~不道徳なからかいを戒めるのは誰か~
その耳に、「だからテメェは死ぬんじゃねぇぞ」と聞こえた。
ブツリと鈍い音が聞こえて、首に在った圧迫感が唐突になくなった。同時に支えも失って冷たい板張りに倒れこむ。肩を強かに打ち付けて、それでも閉じなかった目に瑠璃が簪を引き抜きながら基樹の後ろに滑り込む様子がスローモーションのように映った。
男の膝を折らせて、引き抜いた簪をその目に突き立てようとする様子もコマ送りのように映った。
乱れた髪の合間から、鋭い眼光が見て取れる。
(ダメだ、瑠璃!)
せき込むのに忙しくて声にならない蒼一の叫びを、その男は聞き届けた。
簪を持つ手が弾かれて銀色のそれが飛ぶ。だが、瑠璃は奪われたものに未練を残さず、その指の矛先を基樹の顎に変えた。首を折ろうというのか。
刹那、間合いにもう一歩踏み込んだ男が手にした木刀で瑠璃の腕を絡め、投げ飛ばした。流れるような技の繋ぎは見惚れるほど見事で、鋭くも柔らかい武器の使い方は剣道ではなく合気道の杖術だ。
瑠璃は受け身を取って少し離れた場所に膝を付き、基樹はその場に倒れこんだ。基樹を庇うように藤枝が立ちはだかる。
藤枝を、瑠璃の眼差しが鋭く刺した。
「邪魔すんじゃねぇよ、フジ」
ゆらりと、瑠璃が立ち上がった。長い髪が揺れ、中性的な顔がのぞく。
「何?飼い犬に手を嚙まれたの?」
壁際にいた男たちに助け起こされた基樹が、首を抑えながら瑠璃を揶揄した。
その言葉に苛立った様子もなく、静かに藤枝は基樹を目線だけで一瞥した。きれいな姿勢で切っ先を瑠璃に据えたまま押し殺された声が答える。
「理事長、あなたには罪を償ってもらいます。俺はこれ以上リュウさんに罪を犯してほしくない」
「オレを止められるつもりかよ」
「俺じゃ無理でしょうね。でも、この人ならどうですか?」
蒼一の目の前に、藤枝が構えていた木刀の柄が差し出された。
咄嗟にそれを掴み、引き揚げられるようにして己より十歳は若いだろう男の隣に立つ。それを見て瑠璃は小さく舌打ちをした。
半身に構えた左手が腰に回り、パチンと音を立ててケースからナイフを取る。
「下らねぇ茶番に付き合わされたお礼しなきゃ気が済まねぇんだよ。そこ、どきやがれ」
左のガードを上げて瑠璃が構える。あの時は逃げるしかなかった。だが、今は相手をしてやれる。
構えた蒼一の背を守るように、藤枝が動いた。彼の実力は今ので知れた。ならば、基樹とその周辺を預けても問題はないだろう。
チラと、美琴を確認すれば、腰を抜かしたまま呆然とこちらを見ていた。声を上げない限りその存在は捨て置かれるか。
「手加減なんかできねぇぞ」
「こっちのセリフだ」
※
背中でそんな声を聞きながら、改めて藤枝は理事長と、彼を守る男たちに目を向けた。その数は総勢十八人。
今まで、彼の父親だと思っていたその人。
冷たささえ感じさせる視線が、藤枝を見据えて笑った。目で、声で、動きで、そのすべてでこちらを威圧するその様は、瑠璃の様だ。
(いや、あの人が仕込まれたのか)
人を騙す術を、人を壊す術を。
「本当によく懐いたね」
「えぇ、全部教えてもらいましたから」
他の誰かが動かないかを気配で捉えながら、視線だけは基樹から動かさない。俺の役目は“その時”まで基樹をここから逃がさないことだ。
(まだか)
「瑠璃は、本当にボクを裏切ったんだね」
「先に裏切ったのはあなたでしょう」
(その時はまだか)
この五年間、総てを瑠璃に教えてもらった。剣道も、彼の愛車のクセも、嘘の付き方も、何もかもを徹底的に。それでも己を作ってきたのは合気道だ。和の武道と呼ばれているそれを彼は尊重し、高めてくれた。だから十八人もの相手を目の前にして冷静でいられる。たとえ相手が武器を持っていようと。
背後で、気配が動いた。それにつられて目の前の一人が襲い掛かって来る。
藤枝はあっさりとそれを転がして、また静かに基樹を見つめた。
藤枝の目的は制圧ではない。
転がされた相手は、背後で大喧嘩を繰り広げる二人のどちらかに沈黙させられたようだ。容赦のない落とし方に恐れをなしたのか、他が動く気配は鳴りを潜めた。木刀を持った蒼一と互角に近い争いをしながらなんだかんだと瑠璃はこちらを気にしているらしい。
