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第23話 『橘くんの秘密』

精神科ローテーション3日目。

あの飲み会の後、菊本(きくもと)先生はおとなしく学生に絡んでくることはなくなった。

どうやらあの後、愛理沙(ありさ)にキツくお灸をすえられたらしい。



私はカンファレンスの前にローテーション中に担当を任されている患者さんと話をしようと、早めに大学病院に来ていた。

そのお供にと、自販機でアイスティーを買って

医局へ戻るために廊下を進んでいると、ナースステーションの横にあるスタッフ用の通路の奥で、見慣れた横顔が視界に入った。

(たちばな)くんだった。


すでに白衣に着替えており、綺麗な姿勢で立たずんでいる。

その向かいにいたのは、精神科の実習担当の津田(つだ)准教授だった。


文献資料を片手に、いつも通り穏やかな表情で何かを確認している様子だった。

診察室の中ではなく、廊下の延長にある半分オープンなスペースで、医師同士が軽くやり取りをしている――そんな、ごく自然な光景。

なのに。


「最近はどうですか? 眠気のコントロール」

津田先生の声が聞こえる。特別意識しなくても聞こえる大きさだったので、耳に入ってしまった。

私は思わず足を止める。


「以前よりはマシです」

橘くんの声。

いつも通り落ち着いて柔らかい彼の声だ。

だけど少しだけ緊張をはらんでいるように聞こえた。


「薬は今の量でいけそうですか?」

「多分、大丈夫です」


会話の意味を理解するのに、少し時間がかかった。

――眠気? 薬?

頭の中で言葉が引っかかる。


指の力が抜けたのか、

私の手から持っていたアイスティーが滑り落ちた。


ゴトン。


その音に気付いて、橘くんがこちらを見た。

視線が、合う。

彼の目が大きく開かれた。


「……一ノ瀬(いちのせ)

名前を呼ばれて、誤魔化す余地はなくなった。


「……ごめん、たまたま通りかかって」

正直に言うと、橘くんは少しだけ困ったように笑った。


津田先生は状況を察したのか、軽く「また後で」とだけ言って、その場を離れていく。

残されたのは、私と橘くんだけ。


さっきまで普通に歩いていたはずの廊下が、急に静かになった気がした。

その沈黙が怖くて、私は彼から目をそらすために落としたアイスティーを拾う。


「……どこから聞いた?」

指先に力が入る。


「……眠気のコントロール、とかそのへん」

隠す意味もないから、そのまま答える。

 

橘は一瞬だけ目を逸らして、小さく息を吐いた。

「そっか」


「……なんの話してたか、聞いてもいい?」

私は真っすぐ問いかけてみる。


彼は少しだけうつむいて、廊下の端っこにあるI(インフォームド・)C(コンセント)室を指さして、そこに向かった。

少しだけ後ろでついていく。


何から聞いたらいいのか分からない。

だが、パズルのピースが少しずつはまっていくような、そんな感覚があった。


――いつも寝てばかりいる休み時間。


――ポケットに入っている、眠気覚まし用のガム。


――那須塩原の夜、会話の途中でも寝てしまった、彼の横顔。



IC室は医師が患者さんに病状を説明するための部屋で、

席が4つほどのの狭い空間だ。

必然的に少し距離が近くなる。

この朝の時間にこの部屋に来る人はおらず、

重い扉で閉ざされたこの密室は、秘密の話をするには最適と言えた。


パイプ椅子に横に並んで座り、体を少し彼の方向へ傾ける。

私は彼の言葉を待つ。

ずっと見つめていると、彼がそっと視線を上げて目が合った。

それから、観念したみたいに口を開く。


「俺さ、ナルコレプシーなんだよね」

あっさりとした言い方だった。

あまりにも普通で、逆に言葉の意味を受け止めるのに時間がかかる。


「……ナルコレプシーって」

単語が、ゆっくり頭の中に浮かぶ。

精神科の講義で聞いたことがある。

医師国家試験対策本にも隅っこに書いてある程度だと記憶している。


「急に寝るやつ。

日中に強い眠気きたり、気づいたら寝落ちてたりする」

橘くんが軽く説明する。

でも、それで十分だった。

今まで見てきた橘くんの姿が、全部繋がる。

思えば、授業中にうたた寝をしていても橘くんだけは教授たちに指摘されることがなかった。

おそらく先生方には共有をされているのだろう。


「……なんで言わなかったの。

昨日言ってたらあんなに菊本先生に責められることなかったのに。」


責めたいわけじゃない。

でも、自分にはどうしようもないこと、自分自身が一番コンプレックスに思っていることをみんなの前であんなに詰められた彼の気持ちを想うと、やるせなくて、気づけばそう聞いていた。


