~Fの場合~
総務課の大魔神、という金山瑠璃の異名を藤枝が知ったのは、常磐優樹が失踪して半年ほど経った頃だった。藤枝との面会の直後だったので、おそらく理事長が何か手を下したのだろう、と、室長と話をした。
藤枝のほうに何のアクションもないのが不気味なところではあるが、何事もないままに藤枝は八月に成人を迎えて、更に一か月が経過した。
だいぶタイムラグを挟んで(何しろ顔を合わせることがほとんどない)「手合わせしたんだって?」という流れで教えてくれたのはデジタル対策室のムードメーカーだ。場所はいつもの対策室の休憩スペースで、並んでソファに座った先輩がもう一人。
「五、六年前かな?今でこそ室長とかと飲みにも行くけどあの頃はホント不愛想でさ、武道場でもウエイトトレーニング重視で誰かと手合わせしたり、稽古したりってことしない奴だったんだよな。でもあの顔と理事長のお気に入りってことで結構やっかむやつが多くてさ、なんかの拍子でちょっと痛い目に合わせようって考えたおバカさんがいたんだよ」
お茶を飲みながらもう一人が「そうそう」と合いの手を入れる。
「試合形式で稽古しようって誘ったやつらが秒殺で返り討ちに合って、それを見学してたオーディエンスが自分も、って次々名乗りを上げて、結局その当時武道場に所属してた師範含めて三十人弱かな?一人残らず相手して、一人残らず足腰立たなくさせて、ついたあだ名が総務課の大魔神」
「理事長とできてるって噂もあるよな。業務後はいつも理事長室に詰めてるって」
余計な情報に、含んだお茶でむせる。事情を知らないとそうなるのか。
「あの時は師範の一人がうちの救急に担ぎ込まれたんだっけか?」
「師範が相手だと手加減できねぇからな」
背後から聞こえた低い声に、三人そろって動きを止めた。冷や汗をかきながら振り返ると、噂の大魔神と室長が並んで立っていた。エレベーターの到着音がなかったところを見ると階段を使ってきたようだ。
室長が、「こいつ、閉所恐怖症なんだよね」とこちらの疑問をあっさり言い当てる。
「自分の意思で前にも後ろにも行けねぇもんに乗りたくねぇだけだ」
そんなことを言いながら藤枝にクリアファイルに挟まれた書類を渡す。
「施設利用申請書とスポーツ保険の同意書だ。切替の時期だから次に来る時までに書いて持ってこい」
「あ、分かりました」
用事を済ませたらしい大魔神は、そのまま己を俎上に載せていた二人の先輩の前に滑り込んだ。優雅にすら思える動きで流れるようにお茶の入った二つのマグカップを先輩たちの手から奪い取り、前のテーブルに置く。あ、っと思った時には二人とも腕の一か所を掴まれて盛大な悲鳴を上げた。
「痛い痛い痛い痛い!」
「ギブーっ」
極めたのは肩か肘か。うわぁ、と背筋に寒い物が走る。大魔神は一瞬で離したが、一瞬でもかなり効くだろう。
「誰と誰ができてるか知らんが、噂話はほどほどにするんだな」
そう言って、大魔神は階段を降りていった。腕を抑える二人の先輩はいまだに騒いでるが、だいぶ手加減したんだろうということは察しがついた。本気で極められたら声も出ないのを藤枝は知っている。
「三十人、ってことは剣道部も含めてですよね?あの人、剣道で相手したんですか?」
「俺ら見たことねぇんだよ。話で聞いただけで」
「映像あるはずだよー。見る?」
室長のその申し出をありがたく受けて、パソコンを立ち上げた室長に近付いた。映像アーカイブから武道場のフォルダを選択し、日付にあたりをつけて容量の少ないほうから内容を確認していく。
「お、これだね」
「俺たちも見たいっす」
先輩の一言で窓にブラインドが引かれた。スクリーンを出してデータをプロジェクターに飛ばす。映し出されたのは、手持ちのカメラで撮られた映像だ。
「音声は飛んでるみたいだ。今出せないや」
音声はなくても、大魔神の異常さはよく分かる映像だった。
審判を挟んで、互いに礼をする。男の構えは柔道や空手ではない。藤枝と手合わせした時と同じく利き手利き足が前で、ガードが低いのは攻撃を重視しているためか、それとも見切りに自信があるためか。
