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第8話 『向いてるよ』

失敗は、だいたい少し慣れてきた頃に起こる。

ポリクリが始まって10週目、ゴールデンウィーク明け。

毎日のローテーションや患者さんの対応にも少し余裕が出てきた頃だった。


現在は呼吸器内科をローテ中。

その日の担当患者は76歳の男性。左の細菌性肺炎で入院していた。


「じゃあ学生さん、聴診してみて」

指導医の大野(おおの)先生が軽く指示をする。


「はいっ!」

元気よく返事をしたまではよかった。

患者さんの胸に聴診器を当てる。


真剣な顔をしてうんうんと頷く。

「どう?」

「……えっと、右肺にcoarse cracklesが」

ドヤ顔で言った瞬間、大野先生が首をかしげた。


「右?」

「はい」

「カルテよく読んだ? 左の細菌性肺炎で入院って書いてあったよね? それに左の下肺でしっかりcoarse crackles聴こえるよ」


空気が凍る。

……え?


「君、やる気ある?」


それを見た患者さんが場を和ませるように優しく言う。

「先生、こっちだよ」


左を指さしていた。


患者さんにとっての左肺は、私たちからは向かって右側になる。

完全に左右逆。初歩的なミスだ。


今回ペアの谷口(たにぐち)くんが肩を震わせている。


「お前それ国家試験だと落ちるやつやぞ」


うるさい。



失敗というのは続くものだ。

患者さんのカルテを記入していると

SpO₂を “90%” と書いたつもりが、 “60%” と誤記してしまっていた。


看護師さんに指摘され、青ざめる。


「すみません!!」

「大丈夫よ、学生さんだもの」


優しい。

優しい分、逆につらい。


私は控室に戻った瞬間、机に突っ伏した。



「……やっぱり医者、向いてない」

「今日3回目やぞ、そのセリフ。1回や2回の失敗くらい気にせん気にせん」


谷口くんがコンビニの袋に入ったお弁当を広げながら雑に私を励ます。


「だって左右間違えるとか小学生でもしないもん」

「小学生はSpO₂とか書かへんけどな」


そりゃそうだけど。

私も昼食をとるべく、弁当箱をロッカーから取り出した。


「まあ俺もこの前、心雑音の種類聞かれたのに、『ドクンって音します』って言ったら怒られた」

「教授の前で『ドクン』はないですよ」


結衣(ゆい)が即ツッコミ。

ポリクリ班は私を励ますように、いつものように賑やかしてくれる。

気持ちは嬉しい、なんとかそれに応えたかったが、私はうまく笑えなかった。



実習後。

私は一人で病院の屋上庭園にいた。頭を冷やしたかった。

東京の空は少し曇っており、いつもは日向ぼっこする患者さんで人気の屋上庭園も今日は人気(ひとけ)がなかった。


「……はあ」


ため息。

今日の失敗が頭の中をぐるぐる回る。


左右を間違える医者。

数値を書き間違える医者。


ただのミスだと励ましてくれる人もいるだろう。

でもここは命を預かる病院だ。

ミスをしたとき「うっかりしてました」とで許してもらえるわけがない。

そんな医者に命預けられる?


「無理でしょ」


ぽつりと自分で自分に言う。


医学部に入ったのに高尚な理由や背負うべき責任など私にはない。

基本的なことすらできないのに、こんな気持ちで医者になんてなっていいのだろうか。


「医者、向いてないのかな」

ぽつりと出た本音。


「何が?」


その時、後ろから声がして振り向くと、(たちばな)くんがいた。



「聞いてた?」


思わず出ていた弱音に、私は自分に酔っているみたいで恥ずかしくなった。


「最後だけ」


十分だ。


「左右間違える医者とか終わってるでしょ」

「そんなことよくあるよ」

「SpO₂も誤記したし」

「修正しただろ」

「でもさ」

声が震える。


「ミスしたのに患者さんも看護師さんもあんな優しくしてくれて。私、何もできてないのに」


視界が少し滲む。

最近、涙腺が緩い。


「……怖いんだよね」

「何が」

「私なんかが医者になるの」


初めて言った。


とりあえずで入った医学部。

4年生まででも実習はあったけど、自分の本音や恐怖心をなんとなくごまかしてここまで来れてしまった。だが今病院実習が始まって、病気や死と向き合う患者さんを見て、自分がこれからどんな世界に飛び込もうとしているか、実感してしまった。


橘くんは何も言わず、私の隣に立つ。


「俺も間違えるよ」

「嘘」

「ほんと。昨日、薬の用量ミスしかけた」

「え」

「指導医に止められて、患者さんに出す前に気づけたけど」


意外すぎる。


「でもさ、そういうミスを怖いって思えるのは、ちゃんと考えてる証拠だろ」


彼は空を見上げながらそう言った。

胸に刺さる。



「何も感じない方が、俺は怖い」


涼しい風が私たちの首元を通り抜ける。


一ノ瀬(いちのせ)さ」

「うん」

「今日、患者さんの話ちゃんと聞いてたじゃん」

「……それは普通」

「普通じゃない」


彼は真面目な顔で言う。


「あの細菌性肺炎のおじいちゃん、退院後の生活不安だって言ってたの覚えてる?」

「うん」

「俺、あそこまで深掘りできなかった」

「え?」


彼が私を見つめる目は優しくて、なんだかそれだけで胸が熱くなるのを感じた。


「一ノ瀬は向いてるよ」


「……何に?」

「医者に」


心臓が大きく跳ねる。

ぽかんと口が開いたままになってしまった私の唇に彼が触れて、

驚いて私は少し彼から離れてしまった。

その様子を見て、橘くんはまた微笑む。



「左右はそのうち分かるようになるよ。箸持つ方が右」

「馬鹿にしてる!」


私が肩をたたくと、彼は少しだけ声を出して笑った。



「でも患者さんの話を聞き出せるのは、才能」

「才能って」

「俺にはないとこ。一ノ瀬といると俺も気が緩むのか、口が滑るんだ。

話しやすい。患者さんからの聞き取りは大事だから、医者に必要な才能だと思う」


それは卑怯だ。

そんな真顔で言われたら。

胸の奥がじんわり熱くなった。


「……医者できるかな」

「できる」


即答だった。

迷いのない声。


「夜はまだ肌寒いよ、中に入ろう」


そう言って、彼はさりげなく私の後ろに回り、室内に入るよう促した。


「コーヒー飲みたいな、一ノ瀬付き合ってくれる?」


それはもう少し話に付き合ってくれるという合図に聞こえた。


私は黙ってうなずく。


「おごってくれる?」


その優しさに気づいていたけど、私は気づかないふりをして、冗談を言ってみる。


「自販機のコーヒーならいいよ」


いつの間にか、いつもの軽口が叩けるようになっていた。



『医者に向いている』

言葉の理由や根拠をしっかり話してくれたわけではない。

だけど彼の言葉はいつも胸にまっすぐ届く。



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