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FAKERS  作者: 宇津木
彼らは誰かを信用してはならない
20/35

~偽りの主張者は誰か~

 

 その窮屈さに、昔を思い出した。キャンプの時、寝袋に収まって眠った時の、あの感覚だ。

 ぼんやりと目を開ければ、そこはテントの中ではなくどこかの部屋のようだった。思い出すのは道場の床で、冷たい板張りの感覚が頬に当たる。

 なぜ、俺はここに寝ているのかと浮かんだ疑問は、部屋にいた懐かしい顔に打ち消された。

 スーツ姿の男は、硬そうな椅子に座って、何かの書類を書き込んでいた。

「真澄?」

「久しぶり、蒼一」

 己より一つ上の幼馴染は備え付けの内線の受話器を取り上げて迷いなく番号をプッシュした。「笹原です。蒼一が目を覚ましました」の一言で、受話器を戻す。

 そうしてようやく、昨日の出来事を思い出した。

 首に巻き付いた腕の硬さとあの低い声を。美琴の絶望の目を。

 起き上がろうとして、全身の自由が奪われていることに気付く。古いものらしいが、精神科病棟の拘束具はまだ現役のようだ。縫い目がわずかに啼いただけでびくともしない。

 遠くで扉が開く気配がして、それを合図に笹原真澄が拘束具を外していく。震える身体は己の身体でないようだ。ようやく上半身を起こして、入ってきた男二人を見上げた。

 立ち上がってしまえばどちらも見下ろす身長差の二人は、十余年の年月を経ても幼い頃の面影を残していた。

「おはよう、蒼一」

 基樹の顔をした男が涼やかに笑いながら、四つん這いになった蒼一の目の前にしゃがみ込んだ。瑠璃はその後ろの壁に背を預けてこちらを見下ろしている。髪はあれから伸ばし続けたのか、後ろで纏められているようだ。あの時と違って、表情はない。

「…美春と、美琴は?」

 そう問うた蒼一は、目の前の男に張り飛ばされて床に倒れこんだ。やはり、身体に力が入らないのは何か薬を使われたのか。

 痛みすら鈍い気がして、必死に身体を起こす。

 そんな蒼一の短い髪を、理事長は掴んだ。

「どうしてくれようか、って、ずっと考えてたんだけどね」

 歳を重ねた冷たいその視線に、義父の片鱗が見える。久方ぶりの絶望に、歯ぎしりした。

「瑠璃とかくれんぼなんてどう?昔よくやったでしょう?一回捕まるたびに子どもが慰み者になるの。その様子、見せてあげる」

「相変わらずいい趣味してんな」

 興味もなさそうに爪をいじりながら、瑠璃が小さく声を上げた。

 相変わらずとはどういうことだ?と視線を向けた蒼一に気付いた瑠璃が、嫌な笑いを返した。ぺろりと舌を出して唇を舐めて見せる。

「梢はオレがおいしくいただきました」

 血が沸騰した。力の入らない身体のことなど忘れて立ち上がり掛け、無様に床に倒れ堕ちた。顔だけでも二人に向けて睨みつける。

「お、まえ」

 笑みを張り付けたまま、瑠璃が近寄ってきた。笑みに歪んだ一重が蒼一を見下ろす。

「梢だけじゃねぇよ?優樹がどうなったのか知ってる?」

 義理の母の名を、瑠璃がそんな風に呼ぶのを初めて聞いた。

 なぜあの時逃げてしまったのか。涙を浮かべた過去の義母を、義妹を、なぜ連れて逃げなかったのかと後悔が胸を黒く塗りつぶす。

 知りたいが聞きたくない瑠璃の二の句を止めたのは、意外なことに義兄の声だった。

「瑠璃、やめて」

 冷たいほどの声色に、瑠璃は肩をすくめただけで話すのをやめた。そのやり取りに、関係の深さが見て取れる。その中に、昔は蒼一もいたはずなのだ。どこから何が、変わってしまったのか。変えられてしまったのか。

