第20話 ゼクト=アイゼン 3
模擬戦終了後。
訓練場には、
まだ剣戟の余韻が残っていた。
砕けた石床。
軋む結界。
空気へ漂う熱。
使用人達は、
誰一人すぐには動けなかった。
あまりにも規格外だった。
帝国最強。
その言葉の意味を、
改めて理解させられる模擬戦だった。
ガルド=フェンリルは、
長剣を静かに鞘へ収める。
重い金属音。
ゼクト=アイゼンもまた、
息を整えながら剣を納めた。
制服は裂け、
身体の各所に痣が浮かんでいる。
だが。
灰色の瞳に宿る光は、
むしろ楽しげだった。
「……毎回思いますが」
ゼクトが苦笑する。
「本当に容赦がありませんね」
ガルドは鼻で笑った。
「手加減して欲しいのか」
「まさか」
即答。
ゼクトは肩を竦める。
「貴方相手にそんな事を言えば、
逆に殺されます」
アルベルトが小さく溜息を吐いた。
いつものやり取りだった。
だが。
その場にいた使用人達だけは、
全く笑えなかった。
“少し本気”
その言葉で、
訓練場が半壊しかけたのだ。
普通ではない。
完全に。
帝国最前線を支える化物達だった。
やがて。
ガルドが短く言う。
「終わりだ」
その一言で、
張り詰めていた空気がようやく緩む。
結界管理担当達が、
慌てて設備確認へ走り始めた。
ゼクトは乱れた黒髪をかき上げ、
小さく息を吐く。
「……先に浴場を借ります」
「好きにしろ」
短い返答。
それだけだった。
数十分後。
屋敷内大浴場。
白い湯気が、
静かに立ち上っていた。
黒石で造られた巨大浴槽。
帝国式の重厚な浴場。
湯へ浸かるのは、
ガルドとゼクトだけ。
他の使用人達は、
全て外へ下がらされている。
静かな湯音だけが響く。
ゼクトは浴槽へ背を預け、
ゆっくり息を吐いた。
「……生き返りますね」
戦闘直後の熱を、
湯が少しずつ奪っていく。
ガルドは無言だった。
ただ静かに湯へ浸かっている。
巨大な身体。
無数の古傷。
肩。
胸。
腕。
戦場を生き抜いてきた痕跡だった。
ゼクトは何気なく視線を向ける。
「右脇腹、
また傷が開いてますよ」
「問題ない」
「問題あります」
即答だった。
「普通の人間なら死んでます」
ガルドは鼻で笑う。
「俺は普通じゃない」
ゼクトも苦笑した。
否定できなかった。
しばらく沈黙。
湯気だけが漂う。
やがて。
ゼクトが低く口を開く。
「……今日は随分機嫌が良さそうですね」
ガルドは目を閉じたまま答える。
「そう見えるか」
「ええ」
ゼクトは小さく笑う。
「模擬戦の時、
少し楽しそうでした」
ガルドは数秒黙り。
そして小さく鼻で笑った。
「久々にまともに動いたからだ」
「光栄です」
短いやり取り。
だが。
長い付き合いだからこそ分かる。
ガルド=フェンリルは、
滅多に機嫌を表へ出さない。
それでも今日は、
どこか空気が違っていた。
さらにその後。
夜。
ガルド私室。
重厚な黒木の扉が閉まる。
部屋を照らしているのは、
暖炉の火だけだった。
壁には巨大な帝国地図。
武器棚。
古い戦場写真。
歴戦の軍人の部屋だった。
ガルドはソファへ腰を下ろし、
短く言う。
「座れ」
ゼクトも向かいへ座る。
直後。
アルベルトが銀盆を持って現れた。
琥珀色の酒。
厚いグラス。
静かに机へ置かれる。
ガルドが低く口を開く。
「アルベルト」
「は」
「しばらく誰も近づけるな」
「承知致しました」
アルベルトは一礼する。
退出前、
一瞬だけゼクトへ視線を向けた。
長い付き合いだ。
理解している。
――これから重要な話になる。
扉が静かに閉まる。
完全な静寂。
ガルドはグラスへ酒を注ぐ。
琥珀色が揺れる。
そして。
低い声で言った。
「……今日、
廊下ですれ違った娘がいたな」
ゼクトの灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
黒髪。
紅い瞳。
細剣の少女。
すぐに思い浮かんだ。
「……あの少女ですか」
ガルドは酒を一口飲む。
「レギア=ノクス」
初めて聞く名だった。
ゼクトは黙って続きを待つ。
ガルドは静かに言う。
「俺が引き取った」
