~嘘つきは託された秘密を守り切れず~
駘蕩の時期が過ぎ去って、またその時期が訪れようとしていた。
十年以上の月日がたった。
捜査本部は解散することなくその地域の警察署内に設置されたままだったが、少年事件と知れてから捜査員のやる気は格段に落ちた。常駐する者はほとんどおらず、唯一、事務員がもたらされることのない情報を一台の電話の前で待っている。その事務員ですら、時折別な仕事をしていた。
小野寺夫妻が殺害されたのは小雨が降ったりやんだりしていた昼間でも薄暗い日で、まったくと言っていいほど情報が集まらなかった。夫妻の息子は外に遊びに行っていて巻き込まれずに済んだものの、自宅の変わり果てた様子に口が利けなくなったらしく、また小学校に上がったばかりの子どもを詰問することも憚られて、YESかNOで応えられる質問しかできなかった。
一度だけ事態が動こうとした時がある。
事件から二カ月ほど経ったある日、九州にあるホテルの名前が印字された封筒に入った手紙が、本部のある警察署に匿名で届けられた。
便箋ではなくメモ用紙に書かれた文字は癖があったが読みやすく、けれどもその内容は異質だった。
“一人葬り損ねた。スカシユリの咲く頃にまた帰ります”
その日少年が父に贈った黄色い花の名前が、その男がそこにいたことを証明した。
末筆には、金山瑠璃の署名があり、捜査本部は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。即座に小野寺家の息子は県外の遠縁に引き取られる手配がなされ、捜査員が封筒の名前のホテルと、消印が押された郵便局の周辺で捜査を開始したが、金山瑠璃らしき姿は一つも確認できなかった。
捜査資料を読み返すのも、これで何度目か。
防犯カメラに映った単車はこの周辺ではあまり見ないタイプのもので、県内でも数台しか所有者が居なかった。他数台の持ち主たちにはすぐに連絡が付き、そして小野寺家とは縁もゆかりもなかったことは間を置かず証明された。
購入者履歴にあった電話番号は、呼び出し音は鳴るものの応答する声はなく、保護者欄にあった父親に連絡が行った。
行先の心当たりを問うた捜査員に抑揚のない声で「私には分かりません」と言った彼は、一つの電話番号を伝えて、電話を切った。
掛けた電話に応答した女性は母親かと思ったが、そうではなかったらしい。父親が勤める常磐会の理事長代理だと名乗った女性は、捜査員の話を聞いて、言葉を失っていた。
「小野寺和寿さん…えぇ、知ってます。私も、あの子も」
震える声は、金山瑠璃が通っていた高校や、立ち寄りそうな店を答えた。さらに常磐家で所有している家が市内にあるという話が出て、念のための確認でそこに足を運んだが、それが本当に男につながるとは思っていなかった。
玄関に脱ぎ散らかされた、雨と血で濡れた衣類。身体を拭いたのであろうバスタオル。乱雑に開け放たれ、物色された物置。
学生証と免許証が入った財布も、部屋の隅に落ちていた。逃げる時に気付かなかったのか、高校生が持つには多めの現金は手付かずだった。
顔面を蒼白にした常磐優樹は、それでも気丈に、何が無くなっているのかを捜査員とともに確認した。
手袋やスパイク、双眼鏡などがそれで、山にでも逃げる気か?それにしては装備が心許ないなと話をする捜査員に、彼女は、彼は常時オリーブ色のブレスレットを身に着けていた、と伝えた。アウトドア用のマルチツールが一体となったそれがあれば、籠るだけならそれなりに対応できるだろうと。
ならば逃げるのは彼の庭でもある常磐会の周辺か。
だが、丘とはいえ土地は広大で、警察犬も導入はされたが雨の降った後の山中ではあまり成果はなかった。
関係各所への聞き込みで伝え聞こえてきたのは、彼の粗暴な性格だった。
少年事件のため仔細は伝えられなかったが、小中高の教師や一部の学友、以前通っていたと言う道場の師範からは、その荒々しい気性で人と対立することに躊躇がなかったという話を聞いた。
その性格を確立させたのが生みの親だということは、最初の電話でなんとなく察しがついていた。
夜分の訪問に迷惑そうな顔を隠さなかった両親は、捜査員の質問にほとんど「分からない」と「知らない」で答えた。常磐優樹、あるいはその息子たちから提供される情報のほうが量も質も圧倒的だった。
幼い頃から共に育ったという二人は、こちらの不躾な質問に苛立ち、「ありえない」と口を揃えながら、それでも真摯に答えていた。その時に話を聞いた二人のうち一人は後に四代目理事長となり、もう一人はそれに異を唱えるような事件を起こして死亡した。
理事長には今もたまに話を聞きに行く。
「またいらしたんですか?」
「ええ、お変わりないですか?」
部屋には、理事長と秘書がいた。整った顔立ちをしているのに痩せすぎているせいかどことなく神経質な印象を受ける男性の名は笹原真澄と言ったか、猫背気味に会釈して入れ違いに出ていった。
彼が退室してから、理事長が苦笑した。
「何度いらしても変わりないですよ」
「それでもこれが仕事なもので」
