~Eの場合~
常磐蒼一、金山瑠璃両名が常磐優樹に呼び出されたのは夜も遅い時間だった。金山家に明かりはなく、親は寝ているのか、仕事でいないのか、(おそらくは後者だろう)暗い。
蒸し暑い夏の夜。蒼一が金山家の前にバイクを乗りつけ、出てきた瑠璃にヘルメットを差し出す。同じ高校に通う二人だが、数か月前の事件を受けて道場を破門されてから距離は遠退いていて、交わす言葉も少ない。
「なんか聞いてる?」
「いや」
十六歳になってすぐバイクの免許を取った蒼一は、自身の免許で乗れる限界サイズのバイクを所有していた。二人乗りもできるようになったのは少し前だ。義父はあまりいい顔をしなかったが、義母が許可してくれた。
瑠璃はまだ免許の取れる年に達していない。
呼出しを受けた別邸は市を挟んで反対側にあり、その時間に集うのであれば蒼一のバイクが一番手っ取り早く、それを義母は狙ったのだろう。
「乗れ」
話なら家ですればいいのにと内心の苛立ちは隠して、瑠璃が後ろに跨ってバイクに掴まるのを確認して蒼一はアクセルを開けた。
指定された場所は、彼らが昔よく遊んだ川のそばにあった。遮光カーテンの隙間からわずかに光が漏れ、誰かが中にいるのが分かる。
蒼一がバイクを敷地内に引き込むのを待って、中に入る。
瑠璃が義母に会うのは基樹の骨折の件以来、初めてのはずで、入り渋っているのは見て取れた。
蒼一が先に入って電気のついていた奥の洋室を目指す。玄関のタイルに靴をそろえる瑠璃を視界に入れて、幼い頃から叩き込まれた何かは残っているのだ、と、ささくれ立っていた何かが少し丸くなった。
「義母さん?お待たせ」
声を掛けながら開き戸を開けて、続ける言葉を失った。追ってきた瑠璃も息を飲んだ気配が伝わる。調度品は昔のままに各種様々なモニターが並び、電子音を響かせる室内は、まさしく病室だ。何本ものコードや点滴の管がベッドに横たわる義父へつながれていた。
「義父さん?」
手術のできない場所に腫瘍が見つかったと聞いたのは春先で、基樹が帰省したタイミングだった。だが、今の義父は髪を剃り落とし、頭に包帯を巻いた姿を晒して眠っている。
枕もとの椅子には義母が座り、そっと義父の手を撫でていた。
「手術したの?」
その問い掛けに母は困ったように笑い「リビングに行きましょうか」と立ち上がった。
「もう一人お客様がいらっしゃるの。それまでお茶でも飲みましょう」
リュウちゃんお願いできる?と弱々しく言った義母に驚く。優しくはあっても弱いと思ったことはなかったのだ。瑠璃の手を借りながらリビングに移動した義母が椅子に座る。
湯を沸かし、急須と湯呑を準備するのは瑠璃だ。
コーヒーよりお茶が好きな瑠璃は高校生ながらお茶に合わせて湯の温度を変える。何も言わずとも人数分のお茶を用意して、何の躊躇いもなく蒼一の隣に腰を下ろした。
「懐かしいね、この家も」
母が湯呑に目を落とし、呟いた。
川遊びもBBQも楽しんだのは小学生の頃で、中学に入ってからはめっきり足が遠のいていた。ぽつりぽつりと話す母の昔話を、瑠璃と二人で相槌を打ちながらなんとなく聞く。
瑠璃が二杯目のお茶を注いでくれた頃、ようやく外で車の音が聞こえた。入ってきたのは見覚えのある顔で、研究室にいた彼女だ。何度か母のイベントにも参加していた。
「ママの大学の時の後輩なの」
「健太郎と正也の、お母さんですよね?」
出した名前は同じく幼馴染の名前だ。理知的と言える顔つきは今、義母と同じく疲れ切っていた。
「お待たせしてすみません、資料をそろえるのに手間取って」
リビングのテーブルに書類の束が置かれる。中には赤で極秘と判が押されたものもあった。
「お話を伺っていろいろと調べました。まずはカルテを拝見してもよろしいですか?」
彼女が座って、母が持ってきた分厚いカルテを朝倉さんに渡す。
その間瑠璃が新しいお茶を淹れてまわった。
「ひどい」と彼女が呟いたのは、カルテをだいぶ読み込んでからだった。
涙が一筋二筋と頬を伝って、堪えきれないように彼女は嗚咽を漏らして口元を覆った。何度も何度も荒い呼吸を繰り返して何とか動揺を納める。
「取り乱してすみません。分かる範囲で説明させていただきます」
お茶を含み、とりあえずの落ち着きを取り戻した彼女はゆっくりと義母、俺、瑠璃を見て覚悟を決めたようだった。
「医学研究に関する倫理指針のすべてに抵触する行為なので私もまだ信じ切れていないのですが…」
そうして話された内容に、俺と瑠璃は呆気にとられた。
瑠璃と顔を見合わせる。十年以上ともにいた兄弟が実はクローンで、親の身体に入って寝てる?そんな馬鹿な話あるか?
