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FAKERS  作者: 宇津木
彼らは目的を明かしてはならない
10/35

~Fの場合~

 

 簡単な朝礼が終わって、藤枝は自分のパソコンを立ち上げた。この一年で見慣れたデスクトップの背景が画面に広がり、院内ネットワークシステムが自動で起動する。

 ルーティンとなっている本日分の報告物を確認し、体裁を整えて室長に電子回覧の申請を出した。今日の業務をもう一度ホワイトボードで確認する。

 デジタル対策室なのになぜスケジュールだけホワイトボードなのか以前室長に問うたら、「趣味」だそうだ。自身に予定はないが室長がテレワークとなっているので、あとで声を掛けに行こう、と、心に留めた。そのままにすると昼食も休憩も忘れてのめりこんでいることがあるのだ。

 すっかり世話係が身についている自分を嗤い、藤枝は通常業務を進めた。


「室長、生きてますか?」

「ん~」

 だいぶ雑になった口調はもう誰も咎めない。伸びた前髪をピンでとめた室長は、パソコンから目を離さず唸るだけだ。

「だいぶ疲れてますよ」

 目の下のクマがひどい。この部屋の隣に居室を持っているという室長は、起きればパソコンに向かうし、寝るのも不規則になるという。

「あの頃の自分が憎いよね」

 藤枝がテイクアウトしてきた軽食を受け通り、室長はようやくパソコンから目と手を離した。

「やたらとセキュリティ堅くしてさ。どうやっても入り込む穴が見つからないの」

 壊すわけにいかないしさ、と、ガサゴソと紙袋からサンドイッチと飲み物を出し、包みを開けて食べ始める。紙コップに口を付けて変な顔をした。猫目が物騒にこちらを睨む。ただ、眠くて目が開いていないだけで、本人に睨んでいる意識はなさそうだ。

「コーヒーじゃないの?」

「最近飲みすぎです」

 その顔は不満を表している。きっかけさえあればあっという間に夢の世界に旅立ちそうなのにまだ仕事をする気かこの人は。

「今度はどこに入りたいんですか?」

「違法なとこじゃないよ、自分が作ったやつだし。ただねぇ、まずいものを抱え込んだみたいで、それを確認したいんだよね」

「そんなの理事長に直接アクセス権限もらって触らせてもらえばいいじゃないですか」

「藤枝くん、あの理事長にそんな申し入れできる?」

 考える間もなく、フルフルと頭を振った。そんな恐ろしいことできやしない。

 食べ終えたサンドイッチの包み紙を丸めてゴミ箱に放り、室長が立ち上がった。ゴキッと鈍い音がして、どこかの骨が鳴る。

「そのままちょっと外の空気吸いに行きましょ。光浴びないと根っこ生えますよ」

「えー」と不満を漏らす室長を無理やり地上階に連れ出す。二階の休憩スペースで改めてお茶を淹れ、室長に渡した。淹れている間に窓の外を歩いている人影が見えて、覗き込む。

 覗いた先にいたのは、先月の定例会議で再会した金山と滝澤だ。長身の滝澤と並ぶと金山は余計小柄に見える。歩きながら何かの書類を覗き込んで喧々諤々と話し合っていて、金山が左手で、邪魔そうに前髪を耳に掛けるのが見えた。

「ああやって見ると美男美女ですよね」

 その言葉にひょい、と顔をのぞかせた室長が、「それ、あいつの前で言わないほうがいいからね」と忠告を出した。もちろん、そんなことを言えるほど気安い関係にはなっていない。

 話し合い、というか言い合いをしながら、二人が立ち止まる。時折身振りも加えながら金山が滝澤の顔に視線を移し、そしてその奥にいた藤枝を視界に入れて、言い合う言葉が止まった。眼鏡を掛けているとはいえ切れ長な目に直視され、変に心臓がはねる。

