第18話 ゼクト=アイゼン 1
翌朝――。
「ぃっ……!?」
レギアは、 目を覚ました瞬間に固まった。
痛い。
全身が。
首を動かしただけで、 肩から背中にかけて激痛が走る。
「な、なにこれ……」
掠れ声が漏れる。
昨日の訓練。
ガルドとの模擬戦。
その記憶が蘇った瞬間。
「〜〜〜っ!!」
今度は腹筋が攣りそうになった。
起き上がれない。
腕に力を入れるだけで、 脇腹が悲鳴を上げる。
脚も重い。
まるで別人の身体だった。
レギアはベッドの上でしばらく呻いていた。
「……これ、 本当に模擬戦?」
半泣きみたいな声だった。
外では、 静かな朝の雪が降っている。
暖かな部屋。
柔らかな羽毛布団。
だが。
レギアだけが地獄だった。
数分後。
コンコン。
静かなノック音が響く。
「レギア様、 お目覚めでしょうか」
アルベルトの声だった。
レギアは少し間を置いて答える。
「……おき、てます……」
死にかけみたいな声だった。
扉が静かに開く。
アルベルトが一礼し、 その後ろから数名のメイド達が入ってくる。
そして。
ベッド上で微妙な体勢のまま固まっているレギアを見て――。
一瞬だけ、 全員の動きが止まった。
「…………」
「…………」
レギアは恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……笑っていいですよ」
すると。
若いメイドが耐え切れず、 小さく吹き出した。
「ふふっ……!」
「も、申し訳ありません……っ」
他のメイド達まで肩を震わせ始める。
アルベルトも、 咳払いで誤魔化していた。
レギアは顔を赤くした。
「だ、だって無理なんですよ……!」
「起き上がるだけで痛いんですけど!?」
その必死な訴えに、 メイド達の笑いが少し大きくなる。
辺境区画では、 こんな風に笑われる事など殆ど無かった。
だが。
不思議と嫌ではなかった。
アルベルトは穏やかな表情のまま言う。
「旦那様も幼少期は同じだったそうです」
「え」
レギアが目を丸くする。
あのガルド=フェンリルが。
筋肉痛で動けない姿など、 まるで想像できない。
若いメイドがくすくす笑いながら続ける。
「三日ほど歩き方がお爺様みたいだったとか」
「……絶対嘘だ」
レギアは即答した。
だが。
アルベルトは真顔だった。
「事実でございます」
「本当に……?」
「はい」
静かな肯定。
レギアは思わず吹き出しそうになる。
その時だった。
廊下の向こうから、 重い足音が近づいてくる。
メイド達の空気が少し変わった。
次の瞬間。
開いたままの扉の向こうに、 黒い影が現れる。
ガルド=フェンリルだった。
黒衣姿。
腕を組み、 静かにこちらを見ている。
レギアは反射的に背筋を伸ばそうとして――。
「ぃっっ!!」
盛大に痛がった。
メイド達がまた吹き出す。
ガルドは数秒沈黙し。
そして。
小さく鼻で笑った。
「見事に壊れてるな」
「誰のせいだと……!」
レギアが半泣きで睨む。
だが。
ガルドはどこ吹く風だった。
「今日は基礎だけにしてやる」
「え」
レギアが固まる。
ガルドは当然のように続けた。
「朝食後、 一時間後に訓練場へ来い」
レギアの顔が引き攣った。
「いや待ってください」
「今日もやるんですか!?」
ガルドは静かに頷く。
「当然だ」
「剣は一日では身につかん」
絶望みたいな顔になるレギア。
メイド達は必死に笑いを堪えていた。
すると。
ガルドはふと、 レギアを見下ろしたまま口を開く。
「だが」
低い声。
「昨日よりは、 少しだけマシな目をしている」
レギアは少しだけ目を瞬かせた。
ガルドはそれ以上言わない。
そのまま踵を返し、 廊下を歩いていく。
去り際。
低い声だけが残った。
「立てるようになってから来い」
「…………」
レギアはしばらく呆然としていた。
そして。
数秒後。
「……絶対、 一本取ってやる……」
布団の上で、 悔しそうに呟く。
その紅い瞳には。
昨日よりも確かに、 負けん気の光が宿り始めていた。
朝食後――。
レギアは、 死ぬ気で訓練場へ来ていた。
「ぅぅ……」
歩き方がぎこちない。
脚が痛い。
階段が辛い。
肩も上がらない。
昨日の筋肉痛は、 まるで容赦が無かった。
それでも。
逃げるとは言わなかった。
訓練場では、 既にガルド=フェンリルが待っていた。
黒衣姿。
長剣を片手に、 静かに立っている。
今日は公務が休みらしい。
帝国軍上層部との会談も、 視察も無い。
だからこそ。
午前中すべてが、 レギアとの訓練へ使われた。
――地獄だった。
コン――ッ!!
