~ある人はそれを偽善と呼び~
遮光カーテンの隙間から差し込む空の青さに惹かれて、彼は目を覚ました。目覚めの軽さは熟睡できた時のものだったが、身体に行為後特有の気怠さを感じて、瑠璃は理事長の部屋で寝込んでしまったのかと思った。
(やべぇ)、と身を起こし掛けてようやく、自身が自身より小柄な相手を抱き込んで眠っていたことに気付いた。
柔く温いそれに、胸が冷える。
後頭部だけで分かる妹分の姿。首から背中に掛けて何も身に着けていない素肌を遮光カーテンの暗闇の中で確認して(こっちだったか)と天を仰いだ。
泣き虫だった少女を己が泣かせたのは初めてで、その表情は脳裏にこびりついている。背を向けて眠る梢を起こさぬように腕を抜き、ベッドに身を起こしてから頭を抱えた。
(蒼一に知られたら殺されるな)
兄弟のように育った幼馴染の名を思い出して、今まで逃避していたすべての事象が津波のように溢れた。
小野寺家の子ども、蒼一と佐倉、成人した者もいるとはいえ、総ては知らない幼馴染たち。
思考に耽りたいのに、ちらちらと視界を邪魔する光に苛立って、窓辺に近寄る。腹立ちまぎれにカーテンを開いて、その光にまた総てを忘れた。
実の秋に向かう森の緑は、けれどまだ夏の気配を残す空の青さに映える。強い朝日に照らされて風に揺れる木の葉が光を反射しているその光景に、瑠璃は見入った。幼い頃から遊びまわった森は、その背丈を伸ばしただけで何も変わっていなかった。
魅せられて、瑠璃は夢遊病者の様にベランダに続く扉を開けた。素足のまま部屋からベランダへ、ベランダから地上へ躊躇いもなく飛び降りる。
足裏に感じる大地。素肌に当たる太陽の光、朝特有の澄んだ空気。風に吹かれて鳴る葉擦れの音も鳥のさえずりも心地がいい。
手近にあった木に手を掛け、その幹を登る。背を預け、天を仰ぐ。目に痛いほどの青。太陽の光に隠された、星たちを見上げる。
「なぁ、基樹」
直接語り掛けることはもうできない。今もこの姿を誰かが見ているはずだ。
「オレ、間違ったかなぁ」
間違ったといっても、どうせ戻ることなどできやしない。
オレは、何がしたい?
その秘密をオレが暴けるとは思えない。可能性があるのはデジタルに強い浅葱と、蒼一が連れて行った佐倉くらいだ。
あの時一歳に満たなかった子どもは、今見つかれば足手まといにしかならないだろう。せめて自分の身を守れるくらいまではどうにか時間を稼いでやりたい。小野寺家の子どももだ。
だが、それが叶わない時は?
光がまた目に入って、目を眇めた。ベッドに横たわったままの正幸の横顔が脳裏に浮かび、今の“基樹”に重なる。
耳の奥にこびりついた電子音。大きく小さく、頭の中の奥深いところで、オレを狂わせるまで決して途切れない、神経を逆撫でる甲高い音。
それを切り裂いたのは、悲鳴のような、己の名を呼ぶ声だった。
総毛立ってその木から飛び降りる。声のした本邸の方角に視線を走らせれば、ベランダに梢が出ているのが見えた。髪を振り乱し、昨夜脱いだオレのTシャツを胸に抱き、ふらつきながら手すりに手を掛けて―――…。
「動くな梢!」
腹の奥底から久しぶりに声を張った。声が届いたのか、梢が泣き顔をこちらに向け、へたり込んだ。
落ちる心配がなくなって、少しだけ安堵する。それでもできるだけ急いで本邸まで戻り、塀を足掛かりにベランダへと跳んだ。
この程度なら道具などなくても侵入できるようになってしまった。
「行かないで」と泣きじゃくる梢をそのまま抱きしめた。
「行かないよ、ちゃんと帰って来るから」
「短期間で二回も犯された梢は壊れたよ。犯した男に縋り付くくらいに」
「そのまま優樹に引き渡してもよかったんだが、そうしたらまた理事長は怒り狂うだろうし、今度は優樹がオレに未練を残すと思って梢は手元に置いた。幼児退行と分離不安があったから行動療法も試して、後はひたすらに甘やかした。オレにわがまま言えるぐらいに回復したのは高校を卒業するかしないかって時だ。大学に進学してしばらくしてから、ようやくあいつはオレとの関係を断ち切った」
