第19話 ゼクト=アイゼン 2
ゼクト=アイゼンは、
静かな廊下を歩いていた。
黒い軍靴が、
柔らかな絨毯を踏む。
後ろには、
案内役のメイドが一人。
向かう先は訓練場。
休日の今日は、
ガルドとの実戦訓練が予定されていた。
だが。
ゼクトの意識は、
先ほど廊下ですれ違った少女へ向いていた。
――レギア=ノクス。
黒髪。
紅い瞳。
細剣。
年齢はまだ若い。
身体つきも細い。
見た目だけなら、
どこにでもいる少女だった。
だが。
妙な違和感が残っていた。
「…………」
ゼクトは無言のまま歩く。
灰色の瞳だけが、
静かに細められる。
普通ではない。
それが第一印象だった。
強い訳ではない。
まだ未熟だ。
歩き方も、
剣の重心も甘い。
おそらく実戦経験も少ない。
それでも。
何かがおかしい。
得体の知れない、
奇妙な感覚。
まるで。
“何か”を奥に押し込めたまま歩いているような、
そんな不気味さがあった。
ゼクトは、
長く戦場を渡り歩いてきた。
22歳。
だがその若さに反して、
既に帝国内では伝説に近い存在だった。
対レムナント殲滅戦。
辺境防衛線。
旧地下都市制圧。
暴走天使核汚染区画。
幾つもの死地を越え。
数多の敵を斬り伏せてきた。
黒衣隊最強格。
若くしてその名を帝国全土へ知らしめた男。
そして。
畏怖と尊敬を込めて、
人々は彼をこう呼ぶ。
――黒騎士。
ゼクト自身は、
その呼び名を好いていない。
ただ。
戦場を生き残るために剣を振るってきただけだ。
だが。
そんな彼だからこそ、
分かる感覚がある。
戦場の臭い。
死線を越えた者の目。
壊れかけた人間の気配。
先ほどの少女には、
それに近い何かがあった。
まだ形になっていない。
だが。
底に沈んでいる。
それもかなり深く。
ゼクトは小さく息を吐く。
「……ガルド様が拾う訳ですか」
低い独白。
ガルド=フェンリルは、
理由なく人を傍へ置かない。
まして。
自ら剣を教えるなど珍しい。
何かを見たのだろう。
あの少女に。
やがて。
訓練場前の重厚な扉が見えてくる。
剣戟音が響いた。
コン――――ッ!!
鈍く重い衝撃音。
ゼクトの口元が、
ほんの少しだけ上がる。
「……随分派手にやられたようですね」
呆れ半分。
納得半分。
メイドが静かに扉を開いた。
熱気の残る訓練場。
その中央では。
黒衣姿のガルド=フェンリルが、
静かに長剣を肩へ担いで立っていた。
重厚な扉が閉まる。
訓練場へ、
静かな沈黙が落ちた。
広大な石造りの空間。
幾重にも展開された高強度訓練用結界。
壁面へ刻まれた衝撃緩和術式。
帝国最上級の訓練設備。
その中央で。
ガルド=フェンリルと、
ゼクト=アイゼンが向かい合う。
互いに黒。
互いに長剣。
だが。
纏う空気はまるで違う。
ガルドは重い。
静かに立っているだけなのに、
まるで巨大な獣のような圧力がある。
対するゼクトは鋭い。
気配が薄い。
抜き身の刃そのものみたいな空気だった。
離れた壁際では、
アルベルトと結界管理担当の使用人達だけが静かに控えている。
誰一人声を出さない。
この二人の模擬戦は、
それほど危険だった。
ガルドの灰色の瞳が、
ゼクトを見る。
「来たか」
低い声。
ゼクトは静かに一礼した。
「予定より少々早く着きました」
訓練場の空気には、
まだ別の気配が残っている。
細剣の踏み込み跡。
転倒痕。
汗の匂い。
ゼクトは一目で察した。
「……随分激しくやられたようですね」
ガルドは肩を竦める。
「思ったより根性があった」
黒髪の少女。
レギア=ノクス。
ゼクトは少し考え、
静かに口を開いた。
「未熟です」
即答だった。
「重心も甘い。
剣筋も粗い」
「現時点では、
軍学校上位程度でしょう」
容赦のない評価。
だが。
ゼクトは続ける。
「ですが、
普通ではありません」
灰色の瞳が細くなる。
「戦場を知らぬ者の目ではない」
「なのに、
まだ壊れ切っていない」
「妙な雰囲気があります」
訓練場へ沈黙が落ちる。
ガルドは低く呟いた。
「……だろうな」
短い肯定。
それだけで十分だった。
ゼクトは理解する。
ガルドもまた、
あの少女に何かを見ている。
だから拾った。
だから剣を教えている。
やがて。
ガルドが長剣を構え直した。
空気が変わる。
鋭い圧力。
まるで獣が牙を剥く直前みたいな空気。
ゼクトの灰色の瞳も、
静かに細くなる。
腰の黒いロングソードへ手を掛けた。
「それで」
小さな笑み。
「本日は何本お付き合い致しましょうか」
その瞬間。
ガルドの口元も、
僅かに吊り上がった。
「立てなくなるまでだ」
次の瞬間。
訓練場の空気が、
爆発するように張り詰めた。
ゼクトが静かに長剣を抜く。
シャリン――。
黒い刀身が、
照明を鈍く反射した。
同時に。
空気が変わる。
レギアでは理解すら出来なかった領域。
戦場最前線を生き残ってきた怪物同士の空気。
ガルドが低く口を開く。
「来い」
次の瞬間。
ゼクトの姿が消えた。
――ッ!?
