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第10話 『女の人生の「正解」』


卒業後はすぐに長野に戻るという橘くんの発言は、

私の頭の中をずっと支配していた。


そんな日々を過ごす中、爆弾は突然降り注いだ。



「今度の日曜、家に彼氏連れてくるから」


「「「は??」」」


大手証券マンの彼氏と付き合っている姉の突然の告白に、

それぞれリビングでくつろいでいた私たち家族は口を開けてぽかんとする。





そして、日曜の正午。


私はせっかくの休みだが

彼氏の前でネコを被った姉を冷やかしてやろうと思い、出かけず家で待ち構えていた。


そんなちょっといじわるな気持ちを持った私とは裏腹に、

父と母はどこか落ち着かない様子だった。

父は趣味の釣り雑誌を開いているが、ずっと同じページを見ているし、

母は客用のグラスをずっと磨いている。

リビングのテレビはバラエティ番組が流れているのに、誰も笑っていない。



その時、玄関のインターホンが鳴った。


父と母が二人して玄関まで迎えに行くと、

そこには駅まで彼を迎えに行った姉と、

スーツ姿の青年が緊張した面持ちで立っていた。


「今日はお招きいただきありがとうございます」


短い髪の毛をワックスで整えた、今どきの営業マンといった風貌の青年は物腰柔らかに挨拶をし、育ちのよさそうな上品な笑みを見せた。



リビングに通し、ダイニングテーブルに5人で座る。

父と彼氏は盛り上がらない天気の話をしており、母が妙に落ち着かない様子でお茶を淹れている。



「今日は改まってどうしたの?」

「えーとね」

私が言うと、同じくしびれを切らしたらしい姉――くるみが咳払いをした。



「結婚、決まりました」

その一言でようやく場が動き出した。


「その挨拶に伺いました、お父様お母様これからよろしくお願いいたします」

彼氏は深々と頭を下げた。



「あら~!よかったじゃないくるみ。おめでとう!」


母の声が弾む。

父も珍しく満面の笑み。


 私は、ほんの一瞬遅れて言った。


「……えっおっおめでとう」


くるみは照れながら続ける。


「式は来年の春予定。向こうのご両親にも挨拶済み」

早い。

段取りが、早い。


「トントン拍子ね」

「てか早くない!? この間付き合ってなかった?」


「いや、もう付き合って1年経つし。やっぱタイミングだよね」


そして姉が私を見る。


「いい人は早めに捕まえないと」


その言葉が、ぐさっと刺さる。


三つ上の姉が25歳で結婚。

出会いは24歳の時だという。


私が24歳の時は初期研修医1年目できっと彼氏を作る暇なんてないだろう。

やっぱり玉の輿結婚するためには今、相手を見つけておくしかない。


文系私立大学を卒業し、一般企業に就職。

合コンで出会った大手証券マンを捕まえて25歳でゴールイン。

目の前で常に女としての「正解」を歩んでいく姉に、私は少し焦りを覚えた。




週が明けて月曜。

病棟で学生同士、聴診法による血圧測定の練習中。


聴診法は、上腕に巻いたマンシェットの圧を徐々に下げ、動脈から聞こえる音(コロトコフ音)の「始まり(収縮期)」と「消え(拡張期)」を聴診器で聞き取る方法で、ポリクリ開始前に医療面接や身体診察などの実技能力を評価する客観的臨床能力試験(通称:OSCE)の試験内容として問われる。


