第八話 修復された痕跡
翌朝の迷宮入口は、まだ夜の湿り気を残していた。石段の陰に溜まった冷気が、足首のあたりをそっと撫でる。遠くで水の滴る音がして、それは昨日と同じ音のはずなのに、今日は少しだけ明るく聞こえた。コルンの足取りが軽い。肩にかけた袋が、中の金具を小さく鳴らしている。
「壊れた罠があるんだって?」
剣士の少年が、困ったように眉を寄せた。昨日助けた三人のうち、一番前に立っている。新品ではないが、継ぎを直した革鎧が体に沿っていた。
「そこですか? 俺たち、荷物を落とした場所の話をしてるんですが……」
「それも大事」
「順番がおかしいだろ」
ガルドが横から言った。大盾を背に負い、朝の光を鈍く反射させている。声は低いが、止めようというより、いつもの確認に近かった。
コルンが先頭でガルド、そして新人三人。弓使いの少女は弦の張りを指で確かめ、魔術師の青年は杖の先を地面から少し浮かせていた。装備は昨日仕立て直したものだ。見栄えはよくない。縫い目は荒い。だが、動ける。 それで十分だった。
コルンは少年を見た。
「壊れた罠って、どんなの?」
「たぶん、矢罠です。追われて逃げる時に、小鬼が壁際を触ったら矢が飛んできたので」
「…へえ」
コルンの目が、ほんの少し明るくなった。朝の薄闇のなかで、それだけがはっきりしている。
「小鬼が? 自分で罠、使った?」
「たぶん」
「いいねえ」
「何がいいんだ」
ガルドが顔をしかめる。
「罠を使う魔物だよ?」
「危険だろうが」
「だから面白い」
「お前の面白いは、信用できん」
コルンは笑った。笑い方は軽い。だが足元は、すでに入口の石段を一段、確かめるように踏んでいた。
「それで壊れた?」
「逃げる時、剣で仕掛けの一部を叩きました」
「完全に?」
「分かりません」
「最高」
「最高じゃない!」
ガルドの声が石壁に返る。
「壊れたように見える罠ほど危ないって、自分で言ってただろ」
「うん」
「じゃあ、何で喜ぶ」
「使える部品が、残ってるかもしれない」
「そこか!」
新人三人は顔を見合わせた。昨日、命を助けてもらい、装備まで用意してもらった。恩人で、頼れる先輩のはずだった。なのに迷宮の入口で壊れた罠の話を聞いただけで、明らかに浮かれている。魔術師の青年が、誰に言うでもなく小さく漏らした。
「……本当に大丈夫なんでしょうか」
「戦闘では頼れる」
ガルドが答える。
「戦闘では?」
「それ以外は慣れろ」
「聞こえてるよ」
「聞かせてんだ」
コルンは気にしなかった。三人を順に見て、入口の暗がりを顎で示す。
「今日は君たちは後ろ。必要なら戦ってもらう。でも基本は見学」
弓使いの少女が弦から指を離した。
「どうしてですか?」
「昨日追われた場所だから」
コルンの声が、少しだけ平らになる。
「怖いでしょ?」
三人が黙った。剣を握る手の甲が白くなっている。少年が最初に頷いた。
「……少し」
「なら、今日は怖いままでいい。怖くなくなってから潜るんじゃ遅いよ」
コルンは迷宮を見た。口の向こうは、まだ朝を拒んでいる。
「怖い時にどう動くかを覚える」
ガルドが盾の革紐を引き締め、一度だけ頷いた。
「危険を感じたら言え。無理だと思ったら、それも言え。黙って我慢するな」
「はい!」
「よし。行くぞ」
「罠、楽しみ」
「台無しだ!」
◇
道中、新人三人は何度も周囲を見ていた。
昨日と同じ石のはずなのに、今日は全部が近く見える。壁のひびに床の湿り、天井から垂れた根のような何か。剣を握る手も、弓を持つ手も、杖を握る手も、すべて固い。呼吸が浅い。コルンはそれを歩きながら見ていた。
「呼吸」
少年が振り返る。
「浅いよ。息を吐いて。ゆっくり」
少年が息を吐いた。一度。もう一度。吸って、吐く。肩がわずかに下がる。
「少し楽になった?」
「……はい」
「じゃあ、大丈夫」
ガルドが前を歩きながら、背中越しに言った。
「お前、そういうこともするんだな」
「何が」
「人を見る」
「いつも見てるよ」
「普段から?」
「うん」
「……怖いな」
「失礼」
分岐が近づく。昨日逃げた道順を、少年は迷わず指した。この先を左。次の広間を右。そこから細い通路。コルンは一度だけ天井を見上げ、頷いた。
「合ってる。今日はその通り行こう」
「地図は?」
「ある。こいつが描いた」
ガルドが言うと、少女が少し身を乗り出した。
「見せてください」
「帰ったらな」
「またそれですか」
「頭に入ってるから持ち歩かん」
「一応、持ってるよ」
「あるのか!」
「袋の底」
「出せ!」
「必要になったら」
「今必要だ!」
新人たちが、小さく笑った。昨日までの緊張が、石の上で一度ほどける。コルンは何も言わない。ただ、その笑いが三人のどこから出たかを見ていた。
◇
「ここです」
少女の声が細くなる。
細い通路。壁際に木片が散り、床には小鬼の足跡が、昨日より明らかに増えていた。砂が削れ、小さな石が外側へ払われている。誰かが何度も、同じ場所を踏んでいる。
「止まって」
全員が止まった。コルンはしゃがみ、指先で砂をなぞる。冷たいが、新しい。
「昨日より増えてる。小鬼の足跡」
「戻ってきたのか?」
「たぶん。罠も、たぶん」