相手は柔道家らしい。体格はもちろん相手のほうが大きく、マウントを取れば決着はつくだろう。それは当時も考えたようだ。襟を狙ったような動きが何度か続き、とうとう、襟が取られた。
コンマ数秒、大魔神が早かったようだ。取られた襟ごと巻き込んで間合いに入り、小柄な身体を活かして相手を投げる。
一本に見えたが、有効の判定が取られて、開始線に戻ろうとしていた大魔神の動きが静止した。
「キレたね」
「キレましたね」
それを見ていた全員が下したジャッジは当たっていたようだ。
素人が見てもきれいな一本で一人目を審判ごと落として見せた大魔神は、二人目、三人目をも流れるような動きで制した。反撃させる隙は与えず、けれど怪我をさせないだけの加減はしているようだ。
おそらくちょっかいを掛けたのはこの四人だったのだろう。一瞥をくれたあと踵を返した男に別の誰かが声を掛けた。何事か話し合い、珍しく押し切られたようだ。開始線に立った相手に手招きされて、しばらくの逡巡のあと、渋々対峙する。審判をかってでたのはまた別の男性で、開始の礼でお互い構える。ようやく試合らしい試合が始まって、続きは安心して見れた。
体格の及ばない相手を、大魔神は圧倒していることを感じさせずに圧倒していた。
「これ、何人目?」
「分かんね」
二倍速で見始めて先輩二人がちょっと飽き始めた頃、ようやく剣道家が現れた。また何かやり取りを交わして、大魔神が“いらない”というように手と頭を振る。
今度は先に開始線に立ち、指で剣道家を呼んだ。そのやり取りで大魔神が誰を思い出しているのかを知る。
あの時のやり直しをしようとしているのか。
引き気味だった剣道家の姿勢が、一瞬で前に傾いだ。今までのやり取りが嘘のように開始線に向かい、蹲踞して、そのまま固まった。データの容量がそこまでだったようだ。
「ちょっと、待って、ね、っと」
室長がパソコンをいじり、駆動音が少し大きくなって、次の映像が出た。
ガサガサと、今度は雑音が混じる。周囲の声を拾った映像は、当時の緊迫感を見ている者に教えた。
大きく手振れした映像がようやく定まり、先ほどと同じくガードの下げた構えをした男が牽制を織り交ぜながら動いてこちらを向いた。画像は粗いが、防具のないおかげでその人が大魔神なことはしっかり分かる。
『止めたほうがいいんじゃ…』
『防具なしかよ』
『誰か師範呼んで』
ざわつく周囲が、剣道家の気合の声で、静まった。カメラマンの息を飲む音がはっきりと聞こえて、揺れた画面の中で、男が竹刀をいなし、一瞬で剣道家の喉を突いたのが何とか見て取れた。
突かれた男は竹刀を取り落とし、喉を抑えながらひどくせき込んで、あの時の藤枝と同じように膝から崩れ落ちた。
(あ、)
仁王立ちしたその姿が過去の映像でも、藤枝の、首の後ろが総毛立った。おかしなスイッチが、入った。
『次』
低い声は、間違いなく先ほどの男のものだ。目が離せないまま映像はコマを進め、いつの間にか相対する人数は二人、三人と増えていた。
それでも男は、圧倒するのだ。
この画像では見て取れないが、己の持つ総てで間合いの中をコントロールしているのだろう。たとえ相手が何人でも。
おそらくその場にいた全員が立ち上がれなくなった頃、ようやく柔道部の師範が駆け付けたようだ。現状を、唯一立っている男を見て理解した彼は、ジャケットと靴下を脱いで構えを取った。
構えた相手を認識して、反射的に大魔神も構える。一転、画面は静止画のようになった。じわじわとサークル状に動く二人が、映像が動画だと教える。
踏み込んだのは、今度は大魔神だった。
遠慮なく急所を突く拳をあえて受けて、師範が寝技に持ち込む。腕を取られて体勢を崩した大魔神は、倒されてから師範の頸部に足を絡ませた。自身の腕が、無理な方向にねじれようとお構いなしだ。どちらも力を加え続けて、団子みたいになっている。お互いの顔に血が上って、真っ赤になっていく。
『マジかッ』
『止めろ!』
『引っぺがせ!』
