~Kの場合~
グルーミング、性的、暴力的な表現があります。
ご注意ください。
梢が、失踪する前の瑠璃と最後に会ったのは正幸の葬儀の日だった。仕事関係の弔問は辞退したが、それでも朝から母も兄たちも忙しく動き回り、泣いている梢に構っている余裕などなかった。
父が亡くなって悲しいのか、構ってもらえなくて悲しいのか分からなくなり、自身の部屋に引きこもったのは昼過ぎ。泣き疲れて眠りこみ、目を覚ましたのは夕暮れ時で、階下ではまだ弔問客がいるのか、話し声がわずかに聞こえている。
暗い自室に明かりを点け、カーテンを引く。そしてまたベッドに横になった。
忙しかった父の記憶はあまりない。朝食だけは一緒に取るように努めていたようだが、週末にどこかに出掛けたこともなければ、二人きりで会話したこともない。医者の不養生の見本のように、駆け足で逝ってしまった。
それでも涙はあふれてくる。もっと会話をすればよかった、甘えればよかったと。
枕を抱えて、夏なのに寒々しい部屋で一人涙を流していた梢の耳に、小さくノックの音が聞こえた。聞こえたのがベランダの方向からだったので気のせいかと聞き逃し掛けて、もう一度聞こえたそれに跳び起きた。
もどかしく駆け寄ってカーテンを開け、その先にいた瑠璃の顔を見てまた涙があふれた。
「入っていい?」
高校の名前が入ったジャージを着ていた瑠璃は、鍵を開けた梢に優しくそう聞いた。
声を出したらしゃくりあげそうで、何度も頷いて許可を出す。それを確認してから靴を脱いで室内に足を踏み入れた彼に、我慢が効かなくなって抱き着いた。温い身体となじんだ瑠璃の匂いに安心して、頭を撫でる手に身を任せる。
「ほら、おいで」
声変わりなどとうに終わった低い声も、いつの間にか梢の耳に慣れた。梢が泣いていると必ず気付いてくれる彼は、梢が自身の首にしがみ付いたのを確認してから抱き上げて、ベッドに腰を下ろした。
膝の上に梢を乗せて、ゆっくりと背中を叩く優しいリズムは昔から変わらない。
辛抱強く梢が泣き止むのを待ってくれるのだ。
いつの間にか扱いは子どもから女の子に変わり、その時もワンピース姿の梢に配慮して抱っこは横だった。
机の上に飾られた写真立てに収まるのは、四人で最後に撮ってもらった写真だ。春先だったのでみんな誕生日前だったが、基樹は二十歳、蒼一は十七歳、瑠璃は十六歳になる年だった。
大好きだった兄たち。その感情が兄弟に向けるものか異性に向けるものかも分からなかった頃から、自分は彼らに守られて生きていくのだと信じていた。
それがなぜ、と、梢は腹を抑えた。
“女”を教え込まれた身体はそれでも翌日には痛みを忘れ、情緒が不安定になった梢を母は受験のストレスの一種だと思ったようだ。
瑠璃に犯されたとは、言えなかった。
だから翌週、母が出張だと告げられた時、助けを求められなかった。
母の帰ってこない家に帰りたくなくて、梢はその日、友人宅に泊まらせてもらおうかと考えた。あるいは家に招こうかと。誘った友人と夕食を済ませて家に向かう途中、友人に彼氏からの連絡が入らなければどうなっていただろうか、と、梢は今でも考える。
日が暮れてから家に帰る時はタクシーを使うように母からきつく言われているため、親しくしている女性ドライバーを指名しておしゃべりしながら帰る。梢の異変は、年に数回しか会わない彼女には気付かれなかったようだ。
部屋は、あの日の翌日、お手伝いさんに頼み込んで模様替えをした。本当なら部屋も変えてもらいたかったが、そんなことを言い出したらさすがに母が不審に思うだろう。
ソファを変え、机を窓際に移して、中ほどにあったベッドは部屋の扉の脇に移動した。
暗い自室に明かりを点け、鞄を机に置き、カーテンを閉めようとして息が止まった。
鍵は間違いなく掛かっていた。だが、警備会社のアラームはどうした?在宅時用に切り替わっていたのに、何故何も疑問に思わなかった?
