第18話 『元カレに再会する』
夏休みが開けて、再びポリクリ実習が再開した。
開けた、といってもまだ8月だ。
スケジュールの関係なのか、医学部の夏休みはだいたい8月中に開ける。
今週は19週目。泌尿器科研修が始まった。
「おはよー!」
学生控室ではすでに同じ班の結衣と愛理沙が来ており、白衣に着替えていた。
いつもの日常が戻ってきた。
結衣はすでに泌尿器科で渡された資料を読んでおり、私も慌てて準備をする。
「そういえばさあ、橘くんと別れた」
勉強の邪魔をするのも悪いので、私はいつもと変わらないトーンで話したつもりだったが
二人は勢いよく資料から顔を上げて
「「いつ!?」」
と私に迫った。
「えっと、花火大会の日……」
「帰りの車の中で、イチャついてると思ったのに……
あの時には別れてたってことですか?」
私はえへへ、と言って笑った。
「地域医療実習行って思ったよ。私、長野に行って医者やる自信がない」
街の人の医療を支える城戸院長はカッコよかった。
一人一人とコミュニケーションを取って、密な付き合いをして
患者さんの容態を見て専門外の治療も判断していく。
どんな科の知識もある圧倒的なジェネラリストが求められる。
だからと言って、「院長夫人」になる自分も想像がつかない。
「正直、いま「結婚」まで考えなくてもいいのかなって思ったけど、
それは私のポリシーに反するから」
「玉の輿にのる」「学生のうちに結婚相手を見つける」
そのために私は医学部に入ったのだから。
結衣と愛理沙が心配そうに、私を見つめる。
「そっか……でもずるずる付き合うよりも、ずっといいわよ。
まだそんな気分にはならないかもしれないけど紹介とか必要になったら言ってね」
愛理沙が私の肩をポン、と叩く。
「え? 紹介して紹介して! もう次の恋始めたい気分だから!」
私は愛理沙のその手をぎゅっと握った。
二人は私の明るい声に思わずぎょっとしている。
そう、もう次の恋探しを始めている。
地域医療実習が終わって東京に戻ってきたその日には、私はマッチングアプリの登録を再開していた。
そして残りわずかだった夏休みですでに5人、新しい恋人候補に会っている。
お互いどこかダメなところがあったわけではなく、それぞれの希望する道が交わらなかっただけだし、
そんな深い付き合いをしたわけではなかったので、正直ノーダメージ。
実習で顔を合わせても、笑顔で対応できる自信もある。
逆にもっといい男を捕まえてやろうと燃えているくらいだ。
東京で医者になるという目標もできたので、実習の熱意も高い。
私はいつも以上にてきぱきと今日の業務をこなし、
指導医の先生を驚かせて見せた。
「じゃあ皆、お疲れ様ー!」
私はいつも以上に元気よく、小走りで控室を出て
廊下を歩いていると懐かしい風が吹いた。
「―― 一ノ瀬?」
名前を呼ばれ振り返った先にいたのはーー。
「関根…仁先輩」
写真部の先輩で、かつて――将来を見据えて、真剣に付き合っていた相手。
けれど。
その「将来」を理由に、終わった恋だ。
「……お久しぶりです」
先輩は救急外来へ続く廊下にある自販機横のベンチに座っていた。
白衣の上からでも分かる引き締まった体つきに、首から下げられた聴診器が自然に馴染んでいる。
春までは同じ学生だったのに、彼はもう“医者側の人間”として歩き始めていて
なんだか不思議な気分だ。
「先輩、東京社会保険病院で研修してるはずじゃ? なんでうちの大学病院にいるんですか?」
「救急の患者さんの付き添いできたんだ。引継ぎが終わって、今 休んでたところ。一ノ瀬は……実習?」
笑うと八重歯が見える人懐こいその顔は、昔と変わらないはずなのに、どこか遠く感じた。
「はい。ポリクリです」
「そっか。じゃあ、あと少しで医者になるんだな」
彼は言葉を選ぶように視線を落とした。
その仕草を見たとき、不意に、あのときの記憶が鮮明に蘇った。
――彼は写真部の先輩で、私は彼と将来を見据えて、お付き合いをしていたのだが、彼のほうは違ったようだ。
――「そうじゃないけど…… 一ノ瀬の家、医者じゃないじゃん。だから、親もあんまりいい顔してなくて。お互い将来考えるなら早い方がいいだろ」