 「見つかったね」と笑って、室長が窓を開けた。

「おはよー。元気?」

「お前の体内時計どうなってんだよ」

「通常運転ー」

 年の近いらしい二人の会話は遠慮がない。ひやひやしながら聞いてると、金山のターゲットが突然こちらに向いた。

「暇か?」

「は?」

「ヒマだよ~」

 聞き逃し掛けて、隣から聞こえた声に慌てて室長を振り返る。

 何をぬかすかこの上司は。だが上司の許可が出てしまっては逃れることはできなさそうだ。顎で“降りて来い”と言われて、慌ててエレベーターに向かう。

 今まではこちらが座っていたりその逆だったりで、しっかり対面したのはこれが初めてだ。藤枝から見れば頭一つ目線を下げるほど小柄だがその身体は筋肉質で、腕の半分まで捲ったシャツの先からは、鍛えなければつかない類の筋肉がのぞく。その筋肉にふさわしい無骨な腕時計が左の手首に嵌っていた。

 最初から気付いていたことだが、親の仇だというのに感じることは驚くほど少ない。理事長の強烈さに印象が薄れていたのかもしれないと思ったが、なんとなく、実感が伴わないのだ。

 その理由はいまだに分からない。

 下からの視線に、姿勢が伸びる。

「藤枝…だったな?」

「はい」

 あちらも、藤枝があの時の子どもだとは気付いていないらしい。身長もだいぶ伸びたし、藤枝姓も遠縁のものなのでなおさらかもしれないと思い至って、変えておいてくれた親戚に初めて感謝する。

「合気道経験者?」

「はい」

「剣道をやったことは?」

「え?…っと、武器術はありましたがしっかり習ってはいません」

 一度視線が上から下に、下から上になぞる。なんの面接だ?これは。ふん、と何かに納得した金山は、また顎で行くぞ、と指示した。

 二階の窓を見上げれば、室長がニコニコと俺たちを見送っていた。


 有無を言わさず連れていかれた先は、リハビリ施設の半地下にある道場だった。

 金山は眼鏡を外して長髪をゴムでまとめ、自前のものらしい、使い込まれた白い道着に着替えて目の前にいた。髪に隠れていて気付かなかったが、青みの強い紫色のピアスが耳を飾る。

 そして藤枝も借り物の道着に身を包み、ヘッドギアをつけられていた。“なんだ、これは?”とは今日何回目の感想だろう。

 業務中だというのに、どこからかぞろぞろとギャラリーが集まってくる。

 滝澤が設定したカウントダウンタイマーの時間は二分だ。

「適当に打ち込む。捌け」

 金山のその言葉で、滝澤が開始の合図をする。

 した瞬間、金山の拳が点で飛んできた。気が付いたのは顔の脇をとんでもない風圧が通り過ぎてからだった。

「っ!」

 慌てて間合いを取る。が、追撃は速かった。

 顔に、腹に、急所を狙っていると分かる拳がピンポイントで飛んでくる。

 飛んできたそれをぎりぎりで逸らして捕える。力に逆らわずに投げた瞬間、合気とは違うが受け身を取られたのが分かった。投げて、受けられて。必死に間合いを取るが、簡単に男はついてくる。