とはいえ、それを手にした彼はやはり動きが段違いで、脇を抜けようとする瑠璃の先の先を読み、木刀の動きだけで相手の行動を止めている。かといって攻撃に転じることはないと瑠璃も解っているので、間合いへの踏み込みは遠慮がない。
「それで?」と男たちに守られながら、基樹が面白くなさそうに目を眇めた。
「出入口は抑えたみたいだけど、こっちは?」
視線で示した先は美琴だ。理事長の意思をくみ取った一人が護衛を離れて、美琴に近寄っていく。
「美琴!」
(ヤバい、)と、藤枝が認知するより早く、叱りつける声が飛んだ。声の主は蒼一だ。
弾かれたように我に返った美琴が、壁に掛かったそれに向かって動く。藤枝には一歩の距離も腰の抜けた美琴には数歩で、そのタイムラグは致命的だった。床と壁を手掛かりに走るが、美琴の手が武器に届くより美琴に手が掛かる方がわずかに早い。蒼一は瑠璃で手一杯。藤枝の距離でも間に合わない。それでも基樹と美琴を天秤にかけて、美琴にそれが傾きかけたその時、蒼一の木刀を避けた瑠璃が受け身を取るついでに簪を拾い上げ、投げた。
鋭く飛んだそれは美琴に伸ばされた男の手に当たり、短い悲鳴を上げた男はそれが当たった場所を抑えて蹲った。
その間に美琴は壁を背にして構え、戦う顔になった。もともと瑠璃譲りの速さと蒼一仕込みの技を持った彼女だ。得意な獲物があれば男たちに後れを取ることはないだろう。
それを見て、基樹はますます呆れた顔になった。
「キミたちは喧嘩をしてるの?それとも共闘してるの?」
「こいつが諦めれば終わるんだよ」と、相手との攻防を続けながら二人は律儀に異口同音に答えた。
何度目かの突破を試みて、更にそれが失敗に終わったのを機に、一旦、蒼一と瑠璃の動きが止まって空白が生まれた。
瑠璃が、珍しく肩で息をしながら頬に流れる汗を腕で拭う。五分近く絶え間なく動き続けた二人が荒く呼吸する音だけになったその場所に、館内放送用のスピーカーからガサガサとノイズが入った。
(来た)
興奮で、背筋が冷えた。マイクから離れたところで複数人が話す声が小さく聞こえて、その直後、聞き覚えのある声が、その場に響いた。
『おまたせー』
マイクを通したその人の声は、相変わらずマイペースだ。
『いろんな人にいろんなことを言いたいんだけどまずは業務連絡。宝箱は開けさせてもらったよ、理事長』
(やっと来た)
目線を基樹から一瞬だけ蒼一と瑠璃に移す。呼吸を整えながらお互いをけん制し合っていて、いまだ止まる気はなさそうだ。
『全部、関係各所に送らせてもらったから、もうすぐ事情を聴きに来るんじゃないかな』
昨日、アプリを入れた美琴の携帯を滝澤に預けた。滝澤はそれを美春に渡し、その情報を受けるためのPCは浅葱のおこもり部屋に戻した。電源を立ち上げたままだったから、きっと意図には気付いただろう。
美春のID承認を待って、そこからなら浅葱にとって入り込むのは容易かったはずだ。だが、なぜこんなに時間が掛かった?その疑問は、完全に読まれたようだ。
『専門用語とか訳の分からない数式英単語ばっかりだったからね。余計なお世話かと思ったけど翻訳AI付けてたら時間掛かっちゃった』
『それにしてもさぁ』と言葉は続く。その声色で、彼女の呆れた顔が目に浮かんだ。
『なんで一日経ってないのにおっぱじめるかなぁ。おかげで久しぶりに徹夜したんだけど?』
「警察が来るなら、なおさらさっさと殺らなきゃなんねぇだろ」
低い声がそう言って、蒼一がそれを止めるためにまた動いた。
『どうして止まんないかなぁ』と浅葱の声に、(そう簡単じゃないんですよ)と内心で答えて、藤枝も意識を基樹に戻す。そして、基樹の目にまっすぐ射られて、瑠璃とは違う威圧感に身体が冷水を被ったかのように硬直した。
そばにいる間は忘れていた。優しく笑うその相貌に忘れさせられていた。初めて会ったあの日の、呼吸の止まる狡猾な目。
「フジ!」
瑠璃に叱咤されてすぐに硬直は解けたが、その一瞬は命取りだった。体格のいい男に押し込まれて、反射的に身体は動いたが転がす方向を考えることができず、その脇を基樹がするりと抜けていった。
扉の前で「バイバイ」と手を振って、軽やかに出ていく。護衛は一人だけ連れて。
