第三話 エサの見本市
迷宮都市ローデンの北端にある大階段の前で、ガルドは腕を組んで立っていた。朝の冷たい空気が、石畳の隙間から上がってくる。鐘が鳴ったばかりだというのに、彼の顔にはすでに苛立ちが滲んでいた。
「遅い。集合時間は鐘が鳴る前には来い」
「細かいなあ」
コルンはそれでも機嫌がよかった。黒髪を軽く束ね、昨日と同じ旅装。腰には短剣。背負い袋は一つ。変わったところといえば、小さな薬瓶や縄、布袋をいくつか買い足している程度である。袋の口から、乾いた肉の匂いがわずかに漂っていた。
ガルドはそれを見て、深い溜息を吐いた。
「本当にその装備で行くのか。革鎧くらい買えよ。命より、安いんだ」
「うん、それはそう。でも、まず中を見たい」
「……」
「必要なものが分かってから、買ったほうが無駄がないだろ?」
ガルドは反論しようとして、やめた。理屈としては間違っていない。ただ、どうにも不安が残る。大盾を背負い直しながら、彼は一度だけ短く息を吐いた。
「今日は一階層だけだぞ」
「分かってる。深入りしないよ」
「怪しいものがあったら、触る前に確認する」
「もちろん」
「宝箱があっても、勝手に近づくな」
「それは約束できないなあ」
「おい」
「冗談」
「お前の冗談は、心臓に悪い」
コルンは笑いながら、大階段の向こうを見る。その先には巨大な石造りの門があった。街の中にあるとは思えないほど重厚な門。鉄の金具は古びているが、まだ十分に機能している。その向こうに、迷宮。
朝だというのに、入口には多くの冒険者が集まっていた。三人組。五人組。荷物を背負った採取専門の一団。護衛付きの商人らしき男までいる。誰もが、それぞれの目的を抱えて階段を上がっていく。
「思ったより多いね」
「一階層ならまだ人が入る。三階層から一気に減るがな」
「なるほど」
「その言い方をするときのお前は、ろくなことを考えていない気がする」
「失礼な」
コルンは言いながら、すでに周囲を観察していた。誰がどの装備を持っているか、誰が地図を持ち、誰が入口を見ながら緊張しているか。そして、誰が迷わず歩き出すか。視線は落ち着いていて、だがどこか楽しげだった。
少しすると、四人組の冒険者が門をくぐった。前衛二人。弓使い一人。魔術師一人。歩き方に迷いがない。装備も整っている。経験のあるベテラン組。
「ガルド」
「なんだ」
「あの人たちについて行こう。動きに迷いがない。道知ってそう」
「待て」
「行くよ」
「待てと言ってる!」
コルンはさっさと歩き出す。ガルドは慌てて後を追う。大盾が肩に当たって、短い金属音を立てた。
◇
迷宮の内部は、思ったより明るかった。
壁に埋め込まれた青白い結晶が、一定間隔で淡い光を放っている。松明を必要としないほどではないが、足元を確かめるには十分だった。空気は冷たく、石の匂いが濃い。湿り気が肌にまとわりつく。
「松明いらないんだ」
「一階層はな。階層が進むたびに真っ暗な場所が増えていく」
「へえ」
コルンは歩きながら壁を触る。石は冷たい。少し湿っている。指先に微かな凹凸が伝わる。足元には無数の靴跡。壁には剣でついた傷。ところどころに煤。そして、薄くなった血の跡。誰かがここで戦い、誰かがここで転び、誰かがここで立ち止まった痕跡が、層をなして残っていた戦いの記憶。
「前見ろ、壁ばかり見てるじゃないか」
「壁も道だよ」
「意味が分からん」
コルンは前を行く四人組を見た。距離は十分に取っている。近すぎれば迷惑になる。遠すぎれば見失う。ちょうどいい距離。足音を殺し、呼吸を整え、視線だけを前に固定する。
「右か、今ので二つ目の分岐。最初に左で右」
コルンが呟く。
「何が、地図は?」
「頭」
「紙に書け」
「後で」
「今書け!」
「えー、歩きながらだと字が汚くなる」
「知るか!」
ガルドが苛立つ一方で、コルンは楽しそうだった。前の冒険者たちは迷いなく進む。コルンはそれを一つずつ、まるで手で触れるように覚えていく。壁の傷の向き。床の摩耗の深さ。風が微かに流れる方向。すべてが、次のための地図になる。
