第五話 素材情報
翌日のローデンは、石から目を覚ます街だった。
夜のうちに冷えた石畳が、最初の荷車の輪に短い声を上げ、組合前の広場ではまだ湯気の立つパンが並ぶ。風は迷宮口から下りてくる湿りを含み、パンの甘い匂いと煤と獣脂が、朝日の中で層になっていた。コルンはその熱を横目に見送り、朝から金を使っていた。
「高くないか?」
ガルドが露骨に眉をひそめる。盾を膝に立て、腕を組む。組んだ腕の内側に、昨日受け取った銀の感触がまだ残っているらしい。
「そう?」
「そうだ」
二人がいるのは、冒険者組合の片隅だった。受付の喧騒から一段下がった、窓の光の届きにくい卓。墨と紙と古い革の匂いが、そこの空気だけを別物にしている。向かいには初老の男。片目に古い傷。右脚を引きずるようにして、さっきこちらへ歩いてきた。現役を退いた元冒険者だと、受付嬢から聞いていた、名前はハルミトンという。
一階層から三階層までの採取品に詳しい、という触れ込みだった。机の上には空の杯と、使い込まれた革の手袋。指の節は曲がったまま戻らない。長いあいだ壁を叩き、苔を剥ぎ、罠の残骸を見て生きてきた手だった。
「もう一度言うぞ」
ガルドが低い声で確認する。
「一階層で採れる素材の話を聞くだけだな?」
「うん」
「地図を買うわけでもない」
「うん」
「魔物の弱点でもない」
「それも聞けたら嬉しいけど」
「追加するな」
ハルミトンは面白そうに二人を眺めていた。傷のある目が、コルンの白い顔と、ガルドの硬い肩とを交互に測る。買う気のある客と、止めに入る同行者。その組み合わせ自体が、彼には珍しいらしい。
「若いの。嫌ならやめてもいいぞ」
「いくら?」
コルンが聞く。声に値踏みがない。買うと決めたあとの、事務的な短さだった。
ドルバは指を三本立てた。節くれだった指が、杯の縁の向こうで動かない。
「銀貨三枚」
「払う」
「おい!」
ガルドが即座に止めた。椅子が小さく鳴る。
「交渉しろ!」
「なんで?」
「なんでって、お前……!」
コルンは銀貨を三枚取り出す。昨日、苔を売って得た分け前の一部だ。卓上へ置いた。迷いがない。硬貨の縁が木目に小さく食い、乾いた音がした。その音のあと、ハルミトンのほうが先にまばたきをした。
「本当にいいのか?」
「いいよ」
「普通は値切るぞ」
「その値段で、売りたいんでしょ?」
「ああ」
「ならそれで」
ガルドが額を押さえる。指の腹に、昨日と同じ皺が寄る。
「お前は金に細かいのか雑なのか、どっちなんだ」
「必要なものには払うよ」
「情報に銀貨三枚だぞ」
「安いかもしれない」
「高いかもしれないだろ」
「聞いてから判断する」
「払った後にか?」
「うん」
「遅い!」
ハルミトンが声を上げて笑った。古い傷が、笑いのたびに細くなる。組合の梁まで届きそうな声だったが、周囲はもう慣れた喧騒の一部として流した。
「面白い奴だな、お前」
「よく言われる」
「義賊だって?」
「そう」
「盗賊なら値切れ」
「情報をくれる人を損させたら、次から教えてもらえないじゃん」
ハルミトンの笑みが少し変わった。客をからかう笑いから、値踏みの笑いへ。杯の底を見る目になる。
「なるほどな」
コルンは卓に肘をつく。白磁のような腕が、埃っぽい木の上で不釣り合いに澄んで見えた。旅の埃をかぶっても、肌だけが店の光を返す。
「何から聞きたい?」
「一階層で、みんなが見落としてるもの」
「いきなりそこか」
「野草みたいな苔はもう見つけた」
「苔?」
「ポーションの基礎素材」
「……まだ残ってたのか」
ハルミトンが感心したように言う。杯の縁を指で叩く。遠い層の、湿った壁を思い出している目だった。採取屋がまだ一階層で飯を食っていた頃の、緑の匂いが、その指先に残っているように見えた。
「昔は採取屋が根こそぎ……いや、根こそぎは言い過ぎか。ちゃんと残して採ってたんだがな」
「今は?」
「誰も見ねえ」
「なんで?」
「金にならないと思ってるからだ」
コルンは笑う。昨日の薬屋の秤と、淡い緑の湿りが、その笑いの奥にある。
「金になったよ」
「だろうな」
ハルミトンは、指を一本立てた。
「まず苔」
「それは知ってる」
二本目。
「薄青茸」
「どこにある?」
「湿った壁際。光るから分かる」
「毒は?」
「食えば腹壊す。薬にすれば解熱剤」
「へえ」
三本目。
「石灰茸」
「茸ばっかりだね」
