第16 話 ガルド邸にて
ガルド=フェンリルが登庁した後。
フェンリル家の屋敷には、
再び静かな空気が戻っていた。
食堂を出たレギアは、
どこか落ち着かなさそうに周囲を見回している。
辺境区画とは違う。
広すぎる屋敷。
静かすぎる廊下。
柔らかな絨毯。
磨き上げられた窓。
まだ、
何もかも慣れなかった。
そんなレギアの前へ、
一人の初老の男性が静かに現れる。
白髪混じりの髪。
黒燕尾服。
背筋は一切曲がっていない。
「改めまして、
本日よりレギア様のお世話を担当致します」
「執事長のアルベルトと申します」
深く一礼。
その所作は、
まるで教本みたいに美しかった。
レギアは少し慌てて頭を下げ返す。
「よ、よろしくお願いします……!」
すると。
アルベルトは穏やかに目を細めた。
「どうかお気を遣われませんよう」
「この家の者は皆、
既にレギア様を主人家の一員としてお迎えしております」
その言葉に。
レギアは少しだけ困ったように笑う。
「……まだ、
全然慣れません」
「当然でございます」
アルベルトは即答した。
「一日で慣れる方がおりません」
その返答が妙に自然で。
レギアは少しだけ肩の力が抜ける。
アルベルトは静かに歩き出した。
「それでは、
屋敷をご案内致します」
長い廊下を歩きながら、
アルベルトは淡々と説明していく。
中央居住区。
来客用応接室。
会議室。
食堂。
中庭。
訓練場。
使用人区画。
あまりに広い。
レギアは途中から、
半分くらい覚えるのを諦め始めていた。
「……これ、
絶対迷います」
ぽつりと漏らす。
すると。
アルベルトは少しだけ口元を緩めた。
「皆様、
最初はそう仰います」
「旦那様も、
幼少期は頻繁に迷われておりました」
レギアが思わず目を見開く。
「えっ」
あのガルドが。
迷子。
想像出来なかった。
アルベルトは静かに続ける。
「庭園で泣いておられた事もございます」
「…………」
レギアは数秒沈黙した後。
「……ちょっとだけ安心しました」
小さく呟いた。
その瞬間。
近くにいた若いメイドが、
思わず吹き出しそうになって慌てて口元を押さえる。
アルベルトは咳払いを一つした。
「失礼」
「旦那様には内密に」
「絶対言いません」
レギアは真顔で頷いた。
そのやり取りに、
周囲の空気がほんの少し柔らかくなる。
やがて。
一行は大きな扉の前で止まった。
アルベルトが静かに扉を開く。
そこは、
巨大な図書室だった。
高い天井。
壁一面の本棚。
階段式書架。
帝国史。
軍事学。
剣術理論。
神学。
古代文明文献。
レギアは思わず息を呑む。
「……すごい」
辺境区画では、
本そのものが貴重だった。
アルベルトは静かに説明する。
「こちらは旦那様個人の蔵書になります」
「必要な本があれば、
自由にお使いください」
「じ、自由に……?」
レギアは困惑した顔で本棚を見る。
すると。
近くにいた女性メイドが、
どこか嬉しそうに微笑んだ。
「旦那様は、
読書される方を好まれますので」
「……あの人、
本読むんですね」
思わず漏れた。
その瞬間。
メイド達が少しだけ目を丸くする。
レギアはハッとした。
「あっ……」
言った後で気付く。
将軍に対して失礼だったかもしれない。
だが。
アルベルトは静かに答えた。
「毎晩読まれております」
「特に戦史と帝国建国史を」
「……意外です」
「皆様、
最初はそう仰います」
その返答に。
レギアは少しだけ笑ってしまった。
それから。
中庭。
温室。
訓練場。
屋敷の案内はゆっくり続いた。
フェンリル家私設訓練場は、
もはや小規模軍事施設だった。
広い石造りの演習場。
模擬戦用結界。
訓練用兵装保管庫。
射撃区画。
レギアは完全に固まる。
「……これ、
学校より広くないですか」
「旦那様は実戦主義でございますので」
アルベルトの返答は淡々としていた。
レギアは訓練場の中央へ視線を向ける。
その時。
ふと、
視界の端に無数の傷跡が映った。
石床に残る深い剣痕。
爆裂跡。
抉れた壁。
長年、
ここで積み重ねられた戦いの痕跡だった。
レギアは小さく息を呑む。
ここで。
ガルドはずっと、
戦ってきたのだ。
辺境とは違う。
けれど。
この家にも、
確かに戦場がある。
そんな事を、
レギアは少しだけ感じていた。
そして。
昼食を挟んだ後。
地獄が始まった。
「レギア様、
背筋をもう少し」
「ナイフはこちらです」
「紅茶は慌てて飲み込まれませんよう」