 そんなことを何度か繰り返して、後半は下がりながら拳と蹴りを避けることしかできなかった。

 二分のブザーで金山の手がぴたりと止まり、汗を垂らしながら藤枝は膝から崩れた。対して金山は呼吸一つ乱していない。

 必死に息を整える藤枝に、滝澤がタオルとペットボトルの水を差しだした。

「お疲れさまでした」

 苦笑をにじませたその声色に、こっちの世話役は彼か、と年上の彼に仲間意識を覚える。息を継ぐ合間に水を流し込み、ようやく一言ひねり出した。

「なんで、こんな」

「蒼一と似てる」

 低い声に、心臓がまた跳ねた。今まで手合わせしていた相手は、切れ長な目でまっすぐこちらを見据えていた。

「身長と体格、身体の運び、雰囲気。明日の業務後からここに通え。剣道の指南役をつける」

 練習台にする気か。だが、有無を言わさないその空気に藤枝は頷いて、また息を整えることに専念した。

 合気道では約束稽古しかやってこなかったということもあるが、金山から与えられたプレッシャーは藤枝にかなりの緊張を強いた。二分の手合わせの中で藤枝の一挙手一投足は、ほぼすべて金山の支配下に置かれ、視線や打ち込み、あるいはフェイントによって、さばく方向、投げる方向、ついでに言えば逃げる方向さえ操作された。制圧に身体が動かなかったのは、それを甘受するこの男のイメージができなかったからだ。

 疲労とは別に、まだ手と足が細かく震えている。

 これだけのフィジカルとメンタルのポテンシャルを維持するには相当の意思が必要で、それをできる人が目的無く己の力を行使することはないだろう。

 もっと言えば、目的さえできてしまえば己のすべてで完遂させるのがこの人だ。

 では、両親を手に掛けた目的はなんだ?金山と両親の接点は何か。

「室長ってあの人と付き合い長いんですか?」

 対策室に戻ってまっすぐ休憩スペースのソファに座り込んだ藤枝は、作業台でパソコンに向かっていた浅葱にそう声を掛けた。

「あの人ってあいつのこと?」

 いったん手を止めてこちらを見る浅葱は、先ほどよりは少し顔色はいいか。腕組をして、記憶をたどるように天井を仰ぐ。

「存在自体は小学生の頃から知ってるけど、話すようになったのはここ二、三年だね。昔のこと知りたいの?」

「はい」

「なら明日、優樹さんのところ行っておいでよ。あれの育ての親だよ」


 そう言って送り出され、翌日の午前中から藤枝は児童養護施設の応接室にいた。一輪挿しに飾られているのは山に自生する、今が盛りの黄色い花だ。

「お待たせしちゃったわね」

「ご無沙汰しています」

 入ってきた施設長は、一年前に挨拶した時とほとんど変わらなかった。髪をショートカットにしたくらいか。目尻の細かい皺が、彼女の柔和さを物語る。だが、昨日面会の申し入れをした際に用件を簡単に伝えていたので、表情に陰りがあった。

 手ずからコーヒーを入れてくれて、ようやく対面して座る。

「お仕事も慣れたかしら?」

「一年経ちましたから。先輩たちにもよくしてもらっています」

「そう、よかった」

 にっこりと笑って、それから短くため息をついた。コーヒーカップに目を落として、呟く。

「瑠璃について、でしたね」

「はい。俺が知っているのは、あの人が両親を手に掛けたという事実だけです。なぜそんなことをしたのかを知りたいんです」

「…私もなぜあんなことをしたのか分からないのよ」

 フルフル、と頭を横に振った優樹は、持ってきていた薄いアルバムを開いて見せた。

 昨年室長に見せてもらった、理事長たち四人が写っている例の写真が差し込まれている。

「あの人がなぜうちの親を知っていたか分かりますか?」

「一度取材にいらしたことがあるの。その時に挨拶したそうよ。この写真も、あなたのお父様に撮っていただいたものだもの」

 突然の父の存在に何かが極まって、息が止まった。ならば彼らは、父に向ってこの笑顔を見せたのか。笑顔を見せた相手に、なぜそんなことをしたのかと新たな疑問が浮かぶ。

 懐かしそうに眼を細めてこちらを見る優樹の目は、記憶の中の父を思い出していた。己の記憶の中の父はもはや遠く、声はもう思い出すこともできない。

 ずきりと、どこかが痛んで、慌てて別なことを口にする。

「あの、話が少しそれますが、あの人の両親って存命なんですか?施設長が育ての親だと伺っていたんですが」

「…二人とも、研究室の事件の時に亡くなったわ。当時の研究室長のアシスタントでね、瑠璃が生まれてから男の子だと知って子どもに興味を失くしたの」

 雇ったベビーシッターも最低限の世話しかしていなかったみたいで、見かねて預かることにしたのよ。蒼一が来てからはあの子のやんちゃぶりに助けられたことが何回もあった。でも、瑠璃の両親はそれを良しとしなかった。木登りをした、川で遊んだ、服を汚した、学校で悪戯した、物を失くした…男の子らしいことをすればするほど、あの人たちは瑠璃を叱り、叩いた。