「地下だぞ」
「それもそうか」
ハルミトンは続ける。声は低く、しかし一つひとつが手触りを持っていた。小さな虫の殻。魔力を吸った砂。地下水の沈殿物。魔物の巣材。名前を呼ばれるたびに、一階層の薄暗い通路が、コルンの頭の中で別の色に塗り直されていく。壁は壁のままなのに、価値の地図だけが上書きされる。
「壊れた罠」
コルンの目が輝いた。窓の光の届かない卓の上で、それだけが急に明るく見えた。
「えっ?」
「全部がゴミになるわけじゃねえ」
「詳しく」
身を乗り出すコルン。椅子が小さく鳴る。白い髪の先が、前へ傾ぐ。
ガルドが嫌な顔をした。
「お前、その顔やめろ」
「どの顔?」
「宝箱を見つけた子供みたいな顔だ」
「似たようなものでしょ」
「違う」
ハルミトンが笑う。指で卓に、仕掛けの形を粗く描く。線は短い。それでも矢の出る向きだけは、はっきりしていた。
「落とし穴はさすがに持って帰れねえが、矢罠、針罠、鳴子、弦、それに金具なんかは使える」
「矢も?」
「折れてなければな」
「毒ついてる?」
「ついてることもある」
「いいね」
「よくない!」
ガルドが割り込む。組合の片隅にしては、声が大きすぎた。近くの卓がちらりとこちらを見る。
「毒矢を拾ってどうする!」
「洗えば使えるかもしれない」
「危ない!」
「じゃあ毒だけ採れるかも」
「さらに危ない!」
「ガルド」
「何だ!」
「声大きい」
「誰のせいだ!」
ハルミトンは、笑いながら続ける。
「罠ってのはな、発動した後に放置されることが多い。冒険者は壊して通るだけだ」
「直す人はいない?」
「迷宮が直すって話もある。本当かどうかは知らん」
「なるほど」
「ただ、壊れた直後なら部品は残ってる」
「持って帰っていい?」
「迷宮内のものは基本、自己責任だ」
コルンはすぐに頷いた。自己責任、という言葉を、彼は罰ではなく許可として受け取った。
「十分」
「それだけか?」
「罠の見分け方も教えて」
「別料金だ」
「いくら?」
ハルミトンが銀貨二枚と言う。言い値の速さは、今朝のコルンに似ていた。
「払おう」
「また即決か!」
ガルドの声が、梁のほうまで響いた。
◇
その日の昼、二人は迷宮へ潜った。入口の冷気が、朝の市場の熱を一度に削ぎ落とす。松明の煤と湿った石と、どこか遠いところで滴る水。昨日と同じ空気だった。違うのは、腰の小袋だけだ。朝のうちに揃えた最低限の採取道具。砥石、木べら、細い紐。武器棚の前では足を止めなかったコルンの選択が、歩くたびに乾いた音を立てる。
「金を使いすぎだ」
歩きながらガルドが言う。
「そう?」
「朝だけで銀貨五枚だぞ」
「回収できれば問題ない」
「できなかったら?」
「勉強代」
「……」
「ガルドも聞いてたんだから、半分出す?」
「そういう意味で言ってない!」
コルンは笑う。白い横顔が、迷宮の青白い光を薄く返す。
昨日と同じ道。入口。第一分岐を左。次を右。広間。通路。壁の苔を残した場所の前を、二人は黙って通り過ぎた。採りすぎない。昨日、リディアが言った言葉が、石と同じ重さで残っている。根こそぎ取れば次がない。欲を掻くと、自分で稼ぎ場を潰す。
「覚えたな」
「そりゃね」
「地図は?」
「昨日の夜に、描いた」
「見せろ」
「持ってない。頭に入ってるから」
「意味がない!」
その時、前方から音がした。ガタン。続けて、バキッ。何かが砕ける音。木が繊維ごと折れる、短い悲鳴に似た響き。さらに男の怒鳴り声。
「くそっ! またか!」
コルンとガルドが足を止める。
少し先、三人組の冒険者がいた。装備はそこそこ整い、それでも一階層を「通過点」としてしか見ていない歩き方だった。壁際には小さな穴。その前に、壊れた木製の仕掛けが、蓋を外されたまま転がっている。飛び散った木片の断面は新しく、発動からそう経っていない。
「たぶん、矢罠だ」
ガルドが言う。今朝、ドルバが卓に描いた線が、そのまま壁に重なる。
「知ってるのか」
「今朝聞いた」
三人組の一人が、罠の残骸を蹴った。
「邪魔なんだよ!」
木片が飛ぶ。乾いた破片が床を走り、暗い水たまりに落ちる。別の男が壁から突き出ていた矢を踏む。ポキッ、矢が折れた。コルンの顔が引きつる。折れる音は、金が床に落ちる音に似ていた。
「あ、矢を折った。もったいない」
「……」
