~ある人はそれを自己満足だと非難した~
蒼一の足音が聞こえなくなって、瑠璃は薄く笑った。それでいい。さっさと逃げろ。こんな生活をするのはオレだけでいい。
痛みに蹂躙される意識を何とか保って、自身が押し倒した男から携帯電話を奪い取る。掛けた相手は理事長から与えられた自分の携帯の番号だ。ここに来る前、防犯カメラの回線を切断するように小さな仕掛けを設置してきた。きっかけがあれば作動する簡単なものだが、終着点にあるのが劇薬なら効果は信頼していい。
これで少しは自由に動ける。
傷を抑えながら立ち上がり、地上階を目指した。迷路のようなこの施設も四年近く生活していればなんとなくその構造は理解できる。
出血量はさほど多くない。いつかされた、血を抜かれた実験のおかげか、自分が今どれだけ血を流したか分かる。まだ動ける、と。
階段を上り、ある地点と合流するその踊り場で、背後から声を掛けられた。
「なぁに?あなた、また怪我したの?」
「…母さん?」
「やっぱり男の子はダメね。ちっとも言うこと聞かないんだから」
母の甲高い声に脳天を刺激される。出血量は少ないとはいえ、やはり痛みは無視できない。眩暈を感じながら、母親に問い掛けた。
「何してんの?」
母の背後に伸びる階下への階段から、父の旭も姿を現した。そちらは設備関係の部屋しかないはずだ。
一瞬、更に強い眩暈がして、床に膝を付く。その鼻孔にわずかな異臭を感じた。
胸の悪くなるようなその匂いのもとを辿る。顔をそちらに向けただけでその濃さが変わり、その発生源が空調ダクトだと教えた。大元は、父たちが姿を現した階下にある。
「父さんたちが、やったの?」
臭いから逃げるように身を起こした。こんなものを吸い込み続けたら、失血で動けなくなるより前に意識が飛ぶ。
壁に手を付く。血が、白い壁を汚した。
「こんなもん空調に流したら倒れてる人間が死ぬぞ」
「当たり前でしょう?それが目的だもの」
「あ?」
「証拠を隠滅しろとの指示だからな」
切れ長な目に見下ろされながらそれを聞いて、目の前が真っ赤に染まった。
「どんだけ腐ってやがる」
「親に向かってその口の利き方はなんだ」
旭が、その長い足を使って瑠璃までの距離を縮め、いつものように右手を振りかぶった。目は閉じなかった。振り降ろされるその腕を血に塗れた瑠璃の手が止める。
手が細かく震えるのは怒りか痛みか。
「いい加減、気付けよ。蒼一の剣速に比べたら、あんたらの張り手なんか、止めんの簡単なんだよ」
「離しなさい瑠璃!」
甲高い声が脳天に刺さる。その痛みに顔を顰めながら、母が、髪を掴むために伸ばしてきた手をも拘束した。
「そんでもって、いくら手負いでもな、あんたら二人くらい拘束するのなんて簡単なんだわ」
そうして父を母を、瑠璃は床に這いつくばらせた。関節を極め力点を抑え込めば、いくら体格の差があろうと逃れられやしない。それは、この数年で仕込まれた格闘技全般の理合いだ。
小型犬のようにうるさく吠える二人を床に這いつくばらせて、待った。
「もういいよ、あんたら。もう親とも人とも思わねぇ。オレの目の前で、死んでくれ」
酸素より重たい気体が充満していく様子が、二人よりも高いところにいる瑠璃にも分かる。痛みと異臭に耐えながら二人分の末期の恐怖と痙攣をその身に感じて、ようやく瑠璃はその拘束を解いた。
侮蔑の視線を二人に落として、踵を返した後は二度と振り返らなかった。
言葉を切った彼は自身のマグカップを一度指で弾いた。
「我ながらいじましいよな。昔はこんなお茶の一つにも親の面影探してさ」
なんも思わねぇで飲めるようになったのは最近なんだよ。と言った彼の表情を、藤枝は見れなかった。
そして、彼はまだ話し続けた。
「あの二人が仕組んだそれが全部をふっ飛ばしたのは、約一時間後だった。シェルターに辛うじて逃げ込んでたオレはそのまま救急に担ぎ込まれて、いったん精神科病棟に隔離された。そこでさっき話した通り理事長に犯されて、まんまと手駒にされた。表向きの名前を与えられてな」
「その名前、誰ですか?」