追い縋ろうとした藤枝の前に、瑠璃たちと同年代の男たちが立ちはだかった。
誰かが言った、理事長の兵隊。守るべき人をこの場から逃がした男たちは、出入り口を固めて、藤枝たちをここから出さないように決めたようだ。中身が、彼らが思っていた人とは違っても忠誠は変わらないらしい。
耳の奥に彼の言葉が蘇る。
(理事長の兵隊は、兵隊だが軍隊じゃねぇ)
たかが医療法人の、素人に毛が生えた程度の集団。戦闘のプロじゃない。何でもやるが、何でもできるわけじゃない。
出入り口まで数M。蒼一と瑠璃の方にも人数を割いて、目の前には五人。突破するだけならできると踏んで、藤枝が歩を出したその時、入れ替わりで入ってきた人影があった。
艶やかな黒髪を上品にまとめた、瓜実顔の、ほっそりとした美人だ。藤枝が一方的に知っている顔で、その動きに視線が囚われた。
彼女の視線は乱闘が巻き起こっている広間を一巡した。
蒼一は相手を怪我させないように気を使いながら武器を振るっているようだ。瑠璃は遠慮なしにその意識を奪っていて、どちらも今入ってきた女性には気付いていない。
女性が、走った。
※
背後から、胸を掻き抱くように突然抱き着かれて、瑠璃は踏鞴を踏んだ。
踏みとどまりはしたがその気配に気付かなかった自身に舌打ちして、抱き着いたままの相手を引きはがそうと一瞬だけ視線を走らせ―――彼に届く総ては消えた。
瑠璃の鼻に香るシャンプーのそれは高校の頃から変わっていない。少女の頃のようにぎゅうぎゅうと力の限りしがみついてくる梢の姿を見て、改めて瑠璃は舌打ちした。こちらの事情などお構いなしに向かって来る兵隊の武器を弾き飛ばし、本体をもなぎ倒して梢を背に庇う。
庇って、次に向かってくる敵に備えた。
その二人の前に、蒼一と藤枝の背中が立った。
襲ってくる兵隊を代わりに打ち払う二人を呆気に取られたように見た瑠璃は、我に返って基樹を追うべく踵を返した。
「離せ梢!」
「ヤダ!」
本気で振り払えば梢など相手にもならなかっただろう。けれど、自身を必死に抱きとめるか弱い腕の力強さを瑠璃は無視できなかった。離すという選択肢を持たない意思を感じて、それを振り払いたくてできなくて、短い時間の間に何度も何度も思いを巡らせた。そして…―――。
瑠璃は天を仰いで、深く息を吐いた。
同時に肩の線が落ちる。
「離せ、梢」
「ヤダ」
「ナイフ戻せねぇんだよ。そこだと」
ポンポンと、腕を叩く手が優しくて、梢は瑠璃を仰ぎ見た。周辺の喧騒をよそに呆れたような静かな目が梢を見下ろしていて、そこでようやく腕の力が抜けた。
それでも掴んだ裾は離さない。
「どこにも行かねぇよ」
「うそつき」
「お前らに嘘ついたことなんてねぇって」
ナイフを腰のケースに戻した瑠璃は、いまだに決着のついていない争いを丸っと無視して、襲ってくる男を蒼一のほうに転がしたり、転がる男を跨いだりしながら梢を壁際に誘導した。
「あ、これ貸して」と、梢の髪を止めていたゴムをするりと奪い取り、乱れた髪を一纏めにする。
「あっち、助けなくていいの?」
「オレにリソース振んなくていいなら苦戦する相手じゃねぇよ」
そう答えてから、「お前こそあっちじゃなくてよかったのか?」と親指を蒼一に向けた。
「何が?」
「抱き着く相手」
一瞬、きょとんとした梢が、次には顔を真っ赤にして眦を釣り上げた。何かに耐えるように両拳が握られて、けれど耐えきれなくて、誰かが何かを言う前にその平手が瑠璃の頬を鋭く打った。
瑠璃の顔が張られたのとは反対に振られる。
「ってぇ」
「いい加減にしなさいよ!人のこと散々振り回しといてまだそんなこと言うの!?」
胸倉をつかんで壁に追い詰めた。驚いたような瑠璃の目があの時と重なる。
そののんきな顔をもう一発くらい張っておこうかと思ったが、背後で誰かが噴き出す声が聞こえて叶わなかった。
「すみません、リュウさんがそんな無防備に張り手食らうの初めて見て」
ダメだ、ツボった。そう言って、藤枝は腹を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
喧騒はいつの間にか静まり返り、浅葱の『ねー、終わったのー?』と気の抜けた声が、男たちの呻く声で殺伐としたその場の空気を弛緩させた。