「遅かったな」
鏡のように室内を映すガラスに、ベッドから起き上がる男が見えた。「部屋ん中だいぶ変えたんだな」という低い声に心拍数がじわじわと上がっていく。
コトがあったのは一週間前だというのに、追い詰められた時の感覚が蘇って腹の奥が鈍く痛んだ。
「なんで、いるの」
「ん?」
ベッドから降りて梢の背後まで近寄った男が、ジャージのポケットからキーケースを取り出して眼前にかざして見せた。
鈍い光を反射する車や家の鍵の中に紛れて見覚えがあるのは本邸のそれで、黄色のテープが張られたそれは基樹が持っていたものだ。
喉の奥でヒュッとおかしな音が鳴る。
「電話、聞いてたんだろ?その時に逃げなきゃ」
瑠璃が、梢の耳に唇を寄せる様子が窓に映る。ガラス越しに猛禽類のような一重と視線が合って、咄嗟に顔を背けた。
「なぁ、この一週間、何回思い出した?オレのこと」
直接耳に吹き込まれる言葉に、必死に首を振る。
思い出してなんかいない。
背中にある男の熱にゾクリと身体が震え、いつの間にかあふれた涙が散る。嗤っていると分かる声が暗闇に逃げた梢に囁いた。
「うそつき」
背後から梢を抱いた男が、梢の代わりにカーテンを引いた。背中に当たる体躯は梢にはどうしようもないほど硬く、逃げられやしないのだと少女に伝える。息がうまく吸えなくて、震える身体を抱く腕に手を添えて、必死に懇願した。
「おねがい…、リュウちゃん。お願い」
後ろから抱かれて、顔など見えない。それでも彼が動く気配は梢の首筋に息を吹き掛け、温く濡れた舌が外耳をなぞった。
色を纏った声が囁く。
「理事長が鍵渡した時点で、お前はオレのなの」
身体を自由に這う男の手のひらはすでに梢の素肌を捕えていた。己とは違う雄の手に背筋が震えたのは絶望かその先の感覚への期待か。
「シャワー浴びるくらいは待ってやるよ」
そうして与えられた時間は十分だけ。その十分で、梢は必死に考えを巡らせた。
(最悪はなんだ?)
それからそこに至るまでの様々な選択肢を数える。
逃げる?
無理だ。遊びですら他の誰も…蒼一ですら逃げきれなかったのに、梢がそれを成せるとは思えない。
警備会社に通報する?
ダメだ。彼は助けが来る前にコトを済ませるだろう。そして、事実が明るみに出れば大学の指定校推薦は取り消されてしまう。取り消されないとしても暴かれた事実を他の誰かに知られるのは嫌だったし、あるいは家から連れ出され彼のテリトリーに監禁されてしまえばそれは最悪手だ。外との繋がりを絶えさせてはならない。
ならば、と、梢は素肌にバスローブを纏った。腰紐を解きやすいように結び、バスルームを出る。
一週間前、彼は「待って」すら聞き入れてくれなかった。けれど今日は十分の猶予があった。
一週間前、彼はスーツを最低限しか乱さなかった。けれど今日は愛用しているメーカーのジャージ姿で、それも先ほど上着を脱いでTシャツ姿になっていた。
一度手に入れた余裕なのかそれらは確かな変化で、身体が目当てなら逃げる意思がないことを明確にしておけばそれ以上を奪われることはないはずだ。
タオル地の柔らかいそれは、誕生日に友人たちが選んでくれたプレゼントで。
「梢ってこんなイメージだよね」
「そうそう。風呂上がりにシャンパンとか飲んでそう」
「や、未成年だからね?」
そんな風に笑い合ったのは冬の寒い時期。着心地がよく、この夏はこれ一枚でうろついては母に「だらしがない」と小言を言われた。
ひと月も経っていない記憶が、ひどく遠い。
涙が引いたのは覚悟を決めたからか、それとも感情が仕事をしなくなったからか。現実味がないまま自室に戻り、ベッドに座る瑠璃に手を引かれて、子どもの頃そうしていたように膝の上に座らせられた。
幼い頃は見上げていた身体。前回抱き着いた時、身長差はほとんどないことに気付いた。膝に乗ってしまえばその差は逆転するのに、梢の体重ごときでは揺らぎもしない。
素足の下にある男の熱に、下からの視線に、梢の吐息が震える。翻弄するように男の指が梢の頬を撫でて、耐え切れなくなってその首元に顔を埋めた。
あの頃と同じように、熱いほどの体温を持った手が背に回る。顔を埋めた男の首筋からはやはりあの頃と変わらない香りがして、その瞬間、梢の緊張が種類を変えた。
