第17話 訓練場にて
夕食の時間は、
静かに過ぎていった。
長い黒木の食卓。
暖炉の火。
窓の外へ降り続ける灰色の雪。
レギアはまだ少し緊張していたが、
昼間ほどではなかった。
ガルド=フェンリルもまた、
必要以上に言葉を発する事は無い。
けれど。
沈黙が苦しい訳ではなかった。
それが、
少し不思議だった。
やがて。
食後の紅茶が運ばれてくる。
湯気の立つ白磁のカップ。
静かな香り。
メイドが丁寧に一礼し、
音も無く下がっていった。
レギアはそっと紅茶を口へ運ぶ。
暖かい。
ほんの少しだけ、
肩の力が抜けていく。
向かい側では、
ガルドが静かに紅茶を飲んでいた。
黒を基調とした私服姿。
軍服ではないだけで、
昼間よりどこか人間らしく見える。
静かな時間だった。
暖炉の火だけが、
小さく音を立てている。
やがて。
ガルドが不意に口を開いた。
「……レギア」
「は、はい」
まだ少し反応が硬い。
ガルドは紅茶を置く。
そして。
何でもない事みたいに言った。
「訓練場へ行く」
レギアが小さく目を瞬かせる。
「……え?」
「一緒に来い」
短い言葉。
それだけだった。
だが。
レギアは少し固まる。
訓練場。
つまり。
ガルドと。
二人で。
頭の中で整理が追いつかない。
ガルドはそんなレギアを見ながら、
静かに続けた。
「昼間、
訓練場を見ていただろう」
「お前の剣も見ておきたい」
その言葉に。
レギアは無意識に、
傍らへ置いていたエペ・ドゥ・ノクスへ視線を向ける。
ガルドは静かに紅茶を飲む。
「安心しろ」
「別に叩きのめす訳じゃない」
「そ、それ安心材料になってません……」
思わず返してしまった。
その瞬間。
ガルドが小さく鼻で笑う。
ほんの僅かだった。
だが。
確かに笑った。
レギアは少しだけ目を丸くする。
そんな二人を、
控えていたメイド達がどこか穏やかに見守っていた。
やがて。
ガルドは静かに立ち上がる。
「準備しろ」
「五分待つ」
「は、はい!」
レギアは慌てて立ち上がった。
紅い瞳に、
緊張と少しの高揚が混ざっている。
怖い。
でも。
不思議と嫌ではなかった。
暖炉の火が揺れる。
窓の外では、
灰色の雪が静かに降り続けていた。
夜の訓練場は静かだった。
石造りの広い演習場。
天井照明術式の淡い白光。
外では灰色の雪が降り続けている。
昼間とは違う。
夜の訓練場には、
どこか張り詰めた空気があった。
レギアは訓練用装備を身につけながら、
小さく深呼吸する。
胸当て。
軽量防具。
手甲。
模擬戦用の細剣。
本物ではない。
刃も落としてある。
けれど。
手に持てば、
自然と身体が緊張した。
近くでは、
ガルド=フェンリルが静かに模擬戦用長剣を手に取っている。
防具は付けていない。
黒い私服姿のまま。
それだけだった。
レギアは思わず目を瞬かせる。
「……防具、
付けないんですか」
ガルドは剣を軽く振り、
感触を確かめながら答える。
「必要ない」
即答だった。
レギアは少しだけ引きつった顔になる。
「それ、
普通に嫌なんですけど……」
ガルドは気にした様子も無い。
演習場中央へ歩いていく。
レギアも小さく息を吐き、
その後を追った。
広い石床。
静かな空気。
二人の足音だけが響く。
やがて。
一定の距離を置いて向かい合う。
レギアは細剣を構えた。
まだ硬い。
肩に力が入っている。
その姿を見ながら。
ガルドは静かに口を開いた。
「……レギア」
低い声。
レギアは少しだけ身体を強張らせる。
「はい」
数秒の沈黙。
そして。
ガルドは真っ直ぐレギアを見据えたまま問う。
「まだ剣が怖いか」
その瞬間。
空気が止まった気がした。
レギアの紅い瞳が、
小さく揺れる。
訓練場の静寂。
暖かな屋敷とは違う。
ここは、
剣を握る場所だった。
レギアは無意識に、
細剣を握る手へ力を込める。
脳裏に過る。
辺境区画。
血。
怒号。
震える手。
初めて剣を握った日の事。
怖かった。
ずっと。
剣は、
生きるための物だった。
傷付けるための物だった。
失わないための物だった。
だから。
怖かった。
レギアはしばらく黙っていた。
やがて。
小さく俯いたまま口を開く。
「……怖いです」
静かな声だった。
「今でも」
「人を傷付けるのも」