「かくれんぼ、今からでいいのか?」

 頷いた理事長を確認して、瑠璃がこちらを見下ろした。

「ハンデに五分やるよ。エリアは本邸から北の敷地内、十分間逃げ切れたらそっちの勝ち。逃げた時間の分、嫁か子どもに会わせてやる」

「ちょっと瑠璃」

「アオにもメリット無きゃ本気になんねぇだろ」

 かくれんぼという単語の恐ろしさが身に染みる。捕まれば、美琴に累が及ぶ。けれど、いくらハンデを付けられたところで、そのジャンルでこの男に勝てる気などしない。

「せっかくだから藤枝くんにも瑠璃の本領、見てもらおうか」

 好きにしろ、と、こちらを見もしない男たちのやり取りに、蒼一は静かに拳を作った。


 本邸のウッドデッキから裏門を開放して広がる森が、瑠璃が指定したエリアだ。瑠璃の運転で連れてこられた自宅に、蒼一は十四年ぶりに足を踏み入れた。瑠璃の監視のもと、そのままにされていたらしい自室で、藤枝と名乗った男のジャージに着替え、階下に降りる。

 体格は似ているようだ。靴のサイズも。

 だが、こちらの神経を逆撫でてくるその気性は、瑠璃か理事長のそれだろう。「美琴ちゃん、いい子ですね」などと、貴様に言われたくない。

 タイムを計るのは、理事長らしい。

 「行ってらっしゃい」というその顔を一瞥して、蒼一は久しぶりの裏庭に身を投じた。


 ※


「ところで、俺、なんで呼ばれたんですか?」

 ウッドデッキにタープが掛けられ、その下に出されたカウチに座り込んで、藤枝はどちらに聞くともなしに疑問を呈した。

 リクライニングチェアに横になって目を閉じた瑠璃が、親指で理事長を指し示す。それにつられて視線を理事長に移すと、ベンチに座った理事長が卓上時計を見ながら懐かしそうな顔をした。

「藤枝くんは瑠璃がかくれんぼしてるところ、見たことないでしょ?」

 かくれんぼ?と首を傾げる藤枝に、そう、と理事長が笑みを返す。話題に出された本人は、すでに短い眠りについたようだ。ゆっくりとその胸板が上下を繰り返すのを確認して、涼やかな声がボリュームを落とす。

 その場所を、夏の風が、抜けていった。

「誰も瑠璃に勝てなかったの。追うほうも追われるほうもね。なんでか分かる?」

 鬼ごっこなら分かる。あの瞬発力はなかなかお目に掛かれるものではない。だがかくれんぼとなると?とまた首を傾げた藤枝に理事長は優しく笑って答えた。

「瑠璃の一番の武器は目の良さなんだよ」

「目、ですか?」

「視力の話じゃないよ?そろそろホントに眼鏡掛けなきゃいけないみたいだし。この子はね、違和感とか人の機微を読むのが抜群にうまいの」

 昔は本能的にやってのけていたそれを体系的に学ばせて、磨きを掛けた。学び始めた当初はよく頭痛がすると言っていたが、おそらくそれの弊害だったのだろう。良すぎていらぬものまで拾ってしまっていたのだ。

「まぁ、基本的な身体能力が高くなきゃできないこともあったけどね。追い詰められた時は縦に逃げることも多かったし」

「縦?」

「屋根の上とか木の上とか」

「…よく知ってますね」

「ずっと見てたからね」

 穏やかに理事長が笑った。今行われている、かくれんぼという遊びが似つかわしくないほどに。

「この子たちが知らなければ、今でも家族でいられたのに」

 知らないふりはどちらもできなかったのだろうかと、藤枝は静かに思った。できなかったんだろうな、と蛍光灯の光に照らされたあの時の彼を思い出す。表面上は穏やかな時間に他に何を言うこともできなくて、藤枝は電子時計の数字が進んでいくのをじっと見つめた。

