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FAKERS  作者: 宇津木
彼らは目的を明かしてはならない
11/35

~Aの場合~

 

 羊水のような心地よさに包まれて、彼女はそれに身を任せた。なんの心配も不安もないその世界は優しく幸せな夢を彼女に見せて、最後に残酷に嘲笑った。突然の深淵に飲み込まれまいと身体を捩り、びくりと動いた己に驚いて、ようやく転寝をしていたことに気付く。ぼやける視界で眼鏡を探す手に「ここですよ」と声を掛けられて初めて、人がいることに気付いた。

「深緋先生?」

「こんばんは」

 いつも通りの丁寧さで挨拶したのは髪に白いものが混じり始めた医者だった。一瞬自分の居場所が分からなくなって、眼鏡を掛けていつものおこもり部屋なのを確認する。彼がこの部屋に来訪するのは初めてだ。この前の嫌な予感がよぎる。

「今日は何か?」

「いえ、特に。ただあなたがだいぶ無理をされているようだと知りまして様子を見に来ただけです。二人きりになるのはどうかと思いましたが防犯カメラがあるのでセーフかな?と思いまして。一応、報告もしてあります」

 珍しいこともあるものだ、と、まだ痛む目を擦る。

「無理してるってどうして知ったんですか?」

「時折、こういった付箋が紛れてくるんです」

 見せられたのはよく見掛ける真四角の付箋だ。薄い水色に書かれた内容は“鏡が曇った”

「よくこれで分かりましたね」

「そうですね、自分でも驚いてます。これ、お見舞いです。甘い物、平気ですよね?」

 渡された紙袋は、市内の焼き菓子店のものだ。どんな顔をして買いに行ったのだろうと想像して、少し気分が明るくなったついでに甘えてみる。

「コーヒーが飲みたいです」

「ダメです。しっかり休んでからにしてください。ひどい顔してますよ」

 自覚はあるので、了承の意味も込めて肩をすくめる。それを見た深緋はようやく表情を緩めて浅葱の頭に手を伸ばした。ポンポン、と子どもに対するように頭を撫でる。

「あなたが倒れたら、我々の勝ち目はなくなるんです。いいですね」

 勝ち目、という単語で、敵に回そうとしている人間を思い出した。きれいな顔立ちで負の感情すら涼やかな微笑みで包んでしまう狂気の男。そして、その男を守る、猛禽類のような男だ。

 金山、あるいは瑠璃と呼ばれるのが嫌なようで、偽名のほうを呼び始めたのは浅葱が会議に参加するようになってすぐだ。

「浅葱さん、少し散歩に出掛けませんか?」

「ポチが付いてきますけど?」

「ここよりはましでしょう。何より、あなたは外の空気を吸ったほうがいい」

 あっちからもこっちからもワーカーホリックを咎められ、浅葱はいたずらっ子のように舌を出した。

 エレベーターを上がり、いつものカフェでコーヒーとココアをテイクアウトする。どちらもホットだ。

「来週、金星が最大光度になるんですよ」

 ほら、今でも明るいでしょう、と示したその先で揺らめきもしないその光は人工物のようにも見えて、けれど深緋は自信を持って西の空をなぞった。

「春の大三角は分かりますか?北斗七星から春の大曲線を辿って、その先にある正三角形なんですが…」

 だが、丘陵の深いこの場所で彼がそれ以上を教えてくれることはなかった。空に向けた視線をゆっくりと巡らせて、やがて苦笑しながらこちらを向いた。

「角度が悪くて見えませんね。残念ですが」

 歩きましょうか、と言ったその男の横に並ぶ。こちらに所在は明かさないだろうが、理事長のポチ…監視もついているはずだ。今日ついているのは金山瑠璃かそれ以外かと意味もないことを考えて、ため息が出る。

