第四話 初売りと半分
迷宮から地上へ戻った二人が、最初に足を向けたのは冒険者組合ではなく、薬屋だった。
石畳の大通りは、昼下がりの陽をたっぷり含んで熱を返している。迷宮都市ローデン特有の、湿った土と鉄と獣脂の混ざった匂いが風に乗って流れていく。荷車の車輪が溝に噛む音、呼び込みの声、遠くで鳴る組合の鐘。その雑踏のただなかを、コルンは背負い袋の紐を指で確かめながら歩いた。袋の中では、布に包んだ苔がまだ冷たい湿りを残している。
「本当に直行するのか」
横を歩くガルドが、呆れたような低い声で言った。盾を背負った肩が、人混みを割るようにわずかに前へ出る。無意識の護衛だった。
「鮮度が大事かもしれないからね」
「まだ売れると決まったわけじゃないだろ」
「だから確かめに行くんだよ」
「お前、こういう時だけ妙に行動が早いな」
「金になるかもしれないから」
「善属性なんだよな?」
「善人だって金は欲しい」
コルンは当然のように答えた。白い頬に、陽が薄く当たる。彼の肌は旅埃をかぶっても、どこか磁器のように澄んで見えた。善い行いと、稼ぐこと。その二つを同じ手のひらに載せて歩く男だった。
昨日、コルンが足を止めた薬屋は、すぐに見つかった。他の店より人の出入りが多い。木製の看板には薬草を模した印が描かれ、縁だけが手擦れで黒ずんでいる。店先の棚には包帯、乾燥薬草、虫除けの小袋、色の薄い液体を詰めた小瓶が並び、陽を受けてガラスが細かく光った。そして、棚の奥。淡い赤色の液体。初級ポーション。
「これこれ」
コルンが指差す。声が、わずかに弾んでいた。
「店の中で大声を出すな」
「まだ出してないよ」
「これから出しそうだから言ってる」
暖簾をくぐると、外の雑踏が一枚、薄くなった。代わりに鼻をついたのは、薬草独特の青臭い匂いだった。乾いた茎、潰した葉、蒸留したばかりの湯気の名残。床はよく掃いてあるのに、隅には緑の粉が薄く溜まっている。長年、ここで草を扱ってきた店の匂いだった。
奥から一人の女性が出てきた。四十代ほどの金髪を後ろでひとつにまとめ、袖をまくり上げている。指先には薬草の緑が染み付いて、もう落ちない色になっていた。目は細く、客を値踏みするように落ち着いている。店主のリディアだ。
「いらっしゃい。薬なら棚に――」
「買うんじゃなくて、売りたい」
コルンが背負い袋を下ろす。床に置かれた音は小さかったが、店の空気はそれに合わせて一度、止まった。
リディアの目が細くなる。
「何を?」
「苔」
「……苔?」
「うん」
「その言い方だけ聞くと、ただの嫌がらせだな」
ガルドが横から口を挟む。声は低いが、守りに入っているわけではなかった。むしろ、このやり取りに慣れてきた男の、諦めに近い助け船だった。
「迷宮で採った」
コルンは布袋を取り出した。紐を解く指が丁寧で、中身を傷めまいとしているのが分かる。
「手付かずだった。採ってから、まだそんなに時間は経ってない」
リディアの表情が、そこで変わった。客を見る目から、素材を見る目へ。
「見せて」
「はい」
袋が開くと鮮やかな緑が、店の薄暗い空気の中で急に色を持った。湿り気を残した苔。葉の縁はまだ生きていて、指で押せばゆっくりと形を戻しそうな弾力がある。昨日の迷宮の壁面、薄暗い通路、木べらで根元を残して削いだ感触が、そのまま袋の中に残っていた。
リディアは指先で少量をつまみ、窓からの光に透かした。匂いを嗅ぐ。葉の裏を確認する。粉を落とさぬよう、爪の腹だけを使う。長い間、草とだけ話してきた人間の仕草だった。
「……これは」
「ポーションの基礎素材?」