「お前、まさか、あいつらに案内させてるのか?」
「そう、別に声かけてないし」
「そういう問題か」
「人が通る道には理由がある」
コルンは前方を見る。
「安全だからね」
「……」
「少なくとも、昨日今日で全滅した道じゃない」
「それはそうだが」
「それに、何人も通ってるなら罠もある程度踏まれてる」
「言い方が悪い」
「事実だよ」
「お前、本当に善属性か?」
「善だよ」
そのとき、前方で剣の音が響いた。
「来た!」
四人組の声。曲がり角の先で戦闘が始まった。金属がぶつかり、短い詠唱が飛び、魔物の低い鳴き声が通路に反響する。
コルンとガルドは立ち止まる。
冒険者たちは慣れていた。前衛が二体の小鬼を止める。弓使いが後方から射る。魔術師が短い詠唱。火球が飛ぶ。一体。二体。三体。小鬼が倒れる。戦闘はあっさりと終わった。
「強いね」
「一階層ならあれくらいで十分だ」
「ふうん」
四人組は倒した魔物を軽く確認すると、そのまま進んでいく。足音が遠ざかる。
「まだ一匹いる」
コルンが言った。
ガルドが目を細める。壁際。崩れた石の陰。そこから、小さな影が動いた。小鬼。腹に矢が刺さっている。だが死んでいない。血を滴らせながら、こちらを睨んでいた。
「撃ち漏らしか」
「みたい」
小鬼が歯を剥く。次の瞬間、走った。
「下がれ!」
ガルドが盾を構える。だがコルンは動かない。
「《鈍足》」
短い詠唱。淡い光が小鬼の足元に絡みつく。動きが鈍る。足が重くなったように、一歩、二歩と遅れる。
「ガルド」
「分かってる!」
大盾が叩きつけられた。鈍い音が通路に響く。小鬼が壁へ転がる。なおも起き上がろうとするところへ、コルンが指を向けた。
「《魔弾》」
小さな光弾が額に直撃する。小鬼は、それきり動かなくなった。
「お前、やっぱり魔法使うんだな」
「言っただろ」
「義賊なんだよな?」
「義賊」
「よく分からん職業だ」
「俺もそう思う」
コルンは小鬼の死体へ近づいた。
「触るな」
「なんで?」
「まず罠を疑え」
「えらい」
「お前に言われたくない」
ガルドが周囲を確認する。問題なし。コルンはしゃがみ込む。小鬼の身体を、じっくりと見る。
「小さくて、爪は短い。牙も大したことない」
「そうだな」
「皮膚は薄いが、足は軽快」
「そうだな」
ガルドがだんだん面倒そうになる。
「何が言いたい」
「前衛が止めれば怖くない」
「当たり前だ。だから仲間を作れと言った」
「作ったじゃん」
コルンがガルドを見上げる。
「まだ正式に仲間じゃない」
「細かいなあ」
「細かくなると言っただろ」
コルンは笑いながら、小鬼の腹を見る。矢が刺さっている。傷口に血、筋肉。
「これ、撃ち漏らした理由も分かる。矢が浅い。たぶん狙いが悪かったんじゃない」
「どういうことだ?」
「こいつ、曲がり角から出てきた瞬間に撃たれてる。弓使いから見えた時間が短い。射角も悪い」
「そこまで分かるのか。本当に目だけはいいな」
「褒め言葉として受け取る」
「目だけ、と言った」
「聞こえない」
さらに確認する。小鬼の爪。腰に巻いた布、歯と耳。しばらくすると、小鬼の身体から淡い光が滲んだ。そして、小さな黒い石が一つ残る。
「魔石だ」
「小さいね」
「一階層ならそんなものだ」
コルンは拾う、指先ほど。価値は高くない。だが最初の収穫だ。嬉しそうに袋へ入れた。
再び歩く。前の四人組はすでに見えない。しかし問題ない。
「覚えてる?」
「左、右、直進、広間、左」
コルンが即答する。
「……本当に覚えてるのか」
「だから言ったろ」
進む。少しして、ガルドが足を止めた。
「待て。この先、分岐だ。前の連中、どっちへ行った」
「右」
「見えてなかっただろ」
「足跡」
湿った床には、新しい靴跡が右へ続いている。ガルドは黙った。
「観察は大事だよ」
「少し気味が悪くなってきた」
「ひどいな」
右へ進む。そこで、コルンが急に止まった。
「壁から緑」
「壁が何だ」
ガルドが見る。壁の下部。そこに薄く苔が生えていた。
「苔のことか? そんなもの、どこにでもあるだろ」