 整備された遊歩道をゆっくりと歩きだす。表情は夕闇の帳に薄く隠され、自然、声も無声音に近くなる。

「浅葱さんは、研究室のどなたかと面識はないんですか?」

「あったら話は早かったですけどね。あの人たち、ガードが堅い上に理事長より早く帰るじゃないですか。理事長の前で声を掛けたりしたら粛清される気がして」

 冷える手を紙コップで暖める。一口含めば、甘く温かいそれが、ゆっくりと緊張を解きほぐしていった。

「そうだ、藤枝くんに怒られました。なんで最初から話してくれなかったのか、って」

 施設長のところに送りだしたのは先週の週末だった。帰ってきた藤枝にセキュリティの事情を説明したが、聞き入れてくれるまでにだいぶ時間が掛かった。

 彼がここに来ることが決まってから対策室とPCルームの監視カメラの回線をいじり、理事長に対してのセキュリティを上げてきた。スケジュールのオフライン管理もその一つだ。だが、秘密裏に動くのにも限界があってあの時には間に合わなかったのだ。

「ホント、いい子ですよね、あの子」

「なぜ理事長はあの子を気に掛けるんですか?」

 そうか、深緋先生は知らないのか。と驚く。

 未成年者の起こした重大犯罪のため、少年法が適用されていたのだ。

 最近ようやく己と遠慮のない口論を繰り広げられるようになった男の顔を思い出せば、抜けないとげのように胸の奥を痛ませた。

「…金山瑠璃が殺害した夫婦の子ども、と聞いています」

「瑠璃くんが?」

 まさかそんな、というニュアンスで呟いた深緋が立ち止まる。

「先生も、あいつのことは昔から知っているんでしたっけ」

「えぇ。活発な男の子だったイメージはありますが…。あぁ、だからあの時…」

「あの時?」

 目頭をもみながら深いため息をついて、深緋はまたゆっくりと歩を進めた。

「あれは…あの人の術後一年ほどだったでしょうか。そうですね、いて座が見えましたから夏の終わりでした。瑠璃くんが病院内の私の部屋を訪ねてきたんです。理事長のお使いだと言ってました。あの時、瑠璃くんは別人のような笑い方をしていた。きっと、あの時には、そんな事件を起こしていたんですね」

 あっという間にぬるくなった紙コップの中身を煽る。甘ったるい粉がどろりと喉を通って不快さを残した。

 一線を越えたから狂ったのか、狂ったから一線を越えたのか。どちらが先だったのだろう。

「あたしも分かんないんです。なんで理事長があの子を見つけたのか。誰もあの子の存在を知らなかったはずなのに」

 まして生き残ったのが年端も行かない子どもだったため、その存在は厳重に秘匿されていたはずだ。

 だが、理事長は彼を見つけ、その経歴を調べるように浅葱に指示した。浅葱自身も事件の内容をほとんど知らず、言われるがまま調べ、報告した。

 報告した時の、あの狂気の目は、誰に向かっていたのか。

「震災の時、被災した外部の養護施設を視察している際に見掛けたようですよ。職員の方に事情をお聞きして、カウンセリングの必要性があった場合などは声を掛けていただくようにしていたはずです。その施設もだいぶ建物などが損傷して、一年としないうちに閉鎖したそうですよ」

 犯罪被害者の遺族を手に入れて、何をしようというのか。被害者と加害者を同じ箱に入れて楽しんでいるのか、あの男は。

「やることがホント、えげつないですよね」

 だが、深緋は同意しなかった。何かを考えて、やがて首を振る。

「昔から知ってますけど…そんなことをする子だとは思えないんですよね。理事長も瑠璃くんもどこか違和感があるというか…僕の持ってる瑠璃くんのイメージは、面倒見のいいお兄ちゃんなんですよ。自身はかなり際どいこともやってましたが、年下の子たちには無理はさせませんでしたし。目配りが効くのは優樹さん仕込みかと思っていたんですが…」

「確かに飲みに行った時とかは面倒見いいですね。飲めないからって車も出してくれるし」

「…瑠璃くんと飲んだことあるんですか?」

「実働の人たちとは結構いろんな人と飲みましたよ。蒼一くんに対する距離感というか、熱量というか…とにかくそういうのを測る意味もあって」

 常磐蒼一とは、基樹や梢ほどは面識がない。本邸に呼ばれた際に何度か挨拶を交わしたくらいで、常磐に転職したことも知らなかった。金山瑠璃とはもっとだ。本邸に遊びに来ていた姿を一度見掛けたことはあるが、蒼一の部屋で笑っていて、廊下にいたこちらに、「うるさくしてすまん」というニュアンスで、笑いの余韻を残した顔で手を挙げた姿を覚えているくらいだ。話していた内容は好きなTVのジャンルだったか。