「そうよ、よく知っているわね」
コルンが嬉しそうにガルドを見る。白い顔に、小さな勝ち誇った色が浮かぶ。
「ほら」
「まだ値段を聞いてない」
「夢がないなあ」
「現実的と言え」
リディアは苔をもう一度見る。光の角度を変え、茎の切れ方まで確かめた。
「どこで採ったの?」
「一階層」
「場所は?」
「それは秘密」
「おい」
ガルドがコルンを見る。
「何?」
「即答するな」
「場所まで教えたら、次から全部採られるかもしれないだろ」
リディアが口元を緩めた。染みのついた指先で、袋の縁を軽く叩く。
「盗賊かい?」
「義賊」
「ああ、面倒なほうか」
「そこ区別されるんだ」
「薬師は客をよく見るからね」
コルンは少し嬉しそうだった。褒められたというより、見破られたことが気に入った顔だった。
「で、買ってくれる?」
「買う」
「いくら?」
「量を測る」
リディアは店の奥から小さな秤を持ってきた。真鍮の皿は使い込まれてくすみ、それでも水平は狂っていない。苔を傷めないよう、少しずつ乗せていく。湿った緑が皿の上で小さく盛り上がるたび、針がゆっくり動いた。
ガルドは腕を組みながら、その様子を眺めていた。盾役の男にしては、 テキパキとした仕事ぶりに、目が止まっている。
「乾燥させたものより高いのか?」
「使い道による」
リディアが答える。声は事務的だが、素材を扱っているときの熱が底にある。
「この苔は乾燥させても使える。でも、採取直後なら成分が残ってる。初級ポーションを作る時は、こっちのほうがいい」
「そんなに違うのか」
「違うわよ」
リディアは苔をひっくり返す。裏側の淡い白緑が、光に一瞬だけ銀を混ぜた。
「しかも採り方がいい」
ガルドがコルンを見る。
「何?」
「お前、適当に剥がしてなかったか」
「失礼な」
「木べらで嬉しそうに削ってただろ」
「ちゃんと根元を傷つけないようにした」
「根があるか知らないと言ってたぞ」
「細かいこと気にするなって」
リディアが笑った。短い、仕事の合間の笑いだった。
「全部削ぎ取らなかったのも正解よ」
「ほら」
「たまたまだろ」
「知恵だよ」
「途中で思いついた知恵だ」
「思いつくのも才能」
「言い切ったな」
秤が止まる。リディアは計算板を引き寄せ、炭でいくつか数字を書いた。コルンはそれを覗き込もうとして、すぐに手の甲で額を押される。
「見るな」
「なんで?」
「商売人の計算を覗くもんじゃないよ」
「義賊として気になる」
「なおさら見るな」
しばらくして、薬師が一枚の紙をカウンターに置いた。文字は小さく、しかし金額だけがはっきりしていた。
「この量と鮮度なら、この値段」
ガルドが覗く。目が止まった。
「……こんなになるのか?」
「なるよ」
「ただの苔だぞ?」
「ポーションの材料だ」
「いや、だが」
「最近は、採取する冒険者が減ってる」
リディアの表情が少し曇る。窓の外を見るでもなく、迷宮の浅い層を思い浮かべている目だった。
「みんな奥へ行きたがるからね」
「やっぱり」
コルンが言う。
「何が?」
「みんな、派手なものばっかり見る」
リディアは、鼻で笑った。
「昔は採取だけで食ってた連中もいたよ」
「今はいない?」
「…減ったわ」
「どうして?」
「一階層で稼ぐくらいなら二階層へ行け。二階層より三階層へ。そういう空気になった」
「誰が決めたの?」
「さあね」
「変なの」
コルンは本当に不思議そうだった。白い顔を傾げ、袋の空になった内側を見る。壁に生えていただけの苔が、ポーションになり、金になり、誰かの命を繋ぐ。その順番が、彼にはごく自然に見えているらしい。