息を飲んで見ていた会場の、回復し始めていたらしい何人かが二人を引きはがす。
映像はそこで止まった。
止まってようやく、呼吸を忘れていたことに気付く。呼吸を取り戻しながら、初めて手合わせをしたあの日、男を制圧しなくてよかったと今更ながら胸をなでおろした。師範ですらアレだ。藤枝など簡単に落とされていただろう。
「すげぇな大魔神」
「なぁ」
先輩二人ののんきな感想を聞きながら、藤枝は目を細めて男の対戦相手に自分を重ねた。思い出すのはおかしなスイッチが入る前の大魔神だ。
男の先制攻撃は割合的にかなり少なかった。自分から手を出せば試合が成り立たないということを…それほどの実力差を男は理解しているようだった。
「藤枝くんから見て、どうだった?」
「…なんでもそうですけど、こういうのって武器を持ってるほうが有利なんですよね」
「だから剣道部相手にこんな事やらかす大魔神すげぇって話だろ?」
「それもありますけど、その前です。柔道部の、実力のムラがある相手に合わせて手加減できる人なんですよ。その証拠に、柔道部は誰一人怪我してませんよね」
言葉にしてようやく、最初から彼に覚えていた違和感を捉えた。いつの間にか薄れていたあの時の声が耳に蘇る。
『巻き込まれなくてよかったね』
吐き気に似た興奮を飲み下し、その日の業務を必死に終わらせた。帰っていく先輩たちを見送ってそのまま室長のおこもり部屋に駆け込む。
「室長!あの時の、研究室のカメラ映像見せてください!」
驚く室長を尻目に、自分でパソコンを立ち上げる。セットアップの時間がもどかしい。
「待って待って、藤枝くんの権限じゃまだ見れないから承認入れてあげる」
慌てて横から室長がキーボードの操作権を奪い取って自身のIDとパスワードを入れる。
「今ならオリジナルも見せてあげれるけど」
「そっちでお願いします」
パソコンのモニターに映してもらった映像を、食い入るように見た。
追いすがり、振り払い、また、切り替わる。ぶつかり、倒れ、そしてやがて、火と風がすべてを飲み込んだ、その鮮明な映像。
竹刀をふるう常磐蒼一は、かなり腕が立つ。実戦向きではないといわれる竹刀で意識を奪っているのだから、木刀を選べば命までも奪ってしまうことを理解していたのだろう。前職は警察官で、人を傷つけるのは彼の本意ではなかったはずだ。逃走を続けながら、ようやく金山瑠璃と対峙する。
交わされる言葉。そして始まる、拮抗した闘争。
これは、どっちだ?
常磐蒼一が手加減しているのか、それとも金山瑠璃がまだその力を持っていないのか。
均衡の崩れない戦いに凶器を取った一人の研究員。
踏み込んだ金山瑠璃をその研究員のほうに振り払い、体勢を崩した小柄な身体はそのまま研究員とともに倒れこんで、実験机の陰に隠れて見えなくなった。
その場面を、リピートする。何度も、何度も。
気のすむまで見て、意識を切り替えて男たちの視線をトレースする。
竹刀の構え、相対する金山瑠璃の構え。常磐蒼一と俺との身長差はほとんどない。蒼一の視界の広さはどこまでだ?踏み込んできたあの小柄な身体を、払うのは右か左か。得意なのはどちらだ。初めから終わりまでの動きを一通りなぞる。
リセットして、視界を反転させる。金山瑠璃の構えを取って、身長差のある蒼一を見上げる。相手は幼馴染で、きっと彼の癖なども理解しているだろう。打ち込まれる竹刀のスピード、角度。踏み込みの強さに、得意な技。性格。
竹刀を払いながら間合いに入るのはかなりの度胸がいる。痛みに耐性があり、なおかつその衝撃をある程度受け流せなければ骨が折れるだけでは済まない。それとも蒼一は本気で打ってこないと思っているのか。
視野狭窄に陥っているのはどちらだ?
第三者に気付いたのは、どちらが先だ?
「…室長も、これ見たんですよね?」
「見たよ。あたしじゃ映像以上のことは分からないけど、何か見つけた?」
「たぶん」
どうしたい?と聞かれて、藤枝は、彼に会いたい、と言った。
会って、話をしたい。
彼は、どんな顔をしていた?