だが、馬鹿な話をしているはずの大人二人の表情は極めて真剣で、冗談と笑い飛ばすことはできなかった。
「そんなことできるんですか?」
「技術的に難しいはずでした。けれど、研究室の技術の進歩と医師の手技が可能にしてしまったのです。倫理は人のさじ加減で簡単に越えてしまう」
自嘲気味に笑った彼女はまたお茶に手を付けた。
「ご存じの通り、研究室が発足したのは久幸氏の時代です。その時代クローニングの技術は研究されていましたが、主に技術や安全性、生命倫理の観点から難しいものとされてきました。なので久幸氏は、それに代わる再生医療の分野に道を見出していたと私は伺っておりました。ですが…発足当時から極秘にそれは行われ、たった五年で人のクローニングに成功していたようです。当初は、おそらく学術的な研究が目的だったと思われます。ですが、基樹くんが成長するにつれ、そして再生医療、移植技術が進歩するにつれ、それが可能ではないか?と考えるに至ったのではないかと思われます」
一度言葉を切った彼女は一瞬躊躇って、極秘の判が押された書類の束をこちらによこした。一枚の用紙に二人分の顔写真と名前が並べられて、その下にまた何かのアルファベットと数値が並ぶ。そんな用紙が全部で五~六枚。そして、児童養護施設とホスピス病棟の患者の名簿が続く。
「今回の移植を遂行するにあたり、何名かが選ばれ、被検体として実行されたようです。そしてそれは常磐会の関連施設から選ばれました」
それはなんと残酷な話か。身寄りのない若い身体を集めるために。あるいは挿げ替えた後の身体を管理するために。それらの施設は準備されたというのか。
それを義父が主導したのか?常々言っている福祉理念はなんだ?子どもたちのために、地域の人のためにと拡充した病院や施設は、すべて彼がためにあったというのか。
「そして、フェーズは変わりました。理事長自ら、それが可能だということを証明し、リスクはあるものの、クローン体への移植ならばその多くは回避できることを証明しました。年月がかかりますが、秘密裏に、しかし確実に顧客を集め始めています」
「…胸糞悪りぃ」
こればかりは瑠璃に同意だ。煌々と室内を照らすシーリングライトが、義父のやらかしたことを悪趣味に暴いている。
身じろぎもできない沈黙が深夜の一室に落ちた。
「なんでこんな話、俺たちに…」
呟いた蒼一の腕を、話の途中から顔を背けていた瑠璃が掴んで止めた。節だった指が痛いほど腕に食い込む。
同じ話を聞いていても蒼一には分からない何かを瑠璃は感じたようで、瑠璃の目が、見たこともないほど鋭く女性二人を射った。怒りを必死に抑えているらしい声が低い。
「うちの親が、主導したんだな」
朝倉蓮華は、目を伏せて沈黙した。その様子は肯定を意味していて、こちらの心臓までも凍てつかせた。
時計の秒針や隅に追いやられた家電のうなりが、滑稽なほどうるさく聞こえる。こくり、となったのは俺の喉か他の誰かか。そんなことも分からないほどの緊張感は、また瑠璃に破られた。
「これ、監督省庁に報告するんだろ?」
報告したところで、基樹は助けられない。でもせめて、と持った希望は、やはり打ち砕かれる。義母が力なく、首を横に振ったのだ。
持ち出した資料では証拠能力がないのだという。そして原本はセキュリティの固いデジタルアーカイブに保存され、限られた者しかアクセスできないようになっていた。ましてこんなとんでもない話を、頭の固いお役所の誰が信用する。
「蒼一と梢は何か関係あんの?」
思考停止に陥っている自分と違い、次々疑問を口にする瑠璃は何を見ているのか。俺はまだしも、まだ幼い妹の名前を出されて息を飲む。
「調べ切れていない可能性もありますが、梢さんのお名前は最近の研究室のデータにはありませんでした。警戒するに越したことはありませんが、今すぐ状況が変わることはないと思います」
それを聞いた瑠璃の気配が、ほんのわずかに緩んだ気がした。だが、湯呑に伸ばした手が、「ただ、」と続いた言葉でその形のまま固まった。
「蒼一くんのカルテが残されていました」
俺の?診察を受けたのは事故で担ぎ込まれた時だけで、かれこれ十年以上前の話だ。そんな昔のものがどうして?