棚の上に生けられた季節の花、彼も名前を知っている有名な抽象画、コーヒーの香りを邪魔しないルームフレグランスに、長時間座っても疲れない応接のソファ。
そのソファに座って世間話をすることが多くなった。備付けのコーヒーを手ずから入れてくれるようになったのはいつからか。
警察署で飲むそれとは違い、香り豊かで甘さすら感じる。空調の行き届いた、広く、清潔感のある理事長室は居心地がよかった。
「今は書類で決裁することも少なくなりましたね。何かとコレで済まされてしまいます」
「理事長は難なく使える世代でしょう」
「便利は便利ですが、全部これで済まないのが歯がゆいところですね」
白いデスクトップパソコンを示しながらそんな話で笑ったのはいつだったか。繊細なコーヒーカップを壊さないように気を使いながら、他愛もない話をする理事長に相槌を打った。
初めて会った時は大学生だった青年も理事長という肩書がすっかり板についた。涼やかな微笑で感情を隠し、脚を組む余裕すら見せる。一回り以上年下なはずなのに、話をしていると一回りも二回りも年上を相手にしているような錯覚を彼に覚えさせた。
そんな理事長が、一度だけ年相応に戻ったような場面があった。
「失礼」
いつもと同じくソファで雑談をしていた、ある夏の午前中。
着信を知らせる携帯を胸元の内ポケットから取り出し、相手を確認して表情が変わった。変わった表情が、警察には一線を引いていた理事長が二十代の若者なのだと教える。
「お疲れ様。どうだった?」
涼やかな声は電話の向こうの声に何度か頷いた。電話の向こうは友人なのだろうか、砕けた口調が微笑ましい。
「帰ってきたらうちに寄ってよ。渡したいものがあるから」
僅かに通話口から向こうの声が断片的に聞こえた。低い声が、「夕方」「仕事」と理事長に言い募る。だが、目の前の彼は それに頓着せず「一日くらいいいでしょ」と通話を切った。
目線で問う彼に、苦笑が返る。
「幼馴染ですよ。今、総務課で働いてくれてるんです」
「と言うと、金山瑠璃のことも知ってる?」
「えぇ。ですが聴取はご遠慮ください」
「どうしても?」
「研究室の事件に巻き込まれて精神的に不安定な時期が続いたんです。最近ようやく日常生活が送れるようになったので…」
「瑠璃の両親の最期も見てるんです。今その名前を聞かせたくない」と頑なな理事長に「せめて名前だけでも」と食い下がった。渋い顔を返した理事長は幼馴染の情と理事長としての立場の狭間で揺れたのか、短い逡巡の後、ため息とともにその名を明かした。
「笹原…、諒です」
「笹原と言うと…」
「ええ、真澄の弟です。研究室では警備関係の職務に当たっていました」
場を辞し、車に乗り込んで、幼馴染が最期を見たという金山瑠璃の両親を思い出す。
「彼の部屋を見せていただけますか?」
そう依頼した彼にリビングで受け答えをしていた母親は、苛立ったため息を隠そうともせず立ち上がった。
リビングの反対側にあった階段を先に立って上がっていく。
上がった先の、一番奥が彼の居室だったようだ。手袋を嵌め、ふすまを開けた。
意表を突かれた、と言うのが正直な感想だ。
十畳ほどの和室に敷かれたカーペットは毛足がつぶれ、昔ながらの頑丈な木製の学習机と低いパイプベッドが置かれていた。本棚には教科書類の他にバイクや危険物取扱者などの資格取得関係の本が並ぶ。そのうちの一冊を確認したが、各ページの余白に書き込まれたメモや何度も開かれた形跡でよく読み込まれていることが分かった。
物の少ない、そしてその少ない物を整理し、大事に使っていることが伺える部屋。ベッドの上に放るようにして置かれたジャージが意外にすら思えた。
ここを出るとき、少年はもうここに戻れないことを覚悟していたのだろうか。
この後鑑識が入ることを伝えると、「勝手にどうぞ」とあしらわれた。この家を生活拠点にしているのは金山瑠璃だけで、親はほとんどを研究室で生活しているという。立ち合いが必要だと伝えると、また不愉快な顔を彼に向けた。
階下に戻った彼は、父親から引き続き話を聞いていた先輩刑事とその家を後にして、帰りの車の中でまた異様な話を聞かされた。
「金には困ってなかったらしい。毎月口座に生活費とは別に小遣いを送金していて、キャッシュカードも預けてたらしいぞ。通帳、預かってきた」
聞いて驚け。残高、五百万オーバーだ。
「ちなみに最近のでかい出金は免許取得とバイク購入らしい」
「ネグレクト、って奴ですか」
捜査本部では、所感付きで報告した。
そして数か月後、今度はその親の異質さを彼は見せつけられる。
その家を再訪した際、彼のものすべてを処分したというのだ。部屋の中身はもちろん、口座やバイクも解約・処分され、その家に少年がいた形跡はなくなっていた。
「だってもう必要ないでしょう?」とは、母親の言だ。
少年は姿を消したまま、そして少年の両親もその後の事件に巻き込まれて亡くなってから十余年が過ぎた。成人はとうに過ぎ、今年で彼は三十歳になる。睨むようにカメラを見据えていた少年は、両親の死をどこかで聞いただろうか?今、何を見ているのだろうか?