 瑠璃の下に付いたこの五年は、そのまま理事長のそばにいた時間だ。

 理事長室に入る権限を与えられた。この家にも幾度となく訪れた。こちらがすべてを知っている気安さもあって、飲めない瑠璃の代わりに酒を酌み交わしたこともある。

 そうして知ったのは、彼のひどく人間臭い一面だった。

 目元をアルコールで赤らめてグラスを傾ける理事長は、右腕の古い傷跡を摩りながらグラスをゆっくり回して、光が動くのを楽しんでいた。

 語る内容は三十代の彼からは聞かされるはずのない昔語り。他の誰にも聞かせることのできないそれを、寒々しい家のリビングで藤枝は聞いた。

 父親を尊敬していたこと。父が作り上げた常磐会を守りたかったこと。自分では叶えられないと知った時の無念。

「成したいことがある。だから、ボクは」

 ただ一つの目的のために、なりふり構わない人。

 それなのにこの人は妻を手放したと、娘に嫌われたと静かに慟哭するのだ。

 その姿を見て、今まで幾人もの人が秘密を知りながら口を噤んだ理由が分かった気がした。

 深緋篤志も常磐優樹も、この人が好きだったのだろう。だから離れられなかったのだろう。だから正しく止めたかったのだろう。

 誰も口を開かないまま、指定の五分が過ぎた。

「瑠璃」

「あぁ」

 今まで寝ていたとは思えないほど軽く、瑠璃は身を起こした。身体をほぐしながら、ジリジリと地を焼く太陽のもとに進み出る。いつものグローブを嵌めた手をジャージのポケットに突っ込んで数歩歩みを進めたところで、藤枝を振り返った。

「来るか?」

「そうだね、せっかくだから行っておいで」

 年長者二人にそう言われては、藤枝に否はなかった。玄関からスニーカーを持ってきて履き、裏庭に降りる。

 それを確認した瑠璃が、また歩を進める。歩みに迷いはない。

 本邸が遠くなってから、藤枝はその背中に声を掛けた。

「五分もハンデ取ってよかったんですか?」

 理事長がほめていた目を、右から左、地面から樹上へと絶え間なく動かしながら「いいんだよ」と低い声で答えた。

 本邸が離れるにつれ、歩きにくくなってくる。

「蒼一に使った薬、どうやったって十分じゃ抜けねぇからな」

「結構広いですけど」

 藪の中に躊躇なく入り込みながら、瑠璃は話を続けた。伸びた雑草を足で払いのける。

「蒼一な、常磐に引き取られた当初はよく脱走してたんだよ。本当の親のところに帰りたかったんだろうな。逃げ出して森ん中に入り込んで、見つけ出すのはいつもオレだった」

 藤枝も、ひざ下に絡まるそれを越えながらその背中を追う。過去を話す瑠璃の声も、先ほどの理事長と同じように穏やかだった。

「ついでにいえば、オレが総務にいた頃任されてたのは施設管理だった。主に外っ側の細かいやつ。建物、配電、排水その他諸々。んで、どこに何を植えて、どこの何を伐採してっていうのもオレの管理下だった」

 その言葉に、対策室からこの人を見下ろした日を思い出した。図面を見ながら滝澤とやり取りしていたのはそういうことだったのか。

「このエリアもそう。この分だと後任はあんまり整地には興味ねぇみてぇだが、五年じゃ基本のとこは変わんねぇ。だから、人が逃げられる場所なんかかなり絞られるんだよ」

 幾年も生育しては枯れて、雪に押しつぶされてを繰り返したらしい下草の一部を、彼は指さした。細いけもの道を、それより大きい何かが通った形跡がある。

「大型動物の可能性は?」

「ゼロじゃねぇがな。その手の報告は上がってねぇ」

 彼はもう一度周辺を見回して、その場所とは数Ⅿ離れた木の枝に上り、脇の岩の上に降りた。

「登れるか?」

 同じように、けれど彼よりは時間を掛けて藤枝も岩の上に降りる。それをもう一度繰り返して、木々を見下ろせる位置の岩場に出た。瑠璃が地上を指し示す。

「さっきの場所があそこ。分岐はあっても行きつくのはたった二か所。逃げてるのは薬使われて身体の動かしにくい蒼一なら、選ぶのはあっち。な?簡単」

「あそこまでどうやって行くんですか?」

「それはオレの専売特許。お前はさっきんとこで待ってな」

 そう言って瑠璃は、斜面に生えた木に手を掛け、脇を滑り降りていった。急斜面だが、途中の木の枝や蔦を手掛かり足掛かりにして危なげなくショートカットをしていく。木のしなり具合や蔦の強度も計算しているようで、その反発力を利用しながら地上に降り立った時には先ほど示した場所だった。

 木の影になってそこから人影は見えなくなったが、その直後に藤枝の耳にホイッスルの音が聞こえて、終わったのだと分かった。時計を見れば指定の十分まで数十秒を残している。

