~Aの場合~
酒を飲めない彼にとって、それは実験のようだった。
グラスの選択、氷の有無、アルコールと加水の割合、攪拌の回数。材料が決まっている分作業は単純で、けれどたった半オンス分の量が違っただけで従兄の反応が変わってくるのが面白かった。それを観察できるのならたかが数十種、銘柄毎のそれらを覚えることは何の苦でもない。
透明なグラスが冷やされて白く濁る。その中に琥珀色を満たし、コースターの上に乗せて三代目理事長の前に滑らせた。
雨の匂いに負けない薫香に、彼が目を細める。
「だいぶ素直に育ってくれたんじゃない?」
幾杯目かの水割りを傾けながら、他の誰にも分らないほどわずかに口角を上げた彼はすこぶる機嫌がいい。その要因は昼間、濡れ鼠になりながら理事長室で頭を深く下げた愚息だ。
愚息を濡らした雨は未だ常磐家の娯楽室の窓を叩いている。
狭くない室内はダークトーンでコーディネートされ、病院の関係者を招いた時にもてなすための様々が置いてあった。
重厚感のある低いテーブルとソファのセットはテーブルゲームをするためのもの。そのためのチェスボードやカードのセットはシェルフに収められていて、奥にはダーツボードが掛けられ、アップライトピアノも置いてあった。
丑三つ時を過ぎた時間帯。常磐家の家族は眠りにつき、気兼ねなく内密の話ができる。昔はカードゲームや将棋に興じながら、今は旭が酒を供しながら。
室内のほぼ半分に設えられたバースペースは、彼の好みのウイスキーで埋まっていた。
「…本当にアレを使うつもりですか?」
頭で考えるより先に身体が動く質で、何事にも拙速で短慮な子どもだ。細心の注意を必要とする“計画”に組み込むのは得策ではないのだが、それまで常磐にも金山にもなかった才があると知れてから彼は事あるごとにアレを気に掛けてきた。“計画”の対象者に旭の名が書き加えられなかった理由もそれだ。
「あの強情さは金山の血だろ?言質も取ったし、もうあの子は“基樹”を裏切らない」
“違うかい?”と年齢を重ねた涼やかな目に見上げられて、旭は仕方なく、従兄に同意した。
従兄とは言え母が久幸の異母妹だったせいでもう少し血は遠く、祖母の代から金山は常磐本分家に冷遇されてきた。
正幸は庇ってくれたが冷遇する筆頭が久幸だったせいで幼少期の記憶は暗澹たるものだった。
その久幸が他界したのは正幸が大学に在籍していた二十歳の頃。湿気の多い夏で、蝉がひどく五月蠅かった。夏休みで帰省していたのか、亡くなったから帰ってきたのかは知らない。手伝いに行った葬儀の場で会った正幸はストレスからか頭髪が抜け、医療用のウィッグを使用していたのを覚えている。
「ボクは、死にたくない」
常磐の分家も、常磐に仕えてきた家も職業選択の自由を理由に離れ、あるいは途絶えていく中で、憔悴しきっていた正幸を支えようと笹原と誓い合ったのもその時だ。
それから旭は彼の言葉を違わず実行してきた。常磐の血を繋ぐ腹が欲しいと言われれば子を儲けたし、女児でないその子を常磐で育てたいと言われたときも否はなかった。
「…計画は、続行ですか?」
「うん。中止する理由はないでしょ?」
“基樹”はあの時の正幸の年齢になる。正幸にはまだ病の兆候はないが、基樹のこの歳にと計画を進めたのは少しナーバスになっているからかもしれない。今回のトラブルがゴーサインを出した決定打だろう。
実験台とはいえ順調に育ったと言っていい。交際している相手もいるようだし、正幸は反対するだろうが末の娘もいざとなれば腹として使える。スペアは一つではない。
「もう一杯ちょうだい。最後にするから」
すでにアルコールのキャパシティは超えている、と小言を言われるのを見越した従兄の言葉に、旭は隠す気もなくため息を吐いた。金山が常磐に、旭が正幸に逆らえないことなど十分わかっているだろうに。
手にしたボトルは最後の一杯分を残していただけで空になり、グラスを彼の前に置いた旭は、棚に置いていた煙草の箱から一本出して、咥えた。
液体の中で溶けた氷がグラスに当たる澄んだ音が室内に小さく響く。
それだけで、彼の視線が手元に注がれていることが分かった。ジ、と微かに火が大きくなり、紫煙が立ち上る。空いたボトルに煙を吹き込み、それが逃げないように親指で押さえた。
それを、透明なボトルが白く満ちるまで何度も繰り返す。
このためだけに覚えた煙草。幼い頃、これを見ていた正幸の目が硝子玉のようにきれいで、親元を離れたのを機にバーでアルバイトを始め、何度も練習を重ねた。
正幸の視線を独占できる時間。
充分に満ちたところで残った煙草を惜しまず灰皿に片付ける。アルコールと煙をなじませるように瓶を回しながら、もともと薄暗かった部屋の照明をぎりぎりまで落として煙が逃げないうちにマッチを擦って火をつけた。
一秒にも満たないわずかな時間。青白い炎が瓶の内側を舐めるように這い、可燃物を消費しきって消えた。
「儚いよね」
涼やかな声は楽しんでいるのか悲しんでいるのか。灯の暗さに目が慣れていないせいで正幸の表情はいつも判然としない。細いシルエットがグラスを傾けて、時間がゆっくりと過ぎて行く。
“正幸”と過ごすこの時間ももうすぐ終わる。姿が変わったらここに来ることもなくなるだろう。
寂寥を寂寥と知らぬまま、旭は正幸が空にしたグラスを片付けた。
※
五月蠅いコバエは始末した。
囀られて困る小鳥は籠に入れて枷を嵌めた。
計画は順調にフェーズを進めていたというのに、どうやらスパイは身内にいたらしい。
正幸にも優樹にも似ていない小生意気な顔を思い浮かべ、笹原史貴は内心で唾棄した。
恩を仇で返すか。
「首尾は?」
『抜かりない』
電話口から聞こえる旭の声からは相も変わらず感情が読み取れない。昔はお兄ちゃんお兄ちゃんと後を付いてくる可愛げがあったのだが、年月の流れと言うものは斯くも残酷か。
『“基樹”は?』
「会議の前だ。今は耳に入れたくない」
“基樹”になってひと月ほど過ぎた頃、今までの記録とこれからの計画を提出するよう求められた。
息子として生活する中で記憶が混乱したらしい。
理事長ではなく“基樹”として行動するたびに調整に苦労している様子を見て、至急でないものは意図的に遅らせることにしている。
「報告はネズミを片付けた後でいいだろう」
『承知した』
そこで研究室との連絡は途絶えた。途絶えたが、心配はしていなかった。地下に籠るのが好きな人種であったし、没頭してしまえば寝食すら忘れるのが常磐の血を継ぐ人間の常だったからだ。心身を壊すほど暴走する二人を止めるのはいつも自分の役目で、アルコールで止められない分旭のほうが手間だった。
運び出された彼の遺体を見て、自身の半身が奪われたような感覚に陥った。常磐を、正幸を最後まで支えようと誓ったのに、何故。
助け出された彼の息子を見て、身体の芯が高揚する感覚を覚えた。そうか、誓いは彼に受け継がれたのか。
そして彼は、彼のためにすべてを準備した。
総てを偽るために。