「傷付けられるのも」
「……怖い」
模擬戦用細剣の切っ先が、
ほんの僅かに揺れる。
ガルドは黙って聞いていた。
否定しない。
笑わない。
ただ、
静かに立っている。
レギアは少しだけ唇を噛む。
「でも」
紅い瞳が、
ゆっくり上がる。
「逃げたくはないです」
その瞬間。
ガルドの灰色の瞳が、
ほんの僅かに細くなった。
レギアは震える呼吸を整える。
細剣を握り直す。
怖い。
それでも。
目は逸らさなかった。
その姿を見ながら。
ガルドは静かに剣を構える。
「……なら十分だ」
低い声が、
静かな訓練場へ落ちた。
次の瞬間。
空気が変わる。
ガルド=フェンリルは、
静かに長剣を構えた。
無駄の無い動きだった。
ただ剣を持っただけ。
それだけなのに。
空気そのものが張り詰める。
レギアは無意識に息を呑む。
本能が理解していた。
目の前にいる男は、
本当に強い。
戦場を生き抜いてきた存在なのだと。
静かな訓練場。
降り続ける灰色の雪。
天井照明術式の白光が、
石床を淡く照らしている。
その中で。
ガルドは構えたまま、
低く口を開いた。
「……これから先」
静かな声だった。
だが。
重かった。
「お前は、
不条理なものを数多く見る」
レギアの紅い瞳が、
僅かに揺れる。
ガルドは続けた。
「理不尽な死」
「奪われる命」
「守れない人間」
「救えない現実」
淡々としている。
感情を乗せていない。
だからこそ、
重かった。
「お前の家族が奪われたのも」
灰色の瞳が、
真っ直ぐレギアを見る。
「その一端に過ぎん」
その瞬間。
レギアの胸が、
小さく痛んだ。
辺境区画。
燃える街。
血の匂い。
冷たくなった家族。
忘れた事など、
一度も無い。
模擬戦用細剣を握る手へ、
自然と力が入る。
ガルドは静かに続けた。
「世界は優しくない」
「努力した者が必ず報われる訳でもない」
「善人が生き残る訳でもない」
「子供ですら、
簡単に死ぬ」
その言葉には、
妙な現実味があった。
綺麗事ではない。
実際にそれを見てきた者の言葉だった。
レギアは黙って聞いている。
紅い瞳は揺れていた。
怖い。
苦しい。
けれど。
目は逸らさない。
ガルドはそんなレギアを見ながら、
僅かに剣先を下げる。
「だからこそ」
低い声。
「力を持て」
空気が変わる。
「剣を握れ」
「恐怖から逃げるな」
「逃げ続ければ、
最後には何も守れなくなる」
その言葉は、
説教ではなかった。
命令でもない。
戦場を知る男の、
実感だった。
レギアは唇を引き結ぶ。
細剣を握る。
怖い。
今でも。
けれど。
それでも。
逃げたくない。
その想いだけは、
消えなかった。
ガルドは静かに構え直す。
灰色の瞳が、
鋭く細くなる。
「その恐怖ごと、
俺へぶつけてみろ」
その瞬間。
レギアは床を蹴った。
黒髪が揺れる。
細剣を突き出し、
一気に間合いへ踏み込む。
速い。
辺境区画で磨かれた実戦剣術。
騎士学校入学前の少女としては、
十分すぎる速度だった。
だが。
――当たらない。
ガルドの姿が、
半歩だけズレる。
それだけだった。
次の瞬間。
コン――ッ!!
鈍い衝撃。
「っ!?」
レギアの肩へ、
模擬戦用長剣が叩き込まれる。
痛い。
軽減防具越しでも、
痺れるような衝撃が走った。
「まだ甘い」
低い声。
レギアはすぐに距離を取る。
呼吸が乱れる。
速かったはずだ。
本気で踏み込んだ。
なのに。
見切られた。
レギアは歯を食いしばる。
再び踏み込む。
横薙ぎ。
突き。
連続斬撃。
だが。
全部、
当たらない。
避けられる。
流される。
届かない。
まるで。
大人と子供だった。
そして。
コン!!
「うっ!?」
今度は脇腹。
「視線で狙いが読める」
コン!!
「きゃっ……!」
脚。
「踏み込みが浅い」
コン!!
「っ……!」
手首。
「恐怖で剣速が鈍る」
容赦が無かった。
レギアは息を切らしながら後退する。
痛い。
地味に痛い。
防具越しでも普通に痛い。
汗が滲む。
呼吸が荒い。
対するガルドは、
ほとんど動いていなかった。
黒い私服姿のまま。
静かに立っている。
まるで壁だった。
レギアは半ば涙目になりながら、
細剣を握り直す。
そして。
頭の片隅で思う。
――叩きのめさないって言いませんでしたっけ……?
