがなんとなく気に入らなくて、答えらしい答えを出さないまま切り捨てる。

「大魔神って言うほどのものでもないと思うけどね。今のキミなら同じことできるだろう?」

 藤枝は苦笑して肩をすくめた。

「俺も、最近までそう思ってました。でも、見るところはそこじゃなかったんです」

 藤枝が指で示したのは、右下に小さく映るオレンジで刻時された日付だった。

 十三年ほど前の夏を示す、特筆すべきものでもなさそうなそれに、蒼一はやはり首を傾げた。だから何?と視線で先を促す。

 藤枝は、苦笑を深くした。

「梢さんを手放した直後です」

 支えになるものを手放して、更にあなたを思い出す縁が目の前に現れて、誰かに責められたかった彼は彼らにそれを求めた。一種の自傷行為だ。

「それができなかったのはリュウさんの誤算ですね」

 その表情が美琴に見せていた笑みに似ていたので、それを凹ませたくて、蒼一は彼を道場に誘った。

 閉めていた数か月は、県警本部の彼らがきちんと手入れをしてくれていたようだ。

「え、っと、防具は…?」

「いらないよ。俺は打ち込まないし、キミの打ち込みくらい捌けるからね」

 その言葉に藤枝がわずかに気色ばんだ。おそらくあの時の瑠璃も同じようなことを言ったのだろう。いろいろと仕込まれたとは言え、瑠璃にはまだ遠く及ばないようだ。

 彼らがやってきた時、蒼一は何度も、瑠璃がこちら側とは自分の勘違いで、本当に殺されるんじゃないかと思って、本気で抵抗した。

(若いね)

 構えた姿を見れば、認めたくはないが筋は良さそうだ。少し相手をしてやって、後は実力差を見せつけてやればいいだろう、と、目論んだ蒼一だったが、実行することはできなかった。

 まっすぐに打ち込んでくる姿。足捌き。身体運び。

 身長差はあったがその太刀筋は蒼一にとってなじみ深いものだった。二十年以上前の記憶がひどく刺激されて、何度かその剣先を捌いて、堪えきれなくなって、蒼一は藤枝の竹刀をその手から弾き飛ばした。

 自覚せず呼吸が乱れる。背中に走る寒気に似た郷愁を振り払うように頭を振った。

「誰の、何が俺に似てるって?」

 乱れた呼吸の合間に、小さく呟く。竹刀を奪われた藤枝は、手がしびれたのかその手をさすりながらきょとんとした顔で蒼一を見ていた。

「キミの剣道の指導、誰がしたの?」

(バカ)

 聞かなくたって分かる。悔しいかな目尻に涙が浮かぶのが分かって、その場にしゃがみ込んだ。

 我武者羅にその実力を伸ばしていた時期。竹刀で打ち合うことがなくなってもう二十年にもなるのに、俺はまだあれを覚えているのか。お互いがお互いとしかやらなかったあれを。

「藤枝くん」

「はいっ!?」

 唐突に、初めて名を呼ばれて、藤枝の背筋がこれ以上ないほど伸びた。それに、うっかり笑いが漏れる。

「キミ、今日この後は?」

「え、と。適当にビジネスホテルかと思ってたんですが」

「他に用事ないなら常磐まで送って行ってあげるよ」

 は?と間の抜けた顔をした藤枝をその場に置いて、蒼一は家に戻った。藤枝に会わせたくなくて自室に引っ込ませた美琴に、声を掛ける。

「彼、道場にいるから、父さんが準備する間だったら話してきていいよ」

 インターホンに応答したのは美琴だった。玄関に出ていこうとした美琴を押しとどめたのは蒼一で、泣きそうになった美琴は部屋の隅でしょんぼりと膝を抱えていたが、蒼一の言葉に「ホント?」と、慌てて部屋を飛び出していった。

 薄いふすまを隔てた自室には美春がいて、「よかったの?」と年上の落ち着きを蒼一に見せつけた。敵わないな、と苦笑して、それに甘えてずっと聞きたくて聞けなかった疑問が口を突いた。