「稼げるなら一階層でもいいじゃん」
「冒険者ってのは見栄を張る生き物なんだよ」
「俺も冒険者だけど」
「じゃあ、あんたは変わり者だ」
「よく言われる」
リディアが金を用意する。硬貨が卓上に積まれる音は、店の青臭い空気の中で意外なほど乾いていた。銀貨が主で、端に銅が数枚。ガルドはその額を見て、ますます驚いた。
「待て」
「ん?」
「この金額、本当に全部か?」
「全部だよ」
「税は?」
「この街じゃ、少量の迷宮素材を直接売る分には店側がまとめて処理する」
「知らなかった」
「勉強になったね」
コルンが満足そうに頷く。金を受け取る手つきは、盗賊というより商人のそれに近かった。
「それと」
リディアが言う。
「同じ場所にまだあるなら、また持ってきな」
「買ってくれる?」
「状態が良ければね」
「どれくらい?」
「とはいっても、採りすぎてはだめよ。一気に持ち込まれたら、値崩れするから」
コルンの目が少し見開かれる。緑の残像が、その瞳の奥で一度、点滅した。
「なるほど」
「それと、根こそぎ取れば次がない」
「うん」
「欲を掻くと、自分で自分の稼ぎ場を潰す」
コルンが笑う。小さな、しかし芯のある笑いだった。
「薬屋でも同じこと言うんだ」
「何が?」
「迷宮と」
リディアは、意味が分からない様子だった。だがコルンはそれ以上説明しない。迷宮の壁が教えてくれたことと、薬草を扱う店が教えてくれたことが、同じ場所で重なっただけだった。
「ありがと」
「またいいのを持ってきて」
「今度、売れるもの一覧聞きに来る」
「買い物してからにして」
「商売上手」
「当然だよ」
暖簾をくぐると、外の光が急に厚かった。大通りの熱と音が、一度に戻ってくる。
◇
「思ったより稼げたな」
歩きながら、ガルドが言う。掌の中で、今受け取った分け前ではない硬貨の感触を、まだ確かめているようだった。
「魔石よりずっと高い」
「一匹倒すより、壁見てたほうが儲かった」
「言い方」
「事実」
「冒険者が聞いたら怒るぞ」
「怒る暇あるなら、苔探したらいいのに」
「本当に敵を作るぞ、お前」
コルンは笑っている。その笑い方は、相手を貶めるためではなかった。見過ごされている場所に、まだ価値が残っていることが嬉しい顔だった。
通りの端、日陰の石段の前で、コルンは足を止めた。突然、金貨と銀貨をまとめてガルドへ差し出す。硬貨同士が小さく鳴った。
「はい」
「……何だ」
「ガルドの分」
「は?」
「半分」
「待て」
「どうぞ」
「いや待て」
ガルドは受け取らない。コルンは首を傾げる。白い髪の先が、風に少し動く。
「何?」
「何じゃない」
「儲けは折半」
「聞いてないぞ」
「今言った」
「そういう問題じゃない!」
通行人がちらりと見る。コルンは気にしない。石段の陰で、差し出した掌だけが陽を受けていた。
「二人でダンジョンへ行き、モンスターを二人で倒した。そして、苔二人で採った」
「……そうだな」
「なら半分」
「苔を見つけたのはお前だ」
「採ったのは二人」
「場所を覚えたのもお前」
「守ってくれたのはガルド」
「魔物は一匹だけだ」
「一匹でも同じ」
「俺はほとんど何もしてない」
「したよ」
コルンは手の中の硬貨を軽く鳴らす。乾いた音が、石段に短く落ちた。
「前に立った」
「……」
「俺が壁にへばりついて苔を剥いでる間、ガルドは周り見てた。俺一人だったら、もっと採るの遅かった」
「だから半分」
ガルドは黙る。
