第6話 『専攻医にご用心』
ポリクリ8週目、今日から整形外科研修中。
「初めまして、医学部5年の一ノ瀬 叶梨です。
今日からお世話になります」
初日の朝は毎回、カンファレンスルームで教授陣たちに挨拶をする。
整形外科の先生方は明るい方が多く、朝礼も和気あいあいとした雰囲気だ。
「教授の先生方は手術で出入りが激しいから基本的に僕が君たちと一緒に回ることになりました。
専攻医の手越です。診察したり、病棟回ったりするからよろしくね」
手越先生は27歳の専攻医2年目で、
ラガーマンのようにがっしりした体形、爽やかで優し気な好青年といった印象で
厳しい教授たちの指導が続いていた私たちは少しホッとした。
手越先生には橘くん、谷口くん、私がつき、膝関節診を回らせてもらうことになった。
手越先生は典型的な兄貴肌のスポーツマンといったかんじで、
昼ご飯に私たちを連れて行って奢ってくれたり、「差し入れ」といってデパ地下で売っているような大きい豚まんを買ってきてくれたりしたので、
実習後半には我々3人はすっかり胃袋を掴まれていた。
そして整形外科実習最終日。
「手越先生、寂しいですぅ」
「ほんまに、めちゃ満たされた日々でしたわ」
「ははは、若い子がいっぱい食べるところみると、こっちまで癒されるよ」
彼はそう言って、私たちに駅前で買ってきたという鯛焼きを分け与える。
ここに来てほぼ初登場だが、
この関西弁の男が、谷口 直哉。2浪&1留しているので年齢は少し上の25歳だ。
関西人らしく(というと、偏見かもしれないが)明るくいつも軽口を飛ばして場を盛り上げる、
我々5班のムードメーカーである。
「俺、今日はもうこれで上がりなんだ。
皆も時間あるなら、今日は4人で打ち上げにでも行こうか」
「あー……俺、今財布がちょっと寂しくて」
「もちろんおごるよ。学生に払わせられないよ」
「行かせていただきます!!!!!!!」
手越先生がお前なあ、と言いながら大声で笑う。
谷口くんのノリの良さに釣られて、私と橘くんもその話に乗る。
医学部……というか医者の世界というのは意外と体育会系で
上司との飲みニケーションもいまだに多いので、こういうノリについていけるか、というのは意外と素養として求められる。
谷口くんは留年こそしたが、先輩たちに可愛がられるタイプで出世しそうだ。
手越先生が連れて行ってくれたのは、新宿の西口側にある洋風酒場だった。
蔦が絡まる洋風づくりの一軒家で手狭だが雰囲気があり、
お客さんも常連さんばかりのようで、マスターと楽しく談笑をしている。
こういう店を知っているなんて、やっぱり大人だなと思った。
料理も美味しく、酒の種類も多い。
橘くんと谷口くんは手越先生に珍しい種類のカクテルや、ワインを教えてもらって
何杯もぐびぐびと飲む。
最終的に橘くんは寝てしまい、谷口くんは呂律が回らない関西弁でしゃべり倒していた。
「二人ともかなり酔わせちゃったなあ、申し訳ない。」
そういう手越先生は顔色一つ変わっていなかった。
「いいえ、20歳も超えて、自分の許容量を把握できていない二人が悪いです」
そう言いながら、私は二人が余らせた残りのワインの瓶を空にする。
「明日もあるし、この場はお開きにしようか」
私もうなずくと、手越先生はてきぱきと会計をしてくれて
4人で店を出た。
「一ノ瀬さんは何線で帰るの?」
「西武新宿駅まで歩きます」
「歌舞伎町のほう、危ないから駅まで送るよ。
谷口くんたちは?」
「俺たちはJR新宿駅までいきます!」
谷口くんはまだ顔は赤いが
寝ている橘くんに肩を貸せるくらいには足取りがしっかりしていた。
「まあ男二人はどうとでもなるでしょう、気をつけて帰ってね。
一ノ瀬さん、行こう」
手越先生と苦笑いしながら、二人が新宿駅へ向かうのを見送ってから
私達も西武新宿駅のほうへ向かった。
新宿のドン・キホーテの前の道は、人通りも多く、自然と手越先生との距離も近くなる。
「整形外科ってやっぱり忙しいですか?」
「意外とそんなことないよ。割とQOL高い科だと思う。今日みたいに飲み会でたまに発散もできるし」
自分自身が将来どの科の専門に進むかは医者2年目の終わりに選ぶ。
どの科の専門を選ぶかによって医者の人生は如何様にも変わる。
患者さんの命を救うことを生き甲斐として医学の道を邁進していくか
自分自身のワークライフバランスを重視していくか。
残業や当直、オンコールなどの時間外労働なども科によって変わる。