また書類を渡される。今度は親父と俺の名前だ。
「分かりづらいかもしれませんが、理事長の遺伝子型に非常によく似ており、例えばこの先何かあった場合ドナーとなれる可能性が高いのです。おそらく、リスク回避のための担保だったと思われます」
(あぁ、)と腹の中に何かが落ちてきて納得する。
わがままを言った剣道を続けさせてくれたのも、危険だからとバイクの免許を取るのに反対したのもそれはやはりあの人のためで。
並んで写真を撮るたびに、血のつながりがないことを突き付けられた日々を思い出す。
義理の両親をいつの間にか追い抜いた身長。基樹とは違い鍛えれば簡単につく筋肉と増える体重。どちらにも似ていない顔立ちに、不意に思い出す本当の両親に強烈な思慕が募ったこともある。
俺を養子に迎え入れたのはそういった利益があったからで、そうでなければきっとおそらく他の、親のいない子どもと同じように孤独な人生を送ったのだろう。自分だった理由が愛情ではなく打算に塗れたものだったことを知って、先ほどとは意味の違う絶望が呼吸を止めた。
「蒼一、瑠璃」
聞きなれた、優しい義母の声が耳朶を打つ。そろって顔をそちらに向ければ、何かの覚悟を決めた義母が口を開いた。
「あなたたち、なるべく早く家を出なさい」
思いもよらない提案に瑠璃も驚いたようだ。身を起こし、育ての母を凝視する。
「梢にもいずれ話はしますが、差し当たって危険があるのはあなたたち二人です。研究の内容を知らないまでもいずれ蒼一はその身に危険が及ぶでしょうし、瑠璃はただでさえ両親に反抗しているでしょう。何がきっかけで危険につながるか分かりません。そのための援助はします。蒼一は旧姓に戻すことも考えましょう」
一拍の間の後、ガタン、と隣で剣呑な音がした。椅子を蹴倒して、瑠璃がリビングを出る。何かに怒ったように大股で向かったのは、親父と思っていた基樹が眠る部屋だ。殴りつけるように部屋の電気をつけ、静かに眠る男を見つめる。
「瑠璃?何を」
言い掛けた言葉を瑠璃が顔の横に拳を作って遮る。“止まれ”の指示に、声が詰まった。
眠った男はどう見ても義父で、それが義兄だとはどうしても思えない。一歩二歩と近付いた瑠璃は、部屋の中ほどで足を止めた。下ろした握り拳が背後からも分かるほど白い。
「なぁ、聞こえるか、基樹。お前は聞きたくねえ声だよな」
話し出した言葉は静かだ。けれど、触れることを許さない凶暴さを孕んでいた。追い掛けてきた義母と朝倉さんも、瑠璃の背中に釘付けになる。
「でもな、聞けよ。今テメェは、テメェの耳をふさぐこともできずに、テメェの親父の顔で寝転がってんだぜ」
ウケるよな、と言いつつその声は微塵も笑っていない。きっとその目も、胸の内も。叫びのようなその問い掛けは止めどなく続く。
「なぁ聞いてるだろ。テメェはあの親父のクローンだったんだってよ。実験動物みてぇに飼われて、身体乗っ取られて、挙句、捨てられそうになったんだってよ。なぁ、反応して見せろよ。テメェはどうしてほしい?もう一回手術受けて戻してもらうか?それともあの親父どもを殺してやろうか?」
言い募った物騒な瑠璃の言葉に、眠ったままの男は何も反応を返さなかった。当たり前だ、聞こえるはずがない。
悔しそうに肩の線を下げた瑠璃は、また一歩二歩とベッドに近寄り、項垂れたまま、ベッド脇の椅子に座り込んで、寄る辺のない子どものように言葉を続けた。
「なぁ基樹、どうしてほしい?」
瑠璃はなぜ、このとんでもない話をすんなり受け入れているのだろう。俺はいまだに夢の中の話のように感じているのに。
「オレはあの親父たちを止めたいよ」
丸まった背中が、そう言った。その親父たち、に瑠璃の両親が含まれていることにようやく気付く。
記憶の中の瑠璃の両親は、優秀なのだろうが冷たい目で俺たちを見ていた。
