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FAKERS  作者: 宇津木
彼らは、救いを与えてはならない
23/35

~彼らが偽りを口にするのは彼らのためではなく~

以降、暴力行為、流血表現、男性同士の性的な表現等多々あります。前書きに注意がなくとも軽微な表記はありますので苦手な方はご注意ください。

 

 ためらうことなく開けた扉の先の光景を、彼は生涯忘れないだろう。

 ナイフを突き立てられて仰臥する男にも倒伏する女にももはや魂はなく、薄黄色の花だけが血だまりを身に纏い、活き活きとしていた。赤いそれの花言葉は『虚栄心』だ。


 ***


 忘れもしない、六月の第三日曜日。鬱陶しくまとわりつく湿気が密度を増して彼の呼吸を妨げる。いくら吸い込んでも肺は酸素を取り込もうとはせず、夏に向かう季節の中でバイク用の手袋に包まれた手指の先からひんやりと冷えていく感覚だけが鮮明だった。

 むせ返る程の血臭に思わずたじろぐ。

「やっと来た」

 異様なその部屋で一人涼やかな顔をして奥のパソコンの前に座っていた男は、少しだけ不満そうに眉根を寄せてこちらを向いた。向いたその前身頃が赤く汚れている。

「なん、で」

 眩暈がするほどの混乱。息ができなくてようやくそれだけを吐き出す。

「だってさぁ、気付かれそうだったんだもん」

「気付かれる?」

「秘密に」

「ヒミツ?」

 何度も何度もオウム返しに聞いて、知らなければならないのはそうじゃない、と頭を振った。

「これ、どうにかして。そしたら瑠璃にも教えてあげる」

 基樹に言われてまた一段と眩暈が強くなる。違う、こいつは基樹じゃない。だが、オレはそれを知っていてはいけないのだ。頭を何度も振る。異臭の中で、胸を悪くしながら深呼吸する。

 考えろ、切り替えろ、オレがやらなければならないことはなんだ。

 背負っていたボディバッグを脇のソファに下ろして、着ていた革のライダースジャケットとTシャツを脱ぐ。脱いだTシャツを男に突き出した。

「着替えろ。着替えて帰れ」

 男はおとなしく開襟シャツを脱ぎだし、男よりは少しだけ小柄な瑠璃のTシャツを身に着けて「よろしくね」と言い置いて出ていった。男が脱いだ、血に濡れて色を変えたそれを身に着ける。それはいまだに濡れていて、男の体温で温くなっていた。背中に走る悪寒は、腹筋に力を込めて無理やり押し込めた。

 総てを知った夜、声を上げないと決めた時点で、弱音を吐く権利はなくなったのだ。

 変えられないのは亡くなった二人。あの男が触れた場所は分からない。デスクの上のパソコンは男が確認したのか、立ち上がったままだ。パソコンの横に真新しいCD―Rがあったので、パソコンにセットして、分かるだけ中身をコピーする。

 コピーする間、部屋を観察した。

 玄関を入って、左側がすぐに古いタイプのキッチンだった。二人が倒れているのはキッチンの先に進んだ奥の一室で、リビングにしているのかラグを敷いた上に低いテーブルとベージュの二人掛けソファ、左奥に一人掛けソファが二つ並べられていた。入り口の引き戸の左脇にTVが設置されている。

 その隣が書斎兼夫婦の寝室のようだ。今は引き戸が全開にしてあり、寝室とリビングに跨るように二人は倒れている。奥の窓際にワークデスクと本棚が置かれ、反対の部屋に続く引き戸に寄せてダブルベッドが置かれていた。

(最適解はなんだ)

 男は、秘密に気付かれそうになった、と言った。秘密とはあの事か、それとも別の何かか。どこかにメモか何かが残ってはいないか。

 耳の奥にあの時の電子音がこびりついて離れない。

 一定の間隔で鳴る生体反応は、大きく、小さく、こちらを責め立てる。入れ替わった事実には証拠がない。だから、あの男がやったことはそのまま基樹がやったことにされるのだ。