こちらに歩みを進めていた蒼一の怪訝そうな視線が、しゃがみ込んだ藤枝の背中からバツが悪そうな顔をした瑠璃に移る。
「…そいつ、親父知らねぇから」
「あぁ、それもそぅ、っと」
背後から衝撃があって蒼一の言葉は遮ぎられた。それをしたのは美琴で、放り出したらしい木刀が向こうのほうでカラカラと音を立て、顔を父の背に押し付けた少女が漏らす嗚咽を隠す。
「美琴、もう大丈夫だから」
蒼一の背中に美琴がイヤイヤと頭をこすりつけて、しがみつく腕の力はまた強くなったようだ。蒼一が肩越しに美琴を見下ろす。
「少し離しなさい、美琴」
「ヤダ!」
涙を孕んだその声を聞いて、梢は優先順位を変えたようだ。瑠璃から離れ、背中側で泣かれてなすすべがない蒼一に代わって声を掛ける。「初めまして、叔母の梢です」
「もう怖いことないからね」
蒼一の影から顔を出した美琴と視線を合わせ、小声で何事かを耳打ちする。その一言で弾かれたように美琴の顔が上がって、梢の顔を凝視した。
「本当ですか?」
「うん、ホント。みんな心配してたよ」
梢が少女の艶髪を撫で、蒼一にしがみつく手を取る。美琴は今までが嘘のように父親から離れ、初めて会うはずの梢に両手を預けた。
梢を警戒していないのは蒼一に近しい何かを感じているからか、はたまた常磐を警戒できない金山の血か。
己に良く似た少女の顔がわずかに綻ぶ。
そんなやり取りを見守っていた瑠璃のそばに、こっそり藤枝が戻ってきた。「…全部知ってるみたいですね」とは梢に向けられたものだろう。
「だろうな」
蒼一に向ける冷ややかな視線と、打って変わって美琴に注がれる眼差しの柔らかさが昔の優樹に重なる。一時だけ瑠璃にも向けられたそれが、羨ましいだなんて。
感傷に浸ってしまって、瑠璃は近付いてくる蒼一にも蒼一が拳を振り上げたのにも気付かなかった。左だったのはせめてもの情けか。梢とは反対の頬を殴られて、瑠璃はまた「ってぇ」と呻いた。
「馬鹿な事やってくれた罰だ」
「基樹が先だろうが」
情けなく眉をひそめながら、痛みを紛らわすかのように拳でその場所を擦る。基樹ほどではないものの冷ややかな蒼一とのやり取りに、藤枝が「あ」と声を上げた。
「やっぱりリュウさんの計画には気付いてたんですか?どこから?」
肉弾戦はやはり得意ではないようで、瑠璃を打った手を振りながら藤枝に視線を向けた蒼一は、何かを思い出すように視線を瑠璃に戻した。
「気が付いたのはずっと後だけどな。逃げる俺を本当に止める気なら声なんか掛けて来ないだろ」
残されていたカメラ映像で見るべきは闘争の内容ではなかったのだと説明されるまで自分は気付かなかったのに、十年以上会っていないはずなのに、この人はリュウさんと同じことを言うんだな、と、藤枝は羨ましく思った。そこまで信頼できる相手は、藤枝にはいない。
「あと、一か月くらい前、郵便受けにピアス付きの名刺が入ってた。来たんだな、と思っていろいろ準備したよ」
いつの間にそんなことを、と視線を瑠璃に投げる。肩をすくめた瑠璃は「他人様に迷惑は掛けらんねぇだろ」と今更なことを宣った。
「それにしては本気で締まってるように見えましたが」
「コレは他人じゃねぇだろ」
そう言ってから、瑠璃は顎で出入口を示した。
「気が済んだらさっさと出るぞ」
「まだ地下は苦手ですか」
「一回生き埋めにされ掛けて見ろ。分かるから」
その表情は苦々しく歪んでいた。瑠璃のことだから危険なものは排除してあるはずだが、それでも嫌なものは嫌らしい。理事長に与えられていた居室も半地下だったため、だいぶ辛い思いをして、結局社宅を別で借りたようだ。
「あぁ、フジ、アオに肩貸してやれ」
「え?」
「昨日の山ん中で足捻ってる」
「なんで知ってて全部始末させたんだよ」
「オレが庇ったらキレるだろ、お前。上がったらテーピングしてやるから我慢しろ」
瑠璃の身長では杖の代わりにもならない。担いで上がれと言われればできなくはないが、蒼一にも兄や父としての矜持があるだろう。
念のため斥候として瑠璃が先に上がり、美琴と梢が続く。殿は蒼一と藤枝だ。背後は藤枝が気を配る。
「美春は大丈夫か?」
「タキ…つっても分かんねぇか。健太郎がずっとついてるよ」
「あれ、やっぱり健太郎か?俺よりでかかったから最初分かんなかったんだけど」