その手に、その匂いに覚えるのは絶対的な信頼だ。
(あぁ、そうだ)
彼が、顔を覗き込むように頬擦りした。視界に入った薄い唇に誘われて、まるでそれが当たり前だったかのように重なる。目を閉じて、何度も何度も、食んで、吸われて、しびれるほどに触れて。自分では飲まないコーヒーの香りに、甘い感情が満ちる。
(抵抗なんか、する必要ない)
離れた唇を追い掛けて薄目を開けたら、満足したように笑う瑠璃と目が合った。節だった指が梢の髪を弄ぶように耳に掛ける。くすぐったいような、じれったいような感覚に首を竦めたら、逃げるな、と言わんばかりに囚われてまた唇を塞がれた。
筋肉質な腕に抱すくめられて、けれど苦しくはない。エアコンに冷やされた肌に自分のものではない体温が心地いい。触れた場所から自分より少しだけ早い、力強い鼓動が伝わってくる。
両の腕を縋るように彼の首に回して、梢は口付けの合間に息を継いだ。
(だってあたしはずっとこの人が欲しかった)
そうして始まった関係は順調だった。
母に気付かれないようにベランダから訪れる彼を「お帰りなさい」と迎え出るところから夜は始まり「ただいま」と答える彼に口付けてその日の機嫌を確かめる。
口付けを優しく合わせてくれる日は受験勉強を優先させてくれた。反応が薄い時は彼がひどく疲れている日で、彼の寝息をBGMに梢は机に向かった。週末の夕食は一緒に準備をして共に卓を囲み、食後は瑠璃が淹れたお茶をソファで並んで飲んだ。
梢の話に相槌を打つ彼は終始穏やかで、まるで本当の恋人なのではないかと、始まりの苛烈さは幻だったのではないかと思うほど優しい時間だった。
だが、意地悪く翻弄してくる日はもちろんあって、そんな日は勉強どころか食事も風呂もそこそこにベッドに引きずり込まれた。静止を求めても許しを乞うても聞き入れてくれなくて、壊れるんじゃないかと恐怖を覚えるほどの熱を何度も与えられて、後始末をする彼の背中を見ながら眠りに就いた。
その肩甲骨から背中に掛けて、火傷の痕があった。わき腹にも切創の痕が見て取れた。もう治ってると彼は言ったが、それは醜く、彼のしなやかな筋肉を覆う皮膚に醜く居座っていた。
梢が知っている限り、失踪前にそんな傷はなかった。だから梢の知らない期間にそれを負ったのだろう。
イヤだ、と、梢はもう一度、腹を撫でた。
瑠璃は、警察と本気のかくれんぼをしていると言った。基樹は、瑠璃を犯罪者と言った。
いまだに何があったのかは知らない。だが、次に彼が姿を消したのなら、それはきっと今生の別れになるのだろう。会うことのできない川を渡っていくのだろう。
彼のベクトルが梢に向いていないことは解っている。自分の行動が間違っていることも解っている。それでも、肌を重ねることで対等に見てもらえるなら、それで彼を引き留められるなら、梢は構わなかった。
季節が一つ過ぎた頃、第一志望の大学から合格通知書が届き、梢は胸を撫で下ろした。
母はもちろん喜んでくれた。
兄もいつもの、梢にはうさん臭いとしか感じられなくなった笑みで祝う言葉をくれた。瑠璃も「よかったな」と進学後の住居の契約や引っ越しなどの手続きに手を貸してくれて、梢に期待が生まれた。
まさか、もしかして。
もしそれを清算してくれたなら。成らぬはずのこの関係が実を結ぶのではないか、と。
再会から半年ほど過ぎた。高校の卒業式が終わり、その日は蒼一の命日だった。
法要を大々的にやるわけにもいかなくて、母と共に線香だけを上げた。
母はそのまま仕事に行って、手持ち無沙汰になった梢は、主の居なくなった部屋に足を踏み入れた。微かに、懐かしい義兄の臭いが残っていた。
他には机と、ベッドと、本棚と。本棚には古い日付のバイクの専門誌が数冊。クローゼットに残っていた僅かな服は処分したらしい。
義兄の残したものは、たったそれだけ。
元から、人にも物にも執着のない義兄だった。剣道とバイクが唯一両親に言ったわがままで、それ以外は無頓着な人だったという。無頓着が故のさっぱりした性格で友人も多かったようだが、亡くなった理由が理由だったので線香をあげに来る人はいなかった。