 基樹や蒼一に怪我でもさせようものなら、部屋に謹慎させることもあった。今だったら大問題だけど、当時は誰も咎められなかった。瑠璃も我の強い子だったから自分のやりたいことを曲げなくて、小学校に入ってから剣道を始めてどちらも少し落ち着いたと思っていたの。剣道で打ち身や怪我をする分にはあの人たちも何も言わなかったし、素直にお稽古代も出していた。

 何度か言葉を区切りながら語られる男の半生に、藤枝は少し同情した。だが、それを免罪符にはできないはずだ。気を取り直して、言葉の続きを待つ。

 さっき、あなたのお父様に取材を受けたとお話ししたわね。

「その年、私たちにとって最初の事件が起きた」

 基樹が利き腕を骨折したと連絡があった。当時は県外の大学に通っていたのに常磐会の車が迎えに出て、帰ってきたときには蒼一が同乗していた。主人に連絡してきたのは瑠璃で、瑠璃は応急処置をした後飛び出していったと、二人から聞いた。

 何があったのか実際のところは分からないけれど、瑠璃は一か月間、当時住んでいた社宅の部屋に謹慎させられた。道場も破門されて、それから竹刀を手にすることはなくなった。

「ちょうど一年後に、二つ目の事件が起きた」

 夕方のニュースの速報であなたのご両親の事件が放送されてからすぐ、警察から問い合わせが来たのよ。瑠璃の行先に心当たりはないかって。瑠璃の両親はもちろん知らなくて、私に対応を寄越したのね。学校と、立ち寄りそうなお店と、うちの所有の別宅を教えて、鍵を開けに行ったの。

 あの子のバイクが停まっていて、家の中には血に濡れた着衣が残されていた。

 家からはアウトドア用品のいくつかが無くなっていた。

 携帯電話の位置情報も確認したみたいだけど、長距離トラックの荷台の中から見つかったと聞いて、そうやって、あの子は姿を消したはずだった。

 未成年ということもあって写真も名前も公開されなかったでしょう?だから、関係者以外には瑠璃がそんな事件を起こしたなんて知られていなかった。

「三つ目の事件が起きたのは、四年目を迎えようとしていた三月。震災の直前だった」

 研究室から助け出されたのが瑠璃だと知って、ようやくあの子がそこにいたことを知った。

「蒼一のことはご存じ?」

 伺うような、少し警戒するような問い掛けに、首肯する。

「生きてらっしゃるんですよね?」

 涙を浮かべた施設長が、そっと目頭を押さえた。静かな吐息が震えている。

「研究室を爆破したのは瑠璃だと、蒼一は思っていたようね。あなたのご両親の時と同じ手段を使ったみたい」

 そして、例の震災があって、世間からの注目はなくなった。

「ごめんなさい。ご両親の事件の後から、瑠璃の消息はほとんど分からなくて。とにかく、瑠璃の両親も亡くなって、これで瑠璃も解放されるかしらと思っていたのに、気が付いたらまた理事長のそばにいた。今度は偽名まで使って」

 何が瑠璃をそうさせるのか、全く分からないの。声を掛けようにも、あの子のそばには常に理事長がいた。もしくは、理事長から瑠璃が離れなかったというべきかしら。

「それでもどうにか瑠璃と話をしていれば…もしくは梢に聞かれた時にちゃんと話をしていれば、と何度も後悔した。どこかで変わっていないと…そんなことをする子ではないと思っていたのかもしれない」