(基樹を犯罪者にしてたまるか)

 だとすれば警察からあの男を隠しきればいいのか。最悪でも他の誰かに目を向けさせることができれば…と考えて、腹の中で吐き気がこみ上げて、必死にそれを飲み込んだ。

(誰か、じゃねぇ)

 必死に必死に耐えて耐えきって、バイク用の手袋を外して二人の遺体に近寄る。突き立てられたナイフは見覚えがあった。昔キャンプでよく使ったものだ。

 簡単に抜けたそれをローテーブルに突き立てた。

(オレに目を向けさせろ)

 手袋を嵌め直して家探しを始める。化粧品やアクセサリーケースが並べられたドレッサー、カメラの保管庫、押し入れの中。

 こんなことのために勉強してきたはずではないのだが、目はあっという間に目的のものを探し出した。ヘアスプレー、オイル系化粧品、除光液。灯油は目的に合わず、ガソリンは扱いきれる自信がない。

 そのタイミングで、パソコンがコピーの終了を知らせた。CD―Rを取り出し、ケースに入れてボディバッグに突っ込む。

 部屋の扉すべてを開け放して燃えてほしいものにオイルを拭きつける。電源を落としたパソコンのキーボードにも。サーキュレーターがあったので電源を入れ、必要なところにそれが回るようセッティングした。最後にキッチンに向かい、ガス漏れ感知器の電源を抜いてからプロパンガスのゴム管を外す。

 途端に刺激臭が鼻についた。

 幸い外は雨で、延焼の心配は少ない。ガスが届きにくい風呂場にこもり、集めてきた目覚まし時計やコードで時限式の簡単な装置を作る。逃げる時間は数分あればいい。

 作ったそれをパソコンの本体につなぐ。過電流を流して中のデータを破壊するのだ。その火花は、プロパンの引火点を簡単に越える。

 あぁ、二人に余計な傷をつけないようにカーテンでも掛けておこうか、と思い至った時だった。

 玄関の開く音が聞こえて、ぎくりと肩が震えた。

「ただいま~」

 男の子の声に、あの日のあの人の言葉が耳の奥に蘇った。あれから何年経った?

『うちにも男の子がいるんだ』

『まだ小さいんだけど』

「パパ?ママ?このニオイ、なぁに?」

 そして、その子は、リビングの扉の陰に隠れた彼には気付かずに部屋に足を踏み入れて、その小さな背中は立ち尽くした。半そでのモスグリーンのTシャツとサンドベージュのカーゴパンツから細い手足が伸びて―――。


 ***


 まだ着ていなかったジャケットを少年にかぶせ、力尽くで担ぎ上げた。ボディバッグを掴んで廊下を走る。玄関のドアノブに手を掛けた。

 瞬間。

 とっくに爆発下限界を越えていたらしいそれは、わずかな火種で一立方メートル九十九メガジュールという熱量を発生させ、膨張した空気は目的通り周辺を吹き飛ばした。

 それは玄関を出ようとしていた彼らにも襲い掛かり、彼らを壁に押し付けた。子どもを爆風からかばった背中に、痛いほどの風と熱を感じて、彼は小さく唸った。

 コンマの差で玄関の扉が開いており、圧力がそちらに逃げたおかげでそれ以上の害を被ることはなく、ふらつきながら外に出た彼は少年を雨の当たらない場所において、ジャケットを羽織り直した。

