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FAKERS  作者: 宇津木
彼らは誰かを信用してはならない
22/35

~幻影を追うものは誰か~

 

 既に聞き飽きた曲が、まるでホテルのような静かな空間に流れる。

 昼下がりの気だるい空気を静かなピアノナンバーと高い天井に取り付けられたシーリングファンがゆっくりとかきまぜ、天窓から注ぐ陽光がその動きに合わせてその部屋に淡い影を落とす。

 病人の好きなものを飾れるようにと広く取られた空間はけれど白いままで、彼の好きなものが何なのか誰も知らないことを思い知らされた。

 唯一白い室内を彩るのは月に一度入れ替えられる観葉植物だ。光と水をたっぷりと与えられ、何よりも活き活きとしていた。

 花と湿った土の微かな匂いは、その部屋の独特なそれにかき消されていた。

 一拍。音の空白があって。再び流れ始めた激しさを伴わない曲は、あまりにもその場にそぐわなかった。この曲とて、彼の部屋にあったから掛けていたが、先日訪れた女性から、彼女の伴侶が好きな曲だと聞かされて、やはり彼の好みではないのだと知った。

 止める気になれなかったのは、止めてしまったら電子音しか聞こえないその部屋に居られなくなると思ったからだ。

 秋晴れの気持ちのいい気候とは裏腹に、ちりちりと胸の奥底に燻る焦燥。ファンが影を落とすただそれだけの動きに身動ぎさえ躊躇われるような、息苦しさに似た緊張を強いられる。

 呼吸を制限されて初めて、己が呼吸していることを知る。

 身近な人が死に瀕して初めて、己が生きていることを、生かされていることを、知らされる。

 冷えていく己の指先をベッドの中の男の指に絡めれば、己の物とは違う体温と質感を返してくる。指を絡めたまま、ベッドに腰掛ける。自分の体重の分沈んだ感覚。それを受け止めたベッドは、軋みもしない。

 この手に守られていたと知ったのは六年も前だ。

 生と死の狭間。幾多のコードと点滴の管に、この男は命をつながれている。緊急搬送されたその時には紙のように白かった肌も血色を取り戻し、ゆっくりと上下を繰り返す胸が確かに生きていることを教えていた。

 男の寝顔は、少年の頃の面影をわずかに残して男臭くなった。中性的ではあったが、それに儚さや弱さを感じさせないのは、体格であったり、記憶の中の眼差しのせいであったりするのだろう。何かを警戒するような怜悧な眼光や年齢以上の落ち着いた言動は、男がその人生の一部を犠牲にして会得したものだ。

 背後で病室の引き戸が開いた気配がして、一人分の足音が近付いてくる。その気配は絡められている指を見て、気分を害したように息をのんだ。

「こんな男でも、生きててほしいと思う?」

 潔癖なほどの断罪。姉のように思っていた彼女にいくら言葉を並べても、きっと信じてはくれないだろう。彼女が知っているこの男は、優しさなど見せなかったのだから。

 見る者の居ない小型TVの脇に飾られた古い写真は、彼の部屋から持ち出したもの。十年以上前の写真が色あせもせずにきれいな状態で保存されていたのは、秘密を隠すかのように本棚の隅に隠されていたからだ。

 緑に囲まれた白い家を背に映る三人の少年と一人の少女。

 彼らが幸せでいられた、最後の写真。春先の穏やかな瞬間を切り取ったその絵の中の彼らは、そのあとに残酷な現実が待ち受けることも知らずに無邪気に笑う。この頃は…、否、この頃からこの人が大好きだった。