「っぁ!?」
開始数分で、 レギアの細剣が弾き飛ばされる。
転がる細剣。
痺れる腕。
「拾え」
低い声。
レギアは悔しそうに歯を食いしばり、 再び剣を拾う。
だが。
数分後。
コンッ!!
「うわっ!?」
今度は足払い。
盛大に転ぶ。
「重心が浮いている」
「前しか見えていない」
淡々とした指摘。
休む暇もない。
立たされる。
打ち込む。
避けられる。
弾かれる。
転ばされる。
打ち込まれる。
完全に一方的だった。
訓練場の壁際では、 アルベルトとメイド達が静かに様子を見守っていた。
若いメイド達は、 最初こそ心配そうにしていた。
だが。
途中から、 少し表情が変わり始める。
「……レギア様、 また突っ込んでいきましたね」
「はい……」
「普通、 もう少し嫌がりますよね……」
何度倒されても。
何度叩き込まれても。
レギアは立ち上がる。
息を切らし。
汗だくになり。
黒髪を乱しながら。
それでも。
細剣を拾う。
そしてまた、 真正面から飛び込んでいく。
ガルドは相変わらず容赦が無かった。
コン――ッ!!
「かはっ……!」
胸当てへ一撃。
レギアが数歩吹き飛ぶ。
「剣だけ見るな」
「相手の肩と腰を見ろ」
「はいっ……!」
返事はする。
次の瞬間には、 また打ち込まれている。
訓練開始から二時間後。
レギアは既にボロボロだった。
髪は汗で張り付き。
呼吸は荒い。
腕は震え。
脚も限界に近い。
それでも。
「まだです……!」
細剣を構える。
ガルドはそれを見て、 僅かに目を細めた。
そして。
また長剣を構える。
「来い」
「っ!」
レギアは最後の力で踏み込んだ。
だが。
結果は同じだった。
コン――――ッ!!
「ぁっ!!」
鋭い一撃。
細剣が宙を舞う。
次の瞬間。
ガルドの長剣の切っ先が、 レギアの喉元で止まっていた。
静寂。
レギアは荒い呼吸のまま固まる。
完全敗北だった。
ガルドは数秒そのまま止まり。
やがて。
静かに剣を下ろす。
「終わりだ」
その瞬間。
レギアの脚から力が抜けた。
「む、り……」
そのまま石床へへたり込む。
完全に燃え尽きていた。
メイド達が慌てて駆け寄る。
「レギア様!」
「お水を……!」
「タオルをお持ちします!」
レギアは床に座り込んだまま、 息を切らしていた。
悔しい。
本当に悔しい。
一回くらい。
一本くらい。
届かせたかった。
だが。
現実は圧倒的だった。
ガルド=フェンリルは、 まるで壁だった。
すると。
頭上から低い声が落ちる。
「悪くない」
レギアが顔を上げる。
ガルドは長剣を肩へ担ぎながら、 静かに続けた。
「少なくとも、 昨日より踏み込みが深い」
「……ほんと、ですか」
掠れ声。
ガルドは短く頷く。
「恐怖で足が止まらなくなってきた」
「それは才能だ」
その言葉に。
レギアの紅い瞳が、 少しだけ揺れた。
褒められると思っていなかった。
ガルドはそのまま背を向ける。
「午後は座学だ」
「アルベルト」
「はい」
「文字通り立てなくなる前に、 風呂へ放り込んでおけ」
「かしこまりました」
レギアは抗議しようとして。
「べ、別にそこまで――」
立ち上がろうとして。
脚が崩れた。
「うわっ!?」
そのまま再び座り込む。
訓練場の空気が一瞬止まり。
次の瞬間。
メイド達が吹き出した。
アルベルトまで目を逸らしていた。
ガルドだけが静かに鼻で笑う。
「説得力が無いな」
レギアは真っ赤になりながら、 悔しそうに唸るしかなかった。
午後――。
痛む身体を引きずりながら、 レギアはアルベルトと共に上層廊下を歩いていた。
