第9話 『私、かわいい?』
好きだと自覚した翌日。
私は昨日のことを思い出しては一人で何度も顔を赤くしていたのだが
無論世界は特に変わらない。
今週から小児科のローテーション。
朝のカンファレンスで橘くんが私の隣に立つと、心臓は素直に大きく跳ねた。
彼は変わらない。
――でも、私の気持ちは着実に大きくなっていた。
小児科の病棟は患者の子供が少しでも明るい気持ちになってもらえるように、カラフルな色使いのものが多い。看護師が作った紙の飾りが壁に貼ってあったり、ほかの病棟にはない柔らかい雰囲気だ。
午前中の実習が終わり、学生控室に戻るために歩いていると、私は橘くんに出くわした。
声をかけようとしたとき、
「和真先輩!」
廊下の反対側から甘い声が響いた。
反射的に、橘くんに振っていた手が止まる。
「久しぶりです! バド部の合宿ぶりですよね?」
ふわっと巻いた髪を、リボンのついたクリップで可愛くまとめている。
薄いピンクのリップにぱっちりとした睫毛。
“正しく可愛い”子だ。
「ああ、そうだね」
橘が笑う。
それだけで胸が痛む自分に気づく。
その笑顔――私だけに向けられてると思ってた。
いや、違う。
当たり前だ。
でも。
「今度またご飯行きましょうよ〜」
「うん、タイミング合えば」
うん?
“タイミング合えば”って、ほぼOKでは?
一応、私という彼女がいるのに。
胸がざわつく。私は無意識に白衣の裾を握っていた。
その子と橘くんはいくつか会話を交わしてから、手を振って別れた。
彼女のにこやかに笑う笑顔の純粋さが眩しくて、かわいい。
私が男だったら落ちてる。
橘くんが再び歩き始めると、廊下で動けなくなっている私に気づく。
「一ノ瀬、実習終わったところ? 帰る?」
「……うん」
声がうまく出なかった。
彼女みたいに、可愛く笑うこともできなかった。
聞きたい。
さっきの子、誰?
でも聞けない。
付き合ってすぐ、それも流れで付き合った「おまけの彼女」みたいなものだ。
少し後輩と話してたくらいで、こんなこと聞いたら重いって思われるかも。
「一ノ瀬?」
私が何と言っていいのかわからなくて、それしか答えずにいると橘くんが私の顔を覗き込んでくる。
「どうした?」
「なんでもない」
「なんでもなくない顔」
問診する時のように顔を近づける。近い。
優しい目。
それがまた、苦しい。
「……さっきの子、可愛かったね!」
やっと出た言葉。「重い」と思われないように、努めて明るく振る舞った。
「ああ、バド部の後輩。明るいやつだよ。
看護学部の三年も、ちょうどいま小児科の実習らしくて」
明るい。
そう。
明るいのは私の担当のはずなのに。
「……私ってさ」
止まれ、口。
「かわいい?」
言ってから、全身の血が引いた。
重い。
面倒。
地雷。
最悪。
今の自分を表すワードが次々と頭の中をよぎる。
橘くんは一瞬、驚いた。
やっぱり。
やらかした。
「ご、ごめんごめん!今のは聞かなかったことに」
私が焦って取り繕おうとするが、橘くんは真剣な顔で私を見つめた。
「……なんでそうなる?」
「だって、ああいう子の方が」
「一ノ瀬」
遮られる。
「かわいいよ」
即答だった。
心臓が跳ねる。
「明るいし、ちゃんと患者さん見てるし、すぐ顔に出るし」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
笑顔でそう答えてくれる。
「女の子として?」
「そうだよ」
呼吸が止まる。
「でも、他の子と話したくらいでそんな顔するのは、意外だった」
「どんな顔」
「泣きそう」
ばれてる。
一滴、落ちる。
「ちょ、泣くなって」
「泣いてない」
「泣いてる」
慌てる橘くん。
それを見て、少しだけ笑える。
