第七話 拾った鉄、拾った子たち
三度目の迷宮探索だった。
朝の廃都はまだ冷たい。石畳に残った夜露が、コルンの靴底で小さく砕ける。迷宮街区の入口まで歩くあいだ、街の匂いが少しずつ変わっていく。パンを焼く煙、錆びた金具、湿った石。そして、地下へ続く階段の向こうから漂う、古い空気。
コルンは、これまででいちばん機嫌がよかった。
「今日は忙しいよ」
先に立っているガルドが、振り返もせずに聞く。
「何がだ」
「探すものが増えた」
「増やしたのはお前だ」
「ハルミトン爺さんから聞いた素材」
コルンは指を折る。
「茸、砂、虫の殻、沈殿物」
「道具屋の旦那から聞いたもの」
「壊れた剣、盾、革鎧、金具、使えそうな木材」
ガルドの肩が、ほんの少し落ちた。
「あと、罠」
「それはもういい」
「罠は大事だよ」
「お前が罠を見ると、探索が止まる」
ガルドは大盾を背負い直した。以前と変わらぬ重装備。鉄の縁が朝日をわずかに弾く。だが今日はもう一つ、大きな背負い袋が背中にある。新品の革はまだ硬く、留め金がきしむ。
コルンがちらりと見た。
「買ったんだ、大きい袋」
「見るな」
「素材いっぱい入るね」
「見るなと言ってる」
結局、ガルドは自分で買ったのだ。迷宮素材を持ち帰るための大袋を。文句を言いながらも、昨日の夜のうちに道具屋へ寄っていたらしい。紐の結び方も、すでに一度直してある。
「素材売りらしくなってきた」
「俺は重戦士だ」
「重戦士兼素材売り」
「お前まで、道具屋の親父みたいなことを言うな」
そう怒鳴りながらも、ガルドはもう帰ろうとはしなかった。むしろ、自分から道を選ぶ。
「今日は前回より西側を回るぞ」
「そっち行ったことある?」
「ある。昔の仲間とな」
「危険?」
「一階層としては普通だ。だが人通りが少ない」
「ということは」
「採取されてないものが、残ってるかもしれん」
コルンは足を止めた。石段の途中で、ガルドの横顔を見る。傷の残った頬、いつもより少しだけ緩んだ眉。
「何だ」
「いや、ガルドも楽しんでるなって」
「帰るぞ」
「ごめんごめん」
言いながら、コルンは先に階段を下りた。笑声は地下の冷気にすぐ溶ける。ガルドは舌打ち一つで続き、二人は迷宮へ入った。
入口を越えた瞬間、世界の音が変わる。地上の喧騒が切れ、代わりに滴る水と、遠い風のようなうめきが残る。壁は古い切石。苔が薄い緑の膜を張り、灯りの届かない割れ目だけが黒く沈んでいる。
コルンは歩幅を落とす。探すものは足元にも、壁際にも、誰かが捨てた影の中にもある。
「これ?」
しゃがんだコルンが、青みがかった茸を指す。
「違う」
「じゃあ、こっち」
「それも違う」
「難しいなあ」
ハルミトンから聞いた薄青茸を探していた。色だけ見れば似たものがいくつもある。傘の裏、根元の色、湿り気。コルンは指先で触れず、目だけで確かめる。
「色が青ければいいんじゃなかったのか」
「似た茸があるって言ってた。食べると三日くらい腹を壊すって」
「触るな」
「触るだけなら、平気らしい」
「本当だろうな」
「ハルミトン爺さんが言ってた」
「なら信じる」
コルンが笑った。灯りの加減で、白い頬に薄い影が落ちる。
「俺より爺さん信用してない?」
「採取に関してはな」
「ひどい」
少し進む。通路が右へ折れ、壁の継ぎ目から冷たい風が抜けた。
今度はガルドが止まった。大盾の縁を床に下ろし、顎で示す。
壁際に、青白い茸が三本。湿った石に張りつくように生えている。コルンが近づき、息を止めて見た。
「傘の裏が白。根元が少し紫、当たりだな」
二人で顔を見合わせる。言葉は短い。それでも、同じものを見たときの間だけが、妙に暖かい。
「薄青茸」
「たぶんな」
「採ろう」
「慎重にやれよ」
「分かってる」
コルンは仕分け袋を取り出した。道具屋の旦那にもらった薄い布袋で、口に紐が通してある。中はすでにいくつかの区画に分かれていた。
「いいね、これ」