「…蒼一を死んだことにするには、死体が一つ必要だった。だから、研究室にいた人間の身分証が一つ余る。それを有効活用したってわけ。オレの一つ下の幼馴染だよ」
「秘書課の笹原真澄とは…」
「あれは兄貴」
「なんで弟をそんな風に扱われて平気なんですか?」
「理事長と同種だからな、あれも」
「え?」
「中身の話」
こめかみを指で示しながら「理事長に何を吹き込まれたか知らねぇが、健太郎が懐くんで苦労したよ」と苦笑した。
「なんでですか?」
「オレが信じられるのは朝倉蓮華の息子たちだけだったから。あの手術も結構制限があるんだよ。詳しいとこは分かんねぇが、受け入れるほうの身体が脳の体積に耐えられるところまで成長してなきゃならねぇし、同性じゃねぇと生殖やら排泄関係の機能障害が出るらしくてな。あそこは親父さんがだいぶ前に亡くなって母子家庭だったから」
理事長の兵隊たちは遺伝子型の近い者を選んだようだが、幼馴染に近いそれを探すことまではしなかったようだ。その代わり、反乱の気配を感じたら容赦はなかった。そしてそれに手を下したのは目の前の彼だと。
反抗的な態度を見せたのは県外に出ていた者が多く、そう言った相手を、仕事で、プライベートで精神的に追い込むのはその時の瑠璃に取って簡単なことだった。
そこまで一気に話しきって、彼は足を組みなおした。
「理事長が再発行した保険証と、真澄が取ってきた住民票を使って、諒の免許証の再発行を受けた。例の災害で引き起こされた事故の影響で免許センターの窓口はごった返していて、深いところも突っ込まれなかったよ。口座やらカードやらはそのまま使えたしな」
言葉を切った彼は、何かを確かめるように己の手を見つめて、手のひらを反対の手の指で撫でた。
ゆっくりとその指を握りこんで、又開く。それが、何かの合図だった。
こちらを向いたその目が仄暗く揺らいだ。「さて、次の問題です」
「ここまでオレが、懇切丁寧にこんな話をした理由は何でしょう?」
立ち上がった男が、優雅にすら思える動きで藤枝の前のテーブルに腰を預けた。右足は藤枝の座る椅子の座面に上げ、左足は藤枝を囲い込むように降ろされて、気が付けば藤枝は動けなくなっていた。
筋肉質な男の身体が目の前にある。黒いタンクトップ姿で見下ろす瑠璃の目を、呆然と藤枝は見上げた。
古めかしい傘のついた蛍光灯を背負い、男の表情に影が落ちる。それでもその近さで表情が分からなくなることはない。
「理事長にな、お前が欲しいって言われてんだよ」
挑むような視線が藤枝を捕えて離さない。藤枝の目線からわずかに高いところで、薄い唇が動く。
「疑問に思わなかった?半年前、蒼一に似てるって言われて。蒼一の背格好やら動きを見て、どこが似てるのか」
答えない藤枝に、男は艶やかに笑った。花の香りが、一瞬強く香った気がした。節だった指が伸びて藤枝の髪を耳に掛ける。その感覚に背筋が冷えて、思わず男から距離を取った。
ギシリ、と椅子が抗議の声を上げる。
「その様子じゃ、優樹も、蒼一が常磐に引き取られた理由は話せなかったんだろうな」
唇を歪めて舐めるその様子が妖艶で、十も違うその人にすべての意識が囚われた。冷蔵庫が一度うなりをあげて、その音に心臓が跳ねる。
「最初、お前に常磐会から声が掛かったのは、ただオレに対しての人質くらいの意味だった。だが去年、お前が受けた健康診断の血液検査でその結果が出た」
「な、んですか?」
お茶を飲んでいたはずなのに、声が掠れた。半年前の、息の詰まる感覚が蘇る。瑠璃の節だった中指が、仰け反って、少しでも瑠璃から離れようとする藤枝の心臓を指さした。その力強い指にびくりと身体が反応した。
「お前らが似てるのは、遺伝子レベルの話なんだよ。お前は理事長のスペアとして、目を付けられた」
悲しいまでに凶悪に笑った彼は、藤枝が離れた分、顔を藤枝に近付けてそのまま続けた。
「最初からオレは、お前に対しての餌だ」
“親の仇だ。蒼一を探しだしたら煮るなり焼くなり好きにしていい”
そして今、ここにいない理事長は、“お前のせいでひどい目にあっている人間がいる。お前さえいれば、そいつは無事でいられる”と言っている。
