第21話 騎士学校入学 1
部屋には、
静かな沈黙だけが流れていた。
しばらく沈黙。
やがて。
ゼクトは静かに酒を飲み干した。
そして。
低く呟く。
「……了解しました」
灰色の瞳が、
静かに細められる。
昼間。
廊下ですれ違った黒髪の少女。
妙に静かな目。
奥底へ沈んだ、
壊れかけの気配。
ヴァルツは思う。
なるほど。
確かにこれは。
放っておけば、
帝国が必ず触れに来る。
だからこそ。
ガルド=フェンリルは、
先に自分の手元へ置いたのだ。
そして。
ゼクト=アイゼンもまた、
静かに理解していた。
――もう既に、
自分も無関係ではいられないのだと。
やがて。
ガルドが低く口を開く。
「……それと」
ゼクトが視線を向ける。
ガルドはグラスを傾けながら、
静かに続けた。
「三年後」
「黒衣隊内部から、
優秀な人材だけを選抜した特殊部隊を創設する計画がある」
ゼクトの灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
初耳だった。
だが。
ガルドクラスの将軍なら、
既に上層計画へ触れていても不思議ではない。
「現状の黒衣隊では、
対応しきれん案件が増え過ぎた」
「外周深部」
「高侵食区画」
「特殊個体」
「……今後は、
少数精鋭が必要になる」
低い声。
それは、
未来の戦場を見据えた軍人の声だった。
ガルドは続ける。
「モデルは、
エデン=ノアの白狼隊だ」
その瞬間。
ゼクトの目が僅かに細くなる。
白狼隊。
エデン=ノア最強特殊殲滅部隊。
少数精鋭による独立遊撃部隊。
対高位レムナント戦闘において、
世界最高峰と呼ばれる部隊だった。
そして。
その名を率いる男を、
ゼクトも知っている。
「……エデン=ノアの聖剣」
小さな呟き。
ガルドは頷いた。
「カイル=レオンハルト」
「英雄だ」
短い言葉。
だが。
そこには珍しく、
僅かな敬意が滲んでいた。
ゼクトは小さく苦笑する。
「貴方が他国の軍人を褒めるとは」
「事実だ」
ガルドは淡々と答える。
「奴は強い」
「戦場勘もある」
「部隊運用も上手い」
「何より、
部下を死なせん」
低い声。
「だから白狼は、
世界最強の特殊部隊と呼ばれている」
ゼクトは静かに聞いていた。
ガルドが他者をここまで評価するのは、
極めて珍しい。
ガルドは酒を一口飲む。
「帝国にも必要になる」
「白狼のような部隊がな」
重い声だった。
「その部隊の隊長へ、
俺はお前を推薦するつもりだ」
数秒。
沈黙。
ゼクトは小さく目を見開く。
珍しく、
本当に意外そうだった。
「……俺を?」
「不満か」
「いえ」
ゼクトは苦笑する。
「将軍が他人を褒める日が来るとは思っていませんでした」
ガルドは鼻で笑った。
「勘違いするな」
「お前以外に任せられる奴が少ないだけだ」
相変わらずの言い方だった。
だが。
ゼクトには十分伝わる。
それが。
ガルド=フェンリルなりの、
最大級の評価だという事が。
ガルドは静かに続ける。
「その頃には、
レギアも卒業している」
「……おそらく、
嫌でも戦場へ立つ事になる」
ゼクトは黙って聞いていた。
ガルドの灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
「だからこそ」
「お前には、
あの娘を見ていて欲しい」
低い声。
「もし俺がいなくなった時は、
尚更だ」
その瞬間。
ゼクトの表情から、
笑みが消えた。
ガルドほどの男が。
自分の死を、
当たり前のように口にする。
それが。
最前線を生きる軍人の現実だった。
しばらく沈黙。
やがて。
ゼクトは静かに息を吐く。
そして。
小さく笑った。
「……本当に嫌な役目を押し付けてきますね」
ガルドは鼻で笑う。
「今更だろう」
その返答に、
ゼクトも小さく笑った。
確かに。
今更だった。
黒衣隊へ入った時点で、
綺麗な生き方など出来ない。
まして。
この男の隣に立つなら尚更だ。
ゼクトは静かにグラスを置く。
灰色の瞳が、
ゆっくり細められる。
「……了解しました」
低い声。
「その面倒事、
引き受けましょう」
その返答を聞いたガルドは、
小さく鼻で笑った。
それだけだった。
だが。
それが二人にとっては、
十分だった。
そして。
時間は、
驚くほどあっという間に過ぎていった。
レギアがフェンリル邸へ来てから、
五日。
最初こそ緊張していたレギアだったが、