「だろ?師範のとこに婿入りして、子どもも二人いるんだぜ」
間に置かれた二人の頭を越してそんなやり取りが交わされる。地上に出て、美琴と梢は入り口に据えられたベンチの一つに腰を掛けた。階段を挟んでもう一つのほうのベンチに蒼一を座らせる。離れようとした瞬間に藤枝の肩に掛かっていた腕に荒々しく力が籠って、ひやりとした。
「そういえば俺、キミともお話したいんだけど」
「…それもリュウさんにお願いできないでしょうか」
背中に冷や汗が流れる。出会いが最悪だったのは俺のせいじゃないと心の中で言い訳をしてみるが、腕に籠る力の強さを鑑みるにそれは通用しないのだろう。
これ、結婚なんか申込みに行ったらどうなるんだ?俺。
「…何してんの?」
傍から見れば抱き合っているようにしか見えないその状態を、救ったのかかき混ぜたのか、瑠璃が武道場の救護室からメディカルキットを手に戻ってきた。
グローブを無造作に外してベンチに放り、蒼一の足元にしゃがみ込んで、痛めた足に手際よくテーピングを施していく。
「慣れてんな」
「こんなことしかやって来なかったからな」
その様子を見て、藤枝はそっとその場を離れた。積もる話もあるだろう。
美琴と梢のいるベンチまで歩く藤枝の背後で、ライターに火をつける音が聞こえた。「煙草なんか吸うのか」とは蒼一の声だ。
「目的がなきゃ吸わねぇよ」
答える低い声も聞こえて、後は距離ができて、藤枝には内容までは分からなくなった。
※
わずかに吹く風から火種を守りながら、一本目の煙草に火をつける。つけたそれを、花壇の脇に据えられた石の上に乗せた。
「線香代わり。知らねぇとはいえ、親父さんにひでぇ濡れ衣着せちまった」
煙草とグローブを挟んだベンチの反対側に、瑠璃が座る。紫煙が燻って、夜が明ければ九月になる空に消えていく。
離れた藤枝は、梢と美琴を相手にうまく話を持たせているようだ。
名刺に付けられたものと同じピアスを彼に見て、おそらく味方なのだろうとは察していた。だが、ベンチに座った美琴が立ったままの藤枝の手を握る様子が見えて、蒼一は手元に置いた木刀の柄を撫でた。やはり後で話を付けなければならない。
それでも、気を使っているんだろうな、という気配は感じて、蒼一は瑠璃に視線を戻した。
「…紺野豊って覚えてるか?」
言いにくそうに、顔をふせた瑠璃がぽつりと言った。膝の間で組んだ手を見つめて、低い声で問われたそれに答える。
「忘れるわけがないだろ」
十年がひと昔だとすれば、三つも昔にもなる頃の話。白瀬の両親が巻き込まれた事故を起こした張本人の名前だ。温い風が頬を撫でて、流れた汗を乾かしていく。
間をおいて設置された外灯が、心細く瑠璃と蒼一を照らした。
「…前の研究室の書類の中に、その名前があったんだ」
蒼一は幼すぎて、事故の仔細を覚えていない。一番古いと思われる記憶は白い病室の風景で、その後に覚えているのは、幼かった瑠璃に森の中で見つかった時の情景だ。
義母に、「アオとも読むのよ」と教えてもらった頃…。
「アオ見っけ!」
どこに隠れても、そんな風に瑠璃はあっさりと蒼一を見つけた。
「次、アオが鬼ね」
かくれんぼだったのか鬼ごっこだったのか、そんな風に言われて、無理やり追い掛けさせられた。無我夢中でその背中を追い掛けたが追いつけなくて、森の中で迷った蒼一をやっぱり瑠璃が見つけてくれた。
夕暮れが近くなると、「帰ろっ」と手をつないで家まで帰った。蒼一には帰り道も分からなくなっていたのに、瑠璃は迷うこともなく気が付いたら蒼一を本邸の玄関まで連れ帰ってくれた。
そのボーイソプラノは、いつの間にか低くなっていた。心地いいと思える声が、ひどく辛そうに言葉を紡ぐ。
「被検体じゃなくて、執刀医だった。脳外の、深緋先生の前任者。オレらは顔も見たことがないが、そいつが担当した移植手術の一覧が古い記録に残ってた」
低い声を、蒼一は黙ったまま聞いていた。何を言われるのか、分からないままに。
「…常磐の、親父さんの名前があったんだ」
「…え?」
「日付はクッソ古かった。オレらが生まれる、ずっと前。親父さんの年齢は二十歳だった」
一度、深く息を吐いた瑠璃が、紫煙を眺めた。自分たちには手の届かないほど昔から、それは行われていたのだ。