「ね、キスでもしたら目ぇ覚ますかな?」

 自分も相手もそんなキャラではないけれど、もしそれで目を覚ますなら安いものだ。この男をもう一発張り倒さなければ気が済まない。

 悲劇の主人公なんてまっぴらごめんだ。

「一回やってみれば?減るもんじゃないし」

 呆れた顔の浅葱にそういわれて、絡めた指を離す。冷たかった指先は、いつの間にか彼と同じ体温に戻っていた。

 男が頭を乗せている枕に、今まで一度も染めたことのない長い髪が落ちて、一拍の間をおいて梢の顔が上がる。

 男の身体の上に寝そべったまま浅葱をふり仰いで笑った。

「…この人を襲うなんてなかなかできないよね」

「寝こみなんて特にね」

 薄い衣服に隔てられた男の胸に、そのまま額をつける。規則正しくリズムを刻む鼓動は変わることは無かった。当たり前のその事実を突きつけられる。

 病室のものとは思えないほど上質なソファに、浅葱が腰掛ける。

 この男のために用意された病室は無駄に広い。

 常磐会が運営する病院の、最上階。防犯のために一つしかない出入り口は、二十四時間体制で警護が付く。その人数は最低でも四名だ。

 病室の枕元に鎮座した、味気ない字体で書かれた“金山瑠璃”のプレートは、その壮絶な過去を誰にも教えない。

 眠っている間に三十六歳を過ぎた肌は無邪気とは程遠いのに古い記憶を刺激して、胸いっぱいに取り込んだ空気の中に再会した日の匂いを見つけて、目尻に浮かぶ涙を男の胸元に押し付けて隠した。


 常磐久幸・基樹両名の起こした事件はその異質さから広く世間の耳目を集めた。

 医療法人としての常磐会も一部の有識者からは解散の意見も上がったが、地域医療の根幹を成している病院の閉鎖に反対する声のほうが大きく、理事会と研究室の解散、実行者である深緋篤志の医師免許の剥奪、外部理事会の常設と第三者委員会を当面の間設置することで存続することが決まった。

 常磐蒼一は、無戸籍者として家庭裁判所から就籍許可が下り、その後、白瀬蒼一と名を改めて県外へと居を戻した。義父の死に目には、ギリギリ間に合ったそうだ。

 深緋篤志の手術を受けた十数名の患者は傷害の罪に問われたものの、常磐基樹の従犯として執行猶予が付き、そののちは厚生労働省・生命倫理員会で管理監督されることに決まって、年二回の健康診断と住居の申告が義務付けられた。常磐基樹が指示したすべてを実行したのは、脅迫されていた深緋篤志ともう一人の青年だけだったからだ。


 ※


 その年の冬、駅からバスを使って藤枝は目的地を目指した。前回訪れた時には隆盛を誇った庭木もその勢いをなくし、ジッと春を待っている。雪国育ちの藤枝にはこの土地の底冷えする寒さに耐性がなく、バス停から目的地までの間、幾度もその身を震わせた。

 住宅街の入り口に佇む古い門構えをくぐる。玄関まで設えられた石畳を歩き、備え付けられたインターホンを鳴らした。

 応答した女性の声に名乗る。だが、しばらくして出てきたのは瘦身の男性だった。その精悍な顔立ちに警戒の色が浮かぶ。

 当たり前だ。出会いは穏やかなものではなかった。

「改めて、ご挨拶させてください。常磐会デジタル対策室所属の、藤枝芳と申します」

 身に付いた礼をしてから、身長のほぼ変わらない彼を見返す。

「前回は名乗れませんでしたが、小野寺和寿の息子です」

 その自己紹介は自分でも卑怯だと思う。けれど、彼に話を聞いてもらうためならどんな手でも使わなければならない。懐に入るためなら手段を択ばなかった彼に倣う。

「瑠璃さんの話をお伝えに来ました」

「…っ、目を覚ましたのか?」

 息を飲んだ彼にフルフルと頭を振る。

「以前、あの人に聞いた話です。でも、きっとあの人はあなたに知ってほしいと思って俺に話をしたんだと思います」

「…少し、待ってて」

 玄関先に彼をおいて、公に白瀬を名乗れるようになった彼が奥へと入っていった。何事かを話す気配がして、話していた気配が遠くなる。

 奥の部屋からまた彼が出てきて、藤枝をリビングに通した。

 ダウンジャケットを脱ぎながら、痩せたその背中に視線を走らせる。彼の戦う姿を見たとき、藤枝は怪我に気付かなかった。それだけ無理をしたのだろう。歩く姿勢に違和感はないが時折気にする様子があるところを見るとまだ正座するのは難しいのかもしれない。