 バッグは肩に掛けた後、前に抱える。バイクに跨ってアパートの敷地を出る時、その子どもがこちらを呆然と見ているのが視界の端に映った。


 逃げた先は常磐の別宅だ。バイクを敷地内に停め、ヘルメットを投げ捨てた。雨に紛れて川に向かう。流れの弱い場所で川に腰まで浸かった。

 泥水に紛れて、赤黒いそれが流れていく。

 昂った精神を収め冷静にならなければ、この先の、警察とのかくれんぼには勝てないだろう。数と経験、装備は向こうに遥かなアドバンテージがある。

 こちらは地の利をとれるか。

 携帯は捨ててきた。運転免許証や学生証の入った財布も置いていったほうがいいだろう。

 川から上がり、隠されていた鍵を使って別宅へ入った。

 子どもたちの夏休み初日に大掃除をするその家はわずかに埃の臭いがする。ガスも水道も電気もその時に契約するため、今は雨の音だけがその家を外界から隔絶していた。

 玄関で濡れた服を脱ぎ、タオルで身体を拭きながら、収納スペースを漁る。

 確か、川遊びの道具が納まっていたはずだ。基本アイテムはいつも身に着けているが、双眼鏡や防滑用の手袋、サンダルに使ったスパイクをボディバッグに突っ込む。これはスニーカーにも使えるタイプだ。

 更に探せば、奥からフリーサイズのカーゴパンツと撥水パーカーが出てきた。どちらもドローコードを絞れば小柄な瑠璃でも使えそうだ。下着だけは仕方がないので固く絞り、また身に着ける。

 着替えている間、肩口がひどく痛んだ。

 男の子は怪我をしなかっただろうか、と考え掛けて、意識をこれからに戻す。他のことを考えている余裕はない。

 ここからは徒歩だ。バイクはもう燃料も少ないし、逃走に使ったのを見られている。

 市内を、身を隠しながらも一直線に突っ切った瑠璃は、関連施設からは離れた丘の麓に身を寄せた。無骨な腕時計を確認すれば日没の時間だ。スパイクをスニーカーにセットする。防滑用の手袋を嵌め、フードや手元足元についたドローコードを完全に絞った。市内を突っ切る時に背中にあったバッグは、前に抱える。

 幼い頃遊びまわった山はこの歳になればただの小高い丘で、小さく息をついてその身体を闇に沈めた。

 丘の上のほうを車のヘッドライトが通り過ぎていくが、雨音のせいでエンジン音などは届いてこない。ならば己の気配など誰も気付かないだろう。

 雨はまだ降り続いている。いたとしても警察犬の鼻はあまり利かないだろう。時々木に登って街の明かりの方向と距離で自身の居場所を確認する。

 途中、自宅の周辺に見慣れないセダンが停まっていたのを木立の中で視認した。街灯に照らされた黒塗りの車体は覆面の警察車両か。双眼鏡を出してみようかとも思ったが、社宅が立ち並ぶ中で何がどう反射するか分からないので諦めて先を急ぐ。選ぶのはあえてのブッシュの中や急斜面だが、先が分かっている瑠璃には悪路にもならない。

 本邸も近くなって、身を任せられる木に登った。先ほどと違って街灯も遠いので、明かりのついた本邸を双眼鏡に収める。こちらにも警察車両が一台停まっていた。運転席に人影が座っているのが確認できる。

 室内の明かりは、こちらから見えるだけだが基樹の部屋と応接室、リビングの三部屋に点いている。カーテンは締まっているため、中の様子は分からない。

 さて、どうする―――。警察が引くまで待つか、それともどこか雨の凌げるところに身を隠すか。山の中には配電設備などの小屋がいくつかある。そのどれかに行こうかと身を起こした時に、基樹の部屋のカーテンが開いた。

 もう一度双眼鏡を覗くと、出窓に手をついて基樹が誰かと話をしていた。奥には蒼一とこちらを向いて座るスーツ姿の刑事らしい男性二人。

 蒼一は刑事のほうを向いていて表情は分からない。

 基樹はと言えば、誰かに何かを答えながら、どこともなく視線を彷徨わせている。少し苛立ったように頭を振り、カーテンを閉めながら、左手の人差し指と中指で二度ほど腕を軽く叩く仕草をしたのが見えた。