少しずつ屋敷の空気にも慣れ始めていた。
とはいえ。
完全に落ち着ける訳ではない。
朝になれば、
使用人達が丁寧に頭を下げる。
食事を運ばれる。
部屋は毎日整えられている。
巨大な浴場。
広過ぎる食堂。
高価そうな調度品。
未だに時々、
「本当にここにいていいのだろうか」
と考えてしまう。
そんなレギアを見て、
アルベルトは静かに苦笑していた。
「お嬢様」
「……その呼び方やめてください」
「ガルド様が正式に迎え入れた以上、
屋敷としては当然の対応です」
「だから嫌なんです……」
小さく俯くレギアへ、
アルベルトは珍しく少しだけ目を細める。
「皆、
好意でやっております」
「……なら余計に困ります」
「はは」
小さな笑い声。
それだけで、
レギアはさらに居心地が悪そうな顔をした。
メイド達もまた、
最初こそ遠巻きだった。
だが。
ガルドが明確に保護対象として扱っている以上、
屋敷全体の空気も自然と変わっていった。
「レギア様、
紅茶のおかわりはいかがですか?」
「えっ、
あ、ありがとうございます……」
「本日の焼き菓子、
料理長の自信作なんですよ」
「は、はい……」
完全に押されていた。
特に若いメイド達は、
レギアをどこか妹のように見始めていた。
黒髪。
小柄。
無表情気味。
なのに妙に礼儀正しい。
そして時折、
年相応に困った顔をする。
可愛がられる理由としては十分だった。
一方。
ガルドは相変わらずだった。
朝には既に登庁している事も多い。
だが。
帰宅すると、
時折レギアを訓練場へ呼ぶ。
「構えろ」
「……はい」
容赦は無かった。
木剣が飛ぶ。
踏み込みを修正される。
体勢を崩される。
転がされる。
レギアは何度も床へ叩き付けられた。
それでも。
「もう一回です」
その言葉だけは、
絶対に折れなかった。
ガルドは何も言わない。
ただ。
以前より、
ほんの少しだけ訓練時間が長くなっていた。
アルベルトだけは気付いていた。
――ガルド=フェンリルは、
確実にレギアへ情を移し始めている。
そして。
五日目。
騎士学校入学式当日の朝。
フェンリル邸は、
朝から静かな慌ただしさに包まれていた。
使用人達が動く。
朝食準備。
制服確認。
持ち物確認。
玄関前には、
既に帝国式黒塗り高級車が待機していた。
窓の外は快晴。
淡い朝日が、
帝都ヴァルグリムを照らしている。
レギアは部屋の鏡の前へ立っていた。
黒を基調とした、
帝国騎士学校女子制服。
銀装飾。
短い黒ジャケット。
白いインナー。
細身のスカート。
腰には訓練用細剣――《エペ・ドゥ・ノクス》。
まだ少し硬い表情。
だが。
紅い瞳には、
静かな覚悟が宿っていた。
その時。
コンコン。
扉がノックされる。
「……レギア様、
お時間です」
アルベルトの声だった。
レギアは小さく息を吐く。
そして。
静かに答えた。
「……はい」
今日から始まる。
新しい生活が。
そして同時に。
少女の運命もまた、
ゆっくりと動き始めようとしていた。
フェンリル邸玄関。
磨き上げられた黒石の床。
静かに並ぶ使用人達。
朝の柔らかな光が、
巨大な玄関ホールへ差し込んでいた。
レギアは玄関椅子へ腰掛け、
静かに靴を履く。
黒い革靴。
まだ新品に近い感触。
指先へ、
僅かな緊張が滲む。
騎士学校。
帝国騎士達の登竜門。
強者達が集う場所。
そして。
自分の人生を変えるかもしれない場所。
レギアはゆっくり立ち上がる。
小さく深呼吸。
胸の奥が、
少しだけ落ち着いた。
そして。
重厚な玄関扉へ手を掛ける。
その瞬間。
「――レギア」
低い声だった。
レギアが振り返る。
少し離れた階段前。
黒衣姿のガルド=フェンリルが立っていた。
いつものように、
静かな威圧感を纏っている。
だが。
灰色の瞳だけは、
僅かに柔らかかった。
数秒。
静かな沈黙。
やがて。
ガルドが低く口を開く。
「行ってこい」
短い言葉。
だが。
その声には、
不思議と人を落ち着かせる重みがあった。
ガルドは続ける。
「胸を張れ」
「お前の努力は、
必ず無駄にはならん」
レギアの紅い瞳が、
僅かに揺れる。
ノルドライン。
五年間。
逃げるように生きてきた日々。
震えていた夜。
剣を握り続けた時間。
全部を、
この男は知っている。
だからこそ。
その言葉は、
何より重かった。
レギアは小さく息を呑む。
そして。
静かに頭を下げた。
「……はい」