幼い頃感じた漠然とした恐怖の正体。彼らは俺たちを実験動物として見ていたのか。だから瑠璃はこんな話をすんなりと信じられたのか。あの親なら、こんなとんでもないこともすると逆の意味での信頼を寄せているのか。一拍置いた後、「朝倉さん、」とまた瑠璃が声を上げた。
「蒼一の、両親の事故は本当に偶然ですか?」
思いもよらないことはあとどれだけ出てくるのだと、彼女を振り返り、この数時間でやつれたのだろう顔を見る。
「おそらく…事故以前の蒼一くんの記録はありません。ただ、事故で運ばれただけの彼のゲノム解析まで行ったことには違和感を覚えます」
義母が、そっと俺の手に触れる。そうされてようやく、俺も拳を固く握っていたことを知った。優しいぬくもりが二度三度、拳を撫で、包む。
「朝倉さんは、大丈夫ですか?」
「それもおそらく。ですが今、理事長が目覚める前でなければ何もできません」
持ち出したものはこの後戻します、と。
それだけ狡猾で、残酷なのだと。瑠璃は知っていたようだ。
規則正しい音を響かせる生体モニターに向かって、瑠璃が静かに宣言した。
「基樹、オレが基樹を守るから」
―――…。
そうして累加された罪はいくつになったのか。
警官として働いていた蒼一のもとに郵便局から電話が入ったのは約一年前の二月のことだ。本人限定郵便が届いていると言われて、嫌な予感がした。
次の非番の日に届くように手配して、届いたそれを破るように開いた。イヤというほど見覚えのある常磐会のペールグリーンの定形封筒だ。三つ折りにされたA四サイズの用紙をもどかしく思いながら開き、神経質そうな筆跡を上から辿る。何度も辿って、常磐が何も変わっていないことを突き付けられた。
証拠を集めるといった義母は、あれから音沙汰がない。たとえ連絡を取ったとしても近況報告以外のことは聞けないし、まして、外にいる俺より残って証拠を集めようとしている義母や朝倉さんのほうが危険なのだ。と、理性を振り絞っても、義母の携帯に電話する手を止められなかった。
「義母さん、まだあの人たちはあんなことをしているの?」
「蓮華がね、いろいろと調べてくれてるんだけど」
成果はないのだと。それを嘲笑うかのようにやつらはその研究をさらに進めたのだ。
「俺、やっぱり戻るよ。瑠璃がいないんだ。二人とも危ない」
総てを知ったあの日から十カ月ほどたった頃、瑠璃は事件を起こして姿を消した。
刑事から聞いた話は、瑠璃の本質を知る蒼一からすれば鼻で笑い飛ばしたくなるほど馬鹿馬鹿しい内容だったが、小中高の学友たちから集めた表面上の瑠璃の情報…短気で粗野な面しか知らない刑事たちには蒼一の意見は参考程度にしかならなかったようだ。
答えがないのはやはり不安なのだろう。逡巡する気配に畳み掛ける。
「最悪、証拠なんかなくてもそこから逃げよう。前回の資料だけでも持って告発しようよ」
そう言って蒼一は一身上の都合で退職願を出し、母が準備した総務課の施設管理班でその秘密を暴こうと目を光らせた。だが、研究施設は秘匿されていて、内部を伺うことはできなかった。
だから代わりに、蒼一は時折帰省する彼の様子を観察した。朝起きて、食事をして、他の誰かと変わらない生活を送る彼のすべてを観察した。義母は何も言わず、義妹は何も気付かず。
蒼一とて、説明されなければ気付かぬままだっただろう。彼の秘密を。そしてこの研究室の秘密を。病院の様相そのままに地下に潜り込んだこの施設は、醜悪なそれすらも地下に隠した。
そして聞こえた、その悲鳴と泣き声。
泣き声を頼りにその部屋にたどり着き、扉が開くのも待てずに身体をねじ込んで、一足遅かったことを悔いた。
血だまりに倒伏するのは、顔を見なくても朝倉蓮華だと分かった。凶器が背なに突き立てられて絶命していることが一目で分かる。それをした犯人はその部屋にいた男なのは確実で、彼女から何かを奪おうとしていた。