 幼い頃山遊びで使ったハンドシグナルだ。双眼鏡をバックに戻して瑠璃はその木を降りた。

 刑事の前で何度も同じ行動はとれないだろうから、あれはこちらが見ていない前提の行動だろう。

 指示された方向はここから南。常磐会の病院施設のある方向だ。距離は二?直近の建物まで二百メートル以上はあるし二キロも離れたら雑木林の中だ。どこだ?と考えて、男が叩いたものを思い出した。

 瑠璃が貸したTシャツは着替えて、黒っぽい服を身に着けていた。それを指して集合と言ったのか。

 唐花菱の黒。常磐会の研究室。ならば指の本数は階数か?

 敵の本陣だ。

 半分滑りながら一度本邸を大きく離れて丘の低いところへ降りる。苦しくなってきた呼吸を意識しながら整え、丘を回り込んで目的の建物を目指した。

 雨が弱まってきたか。顔を上げると、夜目にも雲が薄くなってきているのが分かる。だが足元には水が流れ、ほとんど沢の様相だ。

 足首まで水に浸かりながらわずかに上りの傾斜を歩く。

 丘の頂上を目指して、約十五分。竹やぶや低い木立を手掛かりに上る斜面は、一番傾斜のきついところだ。傾斜はきついが、少しくぼんでいるので万一にも見咎められることはない。

 研究室の裏手から少し離れた場所に出て、周辺に人の気配がないことを確認してから、四つん這いのまま荒くなった息を整えた。ここまでくると、撥水パーカーもその役目をほとんど果たさず、素肌に冷たい雨が流れていくのを感じる。

 指定された階数は二階だが、電気は消え、黒くそびえる建物にどうアプローチしようかと絶望に似た感覚で見上げた。普段なら造作もないだろうが、さすがに体力の限界も近く、握力もほとんど出ない。ましてやここに忍び込むことなど想像もしていなかった。

 息を整えている間に小雨も上がっていて、周辺は水の流れる音とうるさいくらいの蛙の大合唱が始まっていた。さっきまで大人しかったのに、現金なものだ。

(行くならあそこか…?)

 小窓しかない外壁に面して、物置が置いてある。あれを足場にベランダに上がるか、もしくは壁を足掛かりに三角飛びで上がるか。

(いや)

 物置からベランダまでは少し距離があり、直接アプローチするには助走が必要になる。靴は泥で汚れており、これ以降雨が上がれば足跡が残る。どちらも不可、だ。

 少し考えて、ブレスレットのバックルを外した。

 組まれたパラコードを闇の中で解いて一本の長い紐に戻し、一定の間隔で輪を作ってから片方の端にバンダナで包んだ重しを括りつけた。窓に当たらないように、二階のベランダの柵めがけてそれを投げる。柵に引っ掛けたそれを手元まで戻し、解けないように組む。こんなロープワークだって、このために覚えたわけじゃないのに。

 体力使うのはこれで最後だ、と、輪をはしご代わりにベランダに上がった。

 柵を乗り越え、内側に入ってようやく全身の力を抜いた。先ほどと同じように息を整えて一度手袋を脱ぐ。パラコードを引き上げて、軽くまとめてポケットに突っ込んだ。

 一旦靴の中の水を捨てて、靴下もついでに絞る。

 狭いベランダは、古いタイプの小学校を思い出させた。

 近くの窓枠に指を掛けて少し力を込めれば、軽く開いた。警備システムが静かなのを確認して中に身体を突っ込む。緞帳のような厚いカーテンをくぐって、窓を閉めて鍵を掛けた。

 真っ暗だと思った室内は常夜灯のオレンジで照らされていて、瑠璃の目に優しく実験室のような場所を見せていた。デスクの一つに小指ほどのサイズのライトが置かれて豆電球のような光が点いている。近寄ってみれば、ご丁寧に真新しいバスタオルと着替えが置いてあった。