「便利だ。ガルド、そっち持って」
「はいはい」
もはや文句を言いながら手伝う。手が慣れている。茸を根元から丁寧に外し、土を落とし、袋へ。次に苔。使えそうな罠の金具。小さな魔石。コルンが目を走らせ、ガルドが重さを測る。拾う者と選ぶ者が、いつの間にか並んでいた。
さらに進んだ通路の隅で、コルンが足を止める。
「止まれ」
一本の剣が落ちている。埃をかぶったまま、壁に寄りかかるように倒れていた。
「壊れてるな」
ガルドが拾う。刃の中央から折れている。柄も傷み、巻き革はところどころ剥がれていた。それでも、持ち上げたときの重心はまだ武器のそれだった。
「どう?」
「駄目だ」
「鉄としても?」
「…待て」
ガルドが折れた断面を見る。指で錆をなぞる。薄い赤い粉が落ち、下から鈍い金属色が覗く。
「錆が浅い。打ち直しには、使えるかもしれん」
「持って帰ろう」
「重いぞ」
「どれくらい?」
「この程度なら、問題ない」
「じゃあ、ガルド」
「分かってる」
大袋へ収める音が、通路に低く響く。コルンはそれを見て、小さく言った。
「慣れたね」
「観念したんだ」
「何を?」
ガルドは折れた剣を袋の奥へ押し込み、それからコルンを見る。灯りの中で、目が少し真剣だった。
「俺も仲間になる」
「え?」
「何だ、その顔」
「いや」
コルンが目を丸くする。本当に、今それを言うのか、という顔だった。
「まだ、仲間じゃなかったの?」
「お前な」
「だって三回目だよ。儲けも折半してる」
「それはお前が勝手に」
「荷物袋まで買った」
「そっ、それは……」
「素材も探してる」
沈黙が落ちる。滴る水の音だけが続く。
「完全に仲間だと思ってた」
ガルドは額を押さえた。大盾の裏に隠れるように、短い息を吐く。
「俺が馬鹿だった。お前に改めて何か言おうとしたことがだ」
「じゃあ、今まで通りで。よろしく、ガルド」
「よろしくな」
コルンは手を出した。ガルドの手は大きく、ざらついている。それを一度、確かに握る。握手の熱が残るうちに、コルンはもう壁を見ていた。
「さて、次の素材」
「余韻くらい持て」
その後も二人は進んだ。ただし、何でも拾うわけではない。
コルンが盾を発見する。木製で、半分割れている。縁の金具は黒く錆びていた。
「いらん」
ガルドが即答する。
「金具が錆びてる」
「じゃあ、置いてく」
次、短剣。刃が欠け、芯まで達している。
「刃が駄目だ。それに安物」
「置いてく」
兜を見つけるが、へこんでいる。だが金属自体は悪くない。ガルドが指で叩くと、鈍い良い音が返った。
「直せそう?」
「たぶん、それに持てる」
「採用」
袋へ。革が沈み、重量が増す。
「楽しいね」
「少しな」
「認めた」
「少しだ」
価値に重量、素材の状態。安全に持ち帰る労力のすべてを見る。拾えるから拾うのではない。持ち帰って、誰かの手元でまた使えるものだけを選ぶ。コルンが目を、ガルドが武具の知識を。二人の判断は、だんだん速くなっていった。
「相性いいじゃん。俺が見つける。ガルドが選ぶ」
「お前も少しは覚えろ」
「覚えてるよ」
「昨日まで矢尻の良し悪しも、知らなかっただろ」
「今日は昨日より知ってる」
「……まあな」
その時だった。
「逃げろ!」
声が通路を走った。二人が同時に止まる。前方、複数の足音。石を蹴る音、息を切らした呼吸、金属が壁に当たる乾いた音。
ガルドが盾を下ろす。曲がり角から、三人の若者が飛び出してきた。先頭の少年が二人に気づき、足元で滑りそうになる。
「うわっ」
「逃げてください」
「何が来る?」
「小鬼」
「何匹?」
「五……いや、六」
コルンは三人を見た。剣士、弓使い、おそらく魔術師。全員若い。装備は安物で、しかも手元が空である。
「武器は?」
「落としました」
「荷物も?」
「全部」
コルンがガルドを見る。言葉はいらない。ガルドはすでに大盾を構え、通路の中央を塞いでいた。
「一階層の小鬼六体」
「問題ない」