脚が痛い。
肩も重い。
腕もまともに上がらない。
午前中、 ガルド=フェンリルに徹底的に叩き込まれた代償は大きかった。
「ぅぅ……」
半ば呻くように歩くレギアを見て、 アルベルトは穏やかに言う。
「旦那様も本日は休日でございますから」
「午前中は特に熱が入っておりました」
「熱ってレベルじゃ……」
レギアは引き攣った顔になる。
そんな会話をしていた時だった。
前方廊下から、 複数のメイド達の声が聞こえてきた。
「ようこそおいでくださいました」
「旦那様がお待ちです」
その瞬間。
レギアは自然と顔を上げた。
一人の男が歩いてくる。
黒い帝国軍将校服。
腰には黒いロングソード。
長身。
黒髪。
灰色の瞳。
そして。
歩き方。
レギアの視線が止まる。
静かすぎた。
ほとんど音がしない。
だが。
重心移動。
視線。
僅かな身体の揺れ。
全部が、 明らかに普通ではない。
戦場の人間の動きだった。
レギアは思わず息を呑む。
男――ゼクト=アイゼンは、 メイド達へ軽く頷く。
「少し早かったか」
低く落ち着いた声だった。
今日は、 ゼクトもまたガルドとの訓練のため、 フェンリル邸を訪れていた。
休日になると、 二人が実戦訓練を行う事もあるらしい。
昨夜、 アルベルトはレギアへその話をしていた。
ガルド直属に近い存在。
親衛騎士団長。
黒衣隊最強格の一人。
そして――黒騎士。
だからこそ。
実際に目の前へ現れた瞬間、 レギアは本能的に理解した。
強い。
異常なほど。
ゼクトはまだ、 レギアの存在を知らない。
ガルドから聞かされてもいなかった。
だから。
灰色の瞳は、 純粋に“見慣れない少女”を見る目だった。
数秒。
静かな視線がレギアへ向く。
その瞬間。
レギアは反射的に背筋を伸ばそうとして――。
「ぃっ……!」
筋肉痛で失敗した。
空気が少し止まる。
メイド達が必死に表情を整える中。
ゼクトだけが、 ほんの僅かに目を細めた。
「……?」
自然とレギアを見る。
歩き方はボロボロ。
肩も重そうだ。
だが。
腰には細剣。
そして何より。
目だけは死んでいない。
ゼクトは静かにアルベルトへ視線を向ける。
「ガルド様が?」
短い問い。
アルベルトは穏やかに頷いた。
「はい」
「本日午前中、 旦那様直々にご指導されておりました」
その瞬間。
ゼクトの口元が、 ほんの少しだけ動いた。
納得したらしい。
「……なるほど」
短い一言。
レギアは少し気まずそうに視線を逸らす。
そんな彼女を見ながら、 ゼクトは淡々と言った。
「生きてるなら軽傷だな」
「軽傷……?」
レギアは思わず聞き返した。
だが。
ゼクトは真顔だった。
「ガルド様相手なら十分だ」
怖い。
この人も感覚がおかしい。
レギアは本能で理解した。
すると。
案内役のメイドが静かに一礼する。
「ゼクト様、 旦那様は訓練場奥にてお待ちです」
ゼクトは頷く。
そのまま歩き出しかけ――。
ふと。
レギアの腰の細剣へ視線を向けた。
数秒だけ見る。
そして。
「細剣か」
低い声。
「悪くない」
それだけ言うと、 再び歩き出す。
擦れ違う瞬間。
レギアは気づいた。
この人は、 フェンリル家の人間ではない。
だが。
この屋敷の空気へ、 自然に溶け込んでいる。
それだけ、 ガルドから信頼されているのだろう。
ヴァルツはそのまま廊下奥へ消えていく。
おそらくこの後、 訓練場でガルドからレギアの話を聞くのだろう。
その背中を見送りながら。
レギアは小さく呟いた。
「……帝都、 怖い人多すぎる……」