 ワイシャツとスラックス。挙句に下着や靴下、スニーカーまで。着替えて、脱いだ服とバッグはこれもご丁寧に置いてあった撥水性の紙袋に突っ込む。

 フードのおかげであまり濡れてなかったが、髪を拭きながら、廊下への扉を開けた。

 非常灯の緑の光がリノリウムの廊下を照らして、わずかに輪郭を浮かび上がらせる。この部屋の目の前が階段で、階下に続く踊り場にまた小さなライトが置かれていた。

 案内表示か。

 室内にあったライトも消して回収し、紙袋を持って階段を降りた。

 まるで迷路だ。非常灯の光だけを頼りに一階まで降りたら階段はそこで終わりで、またライトで廊下の奥に誘導された。無機質な開き戸の前のライトを拾い上げて、扉の先の階段を降りる。降り切った先の地下一階では非常灯と常夜灯が二方向に延びる廊下を照らしていた。右側の通路に、また異質な光を見つけて近寄る。今度は登りの階段が二方向に伸びていて、マジックハウスのような構造に気が遠くなるのを感じながら、さらに三本のライトを回収して、瑠璃はようやくその部屋に辿り着いた。

 開き戸を開けたら室内からLEDライトの強烈な光が目に刺さって、痛んだ目を慣らすのにしばらく掛かった。

 そこは、実験室などではなく、生活感のない居室だった。

 十畳ほどの広さで、埋め込み式のシーリングライトが部屋を照らす。ペールグリーンの壁紙とベージュの腰板。奥にはパイプベッドが追いやられ、枕もとの壁に内線らしい受話器が埋め込まれている。右側の壁に沿って簡易的なデスクと固そうなスツールタイプの椅子。床に一応はカーペットが敷かれ、入り口には靴を脱げるスペースがある。のちに知ったが、左側に風呂とトイレに繋がる開き戸が二つ。

 なんだ、ここは。

「気に入った?」

 突然背後から声を掛けられて肩が跳ねた。振り返ると、足音を消した基樹があの笑みを浮かべてこちらに向かってくるところだった。

「何がだよ」

「今日からここがキミの部屋だよ。家には帰れないだろう?」

 瑠璃の隣を通り過ぎ、律儀に靴を脱いで部屋に足を踏み入れた男は、奥まで進んでベッドに腰を掛けて笑った。

「よく帰ってきたね。お疲れ様」

 ベッドについた手で上体を支えながら、瑠璃を見上げる。そして、基樹の顔で男は語った。

「キミがね、本当にボクのために動いてくれるかのテストだったんだよ」

 答え合わせをしようか、と抜かす男に、徒労が全身を包んでいくのが分かった。身体が石を乗せられたように一段と重くなる。

 そんなことのために彼らは…。渦巻くものを吐き出さないように、低く言葉を絞り出す。

「…ヒミツとやらを知られたんだろ。どこにあるか分かんねぇもんを消すにはあれが手っ取り早いだろ」

 愉快そうに、男の顔が笑う。それはまさしく基樹の顔で、違和感など覚えない。

 きれいな顔立ちをして、涼やかに笑う。過ぎた悪戯を戒めたり自身に苛立っていたりしたことはあっても、理不尽に当たることはなかった兄。蒼一が常磐に迎え入れられてからは兄を取られたような感覚に陥った頃もあった。