「顔!」
ガルドがすぐ止めた。コルンは片手を上げ、距離を取ったまま壁を見る。壊れた矢罠。昨日、剣で叩かれたはずの部分に、別の板が差し込まれていた。雑な上、粗い。木目も合っていない。だが、最低限、動くように直されている。
「へぇ、直してる」
「誰が?」
「小鬼」
三人が息を飲んだ。魔術師の青年が杖を握り直す。
「そんなことできるんですか?」
「できるみたい。完全な修理じゃない。応急処置」
「発動するのか?」
「たぶん」
「また、たぶんか」
「試せば分かる」
コルンは足元の小石を一つ拾った。軽く腕を振る。石は床を転がり、罠の前で止まった。何も起きない。二つ目は少し右。ころころと音を立てて止まる。カチ。
「下がって」
ビュッ、と乾いた音が三つ続いた。壁から木の矢が飛び、反対側の石に突き立つ。粉が舞う。新人三人は固まり、ガルドは盾を構え直した。
「終わり?」
「まだ」
三つ目の石。別の場所。もう一本、矢が飛ぶ。四つ目、五つ目は反応がない。六つ目で、天井から小さな石が落ちた。
「うわっ!」
三人が下がる。落ちた石は小さい。音を出すためのものだ。
「警報かな。小鬼を呼ぶ」
その直後、遠くで声がした。ギャッ。ギャギャッ。複数の足音が、細い通路の奥で一つに重なる。
「来るぞ」
「何匹?」
「分からん」
「じゃあ、狭いとこ使おう」
コルンは三人に振り返った。
「壁際。前に出ない。見てて」
小鬼は見えているだけで、五体。前回と同じ程度の数だが、増援もあるだろう。だが今日は違う。左右へ広がろうとせず、ガルドたちを罠の方向へ押そうとする。足の置き方が、明らかに仕掛けを避けている。
「賢い」
「感心してる場合か!」
ガルドが一体を盾で弾いた。金属と骨のぶつかる音が狭い通路に詰まる。コルンは笑った。
「でも、もう罠ないよ」
少年が息を呑む。小石で、先に全部使わせてある。罠は発動済みで、いまはただの壊れた仕掛けだった。
「《鈍足》」
前方の二体の足が遅れる。ガルドの盾が一体を壁へ押し付け、剣が二体目を止めた。コルンの《魔弾》が三体目の肩を砕く。残り二。一体がガルドへ飛びつき、盾の縁で受けられる。もう一体がコルンの脇へ回った。
「後ろ!」
少女が叫ぶ。
「見えてる」
半歩ずれる。爪は空を切った。短剣が一閃し、足を払う。倒れた小鬼の上を、ガルドの盾の縁が最後の一体ごと沈黙させた。
戦闘が終わる。粉塵がゆっくり降り、矢の刺さった壁だけがまだ震えていた。
「……終わり?」
「終わり」
少年が周囲を見る。昨日、ここで追われた場所だ。今日は、見ていただけだった。
「違いは一個。罠を先に潰した」
「それだけ?」
「それだけ」
ガルドが剣を拭う。
「知らないものを残したまま戦うから怖い。一つずつ減らせばいい」
コルンも頷いた。魔物、罠、逃げ道。全部を一度に考えると、足がすくむ。だから一個ずつ。三人は、まだ肩で息をしていたが、剣を握る手だけは、入口のときより、少し緩んでいた。
「じゃあ、罠解体しよう」
「そこに戻るのか!」
ガルドの声が、また通路に響いた。
◇
コルンは本当に嬉しそうだった。
壊れた板。差し込まれた補修材。金具。傷んだ弦。壁に刺さった矢。昨日より部品が多い。小鬼が直した分だけ、拾えるものが増えている。
「板と金具は、使える。弦は傷んでる。矢も回収」
「壁に刺さってるぞ」
「抜けばいい」
新人三人もしゃがみ込んだ。昨日まで逃げるだけだった場所で、五人が同じ高さになり、木片と金具を袋へ分けている。少女が木の矢を持ってきた。
「これ、使えます?」
「ガルド。武具担当」
「勝手に担当にするな」
ガルドは軸と矢尻を確認し、短く言った。
「軸は無事。矢尻も使える。こっちは曲がってる。矢尻だけ」
「はい!」
魔術師の青年が、手の中の金具を見た。
「変な感じです。昨日はここが怖くて。今は、金になるかなって」
「いいね」
「いいんですか?」
「怖くないよりいい。怖い場所だって分かったうえで、使えるもの探せてる。それくらいがちょうどいいよ」
全部を片付ける。矢に金具、板と留め具。小鬼が補修に使った、出所の分からない細い紐。軽いものは持っていく。コルンは袋の口を結び、三人を見た。
「荷物落とした場所、もう少し先?」
「はい」
「行く?」
三人が互いを見る。怖い、という顔のままだった。それでも少年が先に言った。
「……行きたいです」
「怖い?」
「怖いです」
「なら、帰れる距離まで」
「はい!」
ガルドが盾を背負い直す。
「無理はしない。何かあればすぐ言え」
五人は再び進んだ。昨日、新人たちを追い返した小鬼と罠と狭い通路は、今日は順番が違う。罠は踏まない。小石で使わせる。残った魔物だけを、ガルドが止め、コルンが崩す。それだけでよかった。
「コルン」
「何?」
「今度から小石、袋に入れとけ。毎回拾うの面倒だろ」
コルンが足を止めた。
「……天才」
「それくらい自分で気づけ!」
新人三人が笑う。迷宮の奥に、少しだけ明るい声が落ちた。
壊れた罠は、普通なら避けるものだ。触らない。それでいい。だがコルンにとって罠は、踏むものではなかった。崩すもの。そして崩したあとは、拾うものだった。