大学のほぼすべての科を回るポリクリは、自分の将来を具体的に考える、初めての機会ともいえた。
実家が医者の家系の子は、大体は自分の家業の専門を選んでいくが
私は特にそういった伝手もないので、今まさにまっさらな状態だ。
「一ノ瀬さん、専門どうするか悩んでるの?」
「はい、どの科の先生もいい人で、迷っちゃって」
叶うなら、医者2年目までに結婚相手を決めて
一番ワークライフバランスが取れる科に行きたい。
「じゃあ整形外科のこと、アピールしなくちゃ。
どう? これから二次会でも」
腕時計を見ると時刻はまだ22時すぎ。明日研修に行けば明後日は土曜で休日だし、
今日ちょっとくらい夜ふかししても大丈夫か。
「じゃあ行きます」
「行こう行こう。ちょっと歩くけど、いい?」
「はい」
手越先生と仲良くなっておけば、整形外科に進んだ時いろいろとやりやすいだろうし、
友達だって紹介してもらえるかもしれない。
何より手越先生の誘いがあまりにも爽やかだったので私は油断した。
「ここだよ」
西武新宿駅を通り越し、
西新宿のほうへ向かっていくと喧騒から離れ、どんどん住宅街に入っていった。
手越先生が指をさしたのは高層マンションだった。
「散らかってるけど」
私は初めて気づいた。――やばい、と。
「あの、私――帰ります。今日はありがとうございました」
「時間まだ大丈夫でしょ? この間いい酒もらったんだけど、一人じゃ飲みきれなくてさ」
手越先生は私の手を握る。掴んで脅すようなものではなく、恋人にするような動きだった。
さすがに自宅に二人きりは危ない。
でもここで強引に帰ってしまったら、手越先生は気を悪くするだろう。
実習の評価にも、もしかして響くかもしれない。
様々なことが思い浮かんだが、手を掴まれたとき一番に思ったことはーー「怖い」だ。
「あの、私明日早くて……」
「一ノ瀬さん!」
その時、誰かが私の名前を呼んだ。
「借りてた教科書返すの忘れてた」
手越先生と同時に声の主のほうへ振りむくと
そこには肩で息をする橘くんが立っていた。
「二次会ですか? 僕も行きたいです!」
ゆっくりとこちらに近づいて、そしてさわやかな笑顔でいう。
さすがバトミントン部、と私はどうでもいいことを考えた。
「あー……いや、そのつもりだったんだけど、一ノ瀬さんが明日早いらしいから
解散するところだよ」
その爽やかさに押し負けたのか、手越先生はあっさりと私の手を放した。
「そうですか、じゃあ一ノ瀬さん、駅まで戻る?」
「う、うん」
「じゃあ一緒に行こう。手越先生今日はありがとうございました!
あそこの店のピザ、マジでうまかったです!!」
にこやかにいう橘くんに釣られたのか、
手越先生も笑って「また行こうな」と言って見送ってくれた。
6月に吹く風は生ぬるくて、少し歩くと、肌が汗ばむ。
だからなのか、さっきのやり取りの緊張が今になって押し寄せたのか、
私の体温はずっと高くて、胸がドキドキいっていた。
橘くんは来ていたデニムジャケットを脱いで、Tシャツ1枚になって襟元を仰いでいる。
背中はじっとりと汗ばんでいて、彼の肌に張り付いていた。
「教科書、私貸してない」
何を言えばいいのかわからなくて、可愛くないひとこと。
「うん、ごめんな」
「……なんで来てくれたの」
「バド部の先輩から、手越先生はいい人だけど
女癖悪いから気を付けろって言われてたから、一応」
「もっと早く教えてよ……」
手越先生、容姿だけ言えばそんなにイケメンというわけではないので
偏見かもしれないがそんなふうに見えなくて油断した。
「さっきまでぐっすり寝てたのに、よく覚醒したね」
「少し寝たら復活するタイプ。あと」
「あと?」
「一ノ瀬さんがピンチかもって思ったら目ぇ覚めた」
ドキッとした。
「それってどういう意味?」も聞けなくて、
私はヒーロー見たいじゃん!とおどけて誤魔化してしまう。
「それにしても医者ってあんなんばっかかよ~……」
「そうでもないと思うけど」
「もうやだよ~
じゃあ、橘くん私と付き合ってよ!
そういう人ばっかじゃないって証明してよ~」
どっと緊張がほどけて、いつもなら言わないダルがらみをしてしまう。
「いいけど」
「え?」
思わぬ答えに顔を上げる。
橘くんはさっきの爽やかな笑顔から打って変わって、真剣な顔をしていた。
月の光に照らされた彼の顔がいつも以上にかっこよく見えた。
こうして私はあっさりと彼氏をゲットしたのだった。