 リビングの椅子を勧め、コーヒーを淹れてくれた。流しの脇には急須が湯気を立てており、他の誰かの気配を藤枝に教える。

 思えばいろいろな人に話を聞いたな、と感慨深く思い出す。

 優樹は世間話から入った。彼はこちらを促してくれた。でも、目の前のこの人はそんな甘やかしをしてはくれなさそうだ。『あれはオレより怖えぞ』と言った声を思い出す。

 今日は俺が話をしなければならないのだ。黙ったままの彼に、今まで考えて来たのにどこから話そうか迷った。

 視線を返すだけなのに、胆力がいる。

(力、貸してください)

 片耳に嵌るピアスは、今日は母のものではない。片割れはこの家にあるはずだ。

「瑠璃さんに話を聞いたのは五年前です」

 隣に肩を並べて車に乗ったあの日。目的地はそこからわずか五分のところだった。社宅の立ち並ぶエリアにゆっくりと乗り入れて、外れにある一軒家の駐車場に彼は車を停めた。


 ※


 先に車を降りた金山瑠璃は、キーケースの中から迷わず家の鍵を取り出して、その古い家の鍵を開けた。藤枝が車のドアを閉めたのを横目で確認して、玄関先から車の鍵を掛ける。

 玄関先のライトの下で眼鏡を外しながら、家の中に入っていった。

 そのあとを追い掛ける。彼のスニーカーは、脱いだ後、揃えられて端に寄せられていた。短い廊下を歩き、彼が奥の開き戸を開けて中に入っていく。

 他人の家の匂いなのにどこか懐かしく、柔らかい蛍光灯の光と水音に誘われて、奥の部屋へ歩みを進めた。開け放たれたままのドアを入るとリビングで、彼が電気ケトルに水を汲んでいるところだった。

 こちらを見ないままその問いが投げ掛けられる。

「アルコールはねぇが何か飲むか?コーヒー…はインスタント、紅茶、緑茶、ほうじ茶、烏龍、その他。たぶんお前が知ってる銘柄ならあるが…」

「じゃあ、ジャスミンティ、ありますか?」

 一瞬だけ、彼の肩が揺れた。だが、それを動揺か何かも悟らせないまま、「ホット?アイス?」「ホットで」と会話をして、ケトルをセットし、簪を外しながらその場を離れた。

「顔洗ってくる。座ってろ」

「あ、トイレお借りできますか?」

「ん」

 肩越しに指で“来い”と呼ばれ、リビングの奥の引き戸を入ると、左側にドアがあった。正面に洗濯機、右側には洗面所だ。その奥の摺りガラスは風呂場だろう。ライトのスイッチを押して個室に入る。壁を挟んだ反対側で、彼が顔を洗っている気配が伝わってきた。

 済ませて出ると、パーカーを脱ぎ、タンクトップ姿で髪を束ねた彼が顔を拭いているところだった。こちらに気付き、場所を開ける。手を洗い、洗面所の棚に置かれた腕時計に目が留まった。

 古い記憶。あの頃は見上げていた洗面所の棚に置かれた無骨なダイバーズウォッチ。水を止めるのも手を拭くのも忘れて、それを手に取った。文字盤の裏をひっくり返し、そこに薄くあるはずの刻印を探す。K・O。小野寺和寿…父の頭文字。

「やっと気付いた」

 藤枝の代わりに水道を止めた彼の顔を…正確には耳に嵌るピアスを見る。青味の強い紫色のラピスラズリ。それは確か母の誕生石で。

「まさかそれも…」

「まさか。時計はつけてないと劣化するからな」

 渡されたタオルで手を拭いて、示されるままリビングの椅子に座り込んだ。

 リビング脇の階段を上がって姿を消した男が、二階を移動していく気配をぼんやりと感じる。

 時を刻む秒針は、あの時からずっと彼とともにあったのか。

 階段を降りるそれなりの重量を持った音が聞こえてきて、藤枝の目の前に古いCD―Rと小さなアクセサリーケースが置かれた。節だった指がアクセサリーケースを開けて、中の一粒ピアスを見せる。