 時には一緒に悪戯をしたこともあったが、長兄としてオレたちを守り、決して優しいだけではなく、まして弱くもなかった男だ。

「じゃあ、キミはなぜ、そこまでボクを隠そうとするんだい?」

「テメェに分かるかよ!基樹が、基樹の顔したあんたが返り血浴びて振り返った時の、あの時のオレの後悔が!」

 その男の顔と声で紡がれた言葉で血が沸騰した。知っていることを知られてはいけない。そんな戒めもどこかに吹っ飛んで。

 怒鳴った言葉は、男には届かないのだろう。乱れる呼吸を整えることができない。だがもう後戻りもできない。腹をくくれ。動くな。表情も、視線も男に据えろ。

「さっさとテメェを告発しときゃよかったよ。常磐正幸」

「やっぱり知ってたね」

 狡猾に歪む男の顔にようやくあの男の片鱗が見える。

「優樹に聞いたのかい?」

「誰でもいいだろ、そんなもん」

「そうはいかないんだよ、瑠璃くん。キミが知っているなら、蒼一も知っているね」

「まぁ、ここでそのカードを切れるキミに敬意を表してご褒美をあげようか」

 そう言って、男は内線に手を伸ばした。壁に付いたテンキーで、十一桁の番号を押す。

「旭、茉莉亜もそこにいる?瑠璃が帰ってきたよ」

 無性に、もう一人の兄弟の声が聞きたかった。

 幼い頃のように、「リュウ」と呼んでほしかった。

 この、眩暈がするやり取りを誰かに終わらせてほしかった。

 だが、間もなくやってきたのは味方になるはずもない両親で、瑠璃の姿を認めて、急いだ足取りで向かってくる。

 また、か。と、どちらの頬を張られても受け流せるように身体の力を抜いた。だが、母が手を伸ばしてくるのが見えて、今日は髪をつかまれて怒鳴られるパターンか、と目を伏せて次に来る痛みに備えた。

 だから、母の表情に気付かなかった。

 首に柔らかい何かが巻き付いて、瑠璃は踏鞴を踏んだ。慌ててバランスを取り、母に抱き着かれている自身の状況を確認してさらに混乱した。

 着替えたとはいえ髪も顔も泥だらけのはずだ。こんな状態であの母がオレに触れる?

「よくやったわ。瑠璃!」

 興奮した様子の細い身体から体温がじんわりと伝わってくる。そして、その向こうから父が手を伸ばして瑠璃の髪に触れた。

 濡れた髪を梳き、そのまま頭を撫でる。

 その瞬間湧き上がったのは、間違いなく歓喜だった。

 狂おしいほどの甘い感情に満たされて何かが極まる。父親の顔を生まれて初めて真正面から見据えて、そして己の切れ長な目は父親譲りだったのだと知った。端正な顔立ちは研究者というよりどちらかというと経営者の風貌で、そしてその表情は今までにないほど優しかった。

 これまで幾度となくその手に頬を張られてきた。その手に。彼の心が絡めとられる。

 息が苦しくなって、彷徨った手は最終的に母の背に縋った。ちらり、と脳裏に先ほどの狡猾な顔が浮かんで、両親にされるがまま目を閉じた。己を抱きとめる母の背の小ささや肌の柔らかさ、洗い立ての白衣の香りの中に母の淑やかな体臭を見つけて、それすらも知らなかったのだと知った。

(あぁオレは)

(オレは)

(アオ、ごめん)