「瑠璃が好きだった?」

「何、突然」

 読んでいた本から顔を上げて、華やかな二重を蒼一に向けた。モカベージュのローゲージニットが暖かそうだ。

「聞いたことなかったなと思って」

 美春の目を見れないのは怖いのかな、と部屋着を脱ぎながら自分を省みて、意外と小心者な自分を嗤う。気持ちはあったが半分なし崩しのように始まった関係は、生活基盤をともにして十五年になる。酸いも甘いも噛み分けたし、一つの布団でぬくもりを分け合ったこともある。だが、成長していく美琴が徐々に瑠璃に似ていくのを見て、その胸中を聞くことはできなかった。

 開襟シャツのボタンがうまく留められなくて、それで自分がかなり緊張していることを知った。

「あの頃はね、彼の名前も知らなかった。研究室で金山旭と茉莉亜の二人は絶対だったし、私も研究のためならできた子どもがどうなろうと構わないとまで思ってた」

 縋って来る彼を可愛いなと思ったのは事実よ。

 立ち上がって本を机に置き、手間取る蒼一を助けた美春は、男の胸に手を置いて見上げた。その目は少し困っているようだ。

「軽蔑する?」

 首を傾げた妻の細い身体を抱きしめて、蒼一はそれを否定した。子どものためにと身を粉にして働いたのは彼女だ。蒼一には身分証がなく、職に就こうと思っても難しかった。

 それが当時、どれだけ歯痒かったか。

「昔の話だろ」

「えぇ、昔の話。今は、美琴とあなたが大事」

 机に置かれた本の題名が美春の背中越しに見えた。英語で書かれたそれは、植物状態に陥った人々に関する学術書のようだった。

 彼女は彼女で、瑠璃を助けたいと思っているのだ。

「なんでキミと瑠璃だったのか聞いてもいい?」

 ナンセンスな話よ、と彼女は肩をすくめて前置いた。ふせた目は冷ややかで、彼女の学者らしい一面が垣間見える。

「金山家が調薬の分野で常磐家に仕えてたのは知ってるでしょ?それが変わったのが初代の頃で、久幸の異母妹が旭の母親って言うのも」

「うん。聞いたことがある」

「じゃあその久幸の異母妹が久幸の秘書だったって言うのは?」

「知ってる」

 記録はないけどね、とため息交じりに前置きした美春は、まずいものを口に入れたかのように唇を歪めてそれを吐き捨てた。

「たぶん、久幸が何を計画していたか知っていたんだと思う。知っていて、その計画を支えるために、金山家の血を継ぐ女児と入替るつもりだった。生まれた孫が男児と知ったショックで脳卒中か何かで亡くなったらしいけど。私が選ばれたのは、研究室にいた適齢期が私しかいなかったから。体外受精でも良かったらしいんだけど、それは理事長の指示だったみたい。とことん、彼を追い詰めてたのね」

 見切りを付けて良かったわ。と、彼女は読書に戻った。そんな彼女は、来春から製薬会社の研究所に転職する。いまだに再生医療の権威の名は医学界に通じるようだ。

「ちょっと、彼を送って来るよ」

「車?バイク?」

「向こう、雪もまだみたいだから、バイクで行ってくる」

「振り落とさないでよ」

「保証はできないね」

 あ、待って。と彼女が再度立ち上がった。本を持ったまま蒼一に近付いて、背伸びをしないと届かない頬に口付ける。

「行ってらっしゃい」

 すぐさま背を向けた彼女は最大限照れていて、蒼一は久しぶりに胸の奥がくすぐったくなって、振り落とすのは勘弁してやろうと思えた。


 そうして藤枝は、初めて乗るバイクの後ろで、義父と呼ぶかもしれない男の背にしがみついて、車なら三時間半ほどかかる距離を三時間弱で帰宅することになった。

 


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