テーブルマナー講師の声が飛ぶ。
レギアは完全に固まっていた。
「む、無理ですこれ……!」
「慣れでございます」
老齢の女性講師は、
一切容赦が無かった。
辺境区画育ちのレギアにとって、
貴族作法は未知の文化である。
ナイフとフォークだけで混乱する。
紅茶を飲むタイミングも分からない。
椅子へ座る姿勢まで指摘される。
レギアは半泣きだった。
近くで控えていた若いメイド達が、
必死に笑いを堪えている。
「レギア様、
応援しております……!」
小声で囁かれる。
「応援するなら助けてください……」
レギアは真顔で返した。
その直後。
若いメイド達が完全に吹き出した。
「し、失礼しました……!」
慌てて頭を下げる。
そんな空気を見ながら。
老講師は小さく目を細めていた。
「……なるほど」
「旦那様が気に入られる訳です」
レギアは意味が分からず目を瞬かせる。
「……?」
講師は静かに紅茶を置いた。
「この家、
最近ずっと静かでしたので」
その言葉に。
レギアは少しだけ黙る。
そして。
少しだけ真面目な顔で呟いた。
「……なら、
少しくらいうるさくてもいいですよね」
その瞬間。
周囲の空気が、
ふっと柔らかくなる。
若いメイド達が顔を見合わせて笑う。
アルベルトも、
ほんの僅かだけ目を細めていた。
フェンリル家の屋敷に。
少しずつ。
新しい空気が流れ始めていた。
夜。
灰色の雪が降り続ける中、
一台の黒塗り軍用車両がフェンリル家の正門へ滑り込んだ。
屋敷前へ停車。
扉が開く。
黒衣隊将軍――
ガルド=フェンリルが静かに降車した。
玄関扉が開く。
「お帰りなさいませ、旦那様」
アルベルトを先頭に、
数名のメイド達が一礼する。
暖かな屋敷の空気が、
静かにガルドを迎え入れた。
ガルドは軍帽を外しながら、
短く頷く。
「……ああ」
そして。
何気ない調子で、
一言だけ尋ねた。
「レギアは?」
その瞬間。
アルベルトの口元が、
ほんの少しだけ緩む。
「本日は驚きの連続でしたので」
「現在、
お部屋で力尽きてございます」
静かな声だった。
だが。
珍しく、
少しだけ冗談が混じっていた。
背後の若いメイド達も、
どこか微笑みを堪えている。
ガルドは小さく眉を動かす。
「……何をした」
「屋敷案内、
図書室、
訓練場見学」
「その後、
テーブルマナーと学科講習を」
アルベルトは淡々と答える。
「途中から、
半泣きでございました」
その報告に。
一瞬の沈黙。
そして。
ガルドが、
小さく息を吐いた。
「……まだ初日だぞ」
「私共も、
ここまで反応が豊かとは思っておりませんでした」
アルベルトはどこか穏やかだった。
若いメイドの一人が、
思わず小さく口を開く。
「ですが旦那様、
とても頑張っておられました」
「講師の先生にも、
最後までちゃんと食らいついておられて……」
途中で、
ハッとしたように口を閉じる。
将軍へ軽々しく話しかけた事に気付いたのだろう。
慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません……!」
だが。
ガルドは咎めなかった。
「……そうか」
短い返答。
けれど。
その声は、
少しだけ柔らかかった。
アルベルトは静かに続ける。
「レギア様は、
使用人達とも自然に会話してくださいます」
「皆、
既にかなり気に入っております」
その言葉に。
ガルドは数秒だけ黙る。
暖炉の火が揺れる。
静かな玄関ホール。
外では雪が降り続けていた。
やがて。
ガルドは短く口を開く。
「……夕食は?」
アルベルトが一礼する。
「既に準備へ入っております」
ガルドは数秒だけ黙る。
そして。
何気ない調子で続けた。
「レギアは食べたのか」
「いえ。
まだお部屋で休まれております」
その返答を聞いた後。
ガルドは僅かに視線を伏せる。
「……なら」
静かな声。
「一緒に取ると伝えろ」
その瞬間。
近くにいた若いメイド達が、
ほんの少しだけ目を見開いた。
アルベルトもまた、
僅かに目を細める。
「かしこまりました」
すぐに一人のメイドが深く一礼し、
二階へ向かっていく。
静かな廊下。
柔らかな絨毯。
メイドはレギアの部屋の前で立ち止まり、
控えめにノックした。
コンコン。
数秒後。
部屋の中から、
少し眠そうな声が返ってくる。
「……はい」
「レギア様、
失礼致します」
扉を開けると。
そこには、
