~如何様師はすべてを欺いた~
九月の末、世間では人事異動が発表される時期に、常磐会でも大規模なそれがあった。
百名規模のそれは関連施設にもおよび、常磐優樹の失踪以降空席となっていた施設長の席には理事長が直々に選任したという壮年の男性が就き、それを補佐する立場として、二名の青年が指名された。一人は総務課に在籍していた笹原諒。そして、システム関係の補助として、対策室から藤枝芳。
何も聞いていなかった浅葱は理事長に直談判しに行ったが、「本人の希望だよ」と言われて愕然とした。異動前の最終日、業務を終えた藤枝を捕まえる。
「どういうこと?あの日、何があったの?」
藤枝の最終日ということで珍しく対策室に全員が集まったその日、他のメンバーの目を盗んで浅葱が詰め寄った。下からの視線に、藤枝が困ったように眉根を寄せる。
「お世話になったのに、すみません」
「そんなことはいいの。怒ってる訳でもない。何があってあいつのところに行くの?」
無声音でまくし立てる浅葱に、もう一度すみません、と藤枝が答える。
その耳に、青色のピアスを見つけて、浅葱は息を飲んだ。一粒ピアスは、藤枝の短い髪では隠しきれない。そしてそれは、浅葱にも見覚えがあるものだった。
「それ、あいつの?」
藤枝は咄嗟に耳に手を当てて、即座に「違います」と否定した。だが、「けど…」と、続く言葉の歯切れが悪い。
「すみません。今はまだ言えません」
唇を引き結ぶその様子を、浅葱は見たことがあった。最近交際するようになった彼と初めて話をした時、二親を人質に取られたと言った時のあの表情だ。理事長たちは彼の何を担保にしたというのか。
無力な自分に歯噛みしながら、藤枝の二の腕を掴む。今も言われた通り道場に通う藤枝の腕は、竹刀を振るうせいか、最初に会った頃よりも筋肉がついてきた。
「何かあったら、何があっても逃げなさい。誰かを気にしちゃダメだからね」
藤枝は、目尻を赤くしながら浅葱に頭を下げた。
「ありがとうございます」
二の腕を掴む手に、藤枝が手を重ねる。
「テレワークの時間を増やされたんです。週三であの部屋に通うことになったので、会えなくなるわけじゃないです」
お願いがあります。
「これの中身、理事長には内緒で確認したいんです」
他の誰にも見せないように、藤枝は一枚のCD―Rを浅葱に渡した。浅葱も理解した風にジャケットの中にそれを隠す。
「ヤバいやつ?」
「すみません、それも分からないんです。来週、金曜日にそちらに行く予定なのでできればそれまでに」
「分かった」
そう言ったが、指定の日に彼に声を掛けることは叶わなかった。
いつもの部屋に、金山瑠璃も来訪するようになったからだ。浅葱の視線も意に介さず藤枝を「フジ」と呼び、その背後に立ってパソコンを操作する様子を見ている。何か気になった時は藤枝の耳に顔を寄せて画面を指さし、何事かを話す様子も見受けられた。同僚よりは近いその距離に、浅葱の中で苛立ちが生まれた。
業務中はもちろん、業務後は道場に共に行き、その指導を受けているという。剣道だけでなく、合気道もその練度を上げているようだ。
輪舞のような二人の攻防に見入る部員も少なくないという噂を聞いて、浅葱は一度だけその様子を見に行った。金山が息を切らせる様子はないが、それでも藤枝が一方的にやられる展開ではなくなっていた。
おおよそ二分の攻防を終えると、一連の流れをなぞりながらアドバイスをもらう。その時には他の部員も交って、意見を出す様子が見られた。藤枝の一言に、金山がわずかに笑う。その様子を見ていられなくなって、浅葱は足早にその場を立ち去った。
「理事長から乗り換えた、って説と理事長が乗り換えた、って説があるんですよ」
前回の彼らになんとなく水を向けると、一部の女性スタッフから聞いた噂話を浅葱に教えてくれた。
「付けてるピアス、前にあいつが付けてたのと同じですよね?俺が見た限りずっと付けてたのに最近はしてないから、藤枝にやったんじゃないかって」
「そのへん、さすが病院関係者だよな。考えが柔軟というか」
「まぁ、乗り換えたにしては理事長もあいつも普段通りだからあくまで噂ですけどね」