その一言で、
ゼクトの空気が少しだけ変わった。
ガルド=フェンリルが、
自ら人を拾う。
それがどれだけ珍しい事か、
ゼクトは知っている。
まして。
屋敷へ住まわせ、
剣まで教えている。
普通ではない。
ゼクトは静かに問う。
「……理由を伺っても?」
ガルドは数秒黙り。
やがて。
低い声で語り始める。
「五年前」
「帝国北東外周部都市――ノルドライン」
ゼクトの表情が僅かに変わる。
知っている地名だった。
大規模レムナント侵入戦。
防衛線崩壊寸前まで追い込まれた、
帝国北東部最大級の災害戦。
当時の黒衣隊も出撃している。
「レギアの父親は、
黒衣隊所属だった」
ゼクトの灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
黒衣隊。
帝国最前線。
死と隣り合わせの部隊だ。
ガルドは静かに続ける。
「ノルドライン防衛戦当時、
市街地内部までレムナント群の侵入を許した」
「父親は迎撃部隊として出撃」
「レギアと母親は、
避難途中だった」
低い声。
「……その途中で見た」
ゼクトは黙って聞く。
「父親が、
レムナント群へ呑まれていくところをな」
重い沈黙。
「最後まで戦っていたらしい」
「だが、
数が多すぎた」
ガルドは酒を一口飲む。
「目の前で夫が死ぬのを見て、
母親は発狂した」
低い声。
「その場で完全に壊れたそうだ」
ゼクトは静かに目を伏せる。
想像は出来た。
戦場では珍しくない。
だが。
幼い少女には、
重すぎる光景だ。
ガルドの灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
「……そこで起きた」
「黒粒子の胎動だ」
その瞬間。
ゼクトの空気が変わった。
灰色の瞳が細くなる。
帝国内でも、
極一部でしか確認されていない異常現象。
天使核汚染とも違う。
だが。
確かに存在する、
正体不明の黒い粒子。
ガルドは静かに続ける。
「最初は微量だった」
「だが、
あの娘の感情と共に急激に増殖した」
「黒粒子出現後、
周囲のレムナントが異常行動を起こした」
ゼクトは無言だった。
ガルドはグラスを置く。
「そして」
数秒の沈黙。
「父親のロングソードが変異した」
ゼクトの灰色の瞳が、
初めて明確に揺れた。
「……武器が?」
ガルドは頷く。
「黒粒子を纏っていたそうだ」
「黒く染まり、
異常発光を始めた」
「……あの娘は、
それを握った」
ゼクトは自然と、
昼間見た細い身体を思い出していた。
まだ幼かったはずだ。
五年前なら、
十歳程度。
そんな少女が。
ガルドの声が、
静かに響く。
「……気付けば、
周囲のレムナントが全て斬り伏せられていた」
短い言葉。
だが。
その異常性は十分伝わった。
ゼクトはグラスを止める。
「……生き残ったのですか」
低い声だった。
それは。
十歳でレムナント群の中へ放り込まれた少女が、
なお生きている事への驚きだった。
「信じ難いがな」
ガルドは淡々と答える。
「実際、
当時の記録も一部破損している」
「生存者も少ない」
「まともに詳細を知る者はいない」
しばらく沈黙。
やがて。
ガルドが低く続ける。
「前線医療局の人員に、
レギアを担当していた女がいた」
「エマ=リーデルという」
ゼクトは静かに聞いていた。
ガルドは酒を一口飲む。
「当時は、
ただの医療局員だった」
「特別な権限も無い」
「ノルドライン戦後、
レギアは一時保護施設で治療を受けていた」
「エマはその担当だった」
低い声。
「……珍しく、
あの娘が拒絶しなかった」
ゼクトの灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
昼間見た少女を思い出す。
簡単に他人へ心を開くタイプには見えなかった。
ガルドは静かに続ける。
「だから俺が頼んだ」
「五年間、
あの娘の面倒を見てやってくれとな」
「母親も、
あのままでは生きられんかった」
短い言葉。
だが。
その裏にある重さを、
ゼクトは理解していた。
重い沈黙。
ゼクトは、
