武松
武松
その夜、槇草は道場の二階の部屋で天蓋付きのベッドに寝ていた。
長旅で疲れているのに、目が冴えて眠れない。明日の『宋江陣』の事が気掛かりなのだ。
「もし負けたらどうしよう。王先生の面目は丸つぶれ、王大人にも申し訳ない」
そんなことを悶々と考えている内にウトウトと眠ったようだ。
ハッと気がつくと部屋の窓が開いている。カーテンが風に揺れていた。
「いつ開いたんだろう?ちゃんと閉めたはずなのに・・・」
槇草はベッドを降りて窓を閉める為に近づいた。
窓の外を見てギョッとした。昼間見た前庭が無い、どこかの山奥の風景に変わっている。
大きな松の木の下で、誰かが焚き火をしている。いつの間にか槇草はその横に立っていた。
「よく来たな・・・」黒いマントのようなものを羽織った男が槇草を見上げた。
「貴方は?」
「武松」
「ブショウ・・さんですか?」
「そうだ、お前さん『水滸伝』は読んだことが無いのか?」
「はあ、恥ずかしながら・・・」また『水滸伝』だ。
「まあいい、喰うか?」男は焚き火を指差して言った。
焚き火の中には黒い肉の塊のようなものが、木の枝に貫かれて焼けていた。
「何の肉ですか?」
「俺の右拳だ」
「ヒエッ!」
「驚く事は無い、これは俺の煩悩だ」
「煩悩?」
「欲や怒りや拘りだ。それを青面獣楊志に切り落としてもらった、美味いぞ」
「いえ、遠慮します」
「そうか、残念だな」そう言って武松は立ち上がった。
武松には確かに右手が無かった。その代わり丸い鉄の玉が付いている。
「お前には迷いがある。それでは明日の闘いには勝てん。ならばその前に俺がお前を殺す」
「えっ、何故?」
「理由など・・・無い」
いきなり鉄の玉が槇草の顔面を襲った。
「わっ!」槇草は飛び退った。
間髪を入れず武松の拳足が飛んでくる。対処する暇がない、槇草は逃げ惑って松の木を背にした。「逃げてばかりでは勝てん!」武松の鉄球が槇草の頭を掠めて松の木を打った。
松の木はメリメリと音を立てて二つに裂けた。
槇草は師の言葉を思い出す。『どうせ人は”死”には勝てん。”武術”とはそれまで生きる為の方便だ』ならば、持っているものを全部使ってしまおう。
槇草は、仙骨を意識してスッと立った。何の力みもない無構だ。
「ほう・・・」武松が微かに笑った。
「こい!」槇草が低く叫んだ。
武松の鉄球が唸りを上げて槇草に迫る。この拳を受けたら五体は微塵に消し飛ぶだろう。
槇草は、鉄球に向かって真っ直ぐ突っ込みながら浮身をかけた。正中線は微妙にズレ鉄球は槇草の左頬を焼いた。
同時に槇草の右拳は武松の人中にめり込んでいた。
時が止まった。武松は槇草の拳を顔面にめり込ませたままニヤリと笑う。
「良い技であった・・・また会おう」
武松の姿が、霧のように掻き消えた。
「ブショウ・・・!」槇草はベッドの中にいた。「夢・・・か?」
「それにしてもリアルな夢だったなぁ」槇草は無意識に左の頬を撫でた。「痛っ!」
槇草の左頬には、火傷の様な赤い傷跡がくっきりと浮かび上がっていた。