完全に押し込まれていた。
一太刀も届かないまま、
一方的に打ち込まれている。
だが。
そんな事を考える余裕が、
まだ残っている時点で、
レギア自身も気付いていなかった。
彼女はもう、
逃げていなかった。
怖い。
痛い。
勝てない。
それでも。
前へ出ている。
ガルドはそんなレギアを静かに見ていた。
灰色の瞳が、
僅かに細くなる。
「止まるな」
低い声。
「剣を振れ」
レギアは息を荒げながら、
再び床を蹴る。
細剣が閃く。
当たらない。
それでも。
何度でも向かっていく。
訓練場へ、
剣戟音が響き続けていた。
それから、
どれほど打ち合ったのか分からなかった。
コン――ッ!!
「っ……!」
レギアの身体がよろめく。
肩。
脇腹。
脚。
何度踏み込んでも、
剣は届かない。
その度に。
ガルドの長剣が、
容赦なく打ち込まれる。
痛い。
重い。
息が苦しい。
防具越しでも、
身体中が熱を持ち始めていた。
レギアは荒い呼吸を繰り返しながら、
細剣を構え直す。
視界が揺れる。
汗が頬を伝う。
黒髪が乱れ、
紅い瞳には疲労が滲んでいた。
対するガルドは、
ほとんど息を乱していない。
黒い私服姿のまま。
静かに立っている。
圧倒的だった。
「……来るか」
低い声。
レギアは歯を食いしばる。
悔しかった。
一太刀も届かない。
自分の剣が、
まるで子供みたいだった。
それでも。
逃げたくはなかった。
レギアは床を蹴る。
最後の踏み込み。
細剣が閃く。
だが。
ガルドの姿が、
また半歩だけズレた。
その瞬間。
コン――――ッ!!
「ぁ……っ!」
長剣が、
レギアの胸当てへ叩き込まれる。
衝撃。
息が止まる。
足が崩れる。
レギアは数歩ふらつき――
そのまま膝をついた。
模擬戦用細剣が、
石床へ転がる。
カラン……。
静かな音が、
訓練場へ響いた。
レギアは荒い呼吸を繰り返す。
立てない。
腕に力が入らない。
脚が震える。
全身が熱い。
痛い。
悔しい。
情けない。
それでも。
怖くはなかった。
ガルドは静かに長剣を下ろした。
数秒、
レギアを見下ろす。
そして。
低い声で告げる。
「……そこまでだ」
訓練終了。
その言葉と同時に。
張り詰めていた空気が、
少しだけ緩んだ。
レギアは息を切らしながら、
なんとか立ち上がろうとする。
だが。
脚が動かない。
「っ……」
力を入れた瞬間、
また膝が落ちる。
完全に限界だった。
そんなレギアを見ながら。
ガルドは小さく息を吐く。
「無理に立つな」
静かな声。
レギアは悔しそうに俯く。
「……一回も、
当たりませんでした」
掠れた声だった。
ガルドは短く答える。
「当然だ」
即答だった。
レギアは少しだけ頬を引きつらせる。
すると。
ガルドはそのまま続けた。
「だが」
灰色の瞳が、
静かにレギアを見る。
「最後まで前へ出た」
「逃げなかった」
「それで十分だ」
その言葉に。
レギアの紅い瞳が、
少しだけ揺れた。
褒められるとは、
思っていなかった。
ガルドは静かに模擬戦用長剣を肩へ担ぐ。
「剣は技術だけではない」
「恐怖へ踏み込めるかどうかだ」
低い声。
静かな訓練場へ落ちる。
「お前は、
もう逃げ始めてはいない」
レギアはしばらく黙っていた。
荒い呼吸のまま、
石床へ視線を落とす。
身体は痛い。
全身ボロボロだった。
でも。
胸の奥だけは、
少し熱かった。
外では。
灰色の雪が、
静かに降り続けていた。
レギアは石床へ膝をついたまま、
荒い呼吸を繰り返している。
全身が痛い。
腕も。
脚も。
まともに力が入らない。
防具越しでも、
ガルドの一撃は重かった。
だが。
不思議と嫌な痛みではなかった。
ガルド=フェンリルは、
そんなレギアを静かに見下ろしていた。
やがて。
小さく息を吐く。
そして。
訓練場入口へ視線を向けた。
「アルベルト」
低い声が響く。
その直後。
まるで待機していたみたいに、
入口近くの扉が静かに開いた。
「こちらに」
執事長アルベルトが、
一礼しながら姿を現す。
おそらく、
最初から様子を見守っていたのだろう。
ガルドは模擬戦用長剣を肩へ担いだまま、
淡々と言った。
「レギアの治療をしてやってくれ」
「それと、
風呂の準備もだ」
アルベルトは静かに頷く。
「かしこまりました」
すると。
レギアが少しだけ顔を上げる。
紅い瞳には、
まだ悔しさが残っていた。
「……まだ、
動けます」