会いたい、という藤枝の希望を聞いた浅葱は「OK」と笑ってそのまま電話を掛け始めた。
「あんた今日誕生日でしょ?お祝いしてあげるからご飯行こうよ」
思いもしない個人情報にぎょっとする藤枝をよそに、浅葱は話を続けていく。「情報室長舐めないでよ」と言ってることから察するに、本人から聞いた話ではないようだ。二言三言話して、電話を切る。
「週末ならOKだって」
「どうでもいいですけど、今の話の流れだとお二人で行くことになってません?」
「大丈夫大丈夫。連れは必ず連れて来いって最初に言われてるから」
あっけらかんと言い放つが、この人は最初のそれで何かやらかしたんだろうなと察して、藤枝は口を噤んだ。
月曜と火曜に祝日が続いていたので、三日ほど出勤すればもう週末だった。
夕方も遅い時間、買い物を済ませて寮に帰ってきた藤枝は、買ってきたそれに急いで袖を通した。今まで着ていた私服とは少し趣が違っているので探すのに手間取ってしまった。気恥ずかしさがくすぐったいが、試着の際の店員の反応からすると似合っていないわけではないだろう。
収納の中の古びたアクセサリーケースを取り出して、二つ並んだ指輪の一つをお守り代わりに嵌める。母の指輪はもう小指でも入らない。父の指輪は、右手の薬指にちょうどだ。少しすすけた形跡はあの時の名残だ。
寮の管理人室で外泊届を記入する。『万が一』があれば帰寮できないかもしれないのに不思議なくらい落ち着いていた。
「デートか?」
室内から声を掛けてきたのは寮長だ。苦笑して「違いますよ」と答える。
「上司の夕飯の付き合いです」
「色気ねぇなぁ」
書類を確認してもらいながら「セクハラですからね、それ」と突っ込みを入れた。
「厳しいね、どうも」
笑いながら答えた寮長は、書類をファイルに挟み込みながら「行ってらっしゃい」と藤枝を見送った。
ヒグラシが鳴く物悲しい音を聞きながら、寮長の言葉を反芻する。
昨年浅葱に話を聞いてから、デートはおろか友人からも距離を置いた。元から浅い付き合いしかしていなかったせいもあってこの一年は誰からも連絡は来ていない。
寮生が笑い合う声を羨ましく思ったこともある。女性の柔肌が恋しくなった夜もある。けれど。
あの理事長が相手では無意味かもしれないが、何かあってからでは後悔しきれないと耐えた。
残暑は厳しいが、湿気が治まった分過ごしやすくなった空気の中、寮の前の階段を降りて土止めされた一本道を下る。待ち合わせ場所は武道場前の駐車場だ。彼が車を出してくれるということだったが、名目上の今日の主役は彼ではないのだろうか?
聞いたら「だってあいつ飲めないもん」と返ってきた。
室長はもう行ったかな?と管理棟を自動ドア越しに覗いたが、人の気配はなかった。
そのまま先に進む。広葉樹の木陰を歩いて、見えてきた駐車場には青いスポーツセダンが歩道側で静かにアイドリングしていた。メーカーのエンブレムは星だ。
その近くの、武道場前の歩道に備え付けられたベンチに所有者らしい女性が座っている。文庫本を広げて、あちらも待ち合わせらしい様子だ。こちらの気配を感じたのか、黒髪をふわりと揺らしてその人が顔を上げる。
慌てて視線を外して、外そうとした視界の端に黒色の何かが見えた気がして、その人を凝視した。
黒色に見えたのは耳に嵌めた青い色の一粒ピアスだ。
柔らかくウェーブを掛けた髪は肩甲骨を覆うほど長く、半分を後頭部で団子にして纏めている。身体の線を隠すようなブラウンのパーカーワンピースの下はスポーツ用のレギンスか。足元はスニーカーだ。眼鏡を掛けた顔にうっすら化粧もしていて、いつもの室長より絶対女子力は高いだろう。喉仏を隠すためか首にはネックカバーをつけている。
「気付いたか?」
薄い唇がにやりと笑い、いつもの低い声が出る。眼鏡の奥の切れ長だった一重は何をどうしたのか二重になっていて、女性のように見える、ではなく、女性にしか見えない彼に言葉が出ない。
「驚きすぎだ」
喉の奥で小さく笑った彼が、顎で車を示す。
「浅葱がまだだ、座ってろ。暑いなら乗っててもいいが」
「あ、や、平気です」
「ん」
足を軽く組んでベンチに寄りかかりながら、また本に目を戻す。何を読んでいるのかと思ったら、あまり本を読まない藤枝でも知っている、読んでいると気が狂いそうになるアンチミステリーだ。高校の頃、現国の教師がちらりと内容を紹介していた。