「私も、那須塩原でひどいこと言った」


縁談の話が彼にあると知った時、眠ってしまった彼を責めた。

彼にはどうしようもないことだったはずなのに。


「……言えないよ」

橘くんは肩をすくめる。

その一言にすべてが詰まっていた。

軽く「言えば良かったのに」と言ってしまった自分の失言を恥じた。


「……大変だったよね」

「まあ、それなりには。

でも薬である程度コントロールできるし、慣れてる」


彼は笑いながら言った。なんでもない、とでも言うように。

慣れてる、か。

その一言が、少しだけ引っかかる。

どれくらいの時間、それと付き合ってきたんだろう。

どれくらい一人で処理してきたんだろう。



「引いた?」

橘くんがふっと笑いながら言う。

軽いトーンなのに、ほんの少しだけ怯えが混ざってるのが分かる。


「え?」

「病気持ちとか、面倒じゃん。菊本さんに言われたこと、全部図星だった。

前みたいに人の話の途中で寝ちゃうもことあるし、座学どころか実習だって起きてられない時もある。

緊張感のある場所に限って寝てしまうことが多いんだ。

だから那須塩原で話してた時は、話の途中で落ちちゃったんだと思う。あの時すぐに言えばよかったのに、ごめんな」


「……謝らなくていい。話の途中で逃げたのは私のほうだよ」


あの時、彼は何か言おうとしていた。


それから言葉が詰まる。

実習に入ってから病気で苦しんでいる人たちをずっと見てきた私は

彼らにとって安易な「大丈夫だよ」がどれだけ傷つけるのかというのを知っていた。

そして彼は小さな声でつづけた。


「こんな人の話もまともに聞けないやつと 関わりたい人いるのかなって思う」


確かに驚いた。

正直、動揺もしてる。


でも――。

「いるよ」

それだけは迷いなく言えた。

持っていたアイスティーのペットボトルを握りしめると

結露した水滴が床に落ちる。


「橘くん、いつも私のくだらない恋愛相談も、聞いてくれたじゃん。

当直の日、睡眠時間削ってまで聞いてくれたじゃん。

あれ嬉しかったよ。婚活うまくいかなかった時も橘くんに報告できるからいいやって楽しみにしてた。


菊本先生の飲み会だって、自分から隣に行ってくれたし周りのことよく見てると思う。

むしろ人に気を使いすぎなくらいだって思ってた」


橘くんの瞳が少しだけ揺れる。


「患者さんの話も根気強く聞いてるし、

班の中で一番褒められるの橘くんだし、

医者絶対向いてる」


彼は患者さんと話すとき、よくメモを取っていた。

熱心だなとは思っていたが、あれも眠気覚ましの刺激の一環なのだろう。


なんとか彼を励まさなければという気持ちが先を急いで、

自分でも何を言っているかわからなくなる。

それでもここで言い淀んではだめだ。


「私は関わりたいよ。

関わらせてよ。私、いつも橘くんの隣にいるよ!」


半分叫ぶみたいに、そこま一息に言うと

自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。

沈黙が続く。


「……ごめん、何の解決にもなってないけど……」


橘くんの顔が見れなくて、うつむくと、さっきペットボトルから床に落ちた水滴が見える。

その瞬間、そこにもう1滴、零れ落ちた。

不思議に思って顔を上げる。


「ありがとう」


橘くんはそれだけ言った。

眩しそうに目を細めて、

いつものように優しい穏やかな笑顔に見えた。


「戻ろうか」

「う、うん」


IC室の扉を開けて、私たちは医局に向かった。

扉を開けた瞬間、冷たくて気持ちいい風が私達の横を通り抜ける。


橘くんの表情は見えない。

行きは固く握られていた橘くんの拳が、少し緩んでいたのを見て

私は少しほっとした。



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