しかし、聴診法のやり方を覚えても、ポリクリ中に実際に血圧を測定する機会に恵まれないことも多いので、ときどき練習して忘れないようにしている……のだが。


叶梨(かりん)、血圧は?」

「え、あ、コロトコフ音聴いていなかった……」

「それじゃ拡張期血圧しか分からないじゃない」


朝倉(あさくら)さんのツッコミに、結衣(ゆい)が笑った。

私はうまく笑えない。

実習中もどこか上の空になってしまった。



作業の合間に、ナースステーションの隅で、スマホを見ると姉からLINEが届いている。


《くるみ:式場見学行ってきた♡》


そこには白を基調としたチャペルと、キラキラした披露宴会場の写真と

幸せそうにはにかむ姉が映っていた。


結衣はコーヒーを飲みながら隣に座った。


「何かあったの?」

(たちばな)くん、卒業後すぐ長野帰るんだって」

「まあご実家が長野なら予想できたことですよね」

「そうだけど……」


今まではただの“情報”だったのに、

付き合い始めて、

そして好きになってしまって、それは急に“現実”になってしまった。


「で、叶梨はどうしたいんですか?」

結衣が真正面から聞く。


「私は……東京に残りたい」

言ってしまった。


「東京の方が医療資源も豊富だし、最新の医療にもずっと触れていられるし……」

「うん」

「長野で院長夫人になる未来は……想像できなくはないけど……」

「テンション低いわね」


図星をつかれてしまった。

医学部に入るのはただの「玉の輿」にのるための手段だった。

だけど5年間ここで過ごすうちに、医師としての未来も考えるようになっていた自分に気づく。



「でも……好きになっちゃったからさ……」


それに続く言葉は、まだ出てこなかった。

私の頭を結衣がポンポンと優しくなでる。


「これは持論だけど」

優しい瞳で朝倉さんは言う。


「『好き』というのは、“相手に合わせる”ことじゃないわよ」

「じゃあ何」


「どっちかが我慢する恋は長続きしないの」

「我慢……」

「東京諦めて長野行くの、一ノ瀬さんは我慢にならない?」


なる。

多分、なる。

でも。



「橘くんと別れるほうが怖い」


ぽろっと出た本音。



「逆にですが」

今度は結衣が言う。


「橘くんはどう思ってるんですか」

「え?」

「叶梨が東京にいたいって知ってるんですか?」


私は首を横に振る。

知らない、そもそも言ってない。


「話してないんですか?」

「うん……」

「それで一人で葛藤してるの?」

「……はい」


朝倉さんと結衣は深くため息。


「まず対話。話し合いしないと」


正論。

ぐうの音も出なかった。



夕方の自習室、ポリクリ班の皆と国家試験対策の勉強をしていると橘くんのスマホの着信が鳴った。

初めて聞く音だったので、思わず画面を見てしまう。

そこには「父」と表示されていた。


ほんの一瞬だけ、橘くんの指が止まったのを私は見逃さなかった。


「出ないの?」

「出るよ」


いつも通りの声。

でも少しだけ低い。


通話ボタンを押して、廊下に出る彼の背中を私は黙って見送った。


自習室と廊下を隔てるすりガラス越しに、橘くんが軽く頭を下げているのが見えた。


父親との電話なのに、まるで取引先みたい、と思った。

その姿はいつも私が見ている橘くんとは違って、妙に大人びて見える。


数分後、戻ってきたが、表情は変わらない。

変わらない、はずなのに。


「なんだったの?」


私は詮索されている、と捉えられないように努めて軽く聞いたつもりだった。


「来月、帰ってこいって」

心臓がどくんと跳ねる。


「法事とか?」

「いや」

橘くんは少しだけ視線を落とす。


「家族会議。俺がいつ実家に戻るかって議題で」


空気が凍る。

ああ。

病院の。

“あっち側”の話だ。


「……実家に戻るのは、もう決まってるの?」

「戻るかどうか、話したことはない」

即答。

でもその声は、少しだけ硬い。


「でも、父さんはそう思ってる」


息子が医学部にはいったら、それは家業を継ぐと思うだろう。

私は迷いながら、そっと尋ねてみる。


「……東京に残りたい気持ちはないの?」


橘くんは困ったように笑った。


「名残惜しいけど、そんなこと言ったら揉めるだろうなあ」


冗談みたいに、でも目は笑っていない。

私は昨夜の結衣の言葉がよぎっていた。


――話し合いしないと。


だけど私は初めて理解した。

長野に帰るのは彼の“夢”や“希望”じゃない。

彼の“家”の希望であり、長男としての“責任”であり“期待”だ。

私が勝手に悩んでいた将来とは重さが違う。



「嫌なの?」


聞いてしまった。

橘くんは少し考える。


「嫌じゃない。でも、すぐ跡を継ぐ決心ができるほど簡単な話でもない」


それは初めての本音のような気がした。



「一ノ瀬はもし、俺が予定通り長野に戻ったらどうする?」


逆に名前が呼ばれて、私の心臓ははねた。


真っすぐな問い。

“彼の未来に私はいるの?”なんて甘い問いじゃない。

“彼のために人生を変えられるのか?”

もっと現実的な、自分の将来に対する問い。



「……まだ、わからない」


簡単には答えられない、ごまかすこともできない。

正直に言うと、橘くんはうなずいた。

傲慢かもしれないがその顔が少しだけさみしそうに見えた。


私は初めて感じる。

私が見ていない、橘くんの一面があること。

そしてそれは私が入り込むにはあまりにも完成された世界。


そこに入る覚悟があるかどうか、問われた気がした。

私の「正解」はどこにあるんだろう。


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