「こんな話を聞いたお前は、もう逃げられない」
もちろん、今までの話が信じられねぇって言うならそれでもいい。お前の好きにしていいって許可は出てる。痛めつけたって、犯したって良い。抱き心地は知らねぇがな。
時計の秒針が規則正しく動く音が、藤枝の耳にイヤに残った。今、何を求められているのか分からなくなって、必死に酸素を求めながら瑠璃を見上げた。
見上げた瑠璃と目が合った。何かを渇望しながら、何もかもを諦めたような目に、ギョッとした。
(あ…)
その目を、藤枝は見たことがあった。どこの施設だったかはもう覚えていないが、同室になった少年が、同じ目をしていた。
『――――』
幼かった彼は何と言っていたのか。そして、その彼に俺はなんと返事をしたのか。それももう覚えていない。だが、その後悔だけは覚えている。
胸に添えられたままだった瑠璃の冷たい手を取って、表情を失くした彼の目を、必死に見返した。
「…俺は、ただ居ればいいんですか」
「お前と入れ替わるメリットはねぇらしいからな。年は近過ぎるし、血縁でもねぇ」
「…俺は、どうすればいいんですか?」
藤枝のその返事に、諦めた目で嗤った瑠璃は、先ほど自分が髪を掛けた耳に唇を寄せて低く言った。低く掠れた声に、背筋に寒気が走る。
「来月、人事異動がある。それを了承すればいい」
閉じた目とうつむいた顔が返事だった。藤枝が取った手を一瞬で奪い返されて、逆に手首を取られた。引き寄せられて、身体が傾ぐ。
「何が欲しい?」
揺るぎもしない手に、問うた声に、わずかな怯えを感じたような気がした。
何もいらない。あなたが無事ならいい。そう言ってあげられたらどれほどよかったか。
けれど、それでは何も変わらないのだ。
理事長から彼を物理的に離さなければ、彼はずっと囚われたままだ。ヒミツをヒミツのままと言いながら、今の彼に理事長を止められるとは思えない。傷付けられたなら逃げればいいのに、逃げて助けを求めればいいのに。一番逃がしたい人が逃げられないからと自ら囚われた。
(この人はずっと、誰かに選ばれるのを待っている)
コクリと、藤枝の喉が鳴った。顔を上げて、返事を待つ男に口を開いた。
※
「その話を、キミは信じたの?」
父が写真を撮った時からだいぶ年を重ねた蒼一が、呆れたように聞いた。
冬の陽光が窓から差し込むリビングは、ストーブに温められて優しい空気を持っている。
手をテーブルの上で小さくホールドアップさせた。
「さすがにそこまで…、と、言いたいところですが、なんせそこにいたのが人生二度目の飲酒と雰囲気に飲まれてふわふわしてた青二才と騙す気満々の十年選手だったんで、まぁ頭回りませんよね。何よりそれまで親の仇と同じ敷地で仕事してるっていう異常事態で道徳感覚もだいぶ麻痺してましたし」
蒼一は、椅子に深めに座っている。姿勢はいいが、顎が引かれて、手はテーブルの下でおそらく握られている。警戒しているのはありありと分かった。
「理事長からリュウさんを引き離す口実として、俺はその知識と技術を教えてほしいと頼みました。剣道はもちろんですけど、人の意識の誘導の仕方や、視線や筋肉の読み方。フェイントにも応用できるからって、詐欺師みたいなことも教えてもらいました」
この人を懐柔するのはなかなか難しい。懐柔したくて話をしているのではないのだが、どこかで絆される話題はないかな?と藤枝は言葉を続けた。
「信じるきっかけになったソレに気付いたのは、ずっと後でした。人の動きにはすべて意味があると教えてもらったことがきっかけでした」
例えば、淹れてもらったコーヒーに口を付ける。俺はあなたを警戒していない。
膝に置いておいた手をテーブルの上に出す。何も隠していない、あなたに危害は加えないという意思表示だ。
蒼一の無意識の部分に、そう語り掛け続ける。でもまだ早い。テーブルの上で手を組んで、それに視線を落とす。
「リュウさんと初めて会ったのは、あなたが生きていると知った直後の、会議の時でした」
お互いがお互いを知らないふりをして隣に座ったあの日、会議が終わって、当時はまだ浅葱姓だった室長が、理事長に喧嘩を売った。あの頃はそんなことも分からなかったが。