ゆっくりグラスを置く。
「……そこまでして、
貴方が保護する理由は何です」
低い問いだった。
ガルドは数秒黙る。
そして。
静かに口を開いた。
「第十一翼兵装だ」
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
ゼクトの灰色の瞳から、
笑みが完全に消える。
帝国最深部。
封印管理区画。
国家最高機密。
第十一翼兵装。
ゼクトでさえ、
詳細を知る事は許されていない。
ただ。
危険だという事だけは、
帝国上層にいる者なら誰でも知っている。
ガルドは低く続ける。
「五年前の黒粒子記録」
「変異武装」
「異常適性反応」
「……帝国議会は、
既にあの娘へ目を向け始めている」
ゼクトは静かに目を細めた。
「まさか」
ガルドは頷く。
「騎士学校卒業後」
「帝国議会の状況次第では、
第十一翼適合実験が行われる可能性がある」
重い沈黙。
空気が冷える。
ゼクトは低く呟いた。
「正気ですか」
第十一翼。
帝国最悪の封印兵装。
適合実験の危険性など、
考えるまでもない。
ガルドは淡々としていた。
「議会は戦力を欲している」
「北部戦線も、
外周防衛線も限界が近い」
「使える可能性があるなら、
連中は試す」
低い声。
「それが帝国だ」
ゼクトは無言だった。
理解は出来る。
だが。
納得は別だ。
そして。
ガルドの空気が変わった。
重い圧力。
戦場の怪物としての気配。
灰色の瞳が、
静かに細くなる。
「だが」
低い声。
「騎士学校にいる間は、
誰にも手を出させん」
ゼクトは顔を上げる。
ガルドは続けた。
「議会だろうが」
「軍上層部だろうが」
「研究局だろうが関係ない」
「……俺が守る」
短い言葉。
だが。
その一言には、
絶対的な重みがあった。
ゼクトは静かに息を吐く。
なるほど。
だから屋敷へ置いたのか。
だから自ら剣を教えている。
ただの保護ではない。
帝国最強自らが、
壁になるつもりなのだ。
ガルド=フェンリルという存在そのものを使って。
しばらく沈黙。
やがて。
ガルドが低く口を開く。
「……もう嫌なのだ」
珍しく。
感情の滲む声だった。
ゼクトの灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
ガルドは視線を落としたまま続ける。
「もう、
俺の目の前から家族が消えるのだけは嫌なのだ」
静かな言葉。
だが。
その重さは、
何よりも大きかった。
部屋へ沈黙が落ちる。
ゼクトは何も言わない。
言えるはずがなかった。
知っているからだ。
ガルド=フェンリルが、
かつて家族を失った事を。
そして。
その事件が、
帝国そのものを揺るがしかけた事を。
詳細を知る者は少ない。
だが。
ヴァルツは幼い頃、
あの日の帝都を見ている。
武装封鎖された中央区画。
張り詰めた帝国軍。
一触即発だった十将軍達。
そして。
帝都全域を覆っていた、
異様な緊張感。
後に。
帝国史へ残る大事件となった騒乱。
あの日以降。
ガルド=フェンリルは変わった。
以前よりさらに静かに。
以前よりさらに冷たく。
だが。
“守る”という一点だけは、
異常なほど強くなった。
ゼクトは静かに理解する。
この男は。
レギアを、
ただの保護対象として見ていない。
もっと近い。
もっと深い。
父親に近い感情だ。
だから。
帝国と敵対してでも守ると言う。
ゼクトは小さく苦笑した。
「……重症ですね」
ガルドの灰色の瞳が、
ゆっくり向く。
「何がだ」
「父親ですよ、
もう完全に」
数秒。
沈黙。
だが。
ガルドは否定しなかった。
それだけで十分だった。
ゼクトはグラスを持ち上げる。
「なるほど」
小さな笑み。
「だから今日、
あんなに機嫌が良かったんですね」
ガルドは数秒黙り。
そして。
小さく鼻で笑った。
「余計な事を言うな」
低い声だった。
だが。
先程までより、
僅かに空気が柔らかい。
ゼクトは静かに笑う。
こんな顔をするガルドを見るのは、
随分久しぶりだった。
部屋には、
静かな暖炉の音だけが響いていた。