「サルか…?」

 いや、扱いを間違えるとサルより狂暴か。藤枝は、自身の居場所を確認して、ゆっくりと帰路についた。

 瑠璃のような真似は怖くてできなかった。


「絶対ヤですって」

 藤枝が強硬に反発したのは理事長にだった。場所は本邸のリビングで、時間はもう昼に近い。目の前に並んで座った年長者二人を相手に、思わず腰を上げて抗議する。内容は例の罰ゲームの話で、終わってから明かされるのはこちらにもある意味罰ゲームだ。

 蒼一は抵抗しながら瑠璃に無理やり水分補給と排泄を促されて、そのあとはまた拘束されて二階の自室に放り込まれた。

「見られながらとか、俺ムリです」

「その辺、藤枝くんは初心だね。瑠璃代わる?」

「自分のガキだぞ?」

「古今東西、近親相姦なんか珍しくないじゃない」

「っていうか今おいしく光源氏してるんだからもう少し時間くださいよ」

 喧々諤々と言い合いをしていたそこに、目を丸くした滝澤が顔を出した。昨夜のジャージからは着替えて、スーツ姿だ。さすがに暑いのか、ジャケットは脱いでいる。

 「楽しそうですね?」との意見には、三者三様に異を唱えた。

「まぁいいや、何か用事?」

「あ、はい。白瀬美春のIDの承認をいただきたくて」

「それでわざわざ来たの?電話で済むのに」

「フジくんがいると思わなくて。蒼一くんを移送するならリュウさんだけじゃ大変だろうと思って来たんですが」

 諦めたようにため息を吐いた理事長が、肩の線を下げて立ち上がった。

「いったん戻ろうか。蒼一はさっきの部屋に戻しておいて。滝澤くん、手伝ってあげて。藤枝くんは光源氏に戻っていいよ」

 できるだけ早く懐柔してね。と付け加えられた一言に、藤枝は「はーい」といい返事をした。

「オレも蒼一戻したら休むぞ」

「いいよ。でも何かあったらすぐ対応できるようにはしててね」

「分かってるよ」

 そのやり取りを背に、藤枝は本邸を後にした。家を回り込んで二階の窓を見上げれば、窓際のソファに座らせられた蒼一がこちらを見下ろしていた。

 眉間に皺を寄せる彼に、にっこりと笑って手を振って見せる。さらに眉間の皺を深くした彼は顔を背けて、部屋に入ってきた瑠璃たちに連れられて部屋を出たようだ。

 これ以上留まれば手伝いをさせられるだろうことは想像に難くなくて、藤枝は急いで管理棟へ歩みを進めた。


 翌日は通常出勤の日で、昼間は瑠璃と一緒に、不在にしていた分の雑務をこなした。向かいに座る瑠璃の機嫌はすこぶるいい。夜も十分休息を取れたのか、一時の浅葱には及ばないがうっすらあった眼の下のクマも取れたようだ。

 同じように、藤枝の機嫌もよく見えているのだろう。彼がいた頃の後輩たちはもう施設を出てしまっているが、いつにも増して子どもたちに纏わりつかれた。

 業務を終えた施設長を見送り、パソコンの電源を切った二人も夜勤の先生方に別れを告げて、そろって施設を出た。瑠璃は、武道場の地下にある自分の居室に戻り、藤枝はその先の管理棟地下に向かう。

 昼間、独りその部屋に取り残された少女は、藤枝が扉を開けるなりその胸に抱き着いた。

「ただいま、美琴ちゃん」

 優しくその艶髪を撫でてやれば、更に身体に巻き付く力は強くなった。簡単に振り払えそうなそれが少女の限界なのだろう。震える腕に、肩に、知らず笑みが浮かぶ。

「夕飯、外に行こうか。それからちょっとお散歩しよう」

 涙に濡れた少女の目元を拭って、私服に着替えてから、藤枝は地上階に美琴を連れ出した。夕食はいつものカフェの軽食だ。

「もう少ししたら街にも出してあげられるからね」

 瑠璃程は長くない髪を揺らして、美琴が頭を振る。

「芳さんが一緒なら別にいいです」

(うそつき)

 内心で藤枝はそう断じた。本当は父が、母が今どういう状況なのか知りたくてたまらないはずだ。だが、言葉にしてしまえば箍が外れ、藤枝を問い詰めてしまうことは想像に難くなかった。そんなことをすれば今は優しい藤枝の庇護が無くなることは明白で、ささやかながら与えられている自由すらなくなることを恐れていた。