そのまま立っているのも隣に座るのも不自然な気がして、迷った挙句少し離れた武道場に上がる階段に腰を下ろした。
位置的に向こうからは見えないはずなので、そっと彼を盗み見る。
長い髪はかんざしで纏められているようだ。染めたことのなさそうな黒髪が、シャープな頬と鍛えられて太くなった首筋から視線を紛れさせる。
なるほど。彼を彼だと知らなければ見抜くことは困難だろう。
かろうじて、本のページをめくる指が男と分かるくらいだ。
「…そんな本読んで、滅入りませんか?」
「理事長の趣味だよ。適度に狂いたい時にはちょうどいいんだ」
彼は本を読む顔を上げてそう言った。足音が聞こえてきたからだ。
「お待たせ~」
お待たせと言いつつのんびり歩いてきたのは浅葱だった。彼の服装に何の突っ込みも入れないところを見るとこれがデフォルトなのだろう。
「藤枝くん先に来てたかー。これ見た時のリアクション見たかったなー」
「ならもっと早く来るんだな」
本を閉じ、前に抱えたボディバックに仕舞い込んだ男は、無骨な腕時計を確認しながら立ち上がって運転席に回った。浅葱は自分で後部座席を開けて乗り込んでいく。浅葱に手招きされたので、藤枝も後部座席だ。
眼鏡をサングラスに変えて、黒いドライビンググローブを嵌めた彼は、重いアイドリングの音を一度唸らせ、流れるようにギアチェンジをして車を発進させた。
車内に流れるのは、意外なことに小さくピアノクラシックだ。
そのタイミングで浅葱が藤枝を振り返る。
「今日の服、いつもと雰囲気違うけど、どうしたの?」
「ちょっと、気分転換です」
「意外だけど似合うね。ミリタリー系?って言うの?」
「俺も詳しくは分かりません。昔ちょっと山遊びにはまってた時期があったの思い出して」
モスグリーンの半そでTシャツとサンドベージュのカーゴパンツは今日の午前中に誂えたもので今日はそれにウエストポーチを身につけている。持ち物は携帯電話と財布だけなのでいらないくらいだが、このメッセージを彼は読み取っただろうか。
十五分ほど走らせて、彼は市役所近くの飲み屋街に車を乗り入れた。サングラスを眼鏡に戻してグローブとともにしまい込んだ彼が先頭に立って向かったのは、趣味のいい、モダンな居酒屋だった。薄暗い店内でBGMが低く小さく流れている。
人数を、普通のスリーピースでなく、親指を含めた三本の指で示した彼に顔なじみらしい店員が「個室空けてますよ」と案内した。
「三十路の大台おめでとう」
照明を絞り、暗い色味で纏められた室内。黒いテーブルの向かいに彼、こちらの通路側に浅葱、壁側に藤枝が座り、注文がそろってから浅葱が杯を相手のグラスに当てる。浅葱のビールより濃い色のグラスの中身は烏龍茶だ。口に含んだストローに薄く口紅までついたのを見て、眩暈がする。
「テメェが飲む口実だろうが。顔色悪りぃのに」
「ちゃんと寝てんのか?」と、見た目は完全女性な相手から完全男性の声が出てくるという脳みそがバグりそうなそのギャップを、藤枝もビールで何とか飲み込んだ。
車を降りた際、早い時間の酔客に「いい車乗ってんなねぇちゃん」と声を掛けられ、手を挙げて応えていたのは余談だ。「兄ちゃん両手に花か」というヤジも。
彼の目的は食べることのようで、注文したのはハイカロリーな物ばかりだ。意外にきれいな箸遣いで、大皿から取り分けたそれらを口に運ぶ。
「相変わらず胃もたれしそうなものばっかりだねぇ」
「藤枝くんも食べてね」と浅葱に勧められたので、藤枝も箸を伸ばした。
いつものペースで浅葱が杯を重ねる。だが、酔いがいつもより早いようだ。ハイボールに移行して直ぐに、テーブルに肘をついて管を巻き始めた。
「あんたも飲みなさいよ~」
「他の人間にアレは転がせねぇよ」
アレ、というのは彼の愛車だろう。中古市場で人気のある車で、個体によってかなり癖があるらしい。運転の交代を申し出れなかったのもそれが理由で、AT車に慣れた自分では駐車場からも出れない自信があった。
さりげなく彼が皿を整理し、浅葱の前にスペースを作った。一通り食事を終えて満足したのか、彼が背もたれに寄りかかり、店員を呼んで次のドリンクを頼む。声は出さずにメニュー表で示したのは変わらず烏龍茶だ。
