墜ちる箱と盲目の獣。残された『守護者』の覚悟
エレベーターシャフトの奥深くへと真っ逆さまに落下していくクラインの姿は、残された仲間たちを極度のパニックへと陥れた。さらに絶望的なことに、一発逆転を狙った『回復薬のオーバーヒール作戦』は完全に破綻してしまった。それは怪物の動きをほんの数秒間止めただけで、奴の命を奪うには至らなかったのだ。
憎悪に狂ったブライトウルフは、次の標的であるキリアンへと矛先を向け、怒り狂った獣の咆哮を上げた。
キリアンは瞬時に身を捻り、怪物の致命的な牙をギリギリで躱した。しかし、悪魔の反撃は速かった。怪物は間髪入れず、太い丸太のような前足を無造作に振り抜いたのだ。凄まじい衝撃がキリアンの体を真横から打ち据え、大男の体はボロ布のように宙を舞って床を転がり、血の軌跡を長く引きずった。
「グッ……ァア……!」
キリアンは全身の骨が軋むような激痛に耐えながら、無理やり上体を起こした。自分の胸元を見下ろすと、鋭い爪に深くえぐられ、肉がズタズタに引き裂かれた致命的な裂傷がそこにあった。
ブライトウルフは床に飛び散ったキリアンの血を飢えたように舐め取り、とどめを刺そうと大きく顎を開いて跳躍した。
その刹那――空気を切り裂く鋭い風切り音が鳴り響いた。
ドスッ!!
飛来した一本の鋭利な『槍』が、怪物の右目に突き刺さり、そのまま反対側の左目まで貫通したのだ! 完璧な精度で急所を射抜かれた悪魔は、狂ったような悲鳴を上げてその場でのたうち回った。
「キリアン、走れ!!」
槍を投擲したサイラスが絶叫し、ミアと共に脱出用の階段へと素早く姿を消した。
キリアンもまた、階段へ向かって走り出そうとした。しかし、怪物はそう簡単に彼を逃がそうとはしなかった。両目を完全に潰されながらも、奴はキリアンの逃げ道を塞ぐように立ちはだかり、鋭い爪を狂ったように振り回したのだ。
視覚を奪われてなお、怪物の嗅覚と聴覚は異常なほど研ぎ澄まされていた。奴はピタリと動きを止め、耳をそばだてて獲物のわずかな足音を探ろうとする。キリアンもまた動きを止め、足音はおろか、呼吸の音さえも殺さなければならなくなった。
ズル……ズズッ……。
怪物の両目を貫いている槍が、奴の異常な再生能力によって、少しずつ……確実に外へ押し出されようとしていた。それを見たキリアンは、己の生存のタイムリミットが急速に減っていることを悟った。
彼は意を決して、サイラスたちが逃げたのとは反対側の階段へと全速力で駆け出した! その微かな足音を聞き逃さず、怪物は音の方向へと猛烈な勢いで突進し、死神の鎌のような爪をキリアンの頭上めがけて振り下ろす!
キリアンは間一髪で姿勢を低くしてそれを躱し、コンクリートの柱が並ぶ障害物を縫うようにしてひたすら逃げ続けた。視覚を失い、怒りで我を忘れた怪物は、キリアンのフェイントに引っかかり、太い支柱に頭から激突して派手に転げ回った。
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一方その頃。暗闇に包まれたエレベーターシャフトの中。
クラインは13階から落下したが、不幸中の幸いにも、エレベーターの箱が11階で停止していたため、彼の落下距離は実質1階と少し分で済んだ。
クラインを追ってシャフトへ飛び込んだアルテミスは、自身のライトを小さな太陽のように眩く発光させ、猛スピードで相棒の元へ急行した。
「クラインさん!!」
アルテミスは気絶している青年に必死に呼びかけながら、緊急スキャンを実行してダメージを確認した。
「う……ん……」
クラインは呻き声を上げながら、重い瞼をゆっくりと開けた。
アルテミスのスキャン結果は深刻だった。彼の頭部からは大量の血が流れ出している。さらに悪いことに、強靭なサイボーグの腕自体は無傷だったが、金属と人間の生身を繋ぐ肩の接合部が、先ほど怪物に乱暴に振り回されたせいで激しく損傷し、真っ赤な鮮血がドクドクと溢れ出していたのだ。
「……アルテミス……?」
暗闇の中で目を細めた青年は、目の前で眩しく光る光球に向かって、不確かな声で尋ねた。
「クラインさん、すぐに起きてください! ここにいてはダメです!」
ギギギギギッ!