使用人達の目が見開かれる。
先に動いたのはゼクトだった。
低い踏み込み。
爆発的加速。
石床が砕ける。
黒い斬撃が、
真横からガルドの首筋を狙う。
速い。
あまりにも。
普通の騎士なら、
反応する前に首が飛んでいた。
だが。
ガルドの長剣が、
既にそこにあった。
ギィィン――――ッ!!
凄まじい金属音。
衝撃波。
周囲の空気が震える。
火花が散った。
ゼクトの斬撃を、
ガルドは片手で受け止めていた。
「……相変わらず化け物ですね」
ゼクトが低く呟く。
ガルドは鼻で笑った。
「軽い」
次の瞬間。
ガルドの長剣が振り抜かれる。
暴力的な横薙ぎ。
ゼクトが即座に後方へ飛ぶ。
轟音。
空振ったはずの斬撃だけで、
訓練場の結界が軋んだ。
使用人達の顔色が変わる。
あり得ない。
ただの模擬戦で、
結界へ負荷が掛かっている。
ゼクトは着地と同時に再加速する。
今度は正面。
高速連撃。
ギィン!!
ガギィン!!
キィィン!!
凄まじい剣戟音が訓練場へ響き渡る。
速い。
常人には剣筋すら見えない。
黒い斬光が幾重にも重なり、
ガルドへ襲い掛かる。
喉。
肩。
脇腹。
脚。
急所だけを正確に狙った実戦剣。
だが。
全部止められる。
ガルドの長剣が、
まるで未来を読んでいるかのように先回りしていた。
「浅い」
低い声。
次の瞬間。
ガルドの肩が僅かに動く。
ゼクトの瞳が細くなる。
危険。
本能が叫ぶ。
直後。
轟ッ!!
長剣が振り下ろされた。
真正面からの一撃。
単純。
だからこそ重い。
ゼクトは即座に受け流そうとする。
だが。
「っ……!」
重すぎる。
衝撃が腕を貫く。
石床へ亀裂。
ゼクトの身体が数メートル滑る。
使用人達が息を呑んだ。
押された。
ゼクト=アイゼンが。
黒騎士。
数々の戦場を生き抜いた怪物。
その男が、
真正面から押し込まれた。
だが。
ゼクトの口元は逆に笑っていた。
「やはり、
貴方との訓練は楽しい」
次の瞬間。
再び消える。
今度は完全に気配が消えた。
使用人達が見失う。
だが。
ガルドだけは動じない。
灰色の瞳が、
僅かに横へ向く。
直後。
ギィィン――――ッ!!
背後。
ゼクトの刺突。
だが。
また止められていた。
しかも。
今度は。
ガルドの頬を、
僅かに黒い刃が掠めていた。
赤い線が走る。
使用人達の空気が変わる。
ゼクトの一撃が、
ガルドへ届いた。
だが。
ガルドの口元は逆に吊り上がる。
「……それだ」
低い声。
次の瞬間。
ガルドの蹴りが飛ぶ。
轟音。
ゼクトが咄嗟に防御する。
それでも。
身体が吹き飛ぶ。
石床を滑り、
訓練場端まで弾かれた。
普通なら骨が砕けている。
だが。
ゼクトはすぐ立つ。
呼吸を整え。
再び剣を構える。
灰色の瞳から笑みが消えていた。
空気が変わる。
さらに鋭くなる。
アルベルトだけが静かだった。
長い付き合いだ。
知っている。
――ここからが本番だと。
ゼクトが低く呟く。
「少し、
本気で参ります」
ビリ――――ッ。
空気そのものが震える。
使用人達の背筋へ、
本能的な悪寒が走った。
ゼクトの姿勢が変わる。
重心がさらに低くなる。
呼吸が消える。
気配が薄れる。
まるで。
空間へ溶け込むように。
アルベルトが静かに目を細めた。
「……黒騎士」
誰かが小さく息を呑む。
次の瞬間。
ゼクトの姿が掻き消えた。
速い。
先ほどまでとは別次元だった。
石床を砕きながら、
黒い閃光が訓練場を駆ける。
右。
左。
背後。
残像すら曖昧になる超高速機動。
使用人達には、
もう追えない。
だが。
ギィィン――――ッ!!