浅葱が「トイレ~」と個室を出ていったタイミングで眼鏡の奥の視線がこちらに向いた。
「そっちも終わり?」
「あ、はい。いっぱいです」
「ん」
そう言って彼が財布から取り出したのは新しい薬包紙だ。正方形のそれを楽しそうに折り始めたのを見て、その珍しい様子に目を瞠る。
テーブルに備付けの塩を、折り目をつけて再度広げた白い紙に少しだけ落とし、せっかくきれいに折ったそれを片手で握りつぶしてテーブルの上に放った。
「何してるんですか?」
「ん?ちょっと悪戯」
「お前、プラセボって知ってる?」との問い掛けに、「偽薬のことですか?」と返す。
医療法人に勤めて一年半も経てば、部署が違うとは言えある程度の知識はついてくる。「正解」と男が舌を出して唇を舐めた。
「面白いもん見せてやるから、黙ってろよ」
ポケットからシガレットケースを取り出して、電子煙草ではないそれに火をつける。「お待たせしました」と、烏龍茶を届けに来た店員と入れ違いで、浅葱が帰って来た。
「ただいま~」
浅葱が「おじさんが面白いんだ~」と笑いながら藤枝の隣に勢いよく座った。バランスが取れなかったのか藤枝に体重が掛かってきたので慌てて支えた。
「大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ~」
そう言いながら手が自分のグラスに伸びる。だが、トイレに立つ前に飲み切っていて空だったようだ。向かいの彼が、「ほら、もうアルコールはやめとけ」と先ほど届いたグラスを煙草を持ったほうの手で寄越した。
「まだ手ぇ付けてねぇから」
「え~」
「そのほうがいいですよ」
渋々と浅葱がそのグラスを手に取って、ストローに口をつけた。喉が渇いていたのか、半分ほどまで一気に飲み切る。それを見届けた彼が喉の奥で小さく笑った。
煙草の煙をこちらに向けないように、ゆっくり、大きく吐き出す。目を細めてロックオンしているのは浅葱だ。愉快そうに目も唇も歪み、煙草を持った手で嗤った口元を隠す。
だが、隠した薄い唇から、白い歯がわずかに見えた。
「何よ」と、眉間に皺を寄せて浅葱が不機嫌を示す。
「…気付かねぇ?」
先ほどテーブルの上に放った薬包紙を、煙草を持ったまま小指で弾いた。白い小さな粒が黒いテーブルに鮮やかに散る。
それを見た浅葱が、酔いなど醒めた表情で男の顔を凝視した。
「あんた、まさか?」
男がまた唇の端を歪めて、灰皿に灰を落とす。
中身が半分ほど残っている自身のグラスを目線まで持ち上げて、一度、二度、回す。氷がグラスの中で回る。
「何入れたの…?」
「もう、目ぇ開けてらんないだろ?」
女性にしか見えない彼が、艶やかに嗤った。
口元に運ばれた煙草が、じりじりと赤く熱の存在を主張する。赤の後の白がトンッ、と、灰皿に落とされる。吐息とともにゆっくりと吐き出された紫煙が波のように視界を惑わす。
ソフトドリンクの中の氷が解けて、カランッと涼やかな音を鳴らした。
浅葱を獲物と定めた男の表情は女郎蜘蛛のようで、一連の動きに見とれているうちに隣にいた浅葱の上体が揺れた。眩暈を起こした様子の浅葱がテーブルに肘をつき、必死に何かから逃れようと頭を振った。
「無駄だよ」
向かいで、グラスを掲げた彼が身を乗り出して浅葱のグラスにそれを当てた。
「おやすみ、アリス。いい夢を」
とりわけ低く囁かれたそれに押し倒されるように、何かに必死に抗っていた浅葱がテーブルに突っ伏した。体勢が悪く、テーブルからずり落ちそうになるのを、藤枝が慌てて支える。何が起こったのか分からないまま浅葱の顔を覗き込むと、眉間に皺を寄せながら意識を失ったようだ。
浅い呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。強張っていた筋肉が弛緩して、藤枝に体温の上がった身体を預けてきた。
「…何したんですか」
「ん?おねんねのお手伝い」
半分ほど残った煙草をまた咥えて「さて問題です」とこちらにその火を見せつけた。
「車の中で流れていた曲と使われていた芳香剤は何だったでしょう?」
突然の問い掛けに、視線がテーブルの上を彷徨う。意外だった覚えがある。
ピアノのクラシックと、香りは…?