その時、エレベーターのブレーキワイヤーから、背筋の凍るような金属音が鳴り響いた。そして、箱全体が「ガクンッ」と数センチほど下へ沈み込んだのだ。このエレベーターは頑丈な鋼鉄で作られていたが、数百年という途方もない歳月は、間違いなくすべての安全装置を老朽化させていた。
「早く! 急いで立ってください、クラインさん!」
アルテミスの切羽詰まった声に促され、クラインは激痛に耐えながらなんとか体を起こした。
ギィィィィィィッ!!
再びワイヤーが悲鳴を上げ、今度は箱が数十センチも沈み込んだ。タイムリミットはもう残されていない。アルテミスはクラインの頭上に回り込み、エンジンの出力を最大にして、彼が立ち上がるのを必死にアシストした。
クラインは歯を食いしばり、エレベーターの扉のわずかな出っ張りに指を引っ掛け、なんとか上へよじ登ろうとした。――しかし、その直後だった。
バチンッッ!! ギョエェェェェェェェェッ!!!!
ついにメインワイヤーと安全装置のすべてが破断した。エレベーターの箱は、底なしの暗闇へと真っ逆さまに落下していった。
老朽化した金属がガイドレールと激しく摩擦し、シャフト全体に火花を散らしながら、凄まじいスピードで落ちていく。そして、1階の地面に激突した瞬間――大地を揺るがすような大音響と共に、灰色の分厚い粉塵がシャフトを逆流して吹き上がってきた……。
――青年と相棒のドローンは……
11階のエレベーターの扉の隙間に、辛うじて宙ぶらりんになっていた。
落下する直前、クラインがサイボーグの片腕だけで扉の縁をガッチリと掴み、奇跡的に落下を免れたのだ。
「頑張ってください、クラインさん!!」
アルテミスは最大出力でホバリングし、彼を上へ引っ張り上げようとしていた。しかし、ピンポン玉サイズの彼女のエンジンでは、大人の男性一人を引き上げるだけの揚力は到底生み出せない。
クラインは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、残されたすべての力を振り絞って体を引き上げようとした。しかし、その強引な力みによって、サイボーグの腕と人間の肩の接合部がさらに裂け、大量の鮮血が腕を伝ってボタボタと滴り落ち始めた。
「グアァァァァッ!!」
クラインは絶叫し、最後の底力を絞り出した。しかし、想像を絶する激痛が彼の体力と気力を完全に奪い去っていく。そして、一瞬の気の緩みと共に……彼の手は、無情にも扉の縁からズルリと滑り落ちた。
ガシィッ!!
「……ッ!」
その時、扉の隙間から伸びてきた二つの手が、落下しかけたクラインの腕を力強く掴み取った。ミアとサイラスの手だった。
「引き上げろッ!!」
サイラスが歯を食いしばって叫び、ミアと共に全身の力を使ってクラインをシャフトから引っ張り上げた。
三人は11階のエレベーターホールの床に倒れ込み、荒い息を吐きながらしばらく動けなかった。
「ハァ……ハァ……。あのブライトウルフはどうなった!?」クラインが息も絶え絶えに尋ねた。
「上でキリアンが相手をしている」サイラスが短く答える。
「急いで助けに戻らないと!」
クラインはよろけながらも立ち上がり、すぐに上の階へ引き返そうとしたが、サイラスがその腕を力強く掴んで制止した。
「ダメだ、クライン。我々は下へ降りる……」
クラインは信じられないものを見る目でサイラスを睨みつけた。「ふざけるな、お前の弟だぞ!」
「私は……自分の弟の強さを誰よりも知っている! クライン殿、今は彼を信じるんだ……」
サイラスはクラインの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、リーダーとしての揺るぎない覚悟と、隠しきれない弟への深い愛情と心配が入り混じっていた。ミアもまた、不安げな表情を浮かべながらも、静かに頷いた。
「……分かったよ……。急いで保管庫へ向かい、アルテミスに新しい回復薬の玉を作ってもらおう。それを持って、もう一度あいつと勝負だ」
クラインは冷静な声でそう告げた。内心ではキリアンを見捨てるようなこの決断に納得していなかったが、あの不死身の怪物を完全に止めるためには、それ以外の道が残されていないのもまた事実だったのだ。