 再会とも呼べないが、次に会った時には浅葱のことなど覚えていなかったように、あの一重で鋭くこちらを見下ろしていた。

「気を付けてくださいね」

 その声が本気で心配の色を含んでいて、おや?と立ち止まった。先ほど勝ち目、と言った時とはニュアンスが違った気がして、彼を振り返る。

 深緋は、目元を手で覆い隠して小さくすみません、と言った。

「あなたがどなたとお酒の席についても何かを言う筋合いはないのですが…」

 もう一度すみません、と言われてようやく、彼が嫉妬をしたのだ、と言外に示唆しているのに気付く。同時に頬と耳が熱くなって、視線を足元に落とした。

 落ちた沈黙を無視するように木々が風に揺られ、ざわざわと音を立てる。それはまるで、二人の会話を誰にも聞かせまいとするかのように。

 そのシチュエーションに、少しだけ勇気をもらう。

「…付けたらいいんじゃないんですか?」

「え?」

「筋合いがないというのなら、文句を言える立場になったらいいんじゃないですか」

 自分が言えるのはここまでだ、と、深緋に挑発的な笑みを返す。この先は深緋に言ってほしいなんて、女々しすぎるだろうか。隣に並んで歩く肩は浅葱より拳一つ高く、触れるか触れないかのところの距離を保つ彼に、そんな場合ではないのにどこかがくすぐったくなった。

 この関係だけは奴らに感謝してもいい。

「話を戻しましょうか」

「…なぜ、あなたは藤枝くんを瑠璃くんに会わせたんですか?」

「半年も見れば暴走するタイプじゃないのは分かりましたし、あいつの所在を明かした時も、あいつが隣に座った時も理性的でした。なら人目があるうちは大丈夫だと思って」

 空を見上げれば北極星が見える。その光は彼の目に宿っていた光だ。

「あの子の素直さが、どうにかあいつに届かないかなと思ったんですが…」

 難しいですね。と彼が呟く。

 そこに光さえあれば、顔をあげられる。そのポラリスがあの男の子だ。

 まっすぐなあの目をあの光を、濁らせてたまるか。


 ※


 それが貼られるようになってもうずいぶんと経つが、その頻度は年に一回あるかどうかだ。初めてその付箋を目にしたのは半年に一回召集されることになった定例会議の終わりで、珍しく全員に示さなければならないデータがあったため、レジュメを配布していた。極秘資料のために回収し、一枚ずつシュレッダーを掛けていたうちの一枚に携帯番号が書かれたそれが貼られていたのだ。

 幾度も逡巡して、その日の夜遅くにようやく電話を掛ける覚悟を決めて、それでも自分の携帯から掛ける勇気は出なくて、病院の公衆電話でその十一桁を押した。

 呼び出し音が一度、二度と回数を重ねるが、なかなか相手は出ない。少し拍子抜けして、受話器を置こうかと思った時、ようやく「もしもし」と応答する声が聞こえた。迷惑そうな男の声だ。

「あんたこの人の知り合い?」

 若そうな声は、不機嫌に深緋にそう言って苛立ちを隠さないまま言葉を続けた。

「酔いつぶれて迷惑なんだよ。引き取りに来てよ」

 そう言って、向こうは店の所在と名前を明らかにした後ブツリと通話を切った。

 何事か?と、一度自身のアパートに戻って車を出す。市内を十五分ほど走らせて、市役所近くの飲み屋街に乗り入れる。空いている有料駐車場に車を停めて、目的の店は通りを少し入った場所だった。

 元気な「いらっしゃいませ」に迎えられて、席に案内しようとする店員に来店の目的を伝える。アルバイトらしい女性は、パッと表情を明るくして、「こちらです」と奥に案内してくれた。

 個室のテーブルに突っ伏していたのは、今日の会議にも参加していた顔見知り程度の女性だった。

「三十分ほど反応がなかったのでお声を掛けさせていただいたんですが、その時にはこの状態でした。気分は悪くなさそうだったので様子を見させていただいていたんですが」

「お手数をお掛けしました」

 なぜか深緋が恐縮して会計を済ませ、脱力しきった彼女を抱えて車まで戻る。助手席に乗せて、シートベルトを掛けたところで、途方に暮れた。

 彼女がどこに住んでいるかも分からない。妙齢の女性を部屋に連れ込むわけにもいかず、結局彼は病院の自身の部屋の応接のソファに彼女を横たえた。部屋のライトにまぶしそうな顔をした少女のような寝顔は、けれど目を覚ますことなく健やかな寝息を立てた。

 さて、これはどういう状況だ?