「オレらが知ってる常磐正幸は、久幸だったんだよ。紺野も深緋と同じように悩んで苦しんで、逃げ出そうとして、追われて事故を起こしたんだ」
久幸は自業自得だな。入れ替わろうとした相手に裏をかかれた。
「何で基樹は気付いたんだ?」
「簡単。深緋先生が逃げるように言ったんだ。でも、基樹は入替ったふりをして実権を握った。最初に深緋先生の話をよく聞いときゃこんな回りくどいことにゃなってなかったんだが、これも自業自得だ」
瑠璃が自嘲した。一本目の火が消えて、もう一本に火をつける。灰になった煙草の隣に置いて、その赤がやけに印象に残った。
「これは小野寺のおじさんの分」
「…あの藤枝って」
「似てないけどな」
唇の端を引き上げて、瑠璃が言った。あの時何があったのか聞きたかったが、瑠璃はそれをはぐらかすように軽口を叩いた。
「素直過ぎて心配になるくらいなんだがな。お前を騙せるくらいには仕込んだんだぜ?」
聞くなよ、と外灯に白く浮かぶその顔は言っていて、おそらくその想像は当たっているのだろうと思った。それならばあの青年が瑠璃についている理由も理解できる。
「…あの性格もか?」
少しだけ思案して、その想像は想像だけに留めた。いずれ、他の誰かが明らかにしてくれるだろう。代わりに思っていたことを苦々しく吐き捨てたら、瑠璃が声をあげて笑った。瑠璃のそんな姿を見るのはいつぶりだろう。
顔を上げて、天を仰ぐ姿がひどく懐かしい。
「小野寺さん、子どもいたんだな」
「あ?会った時に話してただろ」
「そう?俺は覚えてない」
脇に置いた木刀の柄をもう一度そっと撫でた。己を引き上げた時の、いっそ清々しいほどの力強さを思い出す。自身に後ろめたさのない、清廉潔白な人間だけが持つ強さだ。だが…。
「どっちにしろ、美琴はやらん」
瑠璃の低い声が、優しく小さく笑った。ベンチに深く座って、背もたれに肘を掛けた。
「いっぱしの親父だな。もう一人くらいガキがいるかと思ったんだが」
「あんな生活してて作れるか」
「そのくらいの時間稼ぎはしたつもりだけどな」
瑠璃の視線が美琴たちのほうに向いた。眩しそうに目が眇められて、吐息が静かに震えた。撫でていた木刀の柄を握り、その切っ先を瑠璃に向ける。そういえば梢の件で聞き捨てならないことを言われていたのだ。
梢の様子を見るに何か事情はあるようだが、それとこれとは話が別だ。
「ことと次第によっちゃ、もう一戦構えるが?」
「ヤだよ。もうお前に勝てる気しねぇもん」
向けられた切っ先を、瑠璃が指で降ろす。さっきは脇を抜けるのが目的だった。だが、正面から事を構えて勝てる気はしない、と。
瑠璃が大きく息を吸い込んでいる間、周りの風の音と虫の音が大きく聞こえた。梢に打たれた頬をそっと撫でて、離れた三人から視線を外さないまま言った。
「…オレらみたいな生活させるよりいいと思ったんだよ」
虫の音にすらかき消されそうなほど小さく、瑠璃が呟いた。その言葉はひどく疲れていて、瑠璃もそれだけの生活をしてきたのだと蒼一に教えた。何を言うこともできなくて、黙ったまま煙草が短くなっていくのを見守る。
しばらくそんな時間が過ぎて、瑠璃が小さく吐息を漏らして笑ったのが聞こえた。
「そうだな、テメェはそういうやつだ」
「何がだよ」
「聞くなって言われりゃ、ぜってぇ聞いてこねぇだろ」
そうじゃない人間が近くにいたのか、と考えて、瑠璃の目がやはり三人に向けられているのに気付いた。藤枝を見るその目は、蒼一が見たこともないほど穏やかで、今まで瑠璃を、彼が支えてきたのだと分かった。
火がフィルターに掛かって、ジワリと消えた。それを見送った瑠璃が、静かに目を伏せた。
「…ちょっとだけ、常磐の人間じゃなくてよかったって、思ったんだ」
そう言って火をつけた三本目に、瑠璃はそのまま口を付けた。肺に煙を入れるのにも慣れているようだ。小さな火が、酸素を吸ってわずかに大きくなる。
蒼一のほうに向いていた身体を正面に戻し、蒼一からは横顔しか分からなくなった。
「これは、真澄と諒の分」
「真澄?昨日いただろ?」
「…史貴って呼んでみ?返事すっから」