三人組はそのまま奥へ進んでいく。足音は早く、会話は次の階層の話だった。壊れた仕掛けも、折れた矢も、すでに背中の向こうにある。通過点に価値を置かない者たちの、正しい速度だった。
コルンはすぐ罠の前へ行った。
「待て」
「大丈夫。もう発動してる」
「二重罠かもしれない」
「偉い」
「お前に褒められると腹が立つ」
ガルドが周囲を確認していく。盾の縁で、怪しい影を一つずつ払う。元パーティーで「当然」とされていた仕事を、彼は今も丁寧にやっていた。当然の仕事が、ここでは生きる。その違いを、彼はまだ言葉にしていない。
「大丈夫そうだ」
「じゃあ、見る」
コルンがしゃがむ。膝が湿った石につく。白い手が、壊れた蓋の縁をまず見、触る前に構造を追う。
矢罠、壁内部から木の矢を射出する仕組み。すでに発動済み。前の冒険者が強引に壊したため、蓋も外れている。内部の闇に、まだ直線が残っていた。油と古い木と、わずかな金属の匂い。
内部にはまだ何本か残っていた。すべて射出されたわけではない。仕掛けが途中で壊れたらしい。弦の一部は切れ、一部はまだ張りを残している。コルンは一本ずつ確認する。矢幹の反り、矢尻の欠け、根元の油の匂い。使えるものと、材として残すものと、触るべきでないものを、指の腹で分けていく。
「一本、二本……、七本」
「本当に持って帰るのか」
「もちろん」
ガルドが呆れる。袋の口が、まだ開いていない。
「全部木の矢だぞ」
「矢尻あるよ」
「粗悪品だ」
「でも使える」
「弓を持ってないだろ」
「売れるかもしれない」
「……」
「あるいは今後、弓使いが仲間になるかもしれない」
「気が早い」
「備え大事」
拾った矢を吟味していくコルン。
「一本目、これは先が欠けてる」
「捨てるのか」
「いや」
「何で!」
「木材として使えるかも」
「そこまで拾うのか!」
コルンは嬉しそうだった。本当に。宝箱の蓋が開いたときのように、呼吸が浅く、目だけが細かく動いている。誰かがゴミとして蹴ったものが、彼の掌の中ではまだ役割を持っていた。役割のあるものは、捨てない。それが義賊の流儀らしかった。
「ガルド、袋出して」
「俺の?」
「大きいでしょ」
「まさか」
「矢、入る?」
「俺を荷物持ちにするな!」
「半分はガルドの儲けになるよ」
「……」
ガルドが黙る。昨日の石段、掌に乗った銀の重さが、今の袋の口と重なる。コルンがにこにこしている。白い顔に、迷宮の青白い光が乗る。
「ほら」
「分かった、分かった!」
ガルドは乱暴に背負い袋を下ろした。金具が石に当たって短く鳴る。
「入れろ!」
「ありがとう」
「ただし、危険物は分けろ!」
「もちろん」
「毒がついてそうなのは触るな!」
「分かってる」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんをやめろ!」
矢を回収する。次に弦。黒い脂を吸った細い線が、指に冷たい。張りを失っても、繊維はまだ切れていない。
「これ、まだ使える」
「罠のだぞ」
「縄として」
「細すぎる」
「罠を作るなら」
「作るな」
「なんで?」
「信用できないからだ!」
金具にばね、小さな木製の留め具。コルンは一つずつ外していく。先ほどまでの軽い雰囲気とは違う。構造を見る。触る前に確認する。力のかかる方向。残った張力。解除順。義賊の手が、ここで初めて職業の輪郭を出した。盗むためではなく、残すために外す手つきだった。
「お前」
「うん?」
「罠を解体できるのか」
「義賊だよ」
「ここでようやく、職業らしいことをしたな」
「ひどいなあ」
一つ間違えば、壊れた罠でも矢が飛ぶ。その緊張が、狭い通路の湿気と混ざる。ガルドの盾が、無言で横に立つ。
「そこ触るな」
突然、コルンの声が変わった。軽さが落ち、芯だけが残る。
ガルドの手が止まる。
「弦がまだ張ってる。この金具外すと一本出る」
ガルドが目を細める。確かに奥に、もう一本だけ矢が残っている。暗い穴の奥で、先端だけがわずかに光っていた。死んだ仕掛けの中の、まだ生きている一本。
「壊れてるんじゃなかったのか」
「壊れてるよ」
コルンは短剣を出した。刃は新しくない。それでも手入れはされている。
「でも、全部死んでるとは限らない。迷宮と同じ」
「何が」
「弱ってるように見えても油断するなってこと」
コルンは慎重に弦を切る。張力が抜ける音は、思ったより小さかった。空気が一度、ゆるむ。壁の奥が、役目を終えたように静かになる。