「リュウさんが座る時って、全体見るために絶対椅子に寄りかかるんですよ。何かあった時反転攻勢に一拍時間かかるのに、それを犠牲にしてもあの人は平気なんですよね」
補って余りあるスピードがその体勢を支えていた。時に不敵、時に不遜と取られるその姿勢が、あの時一度だけ前傾になった。ポケットに隠されていた手が、露わになった。
こんな風に、と、蒼一に手のひらを広げて見せる。
それは、理事長が、浅葱に近付いた時だった。
ギシリと椅子を鳴らして、視線は二人から離さないまま。理事長が手を出せば浅葱を(あとおそらく藤枝も)引っこ抜けるぎりぎりのラインまで。
「もう一つ、俺と一緒にリュウさんと一戦交えた時、やり易くありませんでしたか?俺はすごくやり易かったんです。あなたの次の動きがなんとなく予測がついて、それをカバーするように動けた。リュウさんはきっと、あなたの背中を守れるように俺を仕込んだんだと思います」
その視線はまだ懐疑的だ。
まだ駄目か。蒼一と瑠璃を結び付けられるエピソードはどこかにないか。
(これは卑怯か?)と煽りを入れてみる。拳で、左の頬を擦る。あなたはあの時を覚えてますか?俺は知らない、彼の過去を思い出せますか?
「そんなこんなで、リュウさんにいろいろ仕込んでもらい始めてから、なんて面倒な人なんだと思いました。息をするように人を騙しながら信用してほしいと訴えて、選んでほしいと叫びながら差し出された手は取らない。なんでこんな矛盾を抱え込んでいるのかって。どうしてこんなにこじれてるのかって、当時は呆れました」
蒼一の頬がヒクリと動いて(来た)と興奮が走った。何かを話したそうにする彼を、藤枝は待った。ここで被せたら元の木阿弥だ。ゆっくり息を吸い込む蒼一にわずかに顎を引いて話を促した。
「選んでほしい人は別にいたんだろう」
ペースを蒼一に合わせて、首肯する。
そうです。あなたは俺の知らない金山瑠璃を知ってる。そして俺は、あなたの知らない彼を教えてあげられる。
火はついた。あとは、薪をくべて大きくすればいい。の、だが。
この五年であの人に感化されたらしい。奥底に黒いモヤが湧き上がる。手っ取り早く、爆弾を投げ入れてみようか。
「ここからは俺の憶測ですが、あなたの存在がいなくなったのも大きかったんだと思います。背中を預けていたあなたが、他の誰かを守るためとはいえその存在を感じられないところに行ってしまった。奥底では信じていたみたいですが、立ち続けるにはしんどすぎた」
剣道部に所属していた小児精神科の先生は、藤枝も世話になった人だった。
「久しぶり」と声を掛けてきたその人は瑠璃の目がないところで藤枝に耳打ちした。「大魔神も人の子なんだね。子どもみたいな目をしてキミを見てたよ」と。
「おそらく、俺を通してあなたを見ていた」
(崩れた)
痛そうに眇められた表情。拳がテーブルの上に出てきて、震えた。その拳は、どこに向かいますか?
「すみません」と、立ち上がってスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。こちらのガードはありませんよ。全て曝け出してますよ。
改めて座った藤枝に、蒼一は先ほどよりは警戒心が薄れた視線を向けた。
「蒼一さんは、このピアスの片割れ、持ってますよね?」
右耳に着けた一粒ピアスは、ラピスラズリ。日本名は瑠璃。蒼一が頷くのを待って、炎を大きくするために言葉を続ける。
「あの人は、研究室に囚われてから、名前を呼んでもらう機会が全くなくなった。モルモットを見る目に自身の名前すら忘れそうになって、さらに研究室を出てからは偽名である笹原諒という名で呼ばれ始めて。鏡を見るたびに、オレは誰だ、金山瑠璃だ。と言い聞かせた」
そんな生活しか与えられず、彼はゆっくりと狂って行った。
「自分の存在証明を渡して、助けてほしいと願ったのかもしれません」
「そして、俺とリュウさんのラインができたことで、もう一つルートができました」
「…どこに?」
「事件の捜査本部に、です」