「じゃあ」
コルンが笑う。声は軽い。だが、三人を後ろへ隠す手つきだけは早い。
「新人さんたち、俺の後ろ」
「え?」
「早く」
三人は素直に従った。直後、小鬼が現れる。六体。肌は灰色に近く、目だけが湿った黄色をしていた。短い槍と、欠けたナイフ。群れで押しつぶす動きだ。
「ガルド」
「来い」
大盾に一体目がぶつかる。鈍い衝撃。盾が止まり、ガルドの靴が石を噛む。二体目。弾く。火花は出ない。代わりに、小鬼の体が壁へ沈む。
「《鈍足》」
コルンの魔力が、後方の三体へ落ちる。空気がわずかに重くなり、彼らの足が遅れる。床を擦る音が、間延びした。
「右」
「分かってる」
ガルドの剣。一体。短い一閃。
「《魔弾》」
二体。青い光が小鬼の肩を穿つ。残り四。小鬼が左右へ広がろうとする。
「散らせないで」
「簡単に言うな」
「ガルドならできる」
「後で覚えてろ」
大盾を壁際へ。通路を狭く使う。小鬼は一度に一体しか近づけない。コルンは後ろから次の弾を溜め、ガルドの間合いだけを見る。無駄な追撃はしない。守り、削り、通路を保つ。
「いいね」
「お前が後ろで言うな」
「《魔弾》」
三体目。ガルドが四体目。五体目。最後の一匹が、仲間の倒れた隙間から後ろへ逃げる。
「追うか?」
ガルドが聞く。息は上がっていない。それでも目は、逃げる影を追っていた。
「追わない」
コルンは、即答。
「了解」
小鬼は闇の奥へ消えた。コルンは追わない。一階層でも、逃げた先に何があるかは分からない。今日の目的は、そこまでではなかった。
「怪我は?」
三人を見る。少年の膝がまだ揺れている。弓使いの少女は弦のない手元を握りしめていた。魔術師は杖もなく、指先だけが白い。
「ありません」
「よし」
「ありがとうございます」
少年が頭を下げる。他の二人も続く。礼の声が、広い通路に小さく落ちる。
「いいよ、いいよ」
コルンは倒した小鬼を見る。それから三人を見る。
「それより」
「荷物全部落とした? 金も?」
「……はい、全て袋の中です」
「宿代も?」
三人が黙る。答えのない沈黙は、戦いのあとの静寂より重い。
「……ないです」
ガルドが溜息をついた。大盾を立て、額の汗を一度だけ拭う。
「新人が、全財産持って潜るな」
「すみません」
「ガルド」
「何だ」
「説教は街で」
「……そうだな」
コルンは倒した小鬼から目を離す。落ちた武器も、彼らの荷物も、今は取りに行かない。
「帰ろう」
「でも、荷物が」
「取りに行かないよ」
「けど」
「追われて捨てたんでしょ?」
「はい」
「なら、取りに戻ったら同じことになる」
少年が俯く。唇が白くなる。
「俺たち、無一文です。装備も」
「うん」
「もう、冒険者を続けられません」
「それは街に戻ってから考えよう」
コルンは笑った。責めない笑みだった。拾う前の品を見るときの目と同じだった。
「拾えるものなら、街にもあるかもしれないし」
◇
道具屋の暖簾をくぐったとき、旦那は、コルンの顔を見るなり笑った。
「また来たのか」
店内は午後の光で埃が舞っている。棚の剣、箱の金具、壁にかけた古い盾。どれも一度誰かの手を離れたものだ。
「今日は多いな」
「拾った」
「後ろの三人もか?」
「それは拾ってない」
「似たようなもんだろ」
「違うよ」
新人三人は所在なさげに入口付近へ立つ。コルンとガルドは素材をカウンターへ並べた。薄青茸。金具。折れた剣。へこんだ兜。旦那はまず剣を手に取り、断面を見る。
「売れる?」
「売れるが」
旦那は新人たちを見る。事情を話すと、髭をゆっくり撫でた。
「なら、売るより仕立て直したほうがいい」
「できる?」
「俺じゃ無理だ。鍛冶屋なら」
「紹介して」
「即答か」
「お願い」
旦那は笑う。目尻に、昔からある皺が寄る。
「昔馴染みがいる」
紹介された鍛冶屋は、道具屋から二軒先だった。近い。炉の熱が通りまで届き、鉄を打つ音が昼の街に混ざる。旦那までついてきた。