あっけらかんと、その話は終わった。
呆気なく終わりすぎて、その日、浅葱は深緋に管を巻いた。場所は彼の単身用社宅で、例のごとく金山に連絡をしたが面倒くさそうに「んー」と唸られただけだった。
杯を傾けるペースは深緋がコントロールする。
ソファは使わず、床に敷いたクッションの上に並んで座り、低いテーブルの上は少しのツマミとアルコールの瓶が数本。氷の浮いたグラスを、深緋が傾ける。
「藤枝くんにも何か考えがあってのことなんじゃないんですか?」
穏やかな深緋の言葉に「そんなの分かってるよ」と甘えた口調で言った。
「それでも親の仇だよ?なんで平気な顔をしていられるの?」
遠慮なく寄りかかる浅葱の頭を深緋が優しく撫でる。柔らかい質の髪がその手に心地いい。
「今はまだ、と言ったんでしょう?なら彼が話すのを待ちましょう。我々は…というかあなたは、あなたができることをしなければ…」
「これ以上、何もできないよ」
蒼一は常磐家の戸籍から除籍されてそこから住所を追うことはできず、蒼一が連れて行った佐倉の戸籍は事件直後から閲覧制限が掛かり、閲覧できるのは弁護士と裁判所のみ。そして今はもう実家に住民票を移されてしまって追うことはできない。古巣に逃げることもしなかった彼がその他でしっぽを出すとは思えないのだ。
研究室のネットワークシステムも然りで、作った自分ですら手が出せない。開けられないわけではないのだ。ただ、その手段を使えば中のデータが壊れる。壊れたら、そのままエンドロールが流れる。それもバッドエンドだ。
誰か一人、味方でなくていい。研究室に楔が欲しい。
深緋から贈られたシルバーの指輪が右手薬指に光る。赤く光る自身の誕生石は、首元の石と同じ色でも真逆の意味を浅葱にもたらした。
それをいじりながら彼に頭を預ける。蒼一らは逃亡生活の中で、わずかでも幸せを見つけられたのだろうか。
藤枝から預けられたCD―Rの中にあったホームビデオの映像を思い出す。
まだおむつも外れていない幼児が、公園の芝生の上をよちよちと歩いていた。手を広げて迎えるのは母親らしい女性だ。長い髪をハーフアップにして、幸せそうに幼子を抱き上げる。カメラに優しく微笑んで、『ほら、かおちゃん、パパよ』と子どもを促して、その顔を画面に収めさせた。
ふっくらとした頬が健康的に桃色に染まり、満面の笑みでカメラに向かって手を伸ばす。『お、来る?』とカメラの画像が一度大きく乱れて、次に定まった時には一人の男性が先ほどの幼子を抱き上げて映った。無骨なダイバーズウォッチを嵌めた腕をカメラに差し出して、『ごめん、外して』と。そして続く、取るに足らない、日常の風景。亡くなった、藤枝芳の両親の様子を映した媒体を彼はどこから手に入れたのだろう。
酔いが回った頭では他の何かを考えることもできなくなって、浅葱は深緋の肩に頭をこすりつけた。
「寝るんですか?」
「うん」
深緋に抱き上げられた浮遊感に身を任せて、浅葱は眠りについた。隣に潜り込んできた体温が心地いい。
(そういえばあの日から寝つきが良くなったな)
泡沫のような思考は、次の日まで覚えておけなかった。
※
もうすぐ配偶者に肩書きを変える女性の寝顔を見ながら、深緋は、優樹にも言えなかったあることを思い出していた。
最適解と信じてメスを取ったあの日。
深い眠りについた男の剃髪したその下にあった傷跡のこと。限りなく薄くなっていたところを勘案するとおそらく十年以上前のものだろう。
「…あなたは一体、誰なんですか?」
記憶の中に問い掛けても誰も答えない。
理事長として医療法人を支える“基樹”の顔を思い出して、深緋は罪悪感を奥歯で噛み締めた。
※
「ちょ、リュウさん、落ち着きましょう!」
そんな風に、藤枝になだめられながらその男がおこもり部屋に大股でやってきたのは、それから六年の年月が経った夏の始まりだった。「あのクソガキ」と物騒な言葉つきだ。
浅葱は深緋に姓を変え、二度の産休と育休を取得して、年は三十四を数えた。職場では旧姓を使っている。
「何ごと?」
浅葱が、眼鏡からコンタクトに変えた顔を飛び込んできた二人に向けた。二十代半ばを過ぎた藤枝が、困ったような顔を浅葱に返す。「あの…」と歯切れが悪い。代わりに答えたのは金山瑠璃だ。