頭に血が上り、持っていた竹刀を振りぬいた。防具とは違う嫌な手ごたえに、覚悟を決める。
「朝倉さん!」
近寄って抱き上げた身体は軽く、顔は蒼白だった。
そして、彼女の腕の中でこちらをじっと見上げる存在に気付く。涙で洗った瞳は誰かを思い出させたが、それが誰かを捉える前にその幼児がにっこりと笑い、その感覚は霧散した。
その子どもを抱き上げれば、柔く暖かい、小さな手が首に回る。片手でも軽いこんな子どもにあの男たちは何をしていたのか。それを考えただけで腸が煮えくり返る。
地下一階まで戻ったところで侵入者を知らせるアラームが突如鳴り響き、それに驚いた幼児が泣き始めた。警備システムは切ったはずだが、別回線もあったらしい。ここに警備の人間が到着するまでどれだけかかる?
一度外に出て恋人に幼児を任せ、朝倉蓮華が倒れている部屋まで戻る。パソコンの画面には彼女が最期に命令したプログラムの終了を知らせるログが表示されていた。小さなUSBメモリを引っこ抜き、落とさないようにポケットに突っ込む。
あとは逃げるだけだ。出てくる研究者を打ち払う。人数を数え始めて十三人。
医療関係者なら、倒れた彼らがしばらくすれば意識を取り戻すことが分かるだろう。この際派手に暴れて内部調査が入れば、この茶番劇も終わるかもしれない。と、そんなことを考えた時だった。
背後から声が掛けられた。
「なーにしてんの、アオ」
「瑠璃!?」
聞き覚えのある、というレベルではない。俺が常磐に馴染むきっかけを作ってくれた、恩人の声。けれど、その雰囲気はあの頃のものではなかった。
喜怒哀楽は全身で表現するような男だったのに、うっすらと張り付けた笑みはあの理事長を思わせる。戸口に背を預け、肩口まで伸ばした髪をいじる、首を傾げる仕草の一つひとつが艶めかしい。
「逃げんの?」
笑みを張り付けたまま瑠璃が問う。
数えたら四年もの間、この男とまともに話をしていない。その事実に胸の奥底が鈍く痛んで、竹刀を下ろした。
成人して半年。
しばらく見ていなかったが、中性的な顔立ちは変わらず、白くなった肌はますます女性的になった。だがその体躯は、小柄だからこそ俊敏で、竹刀を持たなくなったからこそ強靭になったのを知っている。
アオ、と呼んでくれたのは幼少期で、呼ばれなくなったのはいつからだろう。
「お前、ここで何して…」
「オレ?女王陛下のお手伝い」
女のように見られるのが嫌でことさら肩肘を張っていたのを俺は知っている。まして、母の茉莉亜が買ってきたのであろう女ものの服を着ることなどありえなかった。昔の彼を思い出させる縁は、使い込まれた革のグローブだけだ。
「あの人の言う事聞いてりゃ父さんと母さんの機嫌がいいからさ」
その言いようは、朝倉蓮華を問い詰めた時の瑠璃とは程遠い。思考を停止した従順なペットのようで。道場で仕込まれた、腹から出す声とは真逆の声色に、背筋が凍る。
背を預けていた壁からゆらり、と瑠璃が身体を離した。一歩二歩、スニーカーを履いた足が近付く。
「あの人にさ、何か変化があったら、変化のもとを止めろ、って言われてんだ」
右へ左へと揺れ、支点が定まっていないような歩き方。だがその実、体幹は全くぶれていないことに気付いて咄嗟に竹刀を構えた。“ヤバい”と、蒼一の中で警鐘が鳴る。
「だからオレは、あんたを止めるよ」
言うなり、小柄な影は視界から消えた。
剣道ではありえない軌道で間合いに飛び込み突いてくる拳を、竹刀の鍔元で逸らしてその身体を力任せに弾き飛ばす。
「瑠璃、なんで」
「分かんねぇ?」
「…小野寺さんの事件は、ホントにお前が起こしたのか?」