「……独占欲とか、初めてで」
言ってしまった。
ほぼ告白。
橘くんは少しだけ黙ってから言う。
「嬉しいよ」
「え」
「一ノ瀬が、俺のことでそんな顔してくれるの」
胸が熱くなる。
◇
二人で学生控室に戻ると、
今日はポリクリ班全員がそろったので、皆で学食に行くことにした。
桜友館大学の学食の人気メニューは唐揚げ定食で、
大きな唐揚げが6個ついており、大学生の底なしの胃袋を満たしてくれるうえに、600円というサービス価格だ。
この日も男性陣はみんな唐揚げ定食を注文した。
私もその流れに乗って唐揚げ定食を頼んだが、女性陣は少し軽めの日替わりパスタを頼んでいたので少しだけ恥ずかしくなる。
「GW実家帰ったからさ、お土産。デザートにどうぞ!」
サッカー部元主将の爽やか男・相沢くんが班全員に温泉まんじゅうを配ってくれる。
彼の実家は江戸時代から続く那須の老舗の和菓子屋さんで、
実家に帰るたびに、たびたびお菓子を振る舞ってくれた。
温泉まんじゅうは一口かじると、黒糖の上品な甘みが口いっぱいに広がって美味しかった。
「みんなは実家に帰った?」
相沢くんがそう尋ねてくれるが、女性陣はみんな東京出身なので首を振る。
「俺は今回は帰らんかったわ。どうせお盆に呼ばれるし。橘は?」
関西弁男子の谷口くんはかぶりを振って、橘くんに話題をパス。
「俺は帰ったよ。親父が地元の医師会の会合に来いって言うからさ」
橘くんは困った顔をして、少し肩をすくめた。
医者家系の家出身ではない私は、そんな付き合いがあるのか、と少しビビる。
それよりーー……。
「橘くんって卒業後は地元に戻るの?」
私は思わず橘くんに尋ねた。
地元の医師会に息子を顔を出させるということは
いつかは地盤を引き継がせるための面通しだろう。
橘くんは少しだけ躊躇って
「うん、いつかは、そのつもり」
と答えた。
真っすぐ顔を向けてくれているのに、なんとなく私は目をそらしてしまい、
そっか、とかはっきりしない返事をした。
「じゃあ初期研修はどうするん?」
谷口くんが再度橘くんに尋ねる。
5年生の夏休みはマッチング(就職希望)先の病院の見学などをする学生も多く、
進路の話がいよいよ本格的になる時期だ。
「初期研修は地元で受ける予定」
彼はひどくあっさりと答えた。
迷いのない、まっすぐな声だった。
「実家の病院で?」
「そう。うちは研修プログラムあるから」
彼の実家は長野最大級の四百床規模の病院だ。
三代つづく医者家系、一人息子。
完璧。
――玉の輿としては。
でも。
私は急に、喉の奥の渇きを感じて、つばを飲み込んだ。
ごくり、と音が鳴る。
長野。
東京駅から長野新幹線で約一時間半。
たった1時間半の距離、でも今まで私が生きてきた世界とは完全に別世界だ。
その日、橘くんと学生控室の前で会ったので一緒に大学病院を出た。
橘くんは駅へ向かい、私はバス停へ向かった。
地元の話はしなかった。
その背中を見送りながら、頭の中ではずっとぐるぐると彼との将来のことを考えていた。
遠距離恋愛。
多忙な研修医生活。
休みはお互いに不定期。
会える頻度はどれくらいだろう、月一? 二?
……無理じゃない?
舞い上がっていた自分の心に、釘を刺されたようだった。
玉の輿をずっと狙っていたけど、
急に将来が具体的になり、自分がいかに幼稚で地に足がついていなかったかを恥じた。
東京生まれ東京育ちにの私には、ここから出るという選択肢はなかった。
なんとなくこのまま東京で研修医になって、
どこかの病院に就職して、都内でずっと生きていくものだと思っていた。
橘くんは長野にすぐ帰る。
彼についていく選択肢もなくはないのかもしれない。
でも。
それ、私の人生?