短い返事。
けれど。
先程までより、
ほんの少しだけ声が強かった。
ガルドは小さく頷く。
それだけだった。
だが。
レギアには、
それで十分だった。
少女は扉を開く。
朝の光が差し込む。
新しい世界が、
その向こうで待っていた。
帝国騎士学校――中央正門前。
巨大な白亜の校舎。
幾重にも並ぶ尖塔。
帝国旗が風にはためいている。
入学式当日という事もあり、
正門周辺は大勢の新入生で溢れていた。
貴族子女。
軍人家系。
地方都市出身者。
様々な若者達が、
緊張と期待を抱えながら校門を潜っていく。
その中で。
一台の黒塗り高級車が到着した瞬間、
周囲の空気が少し変わった。
「あれ……フェンリル家の紋章じゃないか?」
「嘘だろ」
「まさか十将軍の?」
ざわめきが広がる。
新入生達の視線が、
自然と車へ集まっていた。
帝国十将軍。
その名は、
一般市民ですら知っている。
まして。
ガルド=フェンリルは、
帝国最強としてあまりにも有名だった。
やがて。
車の扉が静かに開く。
最初に降りたのはアルベルト。
黒服姿。
隙の無い動き。
その時点で、
周囲の緊張がさらに強まる。
続いて。
黒髪の少女が姿を現した。
「……女?」
「新入生?」
「フェンリル家の関係者か……?」
ざわめきが広がる。
レギア=ノクスは、
その空気を感じた瞬間、
小さく眉を寄せた。
――最悪だ。
目立ちたくない。
ただそれだけだった。
なのに。
周囲の視線が、
明らかに自分へ集中している。
黒髪。
紅い瞳。
そして。
フェンリル家の車。
噂になる条件としては十分過ぎた。
「おい、
めちゃくちゃ綺麗じゃないか……」
「いや待て、
あの雰囲気普通じゃないぞ」
「貴族か?」
「でも見た事ないよな」
ひそひそ声が聞こえる。
レギアは居心地悪そうに視線を逸らした。
こういう空気は苦手だった。
視線。
噂。
興味。
五年間、
出来る限り目立たないよう生きてきた。
だからこそ。
今の状況は酷く落ち着かない。
アルベルトが静かに口を開く。
「お気になさらず」
「……無理です」
即答だった。
アルベルトは少しだけ目を細める。
「すぐ慣れます」
「慣れたくありません……」
小声。
だが。
周囲の新入生達は、
まだこちらを見ている。
レギアは小さく肩を落とした。
その様子を見て、
アルベルトは僅かに苦笑する。
「ガルド様の屋敷から通う以上、
ある程度は避けられません」
「うぅ……」
完全に諦めたような声だった。
だが。
そんな反応をしている時点で、
余計に周囲の視線を集めている事に、
レギア本人だけが気付いていなかった。
そんな中。
レギアは、
ふと違和感を覚えた。
ざわめきとは違う。
好奇の視線でもない。
背筋へ、
冷たいものが走る。
「…………」
レギアの紅い瞳が、
僅かに細くなる。
感じる。
視線。
だが。
普通ではない。
まるで。
刃を向けられているような感覚だった。
殺気。
レギアの呼吸が、
ほんの僅かに止まる。
――騎士学校で?
一瞬、
理解が追い付かなかった。
周囲にいるのは、
ほとんどが新入生だ。
まだ戦場も知らない若者達。
なのに。
今感じたものは違う。
もっと冷たい。
もっと実戦的な気配。
レギアはゆっくり視線を動かす。
新入生達。
教師。
警備兵。
誰も変わった様子は無い。
だが。
確かに感じる。
幼い頃からだった。
ノルドラインの惨劇以降。
レギアは、
時折分かる事があった。
人の感情。
敵意。
恐怖。
怒り。
悪意。
視線だけで、
何となく理解出来てしまう。
理由は分からない。
黒粒子の影響なのか。
極限状態を経験したせいなのか。
ただ。
今まで何度も、
その感覚に救われてきた。
そして今。
その感覚が、
はっきり警鐘を鳴らしていた。
――見られている。
それも。
獲物を見るような目で。
レギアの指先が、
無意識に細剣の柄へ触れかける。
その瞬間。
「……レギア様?」
アルベルトの低い声。
レギアは僅かに肩を揺らした。
「どうかなさいましたか」
レギアは数秒迷う。
だが。
すぐに小さく首を振った。
「……いえ」
気のせいかもしれない。
そう思いたかった。
だが。
胸の奥の違和感だけは、
消えなかった。
誰かが見ている。
静かに。
じっと。
まるで値踏みするように。
帝国騎士学校。
華やかな入学式の空気の中。
レギアだけが、
微かな戦場の臭いを感じ取っていた。