 確か彼女は情報室の室長だったはずだ。約一年前の事件も、理事長の指示を受けて蒼一の犯行を偽装したのも彼女だとおよび聞いている。誰が何のために彼女の携帯の番号をよこしたのか。それともなんの意味もない、誰かのメモだったのか。

 彼女が目を覚ませば分かるか、と深緋も向かいのソファで寝る態勢に入った。


 ※


 翌日、浅葱はひどい頭痛を覚えて目を覚ました。目を瞬かせて周りを見渡すが、眼鏡がない上に見覚えのない色味の部屋なので、彼女は諦めてもう一度ソファに突っ伏した。完全な二日酔いだ。吐き気がないだけマシか。

 昨日は例の定例会議で、いつもの通りに苛立って市内に飲みに出たはずで、店で飲んでいたところまでは覚えている。だがここは飲み屋ではなさそうだ。

 かちゃり、と控えめな金属音が聞こえて、浅葱は頭痛を刺激しないように首を動かした。ぼやけた視界ではシルエットしか分からないが、ドアの前に立っているのは男性のようだ。

「お目覚めですか?」

 こちらの二日酔いに配慮してくれているらしい声色に感謝して、何とか返事をする。酒焼けした声が飲んだ酒量を教えた。

「すみません、ご迷惑をお掛けしました」

 部屋の主の前で横になっているわけにもいかず、座る態勢まで身体を持っていく。だいぶゆっくり動いたはずなのに頭痛は激しさを増し、浅葱は唸って頭を抱えた。

 そんな浅葱に「どうぞ」と差し出されたのは、錠剤と水の入ったコップだった。

「二日酔いの薬です。こんな時病院勤めは便利ですね」

 その声と話し方で、ようやくぼんやりとした人影の正体が理事長の主治医である深緋だと理解した。なんでこの人の部屋に自分がいるのか、働かない頭で錠剤を受け取り、飲み込む。

 冷たい水を一気に空にして、ようやく一息ついた。

「そのペースで昨日は呑んでいたんですか?」

「吞まないとやってられません」

 依存症患者みたいな理由だな、と自分でも思いながら、それ以外に言うべき言葉が見当たらない。

 「これ、持って帰ってきたあなたの荷物です」と渡されたバッグを、礼を言って受け取り、眼鏡を掛けてようやく深緋の表情が読み取れる。こちらを心配しているのは明らかだ。

「何か事情でも?」

 そう聞かれて、見つけてしまったものを思い出した。吐き出したくて吐き出せなくて酒量を過ごしてしまったのだ。飲めるようになってまだ数か月だというのに。

「先生の守秘義務って、私にも適用されます?」

「もちろん」

 罠かもしれないという警戒心は穏やかな声に絆された。頭痛に翻弄されるままに昨日報告したもののその続きを、深緋に話した。

 事件の後、警察への資料の提出が済んで、次いで指示されたのは、壊されたデータの復元だった。

 内容など分からない数式や実験結果、英語表記の羅列。断片的なそれを取り出しては保存していく。ある程度たまったところで、疲れの蓄積した脳がある悪戯を試みた。

 データを整理し、再構築し、なんの実験をしていたのかを知ろうとしてしまったのだ。

 結果、浅葱はさらにその世界の闇を見せつけられる。

 これを実験と言っていいのか、研究と言っていいのか。常磐蒼一が連れて行った、研究室の最奥に隠されていた幼子のこと。誰の子か?なぜそこにいたのか?という疑問への回答がそこにあった。