マットレスだけのベッドに腰掛けて雑誌をめくる。これを見ていた義兄は、どんな思いで、何を考えて、事件を起こしたのか。
あの頃、義兄のそばに瑠璃がいたなら、そして今、瑠璃のそばに義兄がいたならこんなことにはならなかったかな、と、思いを馳せる。
そんなに集中していたわけでもなかったが、瑠璃が来ていたことに気付かなかった。声を掛けられて、その声が獣のような狂暴さを孕んでいて、血の気が引いた。
「お前も蒼一がいいの?」
なんの話だと顔を上げる前に担ぎ上げられていた。
「ちょっ、何!?」
「血が繋がってねぇとはいえ、生まれた時から兄貴なのに」
そう言って連れて行かれたのは自分のベッドで、荒々しく投げ出された後は間髪入れず黒い色のワンピースを無理やり乱された。
「ねぇ待って!」
「待たねえ」
苛立ったように言いながら手は止まらない。何かに追い立てられるように始まったその行為は、初めて痛みだけを梢に与えた。
「前も言ったけど、お前はオレのなの。蒼一にも基樹にも渡さねぇよ」
その言葉で、梢は、瑠璃に、何も届いていないことを知った。
「瑠璃、好き」
何度も何度もそう訴えたのに。「オレもだよ」と応えてくれたからあたしは堂々と嘘を吐けたのに。
「うそつき」
あたしなんか見てないくせに。オレのだと所有権を主張しながら、あたしなんか振り返りもしないで駆けていくくせに。
表向きは順調だった関係はそれで終わりを告げた。
言葉は尽くした。心はとうに預けて、体調が許さない時以外は男の望む通りに受け入れた。そんなあたしに、あと何を差し出せと言うの。
呟いた「もう、ヤダ」を、彼はどう捉えたのか。梢を暴く冷ややかな一重が、視界の中で滲んでいく。
「瑠璃なんか、きらい」
「知ってる」
なんで―――…。
なんで、嘘のない言葉は信じてくれないのに、偽りの言葉はそんなにも簡単に信じるの?なんであたしを信じてくれないの?あたしを信じてくれない瑠璃なんかきらい。大事にしてくれない瑠璃なんかきらい。
嫌なのに拒めなくて、深く口付けてくる彼の首に腕を回して(お願い信じて)と受け入れる。
瑠璃の、爪をきれいに切り揃えた指が頬から首に下がるのを感じて、そこで梢の意識は途切れた。
※
一本の電話が優樹のもとに入ったのは梢が大学に進学する直前で、友人たちと卒業旅行に行っている間だった。夜も遅く、優樹は就寝しようとしていた。なんとなくの嫌な予感は、聞こえた声で確信と絶望に変わる。
「もしもし?どうしたのこんな時間に?」
答える声はない。けれど確実に、電話の向こうに誰かが居る。
もう一度「梢?」と呼び掛けた優樹に、男の低い笑い声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声だったけれど、優樹は彼がそんな笑い方をしたのを聞いたことがない。
「瑠璃?」
『正解、久しぶり』
久しぶりと言いながらその声に郷愁は感じられなかった。何かを楽しむようにこちらを揶揄しているようだ。
「なんで梢の電話を…梢はどこ?」
『ん?疲れ果てて寝てるよ』
動悸が早くなっていくのを感じて、優樹はベッドに座り込んだ。強い眩暈に吐き気まで覚えて口元を抑える。
動揺を瑠璃に悟らせたくない。たとえ無駄だとしても。
『意外だと思ってさ。女親でも、子どもが無理やり女にされても気付かないんだな』
「あなた、まさか」
『もう半年かな、梢とそういう関係になって。二回目以降は合意だからいいだろ』
「そんなわけないでしょう!」
叫んだ言葉は、瑠璃には届かないのだろう。怒りで二の句を継げない優樹を瑠璃はまた嗤った。
『だったらさっさとお巡りさんのとこに連れてってやれよ』
「梢を返して」
『オレがどこかに連れてったことなんてねぇよ。大体、最初に連れ込んだのは梢だからな?』
それは、この家でそれが行われたということか。もう、聞きたくない。それでも携帯から耳を離せなくて、子どもの様に背を丸めて泣いた。嗚咽は瑠璃にも聞こえてしまっただろう。
『あんたの息子になりたかった時期もあったんだけどな』
「願い下げよ」
だろうな。そう笑って、瑠璃は唐突に通話を切った。