ベッドへ半分倒れ込むようにしていたレギアの姿があった。
完全に疲れ切っている。
机の上には、
途中まで開かれた帝国史の本。
おそらく、
予習しようとして力尽きたのだろう。
黒髪は少し乱れ、
ぼんやりした紅い瞳がこちらを見る。
メイドは思わず少し微笑んだ。
「旦那様がご帰宅されました」
その瞬間。
レギアの目が少し開く。
「……ガルド様、帰ってこられたんですか」
「はい」
メイドは穏やかに続ける。
「本日の夕食を、
レギア様とご一緒されたいとの事です」
数秒の沈黙。
そして。
「……えっ」
レギアが完全に固まった。
「い、一緒に!?」
「はい」
「きょ、今日ですか!?」
「本日でございます」
レギアは一気に飛び起きる。
「ま、待ってください!」
「私、
今絶対ひどいです!」
慌てて髪へ触れる。
寝癖。
乱れた服。
完全に気が抜けていた。
メイドは思わず小さく笑ってしまう。
「お急ぎでなくとも大丈夫ですよ」
「急ぎます……!」
レギアは半泣きで返した。
そのまま大慌てで支度を始める。
髪を整え。
服を直し。
鏡を確認し。
深呼吸。
だが。
緊張で全然落ち着かない。
メイドはその様子を微笑ましそうに見守っていた。
やがて。
「……だ、大丈夫でしょうか」
不安そうに聞いてくる。
「とてもお綺麗です」
即答だった。
レギアは少しだけ頬を赤くする。
「そ、そういうの慣れてないのでやめてください……」
その反応に、
メイドはまた小さく笑った。
そして。
レギアは部屋を飛び出す。
「わっ――」
勢い余って転びかける。
「レギア様!?」
慌てて体勢を立て直す。
顔を真っ赤にしながら、
レギアは小走りで廊下を進んだ。
静かな夜の屋敷。
暖かな照明。
柔らかな絨毯。
その中を。
黒髪の少女が、
どこか嬉しそうに、
けれど慌てた様子で走っていく。
使用人達は、
そんな姿を見ながら、
どこか穏やかに目を細めていた。
昨日まで。
この屋敷には無かった光景だった。
食堂へ続く廊下を、
レギアは小走りで進んでいた。
心臓がうるさい。
緊張している。
昼間の講習より、
今の方がずっと緊張していた。
ガルド=フェンリル。
帝国最強。
黒衣隊将軍。
そして今は、
自分を娘として迎え入れた人。
どう接するのが正しいのか、
まだ分からない。
やがて。
大きな食堂扉の前へ辿り着く。
近くに控えていたメイドが静かに扉を開いた。
暖かな光。
長い黒木の食卓。
暖炉の火。
そして。
既に席についていたガルド=フェンリルの姿が見える。
レギアは一瞬だけ呼吸を整える。
そして。
静かに食堂へ入った。
ガルドの傍らまで歩み寄る。
そのまま、
深く頭を下げた。
「……ガルド様」
少し硬い声。
「お出迎えもせず、
申し訳ございませんでした」
静かな食堂に、
その言葉が落ちる。
控えていた使用人達が、
僅かに目を見開いた。
まだこの屋敷へ来て一日。
しかも、
辺境区画育ち。
突然将軍家へ迎え入れられ、
環境は激変した。
普通なら。
もっと戸惑う。
もっと怯える。
もっと右往左往していても、
何もおかしくない。
だが。
レギアは違った。
疲れ切っていたはずなのに。
慌てて駆けつけたはずなのに。
最初に出たのが、
謝罪と礼節だった。
ガルドは静かにその姿を見下ろしていた。
灰色の瞳が、
ほんの僅かに細くなる。
「……ほう」
小さく漏れた声。
感心したような響きだった。
ガルドは数秒だけレギアを見つめる。
まだ幼い。
不器用。
環境にも慣れていない。
それでも。
最低限、
何をすべきかを理解している。
その心構えが、
自然に出ていた。
ガルドは静かに口を開く。
「気にするな」
低い声。
「今日は休めと言ったはずだ」
レギアはゆっくり顔を上げる。
紅い瞳には、
まだ少し緊張が残っていた。
ガルドはそのまま続ける。
「それに」
「初日でそこまで動ければ十分だ」
短い言葉だった。
だが。
それは間違いなく、
評価だった。
レギアは少しだけ目を見開く。
褒められるとは、
思っていなかったのだろう。
その反応を見ながら。
ガルドは小さく顎を動かした。
「座れ」
「……はい」
レギアは少しだけ慌てながら、
ガルドの向かい側へ腰を下ろした。
使用人達は、
そんな二人を静かに見守っていた。
暖炉の火が揺れる。
窓の外では、
灰色の雪が静かに降り続けている。
けれど。
フェンリル家の食堂には。
昨日までには無かった、
穏やかな空気が流れ始めていた。