半ば意地だった。
ガルドはその言葉を聞き、
小さく鼻で笑う。
「立ててから言え」
「うっ……」
即座に言い返せなくなる。
実際、
立てない。
脚が限界だった。
アルベルトはそんなレギアの様子を見て、
どこか穏やかに目を細めた。
「レギア様、
本日は十分頑張られました」
「湯をご用意しておりますので、
どうかお身体を休めてください」
その言葉に。
レギアは少しだけ視線を落とす。
悔しい。
もっとやれた気がする。
一太刀くらい、
届かせたかった。
そんな感情が胸の奥で燻っていた。
だが。
ガルドは静かに背を向けながら、
低く口を開く。
「明日もやる」
その瞬間。
レギアの目が少し開く。
ガルドは振り返らない。
そのまま出口へ歩きながら続ける。
「逃げるなよ、レギア」
静かな声だった。
だが。
どこか確かな期待が混じっていた。
レギアはしばらく呆然としていた。
やがて。
少しだけ悔しそうに笑う。
「……逃げませんよ」
小さな声だった。
けれど。
その紅い瞳には、
もう最初の怯えだけではない光が宿り始めていた。
暖かな訓練場の照明が、
静かに二人の背を照らしていた。
訓練場を出た頃には。
レギアは完全に限界だった。
「いっ……た……」
脚が痛い。
腕も重い。
肩も熱を持っている。
模擬戦用防具を外した今、
余計に全身の疲労が分かった。
レギアは半ば身体を引きずるようにしながら、
アルベルトと数名のメイド達に付き添われ、
静かな廊下を歩いていた。
暖かな照明。
柔らかな絨毯。
窓の外には灰色の雪。
辺境区画とは違う、
静かな夜だった。
「大丈夫でございますか、レギア様」
若いメイドが心配そうに聞く。
レギアは少し引きつった笑みを浮かべた。
「……たぶん、
今ならレムナントより弱いです」
その返答に。
メイド達が思わず小さく笑ってしまう。
アルベルトまで、
ほんの僅かだけ目を細めていた。
レギアは小さく息を吐く。
そして。
ふと昼間見た訓練場を思い出した。
あの広さ。
設備。
結界。
どう考えても、
個人用ではない。
レギアは素朴な疑問を口にする。
「……あれだけ広い訓練場あるって事は」
「他の軍関係者も使うんですよね」
アルベルトは静かに頷いた。
「はい」
「黒衣隊関係者を中心に、
様々な方が使用されます」
「やっぱり……」
レギアは少しだけ納得した顔をする。
すると。
アルベルトは続けた。
「それと」
「旦那様ご自身が目を掛けられた方々も、
使用を許可されております」
その言葉に。
レギアは少し目を瞬かせる。
ガルド=フェンリル。
そんな男が認める人物。
自然と興味が湧いた。
「……どんな人がいるんですか」
アルベルトは数秒だけ考えるように沈黙する。
そして。
静かに口を開いた。
「現在、
特に旦那様から認められている方がお一人」
「非常に強い方です」
その瞬間。
レギアの紅い瞳が少しだけ動く。
アルベルトは淡々と続けた。
「ゼクト=アイゼン様」
その名前が落ちた瞬間。
空気が少し変わった気がした。
近くにいたメイド達の表情も、
どこか引き締まる。
レギアは小さく首を傾げる。
「……有名な人なんですか?」
すると。
若いメイドの一人が、
少し興奮気味に口を開いた。
「黒騎士様ですよ!」
すぐにハッとして姿勢を正す。
「し、失礼しました……!」
だが。
アルベルトは咎めず、
静かに説明を続けた。
「旦那様直属に近いお方です」
「親衛騎士団長を務めておられます」
レギアは少しだけ目を見開く。
親衛騎士団長。
それだけでも、
相当な立場なのは分かる。
アルベルトは静かな声で続けた。
「若くして数々の戦場を生き抜かれた方です」
「黒衣隊内でも、
旦那様に次ぐ実力者と評される事もございます」
その言葉に。
レギアは少しだけ息を呑む。
ガルドに次ぐ。
それがどれほど異常なのか、
先ほどの模擬戦だけで嫌というほど理解していた。
レギアはぼんやりと呟く。
「……化け物じゃないですか」
その瞬間。
メイド達が少しだけ困った顔をする。
だが。
アルベルトだけは、
静かに頷いた。
「否定は出来ません」
真顔だった。
レギアは思わず苦笑する。
そのまま廊下を歩きながら、
小さく天井を見上げた。
帝都。
フェンリル家。
黒衣隊。
そして。
ゼクト=アイゼン。
辺境区画では、
決して交わる事の無かった世界が。
少しずつ、
自分の周囲へ現れ始めていた。