轟音。
ガルドの長剣が、
正確に黒刃を受け止めていた。
ゼクトは止まらない。
即座に軌道変更。
低空滑走。
足払いのような斬撃。
ガルドの脚を狙う。
だが。
ガルドは片足だけで跳んだ。
次の瞬間。
上空から長剣が振り下ろされる。
轟ッ!!
石床が砕けた。
ゼクトは紙一重で回避。
砕けた石片が宙を舞う。
着地と同時。
ゼクトの瞳が細くなる。
――隙。
ほんの一瞬。
右肩。
そこへ。
黒い刺突が走る。
ギィィィン!!
火花。
今度は。
ガルドの長剣ではなく、
左腕の籠手が刺突を弾いていた。
ゼクトの瞳が揺れる。
その瞬間。
ガルドの膝蹴りが飛ぶ。
「っ……!」
轟音。
ゼクトが吹き飛ぶ。
結界へ激突しかけ、
強引に空中回転して着地する。
床へ片膝。
呼吸が乱れ始めていた。
対するガルドは、
未だ静かだった。
呼吸すら乱れていない。
ゼクトは苦笑する。
「本当に、
化け物ですね……」
ガルドは長剣を構えたまま、
低く答える。
「遅い」
直後。
ガルドが動いた。
――消えた。
使用人達の顔色が変わる。
重いはずの巨体。
だが。
速度だけなら、
ゼクトにすら匹敵していた。
ゼクトの本能が警鐘を鳴らす。
危険。
即座に後退。
だが遅い。
轟――――ッ!!
長剣が振り抜かれる。
直撃ではない。
掠っただけ。
それでも。
ゼクトの身体が横へ吹き飛んだ。
石床を滑る。
制服が裂ける。
血が滲む。
使用人達が息を呑んだ。
ゼクトが押されている。
しかも一方的に。
だが。
黒騎士はまだ倒れない。
ゼクトは立ち上がる。
ゆっくりと。
灰色の瞳から、
完全に笑みが消えていた。
代わりに。
静かな殺気だけが残る。
訓練場の空気が張り詰める。
ゼクトが長剣を構え直す。
「――参ります」
次の瞬間。
黒い斬光が爆発した。
今までで最速。
真正面。
フェイント無し。
純粋な殺傷剣。
喉を狙う神速の一撃。
だが。
ガルドは避けない。
灰色の瞳が、
真正面からゼクトを見る。
そして。
長剣が振り下ろされた。
真正面から。
黒刃と激突する。
ギィィィィィン――――ッ!!!!
訓練場全体が揺れた。
結界が軋む。
火花が爆発する。
数秒。
完全な力比べ。
ゼクトの足元が砕ける。
押される。
重い。
まるで山だった。
ゼクトは歯を食いしばる。
だが。
次の瞬間。
ガルドの長剣が、
僅かに軌道を変えた。
流された。
「――っ」
ゼクトの体勢が崩れる。
その一瞬。
ガルドの肩が動く。
終わった。
ゼクトの本能が理解した。
直後。
轟ッ――――!!
凄まじい衝撃。
ガルドの長剣の腹が、
ゼクトの胴へ叩き込まれた。
空気が弾ける。
ゼクトの身体が宙を舞う。
数メートル吹き飛び。
石床へ激突。
轟音。
静寂。
誰も動かない。
使用人達は息を止めていた。
やがて。
床へ倒れたまま、
ゼクトが小さく息を吐く。
「……参りました」
掠れた声だった。
ガルドは長剣を肩へ担ぐ。
数秒、
倒れたゼクトを見下ろし。
そして。
低く口を開いた。
「悪くない」
短い言葉。
だが。
ゼクトの口元には、
小さな笑みが浮かんでいた。
黒騎士。
帝国最強格。
その男を正面から叩き伏せたのに。
ガルド=フェンリルの呼吸は、
最後までほとんど乱れていなかった。
アルベルトが静かに目を閉じる。
使用人達もまた、
改めて理解していた。
この男は。
やはり。
ヴァルグリム帝国最強なのだと。