研究室が爆破される前の最後の被検体。三代目理事長の秘書だった男で幼馴染のうちの最年長の父親を、基樹は囮に使ったのだと。基樹に反駁する姿を見せて、それに協調する人間を炙り出した。炙り出したあと脅迫するのも始末するのも瑠璃の役目だった。
誰も、二人に対して思いを馳せることをしてこなかった。
「…諒は?」
「お前の代わりに常磐の菩提寺の共同墓地に入ってるよ」
ベンチに寄りかかって、瑠璃は煙を大きく吸い込んだ。
研究室で諒を打った時を思い出して、蒼一は瑠璃から煙草を奪って口を付けた。見様見真似で胸いっぱい煙を吸い込んで、肺のしびれる感覚にそのまませき込んだ。自分の意思ではどうしようもない反射に涙が浮かんで、煙草を持ったまま目元を隠す。
それを、瑠璃は黙ったまま見守った。
遠く、パトカーのサイレンが聞こえてきて、それをしばらく聞いた瑠璃が、ゆっくり立ち上がった。
「…行くのか?」
「あのお兄ちゃんは誰かが止めなきゃなんねぇだろ」
「心配すんな。もう殺る気はねぇよ」と、腰についたナイフのホルスターを外して、今まで座っていた場所に置いた。首に下がっていた唐花菱も引きちぎって同じ場所に放る。
「ずっと気になってたんだけどさ。親父さんたちに家出ろって言われたあの時、お前、何になるつもりだったんだ?」
重いものを下ろしたかのように大きく伸びをする男の背中に声を掛ける。地下で相対した時の狂暴な気配はもうなかったが、何かが危うい気がして気が付いたら言葉が転がり出ていた。過去を思い出せば、何か変わるかと。
その背中が天を仰ぐ。今までと同じように、俯きそうになると顔を上げた。覚悟を決める時は星に力を借りた。深緋先生に教えてもらった、深淵の力だ。
「ん?ん~」
おどけたように「やっぱりヒミツ」と言って、瑠璃は蒼一の前から消えた。振り返らない男の背中を見送って、蒼一はもう一度煙草の煙を吸い込んで、せき込みながらその火を消した。
※
瑠璃が立ち上がったのに気付いたのは藤枝だけだった。腰に巻いたナイフのホルスターを外す様子が見えて、藤枝は女性二人の意識をさらに自分に惹きつけた。
会話を続ける藤枝の視界の中で、静かな視線で最後の確認をされた。
不自然にならないように顎を引いて、兄とも父とも思っていた人との別れの時間は呆気なかった。小柄な影がその場から消えて、蒼一がせき込んだ拍子に女性二人がそちらのベンチを振り返った。美琴は蒼一の背中を摩るために立ち上がり、梢はその影がないことにすぐ気付いて、表情を歪めた。
「うそつき」と鼻をすする音が聞こえて、置いていかれる寂しさだけがその場に残った。
「髪留めもらってく、だそうです」
「そんなの上げるよ」
瑠璃のバカ。としゃくりあげる女性の背中を摩る。
警察車両のサイレンが唐突に途切れて、赤色灯がクルリクルリと夜空に回った。そのうちの一つから降りてきたショートカットの女性を見つけて、梢をそこに置いて、藤枝はその人のもとに走った。
しがみつくように抱き着いて、そのぬくもりに涙を流した。
その人が今度は蒼一を見つけて、美琴を見止めて、その目に涙を浮かべた。
―――お帰りなさい。
※
三階にあるはずの部屋の、ベランダに通じる扉が控えめな音を立てて開いた。開いた分だけ夜風が部屋を蹂躙し、上質なルームフレグランスの香りを外に連れていく。
「何しに来たの?」
「つれねぇな。ここを開けてたんだからオレを待ってたんだろ」
いつもの執務室。ベランダから入ってきた瑠璃は、カーテンを全て閉めてから、いつかと同じように、パーソナルスペースを無視した距離で執務机に尻を乗せた。基樹が視線を向けるパソコンの画面には手術の様子が映っている。
「そっちも開いてるよ。キミが本気でキレてたら鍵なんか意味ないでしょ」
視線を画面に固定したまま、何の興味もなさそうに基樹は部屋の扉を示した。涼やかな声が執務室に落ちる。
応接のソファには、二つの躯が転がっていた。笹原真澄と呼ばれていた青年と、先ほど基樹の護衛として出ていった男だ。
服毒したのか、それを一瞥した後は興味を残さず、瑠璃は基樹と会話を続けた。
「ドアの開け方で人のキレ具合を計るんじゃねぇよ」
「だってキミ、蒼一を見つけた時は壊す勢いで入ってきたじゃない」
「あぁでもしなきゃテメェがキレてただろ」