「見つけたんだよ。蒼一を」
「ホント!?」
思わず、椅子から立ち上がる。だが、それにしてもこれだけこの男が激怒しているのも珍しいと思って、その説明を浅葱は藤枝に求めて視線を向けた。
だが、それに答えたのも金山だった。
「あのクソガキ。舐めた真似しやがって」
「だから何の話なの?」
「逃げ込んだ先、使ってる偽名。白瀬だとよ」
「それが?」
「白瀬蒼一。常磐になる前の、あいつの名前だ」
怒り冷めやらぬ様子で、金山は藤枝に何事かを言いつけてまた出ていった。嵐のようなそれを見送って、浅葱が藤枝に「お疲れ様」と声を掛けた。
「でも、どうして分かったの?」
困った顔を張り付けたまま、藤枝がパソコンを立ち上げる。セットアップを待つ間に、「それが…」と話を始めた。
「先週、うちの子たちが修学旅行に行ってきたんですよ。行先は定番だったんですけど、この辺と違って駅とかでかいじゃないですか。電車の乗継を間違えて反対のホームの電車に乗って迷ったらしいんです。そこで助けてくれたらしくて…」
「よく蒼一くんの顔知ってたね」
そこで藤枝はさらに困った顔をして、首を否定に振った。
「その子、女の子だったらしいんです。中学三年生か、高校一年生かってくらいの」
その日は六月だというのに気温は真夏日に迫ろうとしていたので、教師の迎えを待つ間近所にあったという彼女の自宅でお茶をいただいたのだという。道場を構えていて、自身も通っていると話が弾んだそうだ。
「イヤ、そこじゃないですね。すみません、俺も混乱してて」
藤枝は一度大きく深呼吸して、画面に向き合いながら話を続けた。続けながら手は止まらない。
旅行から帰ってきたその子が、業務中は髪を一つに結んでいる金山瑠璃にそれを解いてほしいと言ったのが事の発端だった。髪を下ろした男を前にして、近寄ったり離れたり、手を自分の目の前にかざして上げたり下げたりして何かの調整をしている時は、瑠璃も不思議そうな顔をしていた。
「兄ちゃんって、年の離れた妹か、子どもいない?」
声変わり直前の微かに掠れた声にそう問われて、顔色が変わった。それでも子どもを怖がらせないように感情を抑えているのが藤枝には分かった。
「どういうこと?」
「その時の女の子、リュウさんにそっくりだったらしいんです」
そこから、瑠璃は必死に自身を律しながらその子に聞いた。その女の子の名前、行った場所、その他、目にしたもの耳にしたこと。
「白瀬美琴、十六歳。ここの道場の孫娘らしいです」
そう言って見せてくれた画面には、古めかしい道場の紹介が簡単な文章で載っていた。住所は隣県だが、ここからだと峠を二つほど越えなければならない。
「この子がもし常磐蒼一が連れてったあの子だとしたら、なんでリュウさんに似てたんですか?」
「…その実験に、自分の子どもを使ったってことだろうね」
自身が子どもを持って初めて分かるその醜悪さ。吐き気を覚えて、必死にその怒りを飲み下した。唇を引き結んだ藤枝が立ちあがった。
「俺、リュウさんについて行ってきます。あの状態じゃ理事長より先に暴走しかねないので。ノートパソコン、一つ借りますね」
支給されたものは院内で使用するのが前提なのでスペックがそれほど高くない。セキュリティレベルもだ。藤枝は、自分が立ち上げたPCの使用申請を出して、そのまま持ち出した。
「滝澤くんは?」
「奥さんが出産間際で、昨日から有休取ってます。連絡はしたので落ち着いたら追い掛けてくるそうです」
話のギャップに眩暈がする。大きなため息をどう解釈したのか、藤枝が、「すみません」と浅葱に背を向けたまま言った。
「俺、この五年間あの人のそばにいて、あの人と同じものを見せてもらいました。室長は逃げろって言ってくれたけど、俺はあの人を追いたいんです」
行ってきます。そう言って藤枝は味気のないドアを出ていった。
今はまだ、と言った言葉は、今もまだ明かされないままだ。
弟のような彼に置いていかれたような心許なさに居心地の悪さを感じて、浅葱は自身の子どもたちのぬくもりが恋しくなった。