「お前の母親のはこっち。CD―Rはお前んちのパソコンのデータのコピー」

 低い声が上から降る。やはり、彼があの場所にいたのは間違いがないのだ。

 何から言うべきか迷って、何も言うことができなくて、彼がお茶の準備をする音をただ聞いていた。しばらくして、藤枝の向かいの椅子が引かれて、通常運転に戻った彼が座る。

 背もたれに腕を掛け、斜に構えて足を組んだ座り方は、いつもの彼だ。お茶の入ったマグカップに指が掛かっている。

「んで?そんなくすぐってぇ格好して、なんの用?」

「え?」

「なんか用があったからそんなカッコなんじゃねぇの?」

(あぁ、)と自分の今日の服装を見下ろす。そうだ、あの時のことを聞きたくてここに来たのだ。

 窓の外で秋の虫が鳴いているのが小さく聞こえる。あの時は雨の音だった。

 視線を彼に移せば、切れ長な一重が静かにこちらを見返してきた。タンクトップ姿の彼は鍛えた筋肉を惜しげもなく晒していて先ほどまでの女性らしさは全くない。

 半年前、彼女に対してしたように居住まいを正す。膝に拳を握り、彼に頭を下げた。

「あの時は、ありがとうございました」

 その年のその日その時、俺は間違いなく部屋の中で父母の末期を目にした。胸を悪くする臭いも強烈な映像もはっきりと覚えている。

 それが暗転したのは何かを被せられたからで、その何かは外されてから黒のジャケットだったのだと知った。背中に傷を負いながら立ち去った後ろ姿は、それでもその背筋を伸ばそうとしていた。

 顔を上げた藤枝に、男は眉根を寄せて頭を傾げた。

「お前、覚えてんの?」

「え?」

「いや、覚えてるにしては警戒してるし、覚えてねぇにしてはオレに背後取らせるしで半端な反応だったからちと気にはなってたんだが…」

「あ…の、すみません。気付いたのがついこの前で…」

「ふーん」と、興味のなさそうな相槌が続いて「あ?用ってそれだけ?」と驚いた声を上げた。目を瞬かせる藤枝に、天井を仰ぎ見て、「マジかよ」と呟く。

「浅葱と言い、お前ら人の気も知らねぇでよくもまぁいろいろやらかしてくれるよ」

 体勢を戻した彼が自身のマグカップを持ち上げて、花の香りのするお茶に唇をつける。それを見て、藤枝もそれに倣った。あの時、ジャケットと共に自分を包んだ香りがこれだったのだと再確認する。

「あと、あなたのお話が聞きたくて」

「あ?」

 あの日何があったかは彼の反応で見当がついた。だから、彼が見たあの日を聞きたかった。

 父と母を殺めたのが目の前の彼であれば、俺を助ける理由がない。俺を助けたのが他の誰かであれば、俺のこの格好をこの人が知っているはずがない。

 あの日あの時、俺が着ていたそっくりそのままの服装を。

「父と母を手に掛けたのは、理事長ですよね?」

 マグカップを見つめたまま、彼は動かなかった。薄い唇を引き結んだまま「胸糞わりぃ話だぞ」と小さく呟く。

「両親が殺された時点で最悪なんです。ならせめて、そのすべてを知りたい」

 彼の一重が狂暴に藤枝を射った。負けじと、藤枝もそれを見返す。

 長い間視線を合わせ続けて、折れたのは瑠璃だった。天井を見上げて、長く細く息を吐き出す。そして、目を閉じたまま、低い声が抑揚なく語りだした。


 その時藤枝は、彼が彼の父だと信じて疑っていなかった。


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