コルンがしゃがむ。目が明らかに変わっていた。鮮やかな緑。湿り気。傷がない。誰も手をつけていない、瑞々しい層だ。
「これ、新しい。誰も採られてない」
「……?」
「薬屋で似たのを見た」
コルンが指をさす。
「初級ポーションの基礎素材」
ガルドが目を丸くする。
「本当か?」
「たぶん」
「店に干したのが並んでた。色も葉の形も同じ」
「苔に葉があるのか?」
「あるよ。すごく小さいけど」
コルンは背負い袋を下ろした。布袋から道具を取り出す。小さな刃物に木べら。
「ガルド、採るよ」
「全部?」
「採れるだけ」
「先に確認しろ」
「新鮮。変色なし。虫食い少ない。周囲に魔物の糞なし」
コルンが壁を見る。
「他の冒険者が通ってるのに、残ってる」
「価値がないんじゃないか?」
「それか、みんな先を急いでる」
ガルドが苔を見る。たしかに。通路としてはよく使われている割に、全く手付かずに残っている。理由は簡単だ。誰も足を止めない。魔物、宝箱、階層。もっと分かりやすい価値を求めて進む。
「エサの見本市」
コルンが笑う。
「派手なエサばっかり見てると、地味な金を見落とす」
「……これ、本当に売れるんだろうな」
「売れなかったら俺が薬屋に聞く」
「先に聞けよ」
「次からそうする」
「今回もそうしろ」
「せっかく見つけたのに?」
コルンはすでに木べらで苔を剥がしている。根元を傷つけないように、丁寧に。
「ガルド」
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「手伝えだろ」
「分かってるじゃん」
「俺は盾役だ」
「今は採取役」
「そんな役はない」
「今日できた」
「勝手に作るな」
コルンは笑う。
「ほら。根元傷つけないように」
「苔に根があるのか?」
「知らない」
「おい!」
「でも、全部剥がしたら次が生えないだろ」
ガルドは頭を抱えた。
「お前は適当なのか慎重なのか、どっちなんだ」
「必要なとこだけ慎重」
「一番面倒なタイプだ」
そう言いながら、ガルドもしゃがんだ。大きな手が、意外と慎重に苔を摘む。
「このくらいでいいか」
「上手いじゃん」
二人で苔を採る。しばらく。コルンは妙に嬉しそうだった。布袋が徐々に膨らむ。緑の匂いが、わずかに通路に広がる。
「楽しいのか」
「うん」
「苔だぞ」
「ポーションになる」
「まだ確認してない」
「もし違っても、何かにはなるかもしれない」
「ならなかったら?」
「苔だったって、分かる。情報がひとつ増える」
ガルドは返事をしなかった。ただ、少しだけ口元が緩んでいた。
魔物を倒す。宝箱を開ける。強敵を狩る。それだけが迷宮攻略ではない。壁や床、誰も気にもしない場所に、あの苔が見つかる。
コルンは布袋を持ち上げる。
「結構採れた」
「採りすぎじゃないか」
「半分は残したよ。次も採れるかもしれない。全部取るのは盗賊」
コルンは笑う。
「少し残すのが義賊」
「その理屈、絶対違うだろ」
「いいじゃん、分かりやすくて」
魔石一つ。新鮮な苔。そして、一階層の道順。大した成果ではない。だがコルンにとっては十分だった。
「帰ろうか。目的達成」
「まだ昼にもなってないぞ」
「だからいいんだよ」
ガルドが目を細める。
「本当に戻るんだな。宝箱を見てないし、魔物も一匹しか倒してない。採取もこれだけ」
「今日はこれで十分」
コルンはあっさり引き返した。ガルドは少し遅れて、その背中を追う。前へ進むより。戻ることを選ぶ。しかも、何の未練もなく。
「……お前、やっぱり変な奴だな」
「よく言われる」
「でも」
ガルドは一度言葉を止めた。
「悪くない」
「何が?」
「何でもない。前見ろ」
「帰り道だから後ろじゃない?」
「屁理屈を言うな」
二人の声が、迷宮の通路に響く。最初の探索。大物は何もない。派手な戦いもない。それでも、コルンは十分すぎるほど満足していた。
迷宮はエサの見本市。ならば、目立つエサだけを追う必要はない。誰も見向きもしないものを拾う。使えるか考える。そして生きて、持ち帰る。
義賊コルンの迷宮攻略は、どうやら、少しずつ始まりつつあった。




