表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/35

番外編③ 『老舗和菓子屋の長男』

8月の那須塩原は温泉や避暑を求める観光客でにぎわう。

桜友館大学(おうゆうかんだいがく)医学部ポリクリ班第5班を乗せたミニバンを運転しながら、相沢遼(あいざわりょう)はバックミラー越しに後部座席を見た。


「はいはい、そこイチャイチャせずにシートベルト締めろ」

「してる! シートベルトはしてるけどイチャイチャはしてない!」

一ノ瀬叶梨(いちのせかりん)が即座に否定し、橘和真(たちばなかずま)が苦笑する。

相沢はにやりと笑った。


いつもは都内の病院で白衣を着ている仲間たちが、今日は自分の地元・栃木県那須塩原市にいる。

なんだかこそばゆい気持ちになるが、嬉しい。

だが、観光に来たのではない、塩原記念(しおばらきねん)病院(びょういん)での地域医療実習のためだ。


そして――相沢にとって今日は、ただの実習の一日目ではない。

“実家に凱旋する日”だった。



________________________________________


仲間たちをホテルに送り届けると、相沢はホテルの駐車場に車を置いたまま

徒歩で温泉街へと向かった。


そこに、相沢の実家である和菓子屋は位置している。


実家の暖簾をくぐった瞬間、相沢は無意識に背筋を伸ばしていた。

江戸時代から続く和菓子屋「相沢菓子舗(あいざわかしほ)」。


甘い餡の香り。

蒸し器の湯気。

壁にかかった歴代当主の写真。

「おかえり、遼」

そして温かい母の声。


ずっと変わらないこの光景に、

相沢の胸は甘酸っぱい気持ちでいっぱいになる。


「ただいま」

ここでは彼はムードメーカーでも、サッカー部主将でもない。


“相沢家の長男”だ。



________________________________________


もともと医学部の中でも優等生である相沢だが、

実習中は、いっそう真面目に取り組んだ。

実習席の塩原記念病院の院長が、自分の志望である外科専門というところもあるが

地元の人々に恥ずかしいところを見せられない、という気持ちも強かった。


城戸健一郎(きどけんいちろう)院長の回診では、誰よりもメモを取り、

患者の診察では生活背景を丁寧に聞き出す。



「相沢くんは地元だろう。どう思う?」

そう城戸院長に問われたとき、彼は少しだけ言葉を選んだ。


「ここは……病院が“医療機関”っていうより、“生活の一部”なんですね」

地元にいるときは気づかなかった。

都会と地方の差。

彼が学ぶ大学病院と違い、ここでは患者は皆 顔見知り。


話す話題は街の祭りや、商店街や、温泉街の話。全部つながっている。

医師はただの専門職ではない。“町の人”なのだ。


その重さを、相沢は初めて実感していた。


――和真が背負っているものって、これよりもっと大きいんだろうな。


相沢は橘の家の事情を思い出す。


橘の家は四百床規模の総合病院で、彼はそこの三代目。

実家を継ぐというレールが、彼の前には敷かれていた。


一方で相沢は江戸時代から続く老舗和菓子屋の本家の長男ではあるが

和菓子屋を継ぐというレールは、彼の前にはもうなかった。


家業は3つ年下の弟が継ぐことになっている。



相沢は私大医学部に奨学金なしで通わせてもらっており、

専門の科も、研修先も縛られるものは何もない。


自由だ。


だが、その自由さはいつも彼に罪悪感に似た鬱屈とした感情を引き起こすのだった。



無事に実習が終わり、

向かった花火大会の帰り道、班の仲間がホテルに帰る中、相沢だけ実家に戻った。

最終日くらいは実家に泊まろうと決めていた。


夜22時。

表の玄関はしまっているため、店の裏口から入ろうとすると父に呼び止められた。


「実習どうだった? 城戸さん、いい人だろう」

院長のことを友達のように呼ぶ父。街の狭さを感じる。


「勉強になった。東京の大学病院と全然違った」


そりゃそうだ、と父はまた豪快に笑った。


「来年、国家試験だろう。勉強してるか?」

「うん」

「医者になったら、那須塩原に戻ってくるか?」


一瞬、言葉に詰まった。

正直、東京という最新の医療現場でキャリアを積む未来も考えている。


でも今日、患者の手を握った感触が蘇った。

暖かい、街の人の手。

東京に出て5年たつが、やはり自分はこの町の人間なんだと感じさせられた。


「……戻ってくるかもしれない」


父は静かに笑った。

「どっちでもいい。那須塩原にいても、東京にいても帰る場所はある」

その一言で、胸の奥のざわつきが少し溶けた。

だからこそ、ふいにこの言葉が零れ落ちた。


「父さん、実家、継がなくてごめん」


相沢がずっと引っかかっていたことだった。


中学で勉強ができた相沢は何も考えずに、進学校に入学し、

そこで「医学部狙える」と言われたのがうれしくて、

「狙えるなら入っておくか」と軽い気持ちで進路を決めた。


両親は少し驚いたが、応援してくれた。

家業のことは、相沢は何も考えていなかった。


それに気づいたのは、弟が大学に行かずに店で修行すると言い始めた時だった。


その時初めて、長男である自分が継がなかったために

弟の選択肢を奪ってしまったのではないかと気づいた。



「長男なのに、責任から逃げた」


その事実は相沢の胸を時々苦しめた。

ようやく、父に言えた。


相沢の父親は少し目を丸くして、そして笑った。


「何を言う。息子がお医者様なんて自慢でしかないわ」


そして相沢の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。



________________________________________


翌朝、東京に戻る日。

ミニバンのハンドルを握りながら、相沢は「息子の顔」から「いつもの顔」に戻った。

「よーし東京に帰るぞ! 道中寝たやつは罰金な!」

「なんで!?」

一ノ瀬叶梨が叫ぶ。

橘が笑う。

バックミラー越しに見える仲間たち。相沢が東京で得たものの一つだ。


「次の実習は都内だろ? 俺の車、また出すわ」

「え、それはありがとう」

「ガソリン代は和真持ちな!」

「なんで俺!?」

車内が笑いに包まれる。


那須の山並みが、少しずつ遠ざかっていき

日常が戻ってくる。



だが相沢の中では、あの町はちゃんと残っていた。

湯気と餡の香りと、“帰ってこい”と言わない家族の優しさ。


相沢遼は、自由だ。

だけど故郷に向けて恥ずかしくない自分でいようと

いつも背筋をピンと伸ばしている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