痛む目を擦ったその時、部屋の固定電話が鳴った。受け答えする事務員の女性の声が一瞬で緊迫し、見張った眼でこちらを見る。
(…動く―――…)
興奮で総毛だった彼は、『彼女』らを迎えるために立ち上がった。
※
「部長!!」
県警の剣道部に所属する中堅部員が部長のもとに駆け込んできたのは、八月も終わろうとしていた時だった。朝礼もまだの早朝で、出勤してきたその足でやってきた様子だ。
片手には古いアルバムが抱えられていて、部長のデスクに広げて見せたページには、剣道のインターハイの登り旗とともに目の前の中堅部員と他五名ほどが写されていた。紺色に白抜きされた年代は二十年近く前で、大会名は全国区。今はオールバックにひげ面でやくざも斯くや、という人相だが、その頃はまだ愛嬌というものを持っていたらしい。
「やっと見つけました。これ、見てください」
指を示したのは左端に写っている少年だ。見覚えのある精悍な顔立ちは、年を重ねて穏やかになった彼だ。
「白瀬さんじゃないか。対戦経験があったのか?」
「ありましたけど、違います。白瀬じゃない」
たれを見てください、と言われ、部長は老眼鏡を外して、目を眇めた。アルバムを近付けたり遠ざけたりして、小さく映る名前を見ようと努力する。
焦れた中堅部員が、捜査資料を確認するためのルーペを探して部長に渡した。答えを出さないのは、余計な先入観を与えないための職業体質だ。
「ツネ…常か?」
しわがれた声がそう言って、部員はようやく、「トキワです」と明かした。備え付けのメモ用紙に“常磐”と書いて見せる。
「常磐蒼一。インターハイ常連だった男です」
「ほう、だからあの腕前か」
県警本部剣道部でも中堅以上でないと相手にならないほどの腕前で、部長との対戦成績も今のところ部長が優勢ではあるがいつひっくり返されるか分からない状態だ。事情があって昇段試験を受けていないと言っていたが受ければきっと部長と肩を並べるだろう。
中堅部員がまた頭を振った。
「そこじゃないんです。記憶にありませんか?震災の直前、隣県で起きた病院の研究施設爆破事件のこと。その犯人が常磐蒼一だったんです」
その言葉に、部長の顔色が変わった。ギシリと椅子を鳴らして前傾姿勢になる。
「捜査資料を確認しないと断言できませんが、やつは事件の時に死亡したはずなんです」
「…確認する必要があるな」
「今から向かいます」
そう頷き合った部長の机に、昨日届いた郵便物が乗せられた。関係者から届けられる無愛想な色合いの封筒に交じって、淡い色の封筒がはみ出ている。その違和感に、部長がその封筒を手にした。朱で速達と書かれている。
表書きが役職ではなく、剣道部部長殿となっていた。裏を返せば白瀬茂和の差出で、中身は書類だけではない固い感触がある。形状から推測できるのは鍵だ。
念のために危険物ではないことを確認してから、封筒が開けられる。
『前略 事情が変わりまして、家を空けなければならなくなりました。父は施設に、門下生たちは近隣の道場へ移りましたが、そちら様の道場は復旧途中のようですので、道場はこのままお使いいただければと思い筆を取りました。本来であればご挨拶を差し上げるところではありますが、火急の事態でしたのでご容赦願います。草々』
鋭く跳ねる癖字が連なっていた。逃げたか?と呟く部員に、「いや」と部長が答える。
「病院側にも何か訳がありそうだぞ。遺体の取り違えなんか起こすと思うか?」
何かを考えこんだ部長は、デスクの前に立つ部員を見上げて言った。
「出張扱いにする。チームを編成して行ってこい。着く頃に事件のあらましも分かるよう、照会も掛けておいてやる」
しわがれた声に頷いて、彼は踵を返した。
集められたのは、最初に挨拶に行った面々と副部長で、妻の美春や娘の美琴がいることを考えた配慮だった。蒼一に抵抗されたとしても、副部長と自身で対応できる。
ミニバンに乗り込み、彼らは始まりの地へと出立した。
届いた封筒は鑑識に送られ、データベースに残されていた二人と一致する指紋が検出された。一人は常磐蒼一。そしてもう一人は、二十年近くその痕跡を消していた金山瑠璃。
その情報は、すぐさま小野寺家殺人事件の捜査本部に送られた。