 突然出てきた常磐家の末の子どもの名前に、なぜか藤枝は動揺した。写真の中で涙を浮かべる女の子だが、藤枝よりはいくつか年上のはずだ。施設長の顔が苦悶に歪んで、短く、しかしはっきりとそういったのが聞こえた。

 彼女の、女性としての尊厳を踏みにじったのだと。

「…警察には?」

 施設長の首が、また否定に動いた。

「本人が被害と言ってくれないのよ。高校生の時に再会して、普通に交際して、別れたと言っているの。瑠璃が、梢の電話から連絡してきて私も知ったのよ。瑠璃は、こちらを苦しめるために嘲笑うために、わざわざ連絡をしてきたの」

 疲れたように顔を伏せた施設長は一度深呼吸しただけで話を続けた。

「あとは…、そうね。瑠璃の話をしたら、あの人の話もしておかないと不公平ね」

 そう言って彼女は視線を写真に落とした。

「この頃は、まだ基樹だったのね」

 涙をこぼす彼女の言葉の意味が分からなくて、分からないままハンカチを差し出す。しばらく顔を覆って涙を流した彼女は、何度も深呼吸してからぽつりと彼の名前を出した。

「全ての元凶。四代目理事長・常磐基樹と呼ばれているその人のこと」

 整った顔立ちの理事長が、写真の中で微笑んでいる。年を重ねてはいるが、年に二回だけ顔を会わせる理事長その人だ。

「何をもってその人と断定するのか私には分からないけれど、少なくとも今の理事長は私が産み育てた基樹の意思を持ってはいないの」

 十二年も前に、脳移植という方法で基樹は身体を奪われたわ。

「基樹の顔をして、すべての指揮を執っているのは、父親である正幸なのよ」

 その告白に世界が色を亡くした。

「まさか…」

 何かが密度を増して呼吸を妨げる感覚には覚えがある。いくら吸い込んでも肺は酸素を取り込もうとはせず、手指の先からひんやりと冷えていく感覚だけが鮮明だったあの時。

 だから、なんとなくそれが本当のことなのだと理解した。

 ゾクリと、指先から広がった恐怖が悪寒となって全身を包む。冷水をかぶったように歯の根がかみ合わず、呼吸を忘れて、施設長の顔を凝視した。

 ゆっくりと横に振られる彼女の細い首は何を否定しているのか。

「証拠というものを残さなかったから、私たちも困っているの。執刀医の証言だけでは証拠には弱いし、蒼一たちがコピーしたデータも一部でしかなくて、今の基樹が、正幸だという証拠にはなりえなかった」

 静かな静かな声色に、救いはないのかと苦しくなった胸を掴む。こんな思いを彼女たちは何年も持って生きてきたのか。

「執刀医って…」

「…脳神経外科の深緋先生よ。でも、あの人は基樹を生き永らえさせてくれた。理事長を欺くために入れ替わりが行われた時に葬儀は行ったけれど、基樹の脳は正幸の身体の中で昨年まで生きて、そのまま永眠したの。目を覚ますことに期待をしてみたけれど、叶わなかった」

 ズキリズキリとこめかみが痛む。当人を知らない藤枝ですらこんな感情を抱くのだ。彼を知る彼女たちの思いは如何ばかりか。ちらりと彼の顔が浮かんだ。

「それ、その入れ替わりのこと、あの人…金山瑠璃は知らないんじゃ…」

 初めて、その人の名を口にした。それは、僅かな、希望とも呼べない期待。知らなければいいという問題でもない。だが、それだけで少し彼を許せる気がしたのに、彼女はそれすらも否定した。

「あの子は全部知っている。あの子の正体も、あの子がされたことも」

 そう言って、何かに気付いたように彼女はまた目を閉じた。

「ダメね、また順番が逆になってしまった。もう少しお話をしてもいいかしら?」

 もちろん。このままでは帰れない。この医療法人は、他に何を飲み込んでいるのか。居住まいをただした藤枝に悲痛に微笑んで、彼女は研究所の歴史を話し始めた。

 発足は四十年も前。常磐久幸が総合病院に移行させたのと同時だった。当初から研究対象は再生医療だったけれど、極秘裏に行われた研究があった。生命倫理に反するそれを、理事長は第一フェーズと位置付けて、たった五年で、成し遂げた。蓮華はおそらく学術的なものだと話していたけど、どこまで本当かは分からない。