最後の矢を取り出した。
「七本目」
「嬉しそうだな」
「だって七本だよ」
「木の矢だ」
「まだ使える木の矢」
「そんなに違うか?」
「違う」
即答するコルンは、さらに罠の奥を見る。指先で板の厚みを測り、釘穴の位置を確かめる。加工の跡がある板は、ただの廃材より高い。誰かが一度、意図を込めて切ったものだ。
「これも取れるな。薄いけど、加工してある板」
「持って帰る気か」
「当然」
「重いぞ」
「ガルド」
「嫌だ」
「まだ言ってない」
「持ってくれだろ!」
「分かってるじゃん」
「分かりたくなかった!」
結局、矢七本。使えそうな弦。金具が四つ。小さなばね。加工済みの板。その他、細かな部品。壊れた罠は、ほとんど骨組みだけになった。壁の穴が、急に間抜けな口に見える。通った三人組が蹴った「邪魔」は、いま中身を失って、本当に邪魔だけになっていた。
ガルドがそれを見て呟く。
「……本当に解体したな。ここまでやる奴、見たことないぞ」
「誰もやらないなら、取り放題だね」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「次の罠探してる顔」
「ばれた?」
「ばれるわ!」
コルンは立ち上がる。石の粉を手から払う。白い指の腹に、黒い脂が細く残った。義賊の手垢というより、今日の収穫の印。
「今日はもう帰ってもいいかも」
「まだ来たばかりだぞ」
「矢七本に、部品もある」
「だから?」
「十分収穫」
「お前の基準が分からん」
「生きて帰って、金になれば勝ち」
コルンは楽しそうに歩き出す。来た道のほうへ。奥の闇は、まだ口を開けたまま二人を待っている。その誘いを、彼は今日は受け取らなかった。
「また、奥まで行かないのか」
「行けるけど、欲を出さない」
ガルドが止まった。コルンは振り返る。背負い袋を指す。中で木の矢が、小さく触れ合う。
「罠一個でこれだけ取れた。今日は当たり」
「……」
「当たった日に、もう一回当てようとすると外れるんだよ」
「賭け事みたいに言うな」
「似てるでしょ」
「違う」
「迷宮のほうが命かかってる分、悪質」
ガルドはしばらく黙り、やがて短く息を吐いた。盾の縁を下ろす音が、通路に落ちる。
「帰るか」
「うん」
二人は来た道を引き返した。昨日より足取りが軽いのは、袋が重いせいではなかった。途中、コルンは何度も袋を確認する。蓋の紐、矢の本数、金具のカサ。祭りの帰りに中身を見る目だった。
「そんなに嬉しいか。ただの木の矢だぞ」
「嬉しい。買ったら金かかる」
「まあな」
「拾えばただ」
「危険はある」
「だから知識買った」
ガルドが足を止める。松明の光が、彼の顔の半分だけを照らす。
「なるほど、そういうことか。あの銀貨五枚は」
「ああ」
「情報代」
「うん」
「高いと思ったが」
ガルドが背負った袋を見る。重みが肩に食い、それでも昨日の銀より分かりやすい形をしていた。壊れた罠が、銀貨5枚の答えになって戻ってきた。
「こうやって、回収するつもりだったのか」
「別に、今日回収できなくてもよかったよ」
「何?」
「知ってれば、次に見つけた時にも使える」
コルンは笑う。入口の光が、遠く前方に白く見え始めていた。
「情報って、一回使ってなくなるものじゃないだろ?」
「……」
「だから言い値でいい」
教えてくれる人間がいる。知識があるならば、対価は払う。そしてその知識で、誰も見向きもしない物を拾う。壊れた罠。残った矢。金具。弦。板。冒険者たちがゴミだと思って踏み越えていくもの。それでも、コルンには宝に見えた。
「次は何があるかな」
「もう次の話をするな」
「鳴子罠も部品取れるって」
「やめろ」
「針罠も」
「やめろ!」
「落とし穴は――」
「持って帰れない!」
「石とか?」
「迷宮を解体する気か、お前は!」
ガルドの怒鳴り声が迷宮に響く。反響は長く、奥の誰かの会話を一瞬だけ潰した。コルンは楽しそうに笑った。白い息が、冷たい空気の中で細くほどける。
迷宮はエサの見本市だ。
だが、誰もが同じエサを狙う必要はない。宝箱を追う者がいる。魔物を狩る者がいる。深層を目指す者がいる。そして、壊れた罠を嬉々(きき)として解体する義賊が、一人。
それでも、ちゃんと儲かるなら、それもまた立派な迷宮攻略なのだ。