「お前は知らねぇか。そいつの彼氏が使ってるのとおんなじやつだよ」
煙草の灰を、店の名前が入った灰皿に落とす。「次」
「この店は誰が指定した?ハイボールに使ったウイスキーの度数は?流れてるBGMは?」
「それは…」
答えに窮した藤枝に満足したように笑った男は、最後に大きく煙を吸い込んで煙草を灰皿に押し付けた。おどけるように唇をすぼめて、空中に煙を吐き出す。
「ま、お察しの通り、予約したのはオレ。使った曲は、同じくそいつの彼氏がよく聞いてる曲のヒーリングアレンジ。アルコール度数は高めの六十%指定。どっちかは眠らせなきゃなんねぇんだろうなとは思ってたからいろいろ小細工させてもらったんだが、視線誘導は要らなかったかな」
そう言って、彼は店員を呼んで会計を頼んだ。渡したのは彼が財布から取り出したクレジットカードだ。藤枝が支払いを申し出たが、「それ、どうにかできたらな」と、身動きができない状態を笑われた。店員が持ってきた紙片に慣れた手つきでサインを書く。ちらりと見えたそれは偽名のほうだ。
「さて、行くか」
立ち上がって浅葱を担ごうとした彼のそれを今度こそ辞退する。今の彼に担がせたら周りに何を言われるか分からない。
いろいろ注目されながら車まで戻り、後部座席に浅葱を転がす。自然、藤枝は助手席だ。藤枝がシートベルトを締めたのを確認して彼は車を出した。
せわしないギアチェンジが少し落ち着いて、車内に沈黙が落ちる。
落ちた沈黙が居心地悪く、藤枝は余計なことを聞いてしまった。
「もし、俺を眠らせることになってたらどうしてたんですか?」
「ん?目的にもよるがあそこじゃやんねぇな。担ぎだすのが手間だ」
車に乗ってから効くように薬盛るか、乗せてから絞め落とすかだな。とあっさり言われて、背中に悪寒が走る。
「室長に薬は使ってないですよね?」
「使う必要ないほど寝不足だったみたいだからな。実際ちょっと“飲まされたかも”って誘導しただけで寝ただろ?」
まぁ、浅葱がオレを警戒してなきゃ使えない手だがな。付け加えられた一言は挑発的とも自虐的とも取れた。煌びやかなのに暗いネオンが彼の表情を忙しなく照らすので、どちらだったのかはわからない。
管理棟前の駐車場に車を乗り入れて、藤枝が浅葱を車から降ろすのに手間取っていたら、彼が「代われ」とあっさり背負いあげて車から出てきた。藤枝は鍵を開ける役目だ。
初めて入った居室のほうに浅葱を転がし、地上に戻ってから、彼が携帯を取り出して電話を掛け始めた。
「こんばんは、深緋センセ。あなたの彼女、酔いつぶれて帰ってきたので、後はお願いします」
電話の向こう側で何か話している相手を無視して、通話を切る。電話をポケットに戻した彼は助手席のドアを薄く開けて、開けたまま運転席に回り込んだ。こちらを振り返らないまま車に乗り込み、エンジンがかかる。
おそらく、少しでも躊躇すれば彼は彼をそこに置いたまま帰っていったことだろう。そしてもう二度と、こちらにその顔を見せることもなく。
覚悟はできている。助手席に収まって、どちらも無言のまま、やはり藤枝がシートベルトを締めたのを確認してから彼は車を出した。