「基樹は私が産んだけれど、私と正幸の子ではなかった」

 意味が受け止めきれなくて、眉根に皺が寄った。すっかり冷え切ったコーヒーに彼女が手を伸ばす。その様子を見て、藤枝もずいぶん喉が乾燥していることに気付いた。

 遅れて手を伸ばして、一口だけ嚥下する。

 静かにカップをソーサーに戻す。苦く冷たい塊が、胃に落ちる。

「藤枝くんは、主人とは面識がないのよね」

「はい、オレがここに来た時には、もう基樹さんでした」

 言ってから、その中身が違うのだと息を飲んだ。記憶にいるその人が、姿はそのまま色を変えていく。

 ずっと疑問だった。家系とはいえ大した反対もなく理事長と言う大層な役職に就けたのか。どうして大学を出たばかりの青年がこの巨大な組織を維持できたのか。当たり前だ。経験値は向こうに遥かなアドバンテージがあり、周りは正幸を信頼している人ばかりだ。

 肩を叩かれたあの時の感触が蘇って、咄嗟にその場所を掴んだ。

 施設長がアルバムのページを変えて、今度は本当に古い写真のページを開いた。

 結婚式の写真だ。白無垢を着たのは目の前の彼女で、傍らに立つのは基樹によく似た袴姿の男性だ。年代から察するに、これが前の理事長、正幸なのだろう。

「よく、似ているでしょう?」

「そうですね」

 髪型と色彩のせいで昭和の感じはするが、それを除くと写真から抜け出してきたのかと思うほどよく似ている。だが、なぜ彼女はそんなことを言うのかと疑問が浮かんで、数十秒前のその言葉に結び付いた。

 研究室の研究対象はなんだった?

「お二人の子どもじゃなかったって…」

 喉に、何が詰まったのだろう。そう思うほど、呼吸ができなくなった。これはなんだ?ここは本当に医療法人で、これは本当に現実なのか。自身の親が殺されたワケを聞きに来て、俺は何を聞かされているのか。頭痛と間違えそうなほどの眩暈が藤枝を襲う。

 医療人でなくても知っているその名称。人のソレを創るなど、普通なら思っていても実行しないだろう。

 でも、普通であるはずがないのだ。息子として育ててきた人間と入替ろうとするその人が。

「…移植のリスクのほとんどを、あの人は自分のクローンを創ることで回避した。あの頃はまだ母体が必要で、きっと私も利用されたのね」

 話の内容に疲れ果てて頭を抱えた。顔を覆って暗闇に逃げ込む。

 だが、そこに救いなどない。締め付けるような、痛みすら感じさせる絶望は、きっと関わった人たち総てが抱えてきたものだ。生きることを許されなかった常磐基樹を想って。

「クローンが第一フェーズ。入れ替わりが第二フェーズ。そして蒼一が盗んだとされているものが、第三フェーズ」

 耳朶を打つその声に、ぼんやりと顔をあげる。あといくつ絶望を積めばいいのか。

「蒼一が盗んだとされているのは、物じゃなくて、人なの」

 涙で化粧をボロボロにしながら、施設長はなお話を続けようとしていた。その覚悟に見合うように、膝の上で拳を握って、必死に背筋を伸ばした。

「亡くなる前の蓮華からわずかに聞いた話では、母体を不要とした試験管ベイビーを創ったそうよ」

 あの頃はまだ歩けるか、というくらいの頃だった。

 厚労省の生命倫理委員会に基樹の件で申し立てをしていて、もうすぐ監査が入るはずだった。その本部にあの子たちは一度逃げてきて、その場所で、研究室の爆破、自分が犯人に仕立てられたこと、そして自分が死んだとされたことを知った。警察に行けば、蒼一は間違いなく拘束される。いずれは解放されるでしょうけど、その間あの子たちが無防備になることを蒼一は警戒した。一瞬の隙でも、見せれば命取りになると思ったのね。

