【王位戦エントリー編】ロキのよだれが止まらないんだよ、何をした!
イブと契約を交わした俺は、双子のいる病室へ足を速めていた。
廊下を歩いていると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
紫髪でギターを背負い、誰かを見失ったのか不機嫌そうに、受付近くのソファに深く腰掛けている男性――バロさんがいた。
(もしかして、心配して迎えに来てくれたのか?)
アンズのことを溺愛しているバロさんなら、あり得る話だ。
俺はホッとして、後ろから声をかけた。
「バロさん、どうも」
「んー? 誰がバロおじさんだって?」
振り返ったのは、バロさんよりもひと回り若い青年だった。
整った顔立ちだが、値踏みするような目つき。
俺のことをてっぺんからつま先までジロジロ見ていた。
「す、すみませんでした……! 人違いでした、すみません」
平謝りしてすぐに青年から離れようとしたのだが、「Stop!」と挑戦的かつ刺々しい声で、ガシッと腕を掴まれた。
「人間くん。どうして、君がバロおじさんの名前を知っているのかな〜?」
「人間くん……?」
「君のことだよっ! 他に誰がいるっていうんだい?」
いきなり「人間くん」と種族名で呼ばれるとは。
でも、バロさんのことを「おじさん」と呼び、外見も瓜二つということは……十中八九、親戚なのだろう。
「バロさんの、ご親戚?」
「ピンポーン。正解! てか、さっきから絶妙に君と会話が噛み合わないんだけど?! 君、もしかして異世界人?」
ギクリとした。
初対面で会った人間に、「異世界人?」なんて、普通、聞かないだろう……。
この青年、なんとなくだが、研究者のオオバコさんに似て、切れ味が鋭い思考の持ち主だ。
「まぁいいや。王族のおれを、一般家庭のバロおじさんと一緒にしないでくれる? 年齢も、身分も全然違うんだけど?」
どうやら、身分の低い親戚に間違えられたことが相当お気に召さない様子だ。
「わかりました。以後、気をつけますので……」
腕を掴んでいる青年の手を振り切ろうとしたけれど、何かが腕に纏わりついているようで、どれだけ力を込めてもびくともしない。
一方の紫髪の青年は、余裕綽々たる面持ちでいた。
「へぇ、君にはロキが見えない?」
「ロキ?」
「黒猫の従魔だよー。ロキが君の腕を気に入っちゃったみたい」
やはりバロさんの親戚だ。
白猫のメンメンに対し、こちらは黒猫なのか。
面白い対比だとは思ったが、一刻も早くアンズのところへ戻りたかった俺は、一か八かの賭けに出る。
(猫を笑わせたら、この拘束が緩むのか?)
修行部屋で、バロさんに化けたメンメンが「にゃぁ」と鳴いていたのを思い出した。
放さぬなら、鳴いてみよう、ホトトギス――いや、猫のロキ。
「にゃあ〜るほど〜にゃ〜」
「っ! あっはっはっは!」
この作戦は的中した。
よほどツボにハマったのか、彼は腹を抱えて笑い始めた。
その隙を突いて拘束から免れた俺は、全速力で病室へ戻り、扉を勢いよく開けた。
「アンズ、待たせた!」
「遅すぎるよ! アダム!」
病室では、アンズがフグのように頬を膨らませて待っていた。
「ごめん、いろんなことが起きすぎてな……」
「私もだよ! まぁいいや。詳細は後で聞くから。とりあえず、お腹空いたっ!」
「わかった」
アンズの切り替えの早さには、いつも救われる。
俺は売店で買ったドーナツとクッキーをアンズと分け合うことにした。
だが、袋を開けた時に、ふと違和感のある香りが鼻をかすめた。
(ん? アロマの香りがするな……。オレンジとローズマリーか?)
不自然に漂う清潔な香りに首を傾げたものの、アンズが「早く!」と待てない様子だったので、まずは食事を優先した。
「うーん! このドーナツ、シナモンシュガーが効いて、おいしすぎ! あっという間に食べちゃった!」
「良かった。って、あれ。俺のクッキーが半分しかない……?」
「ごめん、アダム! お腹空いてたから、ついアダムのクッキーも食べちゃった……」
「大丈夫。食欲があるのは、いいことだから」
お互い食べ終え、そろそろ帰ろうとしていた矢先、病室の扉がガタンッと開いた。
「ちょっと! 人間くん!」
またしても、あの紫髪の青年だ。
双子の前で大声を出す無神経さに、俺は嫌味を込めて言い返した。
「はぁ……しつこい男は嫌われますよ……」
「うるさい! ロキのよだれが止まらないんだよ、何をした!」
青年はさっきまでの余裕を失い、必死の形相で訴えていた。
俺には見えないが、腕の中の黒猫が異変をきたしているのだろう。
そのまま、病室へ踏み込もうとする彼を、俺は力一杯押し戻した。
「この中に入るな!」
「はぁっ?! 意味不明なんだけど!」
案の定、青年が納得しなかったので、説明することにした。
「従魔に猫の理屈がどこまで当てはまるのかはわからないけど……。一般的に、猫は肝臓で精油成分を代謝する能力が弱い。この病室に充満しているオレンジやローズマリーの成分を吸い込めば、流涎はもちろん、最悪の場合は肝機能障害を起こす可能性がある!」
「ちょっと待って。じゃあ、どうすれば?」
「まずは濡れタオルで体を優しく拭くことだ。それから、すぐに従魔の専門医に診てもらうこと」
「はぁ……、わかったよ。けど、なんで病室にそんな匂いがしてるわけ?」
その疑問は俺も同じだ。
「アンズ。俺がいない間、誰かがここに来たのか?」
「うん。シアン王子って人が来てたよ」
「シアンさんが……?」
引っかかる。
以前会った時の彼は、電子タバコの独特な匂いがしていたはずだ。
なのに、今日は意図的にアロマの香りを纏っていたのか。
(一体、何が目的で……匂いを変えたんだ?)
<用語補足>
(1)猫と精油の危険性
アダムが語った通り、人間にとっては癒やしのアロマでも、猫にとっては命に関わる毒になることがあります。
猫は肝臓の解毒機能のうち、「グルクロン酸抱合」という代謝経路が非常に弱いです。
そのため、特定の植物成分を分解できず、体内に毒素として蓄積されてしまうのです。
(2)オレンジとローズマリーの成分
・オレンジ(柑橘系):果皮に含まれる「リモネン」は、猫にとって、皮膚刺激や肝毒性の原因になります。
・ローズマリー:猫にとって、「ケトン類」等が神経毒性や肝機能障害を引き起こす可能性があります。
※特に、病室のような密閉空間では成分が濃縮されやすく、体の小さな動物ほど影響を受けやすいのです。
(3)流涎
「よだれを流すこと」を指す医学・獣医学用語です。
(4)アダム視点について
物語の中では「魔法」や「従魔」といったファンタジーな存在であっても、その「体」が生物学的なルールに従う限り、科学の知識は最強の武器になります!
<余談>
今回登場した、黒猫の従魔「ロキ」の名前は【ロキソプロフェン】が由来になっています。
次回以降もお楽しみに。