当初は優樹に隠れて毎日通っていた行動療法も、やがて一日置きになり二日置きになり、一週間置きに落ち着いたのは再会から三か月ほどが過ぎてからだ。高校の卒業まではそれを維持し、進学と同時に、仕事を理由に会う回数と時間を大幅に減らした。
一度だけ、本気で犯し掛けたのは墓場まで持っていく秘密だ。何とか避妊する理性は取り戻したが、梢の身体を待つ余裕はなかった。
大学生になった梢の様子が変わってきているのには気付いていた。瑠璃より学友を優先するようになり、夜にしか会えないことに文句を言うようになった。そうなるように仕向けたことには気付いてないだろう。
そして、その日は訪れた。
無体を強いるオレにイヤだきらいだと思ってもいないことを訴えていた彼女は自分の言葉で傷ついていて、それを黙らせたくて深く口付けた。
家を出たおかげで監視の目も緩んでいる。あとはオレが不定期で訪れていることにすれば文句も言うまい。後ろ髪は引かれたが、意識のない梢をそのままにして部屋を出る。
そうして、ようやく肩の荷が一つ降りた。
「優樹さんに掛けた電話って…」
「それは少し前かな。梢がダチと卒業旅行に行った時、あの頃はSIMカードがあったから梢が風呂に行ってる間に入れ替えて、深夜に電話した。女に化けるのは見せた通りだから女湯の脱衣所に入っても気にされなかったし、携帯を入れてた貴重品入れのロッカーは暗証番号タイプだった。そういう時に梢が使うのはオレの誕生日だっていうのも分かってたから」
母とも思っていた人の声を聴いて、息が詰まった。それでもできるだけひどく聞こえるような言葉を選んで、優樹を傷つけた。
「優樹さんって今…」
「今は知らねぇ。理事長と話をした後、理事長が眠りこけてる間に梢のとこに置いてきた。完全に理事長に敵認定されたからオレがここにいたって戻って来るバカはやらねぇだろうし。梢にもいい加減聞かせなきゃなんねぇだろ」
「危険はなかったんですか?」
「理事長が優樹の死体を見たがらなかったからできた芸当だな。アレもさすがに嫁の死体は見たくなかったらしい」
「他の監視とか…、例えば理事長が途中で目を覚ましてたりしたら…」
「薬の飲ませ方は一つじゃねぇんだよ。とことん動揺させたし、優樹にも途中で目ぇ覚まされたくなかったからな。ガチでキッツいやつ、水のほうに突っ込んどいた。監視も、最近ようやくオレに全部預けるようになったしな」
「今までオレが逆方向に手綱を引っ張ってた成果が、ようやく出たってわけだ」と、そう言って立ち上がった彼は、また自身のマグカップにお茶を注いだ。タンクトップに覆われたその背中に、古い傷がわずかに見て取れた。
「逆の方向?」
「一人ずつふっ飛ばせば…って、覚えてねぇ?」
記憶が二年前に巻き戻る。どれだけ長い間彼は種をまき続けたのか。それも芽吹くかも分からない種を。
茶葉を入れ替えていた彼が振り返る。
「飲む?」
「あ、いただきます」
薄く湯気が立つそれに口を付けて、花の香りがするお茶に勇気をもらう。
「梢さんを、そのまま大事にするってできなかったんですか?」
「大事にしてどうすんの。警察に追われてる、最終学歴中卒の男に未来なんてねぇのに」
「でも…」
「お前、なんか勘違いしてねぇ?」
「え?」
「オレが十三年もこんな生活続けててホントに誰も殺ってねぇと思ってんの?」
答えに窮した藤枝に、彼はまた「次の問題です」と問い掛けた。
「今までの話の中でその末期の仔細が分からない人間がいます。それは誰でしょう?」
考え掛けて、藤枝は愕然とした。彼の顔と両親の形見を交互に見る。切れ長の一重も薄い唇も申し訳なさそうに笑みの形を作っていた。
「お前には考えらんねぇ話だよな、親に手を掛けるなんて」
でもオレは、あの二人を生かしておけなかった。