 それでも、倫理委員会が機能していれば何とかなったかもしれない。でもどこからか圧力がかかって、そこも解散することになった。

「蒼一は私が逃がした。行先は聞かなかった。知ってしまったら、問い詰められた時に話さない自信がなかったから。蒼一は、今もあの子たちを守っているはずよ」

 たった一人に、ここまで多くの人が狂わされるのか。

 精悍な顔をしたあの人の顔を思い出して、そういえば、と口を開く。

「オレ、昨日金山瑠璃と手合わせしたんです。蒼一さんに似ているって言われたんですが、そんなに似てますか?」

「蒼一と…?」

 焦点の合っていなかった瞳が、ジッとこちらを凝視する。そしてやがて首を傾げた。

「そこまで似ているとは感じないけれど…剣道をしている時のことかしら?」

 少し待っててね、と施設長が中座した。戻ってきた時にはノートパソコンを手にしていた。座す場所を対面から隣に移し、低いテーブルにそれをセッティングする。自動で読み込みが始まったところを見ると、媒体はもう入っていたようだ。

「昨日電話をもらった後、懐かしくてこっちにまで持ってきてしまったのだけれど、ちょうどよかったわね」

 映る動画は、剣道の試合のようだ。観客席から、試合の様子を撮っている。

「蒼一のインターハイ最後の試合よ。この数か月前に瑠璃が事件を起こして、コンディションは最悪だったみたい」

 懐かしさに施設長の声が穏やかになる。

 コンディションが悪かったと言ってもトーナメント制を危なげなく勝ち進んでいるのだからかなりの実力は持っているのだろう。打突のスピードは藤枝が見ても鋭い。

 だが、やはり似ているかと言われると疑問符が付く。なぜそんなことあの人は言ったのか。防具をつけたその人を、ジッと凝視する。

 あの人はあの時なんと言った?

 身長と体格が似ているものなど五万といるだろう。雰囲気が似ているというのは、よく知る母親だからこそ気付かないのか。身体の運びは?うっかり身体を動かそうとして自重する。

「これ、お借りしててもいいですか?」

「ええ、もちろん」

 パソコンから媒体を取り出して、渡されたそれを、施設長が共に持ってきていたケースにしまう。

「家にもまだいくつかあるから」

 そう言い掛けて、施設長はまた首を振った。もう無理ね、と言った理由を、藤枝は後日、残酷に知ることになる。

「藤枝くんは、沙良さんのところにいらっしゃるのよね?」

 その問い掛けに、化粧っ気のない幼顔を思い出した。あんなことに手を貸しながらくるくると表情を変える彼女は、最近、深緋先生といる時だけ女性の顔をする。

「彼女は、全部を知りながら理事長を止めようとしてくれているの。蓮華の代わりに、証拠を集めようとしてくれているのよ」

 カチっと、歯車がかみ合って、回転が逆になった。目の前に掛かっていた靄が晴れると同時に胸に痞えていた何かが取れて一気に呼吸を取り戻す。首に掛かるネックレスに指を絡ませて、引きちぎろうとして思いとどまった。

「危険なことは分かっている。本当ならあなたが守られなければいけない立場なのも分かってる。けれど、お願い。彼女を、彼女たちを守ってあげて」

 それは救いになるか。ひどく消耗した彼女の視線を真っ向から受け止める。

「もちろんです」

 警察に行くより困難だろう。けれど、彼女たちは基樹という人の名誉を守ろうとしている。藤枝に明かす義理はなかったし、藤枝のほうも応える義務はない。

 だが、その清廉な思いに応えたいと思ってしまった。

 それが救いになれば、いいと思った。


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