 むず痒いような感覚に、藤枝の頬が緩む。プラスチックのカップを置いて美琴に手を伸ばそうとした彼だったが、何かに気付いたようにポケットから「ごめんね」と携帯を取り出した。何かのメッセージを受け取ったようだ。小さな画面を、何度も読み下して、その表情が徐々に強張っていく。

 珍しいかと問われても答えられるほど、美琴は藤枝を知らない。だが、初めて見る藤枝の険しい表情に、嫌な予感がした。

「何か、あるんですか?」

 美琴の問い掛けに唇を引き結んだ藤枝は、うん、と小さく答えた。

「始まるのか終わるのか、分かんないけどね」

 アイスティーを飲み干した藤枝は、少女が食事を終えるのを待って、「ごめん、ちょっと予定変更」と、外に出た。

 八月最終日の蒸し暑い空気の中を、帰ってきた時とは逆に道順を辿る。傍らに美琴を連れて、けれど彼女の歩調に配慮することもないまま先を急いで、向かったのは蒼一や瑠璃のいる武道場だ。リハビリ施設にあがる階段には目もくれないまま、地下への階段を降りる。半地下の武道場も通り過ぎ、開けた扉の先は大広間だ。

 開けた瞬間、ひやりとした空調の風を頬に感じた。

 板張りの広間のほぼ中央に膝立ちした蒼一と、その前に仁王立ちする瑠璃。そして壁際には理事長だ。奥の壁際には、院内に配属されている実働部隊の面々が十数人。この顔ぶれは幼馴染以外だ。

「ちょっと美琴ちゃんには刺激強いかな」

 藤枝がその小柄な身体を背に隠す。そのまま壁際を移動して、ギリギリ彼らを邪魔しない場所に陣取ってから、壁に掛かった木刀までの距離をそっと確認した。


 ※


 理事長が瑠璃に電話を掛けてきたのは、藤枝と別れてしばらくしてからだった。

 今日も自分のベッドでのんびりと眠れると思っていたが、それは夢と消えたらしい。

「なんだよ」

『うん、もう廃棄しようと思って』

 主語のない会話に頭痛を覚えて、念のために「何を?」と聞いた。涼やかな声が苛立ちを帯びる。

『蒼一を』

「なんで?」

『思い出したら腹が立ってきたから』

「今日?」

『思い立ったが吉日』

 簡単に通話は切れた。携帯をベッドの上に放り出して、ついでに自分も身を投げる。この十数年見上げ続けた天井に、けれどなんの感慨もわかず、数秒だけ目を閉じた瑠璃はスーツを脱いで身支度をし始めた。

 いつものジャージ。グローブ。ブレスレット。簪。シューズ。煙草。

 その部屋に、彼の私物はそれだけだった。財布やその中身は借り物でしかない。二度と戻らないその部屋に一瞥もくれず、鍵も掛けずに瑠璃は地下への階段を降りた。

 幾重にも設えられた防音扉を開けて、開けた先は昼も夜も変わらないLEDの光が遮蔽物のない広い室内を煌々と照らす。拘束されたままの幼馴染はいまだ抵抗を諦めておらず、こちらを睨みつけてどうにか逃げ出そうと藻掻いていた。

 拘束具を少し自由度の高い物に変えてやったので、今朝のような無様な様は晒していない。あぐらは掻ける。立ち上がることもできる。だが、走ることはできない。

「リュウ…」

 肩をすくめて見せる。

「もうしばらく生かしとけると思ったんだけどな。残念ながらサヨナラだ」

 監視にいた二人に「全員集めとけ」と指示を出した瑠璃は、蒼一の間合いの外に椅子を出して、座り込んだ。ブレスレットを外して編み込みを解き、編み方を変えて器用に組んでいく。出来上がった長さは一メートルほどだ。