「そうかもね」と静かに基樹は言って、画面に意識を集中させた。
「オペビデオか?」
「そう。深緋先生の」
そうして初めて、基樹は熱のこもった声を出した。
「初めて見た時、その手技に衝撃を受けたんだ。繊細で流麗で、神秘的で。何度見ても飽きなかった。何度でも観ていたいと思った。ずっと観ていたいと思った」
基樹は、譫言のように呟いた。
折れた右腕は、完全には元には戻らなかった。しびれが残り、油断をすればみっともない悪筆を晒す。冬にはよく痛みが走る手では手術どころか怪我の応急処置さえままならず、大学の医学部は途中で断念せざるを得なかったため、二年生以降は経営を学ぶようになった。そちらのほうが肌に合っていたのか、人を動かすのは面白かった。
それから少しして、画面に流れていた映像が終わりを告げた。瑠璃は、それを辛抱強く待った。
「これでもう、おしまい」
そう言って、基樹はパソコンの電源を落とした。すべてを片付けてから、懐から銀色のシートに入ったカプセル剤を取り出す。
「ボクは優樹に会いに行く」
シートを押し開けた基樹に、瑠璃は目を丸くして「あ?」と声を上げた。薬を含もうとする基樹の指をそっと止める。
「マジか」
基樹を止めた指で、瑠璃はデスク備付けの電話の数字をプッシュした。十一桁は携帯の番号のようだ。スピーカーから幾度か呼び出し音が鳴って、その後に、二人にとって懐かしい声が『もしもし?』と答えた。
『基樹?瑠璃?そこにいるの?』
いい加減にして出てきなさい!と怒る様は幼い頃そのままで、基樹が考えた悪戯を瑠璃が実行して、二人でクローゼットに隠れた時を思い出した。
目を丸くした基樹が「優樹?」と呟くのを待って瑠璃はその通話を切った。折り返しで掛かってきたそれは電話線を抜いて沈黙させる。
目元を片手で覆って、苦しそうに、静かに深く吐息を漏らす基樹に、瑠璃は慎重に声を掛けた。
「マジで、優樹が好きだったんだな」
「…そうだよ。ボクにとって、唯一の女性だった。血のつながりがないと知って喜んだのに優樹は父さんしか見てなかった」
良かった生きてて…声が涙を纏った。幾度も幾度も呼吸を繰り返して、基樹は目尻を赤くした顔を上げた。
「そんなに前から、裏切られてたなんてね」
「優樹の件は気付いてるもんだと思ってたけどな」
「もしかして、始末を頼んだ子たちも?」
「…さすがに全員は無理だったよ」
「そう。じゃあやっぱりおしまいだね」
全部ボクのせいにしていいからね。そう言って、カプセル剤を口に含んだ。執務机に常備されているミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばし、キャップを開ける。
その彼の胸倉を、瑠璃が掴んで引き寄せた。
それが触れる直前、「ふざけんな」と低く聞こえた。
引かれた角度で薄く開いた基樹の唇に瑠璃の舌が侵入する。舌に絡んだ温いそれは、基樹が含んだカプセル剤を奪い取っていった。唇を歪めて笑った瑠璃は、奪ったそれを歯で挟んで、目を見張った基樹に見せつけてから己の口の中に隠した。
喉仏が一度、こくりと動く。
「お前にしちゃ詰めが甘ぇな」
「瑠璃!ダメだ!」
「ダメだじゃねぇんだよ。逃がすわけねェだろ?」
唇を舐めながら、後退りしながら、瑠璃が距離を取る。だが、何歩も行かないうちにそれは止まった。
「瑠璃!」
膝をついた瑠璃は、次にはもう床に蹲っていた。呼吸を荒くし、胸元を苦しそうに掴む。
「やべぇ。キッツいな、これ」
「ストレッチャー!!胃洗浄の準備!AEDも!」
慌て切った基樹が、別回線の救急ボタンを押して叫んだ。
浅い呼吸を繰り返す瑠璃に、ディスプレイされていたアルコールのミニボトルの一つを取って、口に流し込む。
「飲んで!」
即座にアレルギー反応を起こした身体は、胃の中身を吐き出した。立て続けに水のボトルを瑠璃の口に突っ込む。
「瑠璃!ダメだ!」
だがそれまでだった。吐き戻したのは一度だけで反応は止まり、意識を手放した瑠璃は基樹にすべてを預けた。呼吸が止まり、脈も触れなくなった瑠璃に、心臓マッサージと人工呼吸を基樹が施す。
「瑠璃!!」
その後、かろうじて心停止から回復するも意識を取り戻すことはなく、金山瑠璃は長くベッドの上の住人となる。