「おーい。仕事だ」
「うるせえ」
奥から、さらに大柄な男が出てくる。腕は煤け、前掛けは何度も焼けている。目だけが鋭い。
「何だ」
「素材売りだ、こいつ」
旦那がコルンを指す。
「義賊」
「どっちだよ」
「両方」
コルンが答えた。折れた剣、へこんだ兜、回収した金属、罠から得た金具の一部。鍛冶屋はそれらを台に並べ、ひとつずつ叩く。音で中を見る人だった。
「……使えるな」
「武器になる?」
「新品は無理だ」
「この子たちが、迷宮の一階層で使えればいい」
新人三人が驚く。
「えっ、俺たち?」
コルンは当然のように言う。
「装備ないんでしょ?」
「でも」
「素材は拾った」
「あなたたちのですよね?」
コルンはガルドを見る。
「半分俺の」
「半分俺のだな」
「使っていい?」
ガルドは三人を見る。少し考える。兜のへこみ、少年の空の手元、少女の借り物になりそうな肩。それから短く頷いた。
「ああ」
「決まり」
「待ってください」
新人の少年が慌てる。声が裏返る。
「払えません」
「知ってる。別にあげる」
「……え」
鍛冶屋までコルンを見る。
「いいのか? 売れば金になるぞ」
「また拾う」
「簡単に言うな」
「でも」
コルンは笑う。炉の明かりが白い頬を淡く染める。
「武器があれば、この子たちもまた稼げるでしょ」
三人は言葉を失った。鍛冶屋が鼻を鳴らす。加工賃の話になると、ガルドが先に口を開いた。
「半分出す」
「いいの?」
「儲けも折半なんだろ」
コルンが少しだけ目を丸くする。そして、ゆっくりと笑った。
「じゃあ半分」
「おう」
鍛冶屋が二人を見る。
「変な連中だな」
道具屋の旦那が笑う。
「だから気に入ったんだよ」
数時間後、折れた剣は短めの剣になった。新品ではない。美しくもない。だが、きちんと研がれている。へこんだ兜も形を整えられ、金具と余った金属は簡素な防具の補修に使われた。さらに道具屋の旦那が、倉庫で寝ていた中古の弓を持ってきた。
「倉庫で寝てた」
「いくら?」
「貸しだ。そこの新人に」
弓使いの少女が目を丸くする。
「返せるようになったら返せ」
「……はい」
「壊したら?」
「働いて払います」
「よし」
魔術師には、古い杖。売り物にならない曲がりと、それでも残った芯の通った感触。
「使えます」
「なら持ってけ」
三人。再び、最低限の装備が揃った。少年が剣を握る。何度も、何度も見る。刃の反りではない。自分の手元に、もう一度何かが戻ってきたという事実を見ている。
「あの」
「うん?」
「どうして……どうして、ここまでしてくれるんですか」
コルンは少し考えた。炉の音、湯気、鉄の匂い。それから、ごく普通の声で言った。
「拾ったから?」
「俺たちを?」
「違う違う」
ガルドが頭を抱える。
「素材の話だ」
「ああ」
コルンは笑った。
「使えるものを捨てるの、もったいないだろ?」
「でも…」
「武器も、人もね」
三人が黙る。その沈黙の底で、何かが少しだけ持ち直す音がした。
「まだ使えるなら、使えばいい」
コルンにとって、それだけだった。道具屋の旦那が、少し嬉しそうに笑う。鍛冶屋も何も言わず、鼻を鳴らす。そしてガルドは、コルンの隣に立っていた。もう、試しではない。正式な仲間として。
「ただし、次から全財産を迷宮へ持っていくな」
ガルドが新人たちへ言う。声は探索のときより、はっきりしている。
「はい」
「撤退すると決めたら、荷物は諦めろ」
「はい」
「危ないと思ったら帰れ。たとえ、宝箱があってもだ」
三人が一瞬だけ迷う。
「……はい」
「今の間は何だ」
ガルドの声が鍛冶場に響く。コルンが笑う。道具屋の旦那も笑う。鍛冶屋まで、ほんの少し笑った。
迷宮から拾ってきた。折れた剣。へこんだ兜。金具。金属片。誰かにとってはゴミ。けれど、仕立て直せば、また誰かを守る武具になる。
そして、一度失敗した新人だって、帰ってこられたのなら、まだいくらでも仕立て直せるのだった。