 編み終えたところで入り口の扉が開いて、理事長が到着した。座ったまま瑠璃が顔だけそちらに向けた。

「弱い者いじめは趣味じゃねぇんだ。外してもいいか?」

「仕方がないね。でも、あんまり時間を掛けないでよ」

「了解、女王陛下」

 視線と顎だけで瑠璃が指示を出し、壁際にいた二人が蒼一の拘束を解く。またもう一人が瑠璃にケースに入ったナイフを渡し、座っていた椅子を壁際に片付けた。

「院内の実働部隊、全部集めたの?」

「こんな機会、滅多にねぇだろ。見せれるもんは見せとかなきゃ」

 腰にナイフを収め、先ほど編んだパラコードをその上に巻いている間に、遅れて開いた扉から藤枝と美琴も入ってきた。間合いを読んだらしい距離に立って静かに成り行きを見守っている。

 立ち上がった蒼一に、「薬は切れただろ?ラストダンスだ。せいぜい踊れ」と瑠璃が嗤っていつもの構えを取った。


 ※


 なんと静謐な立ち姿だろう。

 瑠璃の挑発に蹲踞の形を取ってから立ち上がった蒼一は、正眼に構えたまま、視野を正面の瑠璃からその後ろの理事長、壁際にいる兵隊に広げ、最後に藤枝を確認して止まった。その後ろに美琴がいることは分かっているだろう。わずかにまつげが震えたような気がしたが、動揺した様子は見せず、視界は保ったまま気を整えた。

 武器などない。瑠璃を相手に勝ち目もない。なのに。凍てつくような威圧感に気が付いているのは、この広間に何人いるだろう。

 その姿だけで、この十数年の彼が知れる。()まず、(たゆ)まず、決して驕らず、決して腐らず。彼女たちを守るために鍛錬を積んできたのだと。

 だが、それは瑠璃も同じだ。

 全盛期から見ればさすがにスピードは落ちた。しかし、フェイントの掛け方にはまた磨きが掛ったようだ。受け身を取るとはいえ蒼一が簡単に転がされて、そのたびに美琴が息を飲む。「お願い、止めて」と背に縋る少女に、藤枝は困ったような声で答えた。

「ごめんね、美琴ちゃん。俺はあの二人の喧嘩に口出せないんだ」

 瑠璃が遊んでいることは、ナイフを手にしていないこと、髪を結ぶわけでなく簪だけで纏めていることで分かる。それでも起こりは読めるようで、蒼一は竹刀を捌く要領で瑠璃の拳をそらし、輪舞の様に広間を回った。

(いや、)

 輪舞より速く鋭い。決まった韻を踏んでいるようで、不規則で。不規則なようで、決して蒼一を武器に手の届く間合いに入れようとはしない。その様子を、藤枝は目に焼き付けた。蒼一の実力と瑠璃の動きを。自分にはまだ手の届かない領域を。

 絶え間のない攻防に、わずかずつだが二人の息が上がっていく。汗が流れていく。藤枝は、まだか、まだ終わらないかと思いながら、心のどこかでそれをずっと見ていたいと思った。

 拮抗した攻防。

 口角を上げて楽しそうな瑠璃と、絶えず動きながら決して攻撃に転じない蒼一の、美しさすら感じられるそれを、見ていたいと思った。

 壁際にそろった面々も、きっと同じ思いなのだろう。険しく蒼一を見ていた視線が変わっていくのを感じる。武道を少しでも嗜む者なら、この二人がどれだけ研鑽を積んできたのか、分かるはずだ。

(まだ、もう少し)

 だが、いずれ終わりは来るし、その終わりを告げるのは決して蒼一ではないのだ。武器を持つならいざ知らず、徒手空拳は瑠璃に分がある。

 瑠璃の雰囲気が変わったのが分かって、藤枝は美琴を抑える腕に力を込めた。

「お父さん!」

 パラコードをいつ外したのか、藤枝は気付かなかった。フェイントでバランスを崩した蒼一の首にそれを巻き付けて、膝を付いた蒼一の背後に瑠璃が立った。黒いグローブを嵌めた両の手が、オリーブ色を握りしめる。

「お父さん、だってよ」

 蒼一は咄嗟にパラコードと首の間に右手を差し込んだようだ。背に膝を当てられ、首に掛かるそれを引かれて身体を起こされても何とか意識を保っている。コードを握る手に力を込めて、瑠璃はその顔を理事長に向けた。

