血まみれの足止めと、裏切られた確信。暗闇へと消えたサイボーグ
アルテミスは超高速の演算処理と合成機能を用いて、クラインが要求した『透明な球体状のパック』を作り上げた。しかし、材料となる成分に限りがあったため、完成したのはたったの「一玉」だけだった。
全員の視線が、クラインの手のひらに乗せられたその球体に釘付けになる。それは、アルテミスの機体よりも小さな、本当にちっぽけな透明の玉だった。
「本当に……そんなもので効くの?」ミアが不安げな声で尋ねた。
その問いに対する答えはない。沈黙が降りた。誰もが心の底で、このあまりにも無謀で馬鹿げた作戦が成功するのかどうか、激しく疑問を抱いていたからだ。
「……試してみなきゃ分かんないだろ? そういうもんだろ?」クラインは回復薬の玉をギュッと握り締めて答えた。
「みんな……来るぞ!」キリアンの緊迫した囁き声が響いた。
直後、3階ほど下の階層から、何かを力任せに破壊するようなけたたましい轟音が鳴り響いた。
ミアは計画通り、サイラスを支えながら即座に反対側の階段へと向かった。サイラスの脚は傷の痛みに耐えかねて激しく震えていたが、彼は槍を杖代わりにして地に突き立て、体を必死に前に進めた。一方、クライン、アルテミス、そしてキリアンは、フロアの中央付近にある太いコンクリート柱の陰に身を隠し、その『時』を待った。
風の音も、虫の音も聞こえない。13階のフロア全体に、息が詰まるほどの圧倒的な重圧と静寂が広がる。自分の呼吸音さえもが異常に大きく感じられた。その静けさの中で、バクバクと暴れる自らの心臓の音が嫌でも鼓膜を打ち鳴らす。……この音すらも、階段を上ってくる悪魔の耳に届いてしまうのではないか。そんな恐怖が彼らを支配していた。
クラインは緊張で顔を強張らせながら、キリアンをチラリと見た。キリアンは無言のまま視線で応え、再び階段の方角へと鋭い眼差しを向けた。彼らは神経を極限まで研ぎ澄ませ、下から上がってくるであろう『死』を待ち構えていた。
同時に、ミアとサイラスも階段の入り口に身を潜め、怪物が姿を現した瞬間に階段を駆け下りる準備を整えていた。
しかし、心臓が破裂しそうなほどの緊張の中――ミアの耳は『ある音』を捉え、彼女の動きを完全にフリーズさせた。
「グルルルルル……ッ」
獲物を前にして牙を剥く、狼特有のあの低く濁った唸り声。それが……彼女の『足元の階段』から聞こえてきたのだ。積み上げた瓦礫の隙間から、その声は明確に響き渡った。
怪物は、クラインたちが待ち構えていた向かいの階段からではなく……彼らのすぐ足元にまで迫っていたのだ!
「こっちよ!! ここにいるわ!!」
ミアは絶叫し、咄嗟にサイラスの体に飛びついた。
そのコンマ数秒後。階段の入り口を塞いでいた瓦礫の山が、内側からの凄まじい力によって粉砕され、宙へと高く吹き飛ばされた。
砂埃を巻き上げ、下から突き破るようにして姿を現したのは――悪夢の怪物『ブライトウルフ』だった。
本来の半分ほどのサイズにまで不自然に捻じ曲がり、歪んだ肉体。それは、怪物が狭い階段の通路を通るために、自らの骨格を強引にへし折った結果だった。しかし、その姿がどれほど歪に変わろうとも、奴の持つ暴力的なまでのパワーは少しも失われてはいなかった。
状況は最悪の結末へと反転した。怪物から最も遠ざけておくべき負傷者二人が、完全に無防備な状態で、怪物の目の前に取り残されてしまったのだ。
ブライトウルフは「スンスン」と鼻を鳴らし、二人の傷口から漂う血の匂いを深く吸い込んだ。そして、ドロドロの涎を床に垂らしながら、耳まで裂けるような邪悪な笑みを浮かべた。これこそが、奴が執拗に追い求めていた『極上の餌の匂い』だったのだ。
怪物は一切の猶予を与えず、二人を丸呑みにしてやろうと巨大な顎を広げ、弾かれたように飛びかかった!
しかし、獲物たちはただ喰われるのを待つ案山子ではない。絶体絶命の瞬間、ミアは手にした槍をしっかりと構え、怪物の開いた口のド真ん中めがけて渾身の力で突き入れた!