 あの子どもは研究者の娘で、受精卵を人工培養されて産まれた子どもだということ、そのほか総てを深緋に話した。

「深緋先生は、どこまでご存じでしたか?」

「私は研究室のことは何も…。基樹くんのことも手術直前に知らされましたし」

「手術って、これのことですか?」

 首に掛かるチェーンを手繰り、石のついた唐花菱を見せる。それも復元したデータの中に断片的に入っており、基樹が基樹ではないことを間接的に知らされて泣いた。

 報告書を出した日の夕方には金山瑠璃がこのネックレスを届けに来て、その秘密の重さに首が引きちぎられる気がした。

 何故、という疑問だけが積み重なって、引きずられるように顔が下を向いた。

 何故理事長はこんな研究を進めるのか、何故蒼一は警察に行かずに逃げるという選択をしたのか、何故瑠璃は理事長の指示に従うのか。

「浅葱さんも、秘密を守れますか?」

 静かな声色に、顔を上げる。脳みそを直接締め付けられるような頭痛は、いつの間にか別の痛みに変わっていた。

「蒼一くんのことなら分かります。彼は彼女たちの守りがなくなる瞬間を作りたくなかったんでしょう。一番機動力のあるのは瑠璃くんですが、他にも理事長の手足となって働く人間はいます」

「犯罪と分かってそれをするんですか?」

「もちろんです。彼らは理事長に文字通り命を救われた。末期がんや脊髄損傷で動けなくなった患者を移植の実験台に使っただけでなく、健康体を与えて自身の兵隊としたんです。今その人数は十を越えて、これからも増えるでしょう」

「もしかして、金山瑠璃もその手術を?」

「いいえ、あの子だけはあの子のままです」

 深緋は沈痛な面持ちで首を振った。その答えは確信に満ちている。もどかしくなって、怒鳴るようにそれを聞いた。

「深緋先生はなんでそんなことを知ってるんですか?」

「…僕がその手術のすべてを施したからです。一度取り込まれれば抵抗は難しい。私は遠方の二親を人質に取られました」

 そう言って、深緋は頭を抱えた。

 苦悩の声を聞いて、理事長の周到さに眩暈を覚えた。

 うららかな春の陽気とは裏腹に重苦しい沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは、深緋の携帯電話の着信音だった。個人の携帯の画面に非通知の表示が出ているのがちらりと見える。

 怪訝な顔をした深緋が、それでも通話ボタンを押して小さな機械を耳に当てた。

「もしもし?」

 応答した声に目を見張った深緋が、浅葱を見て、それから窓の外に目を向けた。耳から携帯を離し、小さく「瑠璃くんです」と言いながらスピーカー機能をオンにした。

『おはようお二人さん。どうしてそうなったか知らないけど、そろそろタイムアップだ』

 電話越しに聞こえるくぐもった低い男の声はこちらの様子を確実に知っていて、そこでようやく浅葱も先ほどの深緋の視線の意味を知る。どこかでこちらを監視してるのか。浅葱も窓の外に視線を投げる。だが、繁る森が見えるだけで、その所在を知らせることはなかった。

『そんな目すんなよ。理事長の大事な深緋センセの護衛してんだからよ。それより、お開きにしてくれるか?どうしてもおしゃべりしてぇってんなら理事長に掛け合ってやるからさ』

 揶揄するような声色に、なかったはずの吐き気が喉元までせり上がってきた。

「どうして、あんたは平気なの?」

『誰も彼もどうしてなんでって馬鹿の一つ覚えかよ。他に聴くことねぇの?っと…』

 苛立った様子の電話の主が、息を飲んだように唐突に言葉を切った。

『あ~ぁ、ご愁傷様』

 直後に、ノックもなく部屋のドアが開けられて、律動的な足取りで男が入ってきた。休日だというのにスーツ姿だ。

「ごきげんよう、深緋先生に浅葱室長。どうしてあなた方が、二人きりでここにいるのかな?」

 そう涼やかな声で問い掛けた男は、テーブルに置かれた携帯に目を落とした。

「どういうこと?瑠璃」

『夜中のことまで知るか。こんな生活してたらストレスもたまるんじゃねぇの?センセだって日照りが長けりゃそんなのでも女が欲しくなるんだろ?』

「下世話なお話はやめていただけますか。瑠璃くん」

 珍しく怒った声を出した深緋に反応したのは理事長だった。髪をさらりと揺らしながら頭を振る。

「もういいよ。瑠璃、アリスを部屋に送って」

『了解、女王陛下。窓開けといて』

 その言葉を最後に通話は途切れた。部屋の奥に理事長が歩みを進め、窓の鍵を開ける。窓を開放するのとほぼ同時に、黒い手袋を嵌めた手が下から伸びて、三階にあるはずの窓枠を掴んだ。