「ほら、来いよ、女王陛下。特等席で見せてやるよ」

 背中で「いやだ、お願い」と小さく聞こえて、藤枝は仕方なく、美琴を前に出して全貌を見せた。

 父のもとに向かおうとする細い身体を、「ごめんね」と背中から抱える。

「キミのお願いはね、聞いてあげられないの。あの理事長以外はね」

 子猫の威嚇の様に息を荒くした美琴が、その腕から逃れようと爪を立てた。腕にいくつもの細く赤い傷が浮かぶが、藤枝はそれを気にも留めず、美琴の耳に唇を寄せた。

「そしてね、あの理事長は、キミの願いを叶える気はないんだ」

 抵抗する華奢な肩を抱すくめる。大丈夫だよ、と小さな頭を胸に抱いて、涙で熱の上がったそれを撫でた。せめて膝は折るまいと、腕に縋り震える身体が痛々しい。

 理事長が、歩みを進める。瑠璃と蒼一の前まで。その手が、蒼一の頬に触れる。

 蒼一が「義父さん」と苦し気に呼ぶ声が聞こえて、瑠璃が何かに気付いたように「あぁ」と声を上げた。少しだけ、縛める腕から力を抜いたのが分かる。

「そういや、気付いてねぇみてぇだから冥途の土産に教えてやったらどうだ?」

「何を?」

「テメェの正体さ。正幸の振りした誰かさん?」

 理事長が、わずかに驚いた顔をした。驚いた顔をして、それからゆっくり微笑んだ。涼やかに、優しい笑みを浮かべた男に、首を絞められたままの蒼一が呻くように声を上げる。それを見下ろしながら、理事長は、常磐基樹は、その頬を撫でた。

 冷房とは違った冷たさが背筋を走った。

「ボクはボクだよ。今まで、ずっとね」

 息を飲まなかったのは、瑠璃と、事情を知らない美琴だけだった。首を絞められた状態の蒼一や向かいの壁に並ぶ男たちでさえ、藤枝も含めて、目を瞠った。

「…基樹?」

「でも、どうして分かったの?そんなに分かりやすかった?」

 首を傾げて基樹が瑠璃に微笑み掛けた。それに瑠璃も皮肉のこもった笑みを返す。

「いや?すっかり騙されてたぜ?」

「なぁ、アオ?」と手に握ったそれを揺らす。その動作に蒼一が短く呻いた。

「後継者のこと聞いた時も優樹以外は考えられないとか抜かすし、時代錯誤なことも言ってっからまさかな、と思ったんだがな」

「ボク、何か失敗した?」

 顎に手を当てて困ったように眉を顰める男を、瑠璃が鼻で嗤う。

「あんまり細けぇ話をするからだよ。ハンドサインだってそうだし、山ん中のかくれんぼだってあんなクソ昔のこと、親父さんに教えるわけねぇだろ」

「あとな」と、蒼一の首に掛かったコードをまた揺らした。

「テメェがマジで次を作んねぇからだよ。研究室でまたおかしなもん作ってんのかとも思ったがそういう気配もねぇし、あれから人が変わったみてぇにすっかり研究室に興味なくしたからな」

 その言葉に、うっとりとした表情を彼は浮かべた。恍惚とした表情で何かに気付いたように蒼一の顎に手を添える。「そっちに使ってもよかったかな」

「アレは旭たちの計画だったし、もっときれいなモノ見つけちゃったからね」

 嬉しそうに基樹が笑って、首を傾げる。

「それで?どうするの?ボクの言うことはもう聞けない?」

「それなんだよな。オレはオレでこいつに思う所はあるし」

 いつの間にか瑠璃の顔から笑みが消えている。その眼には理事長と同じ狂気が浮かんでいて、背後から蒼一を見下ろした。

「お父さん…!」

 とうとう美琴が泣き崩れた。お願いやめてと顔を覆って、膝を折る。拘束がなくなっても美琴は動けなかった。瑠璃がその様子を流し見て、その眼差しの鋭さに藤枝は思わず美琴を庇った。

 瑠璃が改めてパラコードを握り直した。黒いグローブに包まれた手に力が籠る。蒼一の顔が苦悶に歪む。

「血は繋がってねぇのにな。テメェはホント、オレの欲しいもんを搔っ攫って行ってくれるよ」

 兄貴も母親も、女も子どもも。そんな声が小さく聞こえた。動けない美琴をその場に置いて、藤枝は壁に掛かった木刀を手に取って走った。

 あの時は見送ることしかできなかった背中を、今度こそ止めるために。


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