凄まじい突進の勢いも相まって、槍の穂先は怪物の口内を貫通し、後頭部まで突き抜けた。怪物は全身をビクンと跳ねさせ、苦痛に満ちた叫び声を上げた。しかし、狂乱した悪魔は巨大な前足を無造作に振り払い、ミアの体を軽々と薙ぎ払って遠くへ吹き飛ばした。
「ミア!!」サイラスが叫び、槍を構えながら引き摺るような足取りでゆっくりと後退した。
その隙を見逃さず、クラインとキリアンは弾丸のように飛び出した。怪物が口に突き刺さった槍を必死に引き抜こうと暴れ回っている間に、二人は仲間たちの元へ駆け寄る。
クラインは慌ててミアを抱き起こした。「おい、大丈夫か!?」
「ゴホッ、ゲホッ……私は、平気よ」
ミアは小さく咳き込んだ。幸運にも鋭利な爪の直撃は免れたようだったが、衝撃のせいで完治していなかった肩の傷が開き、再び鮮血が滲み出していた。
「アルテミス、彼女の傷を診てくれ!」クラインは焦燥感に駆られて叫んだ。
すかさずアルテミスがミアの元へ飛び、傷口をスキャンした。
「傷口の縫合が裂けています。清潔な水と救急箱があれば、すぐに細胞修復薬を合成できるのですが……!」
アルテミスは酷く焦った声で報告した。現在、彼らが持っていた回復成分のすべては、クラインの手にある『一玉の薬』に全振りしてしまっていたからだ。
クラインは手に握りしめた薬の玉を見下ろし、一瞬ためらった。しかし、ミアは彼女の血に染まった手で、クラインのその手をギュッと強く握りしめた。
「私のことはいいから! 早くあいつを倒して!!」
彼女は強い意志の宿る瞳でクラインを見つめると、痛みを堪えて無理やり立ち上がり、後退してきたキリアンと代わってサイラスを支えた。
「アルテミス、彼女をサポートしてやってくれ」クラインが相棒に頼むと、ドローンは即座にミアの後を追って飛んだ。
ガシャァァン!! ガシャァァァン!!
金属製の槍が床に叩きつけられる音が、フロア中に反響した。
それは、ブライトウルフが口に突き刺さっていた槍を完全に引き抜いたという、明白な『宣戦布告の合図』だった。再び狩りを楽しむ準備を整えた悪魔の瞳が、最も近くで武器を構えているキリアンを捉えた。怪物は喉の奥で低く唸ると、大男のキリアンめがけて一直線に飛びかかった。
歴戦の戦士であるキリアンは、怪物の鋭い牙を間一髪で屈んで躱した。そしてそのカウンターとして下から跳ね上がり、手にした剣を悪魔の喉元へ正確に突き立てた!
「ギャアアアッ!」と苦痛にもがく怪物。奴はキリアンを引き裂こうと、狂ったように鋭い爪を振り回した。しかしキリアンは、あろうことか『剣の柄を口でくわえて』固定し、空いた両手で怪物の猛攻を受け止め、強引にその動きを封じ込めたのだ!
「今だ!! 殺れェェッ!!」
キリアンは口に剣をくわえたまま、口角から鮮血を流しながらも、喉の奥から怒号を絞り出した。
その言葉と同時に、クラインが雷光のようなスピードで飛び出した!
「発動スキル……『洗濯』パンチ!!!」
科学の粋を集めた超高回転のドリルパンチが、ブライトウルフの背中のド真ん中に激突した。
クラインの機械の腕は、怪物の背中の肉を抉りながら内部へと深く突き刺さる。凄まじいトルクの回転が怪物の肉体と脊髄をねじ切り、その巨体を床に激しく叩きつけた。濛々(もうもう)たる粉塵が舞い上がる中、クラインとキリアンは即座に怪物の体から距離を取った。
ゾンビウルフは数秒間床に伏していたが、再び不気味な動きで立ち上がろうとした。キリアンとクラインは無言で顔を見合わせる。
クラインはキリアンに向かって、自分の手を開いて見せた。――手は空っぽだった。
そう、『洗濯パンチ』で怪物の体内に腕を突っ込んだ瞬間、彼はあの『回復薬の玉』を、怪物の体内に直接ぶち込んでいたのだ。
ブライトウルフの口から、今までとは全く違う『悲痛な叫び声』が漏れた。
奴の肉体は激しい痙攣を起こし、ガクガクと震えながら、再び床に崩れ落ちて完全に沈黙した。
どうやら、回復薬による『強制的なオーバーヒール作戦』は見事に成功したらしい。
クラインとキリアンは、溜め込んでいた空気を吐き出すように、天に向かって思い切り雄叫びを上げた。死の淵から生還した安堵感が、全身の汗とともに一気に吹き出していく。
「やった! マジで上手くいったぞ!」クラインは歓喜の声を上げ、階段を降りようとしていたミアとサイラスの方を振り返って叫んだ。
「この作戦、完璧に成功だぜ!」彼は満面の笑みで大きく手を振った。
――しかし。彼に返ってきたのは、安堵の笑顔ではなかった。
二人は、クラインの背後を見て、目をひん剥いて恐怖に顔を引き攣らせていたのだ。
「クライン! キリアン! うしろ!!!」
ミアの鼓膜を劈くような絶叫がフロアに響き渡った。
二人の青年は、背筋に氷を突き立てられたような悪寒を感じ、弾かれたように振り返った。
そこには――完全に沈黙したはずのブライトウルフが、再び立ち上がり、憎悪に満ちた牙を剥き出しにしてそびえ立っていた。
悪魔は一切の猶予を与えず、凄まじい殺意と共にクラインへと飛びかかった。
クラインは反射的にサイボーグの腕を盾にして防御したが、怪物の強靭な顎はその腕を丸ごとガッチリと噛み砕かんばかりに食らいついた。
怪物は狂ったように首を振り、クラインの体をボロ布のように宙へ振り回した。そして、そのまま彼をエレベーターホールへと激しく投げ飛ばしたのだ。
ドッシャァァァン!!!
凄まじい衝撃でエレベーターの鉄の扉が吹き飛び、クラインの体はそのまま、一切の光が届かないエレベーターシャフトの真っ暗な底へと真っ逆さまに落下していった。
「クラインさん!!!」
アルテミスの悲痛な叫び声が響いた。天才ドローンは一瞬の迷いもなくエンジンを最大出力で噴かし、相棒を追って真っ暗なシャフトの底へと猛スピードでダイブしていった。