あのとき、彼は今と同じように、少しだけ言葉を選びながら、けれど迷いなく“正しい選択”を差し出してきた。
「俺、今日はこのまま直帰できるんだけど……時間、ある?」
その一言に、私は一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。
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駅前のカフェは、夕方の西日が大きな窓から差し込み、白いテーブルの上に置かれたコーヒーカップの影をくっきりと浮かび上がらせていた。
「やっぱり最初は何もできなくてさ。
患者さんのルートをとるのも一苦労だったけど、
場数踏んで慣れてきて、最近 上級医にも褒められるようになってきたよ。
今は脳神経内科回ってて、この前初めてルンバールやらせてもらったよ」
向かいに座る関根先輩は研修医としての忙しい日々を、どこか充実した様子で語っている。
「一ノ瀬は? 専門何にするか決めた?」
「……どうでしょうね」
「彼氏は?」
「……」
私が言いよどんでいると彼は、まっすぐこちらを見た。
「親に一ノ瀬の話したらさ、別に医者家系じゃなくても気にならないって」
一拍置いてから、続ける。
「もう一回、やり直さない?」
あまりにも自然な提案だったので、思わずうなずいてしまいそうだった。
しかし。
「……関根先輩」
私はカップに視線を落としながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「やっぱり、“そういう理由”なんですね」
「え?」
「家とか、親とか、将来とかの条件がそろったから……」
顔を上げると、彼は少しだけ戸惑ったように眉をひそめた。
「それは……大事だろ」
迷いのない返答。
「ごめんなさい」
気づけば、言葉は自然に口から出ていた。
自分でも驚いていた。
関根先輩は東京の開業医の息子で、羽振りが良くて、
ちょっとプライドは高くてお坊ちゃま気質だけど 顔もかっこよくて……
自分が夢見ていた「玉の輿」に乗れる優良物件だ。
「やり直せません」
「……なんで?」
静かな店内で、遠くの席の笑い声がぼんやりと響く。
「私も、それぞれの家の事情とか、スペックとか条件で恋しようとしてました」
でも。
「だけど、最近そうじゃないのかもって。もっと単純でいいのかもって」
はっきりと、そう言い切った。
理屈じゃなくて気持ちが傾く方へ。
「一緒にいたい、って思える人がいます」
その瞬間、胸の奥で、橘くんの顔が浮かんだ。
不器用で、面倒で、でも――。
どうしようもなく、そっちのほうがいいと思ってしまう人。
関根先輩はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そっか」
それ以上は、何も言わなかった。
それがきっと、この人なりの優しさであり、同時に距離でもあるのだと思う。
「さっき考えてる時、誰か思い浮かんだんでしょう」
「え?」
図星を突かれて、私は飲んでいたカフェオレを吹く。
嘘を付けないところ、変わってないなと先輩は笑った。
「うまくいくといいな」
「どうでしょうね……この間、大事な話ししている最中に居眠りされて
私のことあんまり興味ないかも」
橘くんがご両親に押し進められて縁談を了承してしまい、私が詰め寄っている最中に
彼は居眠りをしていた。
そういえば「長野問題」以外にその引っ掛かりもあった。
自分にとって「一緒にいたい」と思う人が、相手もそうとは限らない。
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店を出ると、夕方の光が街を柔らかく染めていて、長く伸びた影がアスファルトの上に重なっていた。
関根先輩と別れて、駅までの道をひとりで歩きながら、私はようやく理解する。
自分が何を選びたいのか。
「……橘くん」
小さく名前を呟いたとき、その響きは驚くほど自然に胸に落ちた。
私は真っ赤に染まる空を見上げた。
なんでこんなにグダグダと考えていたんだろう。そんなものは性に合わない。
決めた。
橘くんに好きになってもらえるように頑張る。この一択だ。