問い掛けに瑠璃は「花火、きれいだったよ」と艶やかに笑った。同時に、また間合いを詰めてくる。
瑠璃とは道場以外でも乱取りをよくやった。だからお互いの癖も弱点も分かっている。瑠璃の打突の弱さも、俺のスピードの無さも。
「相変わらず馬鹿力だな」
「そっちは相変わらずすばしっこいな」
昔のようなやり取りに、泣きそうになる。
打点をずらしているとはいえ竹刀で打たれる痛みに瑠璃の顔が歪む。そしてこちらも瑠璃のスピードについていくのに必死で息が上がる。そうやって、どれほどの時間を争っていただろう。汗が目に入った隙を、瑠璃は見逃さなかった。
一足飛びで、間合いをつぶされた。
手加減できずに竹刀を振り、振り切ってから瑠璃がバランスを崩したその先に人がいたのにようやく気付く。そしてその手に何かが握られていたのにも。
その男にぶつかって短い叫び声をあげた瑠璃は、もう立ち上がってこなかった。
浅い呼吸を繰り返し、刺されたらしいわき腹を抑えている。共に倒れた男も、気絶したのか倒れこんだままだ。
助ける余裕はあるか?と時計を確認する。彼女と別れてからまだ十分ほどだが他の警備員がやってくるまでに逃げなければならない。
急所は外れているようだとあたりをつけて、瑠璃に背を向けた。
そして、俺はそれをずっと後悔することになる。
そのニュースの一報を、蒼一はある役所の待合ロビーで聞いた。思わず立ち上がり、TVの画面を注視して、固唾を飲んで続く言葉を待った。
速報を伝えるキャスターの緊迫した声と、上空からのライブ映像が丘の上の見覚えのある、建物だった物といくつもの赤色灯を伝える。いまだ白煙を上げる瓦礫の山は、数時間前まで自分たちがいた建物だ。
「蒼一くん…」
「…瑠璃だ」
証拠を吹き飛ばしたのか。
報じられる内容に、足元の地面が崩れる感覚に陥った。耐え切れずに固いソファに座り込み、目元を抑える。周囲にわずかにいた事情を知らない人々が怪訝そうにこちらを伺う気配がした。
あの男は、そこまでやるのか。
恋人が、座り込んだ己の背中をさすってくれる。その腕には幼児が眠っていた。ふっくりとした頬が桃色に染まっている。
「警察に行きましょう。死んだとされるあなたが現れればあちらがおかしいと分かってくれる」
「…ダメだ。やつらの狙いはその子とお前だ。俺が警察に拘束されたら誰が守る」
「あたしたちはここにいる。どこにも行かないから」
「それはやめたほうがいい」
第三者のしゃがれた声に、そろって顔をそちらに向ける。ずんぐりとした体形の五十がらみの男性は唯一事情を知る人だ。
「監査の中止が決定しました。このような事件があっては正確な情報提供ができないだろうと。上からの命令です。監査班も解散します」
「そんな…」
申し訳ない、と頭を下げられて、追い詰められたのを知った。打つ手はないのか。
「蒼一」
呼び掛けてきたのは、先ほどの一報を受けて飛び出していった義母だ。手に厚みのある封筒が握られている。
「逃げなさい。これ、当面の生活資金よ。あとママのキャッシュカードを持って行って。数日に分けて引き出したら、廃棄しなさい。暗証番号は梢の誕生日よ」
素早くカバンにそれらをねじ込み、立ち上がらせる。荷物を持って、どこか学校を思わせる建物の廊下を早足で歩きながら義母は早い口調で話し続けた。
「コピーしたデータは持ってるわね?研究所がああなってしまった以上、それも大事な証拠の一部よ。さくらさんはできるだけその内容を調べて。必ずあの人を止めるから、それまで辛抱してね」
業務時間外で閑散としたロビーで、義母が足を止める。振り返って、その目いっぱいに涙を浮かべる義母にいつかの梢を思い出した。
「ごめんね、蒼一」
義母さんのせいじゃない。そんな思いを込めて細い小さな肩を抱く。か細い母の声が耳に残った。
―――大好きよ、蒼一。