「ほら、瑠璃が戸惑ってるだろ。旭、瑠璃の部屋着なんかがまだなんだ、準備してくれるかい?茉莉亜は食事をお願いできるかな?」

「もちろんです」と、二人が、二人の足取りが軽く部屋を離れていく。また、男と二人きりになって、沈黙を破ったのはやはり男だった。

「ボクは基本的に家族の絆とか信じないんだけど、キミはそういうのをとても大事にしてるよね」

 ベッドに座った男は耳に心地よい声で話を続けていく。組んだ足に肘をつき、顎を乗せる。下からのぞき込む基樹の顔が、狂気に歪む。

 眩暈が激しくなって、身体が熱くなって、瑠璃は壁に背中を預けた。ら、もう立っていられなくなって、そのまま入り口に座り込んで息をついた。

 落ち着いたはずの呼吸がまた苦しくなってきて、必死に酸素を取り込もうと喘ぐ。冷えた身体の芯が熱くなっていくのが分かる。

「頼む」

 それでも、この男にこれだけは伝えなければならない。

「もし、これからそれが必要になったら、オレがオレのやり方で、オレの意思でやる。だからもう、基樹の手を汚さないでほしい」

 満足そうな男の顔を確認して、瑠璃はそのまま目を、そして意識を閉じた。

 背中に負った熱傷と雨にあたって冷えた身体は肺炎を起こし掛け、数日間ベッドの上の住人になって、初めて母の看病を受けた。


 その監獄のような部屋で、瑠璃は一日を過ごすことになる。

 内線の脇に取り付けられた電子時計で時間を確認する以外に一日を知るすべはなく、回復してからは、課されるノルマを消化していった。

 時には格闘技の師範らしい人から理合いと実地を学び、時には研究室で人の心理ついて学び、また時には理事長のお使いと称してその人を脅迫して、またある時には人体実験の被検体になったりもした。自分の時間などはなく、ただただ、人を騙す術と壊す術を、壊されるかもしれない恐怖を覚えた。

「こんなことをしても許された時代がね、あったんだよ」

 実験の後、枕から頭も起こせなくなった瑠璃の横で、基樹の顔をした男は言った。

「血を抜いて、薬漬けにして、切り刻んで…。捨てるには勿体ないからキミにはしないけど、飼い殺すくらいは簡単なこと、覚えていてね」

 そう言って頬を撫でた男の手は異様なほど温かくて、ついでに耳の奥で鳴る動悸に気分が悪くなって目を背けた。

「あぁ、半分解ってたことだけど、キミもアルコールアレルギーみたいだから気を付けてね」

 一度九州まで飛ばされた時に、監視役がトイレに入ってる間にホテルの封筒とメモ帳をくすねて警察に手紙を出した。出してくれたのは一度だけ研究室ですれ違った朝倉蓮華だった。

 男の子を隠したかった。殺人犯がその存在を知っているとあれば、総力を挙げて隠してくれるだろうと期待した。

 当初は誰とも口を利くことは許されず、一年を過ぎた頃ようやく、日に三度の食事を運んでくる人と言葉を交わすことができた。その頃世話をしてくれていた年上の女性と肌を重ねて、何かが救われた気がした。

 男が揶揄う顔で避妊具を差し入れてきたのは翌日で、それはそのままゴミ箱に投げ捨てた。


「そうやって基樹が人質と敵になって、オレは身動きが取れなくなった」

 軽くそう言って、彼はホールドアップのジェスチャーをした。そして、椅子に寄りかかったいつもの体勢でこちらに疑問を投げ掛けた。

「オレも聞きたいんだけど、警察にオレに助けられたって言わなかったのはなんでだ?」

「口きけなかったんです、高校まで。細かいことを伝えられなくて」

「なるほどね。警察が捜査力をオレに振り切ってきたからなんでかと思ってたんだが…結果的にはよかったんだから気にすんなよ」

「蒼一さんに助けを求めなかったのはなんでですか?」

「その時にはもう警察学校に進路決めてたんだよ。オレが邪魔できるか。まぁ、蒼一と立場が逆だったら、こんなややこしいことにはなってねぇだろうが…」

「どうなってたと?」

「事実を事実のまま公にしたんじゃねぇかな。理事長を死体にしたうえで、な。アレはオレより怖ぇぞ」

 喉の奥で小さく笑う男は、楽しそうだった。その様子に、父が写真を写した時の片鱗が見える。

 あの日から幾余年。彼のやってきたことが、その色を変えていく。

「続き、教えてください」

「ん?」

「あなたが俺を隠してくれた。でも、俺はここにいる。あの理事長が俺を知った時、あなたが無事だったとは思えない」

「んなとこ気付くなよ」

 彼はまた小さく呟いて苦笑した。すごく優しい顔だった。その顔が少しだけ困った顔をして。

「お前だけは、存在を知られたくなかったよ」

 


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