コルンの手の中には、決して小さくない金額がある。数日の宿代。食費。薬。装備の修理。それらを考えれば、十分にまとまった金だった。盾役が「当然」として飲み込んできた仕事が、ここでは枚数に直されていた。
「多すぎる」
「半分だよ」
「俺は正式な仲間じゃない」
「一緒に潜ったじゃん」
「試しに一回だけだ」
「その一回の稼ぎ」
「……」
「ガルド」
コルンの声音は変わらない。軽い。飄々(ひょうひょう)としている。それでも、次の言葉だけは妙に真っ直ぐだった。
「働いた分は受け取って。そういうの曖昧にすると、後で面倒になるから」
「……」
「誰が多く働いたとか、誰が見つけたとか」
「……」
「宝箱が出た時、もっと揉めるよ」
ガルドの顔が少し変わる。宝箱、という音が、古い傷に触れたらしい。
「宝箱、か」
「うん」
「中身が一つしかなかったら?」
「売って分ける」
「売れない物なら?」
「必要な人が使う」
「価値が偏ったら?」
「次で調整」
「それでも揉めたら?」
「話す」
「……単純だな」
「複雑にする必要ある?」
コルンは本気で分からないようだった。迷宮の壁を見る目と同じ目で、人の間の金を見ている。
「迷宮に潜ってる時くらい、金のことで仲間を疑いたくないじゃん」
その一言で、ガルドは黙った。
そして、ゆっくり手を出した。
「……分かった」
「はい」
硬貨が渡る。重い。思った以上に。ガルドはそれを見つめた。掌の線に、銀の縁が小さく食い込む。
「本当に半分だな」
「数えた?」
「ざっと」
「疑ってる?」
「確認だ」
「細かいなあ」
「細かくなると言っただろ」
いつものやり取り。だが、ガルドの声は少しだけ柔らかかった。
「コルン、お前は自分の取り分を減らしてまで、仲間に払うのか」
「減ってないよ」
「何?」
「最初から、半分が俺の取り分。二人で稼いだんだから」
ガルドがまた黙った。コルンはもう歩き始めている。何でもないことのように、次の角を見る目になっている。
「次、どうする?」
「次?」
「装備」
コルンは自分の旅装を見る。裾の擦れ、ベルトの傷、靴底の減り。迷宮の湿気を吸った布が、乾ききらずに肩へ張り付いていた。
「さすがに何か買おうかな」
「やっとか!」
「でも、全部は使わない」
「なぜだ」
「種銭いるじゃん」
「何の」
「採取道具とか、薬とか、情報とか」
「情報に金を払うのか?」
「払うよ」
「……」
「知ってる人に聞いたほうが早い」
「お前」
ガルドが額を押さえる。
「冒険者というより商人に見えてきた」
「義賊」
「それで、全部片付けるのやめろ」
二人は笑いながら歩いた。ローデンの大通りは、相変わらず熱く、うるさく、誰もが奥層の話ばかりをしていた。その流れに逆らうように、浅い層の緑を金に変えた二人の足音だけが、石畳の上で軽かった。
少しして、ガルドが自分の財布を見た。
その中には、さっきまでなかったまとまった金がある。
自分が前に立ち、魔物を止め、苔を採った。ただそれだけ。それを、コルンは当たり前のように仕事として数えた。
以前のパーティーでは違った。盾役は守って当然。危険を受けるのは当然。宝箱を取るため前に出るのも当然。そして、帰ると言えば臆病者だった。
「……変な奴だ」
「何か言った?」
「何でもない」
「またそれ?」
「前見ろ」
「今度は見てる」
コルンは笑う。陽が、その白い横顔を一時だけはっきりと縁取った。
この日、二人が迷宮から持ち帰ったもの。小さな魔石。新鮮な苔。一階層の道順。
そして、まだ名前もついていない、仲間同士の決まりが、一つ。儲けは折半。誰かが得をするために、誰かが損をする必要はない。少なくとも、コルンはそう考えていた。