 その手に力が籠るのが分かって、次の瞬間にはその全身が部屋の中に飛び込んでいた。黒いジャージを纏い、顔の下半分を迷彩のバンダナで隠したその人物は、その姿勢の良さで金山瑠璃だと分かる。伸びた髪を編みこみ、耳にはいつものピアスだ。

「それ、梢にしてもらったの?」

「自分でやったんだよ」

 バンダナを首まで下げて、改めて目の前で繰り広げられる会話の内容は、内容だけ聞けば仲のいい友人のそれだ。

 だが、こちらに聞かせているということは、暗にまだ人質がいるということを示している。それも、出た名前は自分の家族ではないのか。時折窓の外を歩いて帰っていく少女を思い浮かべる。こちらに気付けば満面の笑みで手を振ってくれた、恩人の一人だ。

 基樹の中にいる人も、彼女の恩人だったはずなのに。どこで何が狂っていったのか。

 「行くぞ」と顎で示されたが、立ち上がらなかった。信頼できそうなラインを途切れさせてはならないと、勘が告げる。

 深緋が人質を取られたということは、利用価値はあるが裏切る可能性もあると思われているということだ。理事長の手駒ではあるが味方ではない。

 頭痛の残る頭で、何が正解かを探した。

「あのさぁ」

 何も考えずに発したそれは思ったよりも大きくなった。それに怪訝な顔をした男が二人。理事長だけは無表情のままこちらを見ていた。

「正直まだ理事長があの時のおじさんだったって信じられないんだけど、まぁあたし的にそんなのはどうでもいいんだよね。お巡りさんとやり合える機会なんてそうそうないし」

 冷たい視線が射る。だが、逸らしてたまるか。顎を引いて、必死にその涼やかな目を見返す。指で襟に隠れたネックレスのトップに付いた石を撫でた。

「たださ、誰と話をするにしても誰かに聞かれちゃまずいでしょ?」

 ねぇ?と、立ち上がって顎をいくらか上げなければ視界に入らない相手に近寄る。パーソナルスペースなど無視した距離まで。その男の、ルームフレグランスの残り香が分かる距離まで。静かに深呼吸して、その涼やかな香りで覚悟を決めた。

 嗤え。立ち回れ。この男の懐で、その喉笛を噛み切るその時まで雌伏しろ。

「ボクを脅迫する気?」

「まさか。でもうっかり知らない誰かに話しちゃうよりは秘密の共有者と安心して話せる場所は欲しいじゃない?」

 金山が、喉の奥で笑う音が聞こえる。視線だけそちらに投げれば、男は完全に傍観者を決め込んで、薄い唇を歪めて笑っていた。

 何が楽しい。わずかな苛立ちは腹の奥にしまい込む。

「どうすんの、理事長」

 面白くなさそうに理事長が顎を引いてため息を吐いた。

「瑠璃、深緋先生に番号渡して」

「あ?」

「会う時は瑠璃に連絡して。瑠璃の目の届くところで会って」

「オレが出刃亀すんの?」

「当たり前でしょ。深緋先生はキミの最優先だよ」

 天を仰いだ男は、ポケットから携帯を出していくつか操作した。深緋先生の携帯電話がテーブルの上で一度だけ震え、沈黙する。

「ほら、これでいいんだろ。さっさと行くぞ」

 金山が浅葱のバッグを手に取って、先に立って部屋を出る。背後には理事長がついた。まだ深緋と話したい気もしたが、今はもう無理か、と、深緋に礼を言って退室した。

 先を歩く小柄な背中を見ながら、蒼一のことを考える。

 蒼一くんは、実験データのコピーを持っていった。そして連れているのはその道のプロで、きっと、今この瞬間にもパズルを解こうとしている。

 目標は理事長と同じ。だが、目的は断罪だ。

 これから蓄積される実験データはあたしが作ったネットワークに入る。セキュリティを強固にしてしまったから開けるには時間が掛かるが、どうにか開けてやろう。

 基樹くんの仇を打ってやる。

 例え、あの、優しかった笑顔を取り戻せなくても。



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