第15話 温もり 2
メイド達に案内されながら、
レギアは静かな廊下を歩いていた。
窓の外では、
灰色の雪がゆっくり降り続けている。
屋敷の中は暖かかった。
床も。
空気も。
照明の色すら、
どこか落ち着いている。
やがて。
一際大きな扉の前で、
メイド達が立ち止まった。
「こちらになります」
静かな声。
そして。
扉がゆっくり開かれる。
その瞬間。
レギアはまた小さく足を止めた。
「……広い」
思わず漏れた声。
そこは、
もはや浴場だった。
白大理石の床。
蒸気に包まれた広い浴槽。
壁面を流れる温水導管。
磨き上げられた銀器。
天井には淡い照明術式まで組み込まれている。
辺境区画では、
まず見る事のない空間だった。
レギアは少し落ち着かなさそうに視線を揺らす。
「……私、
こんなの使っていいんですか」
すると。
メイドの一人が、
穏やかに微笑んだ。
「もちろんです、レギア様」
その返答は、
あまりにも自然だった。
まるで。
最初から、
レギアがこの家の人間であるみたいに。
もう一人のメイドも静かに続ける。
「旦那様より、
レギア様へ失礼の無いよう仰せつかっております」
その言葉に。
レギアの胸が、
小さく揺れる。
旦那様。
つまり。
ガルド=フェンリルが。
本当に、
自分を家族として迎え入れている。
その事実が、
少しずつ現実感を持ち始めていた。
レギアは小さく視線を落とす。
まだ慣れない。
“レギア様”も。
丁重に扱われる事も。
こんな暖かな場所も。
全部。
けれど。
嫌ではなかった。
むしろ。
胸の奥が、
少しだけ温かかった。
メイド達は自然な動作で、
着替えやタオルを準備していく。
その動きに、
一切の雑さは無い。
まるで本当に、
将軍家の令嬢へ接するみたいだった。
レギアは少し困ったように呟く。
「……なんか、
まだ変な感じです」
メイド達が小さく目を瞬かせる。
レギアは少しだけ視線を逸らした。
「急に、
“娘”って言われても……」
小さな声だった。
すると。
年上のメイドが、
どこか優しく微笑む。
「旦那様は、
言葉にされる事は少ないですが」
「レギア様が来られる日を、
ずっと楽しみにされておりました」
その瞬間。
レギアの瞳が、
少しだけ揺れた。
ガルドが。
楽しみに。
自分を。
レギアは小さく唇を引き結ぶ。
胸の奥が、
また少し熱くなる。
メイド達は静かに一礼する。
「それでは、
ごゆっくりお寛ぎください」
そして。
音も無く退出していった。
広い浴場へ、
静寂が戻る。
レギアはしばらく立ち尽くしていた。
やがて。
そっと、
エペ・ドゥ・ノクスを近くの台へ置く。
暖かな湯気の中。
銀色の細剣が、
静かに光を反射していた。
レギアはそっと剣へ触れる。
家族からもらった、
初めての剣だった。
その事実だけで。
胸の奥が、
少しだけ苦しくなる。
嬉しくて。
温かくて。
泣きそうになるくらいに。
レギアは静かに湯へ浸かる。
暖かかった。
身体の芯まで、
ゆっくり解けていく。
今日一日の疲れが、
ようやく少しだけ薄れていく気がした。
窓の外では、
雪が静かに降り続けていた。
その夜。
湯浴みを終えたレギアは、
静かな自室へ戻っていた。
暖炉の火が、
小さく揺れている。
広い部屋。
柔らかなベッド。
静かな雪の夜。
レギアは寝間着姿のまま、
ベッドへ腰を下ろす。
そして。
そっと、
エペ・ドゥ・ノクスを抱き寄せた。
銀色の刀身は、
まだ少し冷たい。
けれど。
胸へ抱えると、
不思議なくらい安心した。
ガルドの言葉を思い出す。
――手元の剣くらいは、
信頼出来る物を持て。
不器用で。
無口で。
怖い人。
でも。
ちゃんと、
自分を見てくれていた。
レギアは小さく目を閉じる。
今日だけで。
人生が変わってしまった気がする。
帝都。
第11翼兵装。
フェンリル家。
そして。
“娘”。
全部まだ、
現実感は薄かった。
それでも。
今だけは。
この剣を抱いていると、
少しだけ安心出来た。
レギアはエペ・ドゥ・ノクスを抱えたまま、
ゆっくり横になる。
暖炉の火が揺れる。
窓の外では、
灰色の雪が静かに降り続けていた。
そして。
レギア=ノクスは、
久しぶりに穏やかな眠りへ落ちていった。
翌朝。
レギアが目を覚ました時、
窓の外は淡い白銀色だった。
雪はまだ降っている。
暖炉には既に火が入っていた。
誰かが早朝に整えてくれたのだろう。
レギアは少しだけ目を瞬かせる。
静かだった。
辺境区画の朝とは違う。
怒鳴り声も。
蒸気工場の轟音も無い。
あるのは、
静かな暖かさだけだった。
やがて。
コンコン。
控えめなノック音が響く。
「レギア様、
朝食のご用意が整っております」
メイドの声だった。
レギアは少し慌てて返事をする。
「は、はい!」
まだ、
“レギア様”に慣れない。
急いで支度を整えた後、
レギアは食堂へ案内された。
広い食堂だった。
長い黒木のテーブル。
白銀の食器。
暖かな照明。
窓の外には、
雪景色が広がっている。
そして。
テーブルの奥には、
既にガルド=フェンリルが座っていた。
軍服ではなく、
黒を基調とした落ち着いた私服姿だった。
それだけで、
少しだけ空気が違って見える。
ガルドはレギアを見ると、
静かに言った。
「……座れ」
短い声。
だが。
昨日より、
ほんの少しだけ柔らかかった。
レギアは小さく頷く。
「……はい」
向かい側へ座る。
すると。
既に用意されていた紅茶から、
湯気が静かに立ち昇っていた。
その香りを嗅いだ瞬間。
レギアは少しだけ目を見開く。
「……エマさんの紅茶に似てる」
ぽつりと漏れた声。
ガルドは静かに紅茶を口へ運ぶ。
そして。
小さく言った。
「茶葉を送ってもらった」
レギアが目を瞬かせる。
ガルドは続けた。
「お前が飲み慣れてるだろうと、
エマが寄越した」
その瞬間。
レギアは思わず少し笑ってしまう。
「……エマさんらしい」
ガルドも、
ほんの僅かに口元を緩めた気がした。
ほんの一瞬だった。
けれど。
その空気は、
昨日より少しだけ“家族”に近かった。
暖かな朝食の時間は、
静かに流れていた。
窓の外では、
灰色の雪がゆっくり降り続けている。
長い黒木の食卓。
白銀の食器。
立ち昇る紅茶の湯気。
辺境区画では考えられないほど、
穏やかな朝だった。
レギアは静かに紅茶を口へ運ぶ。
エマが淹れてくれた味に、
少しだけ似ている。
その安心感のおかげか、
昨日より少しだけ緊張が薄れていた。
向かい側では、
ガルド=フェンリルが静かに食事を取っている。
新聞のような軍報告書へ目を通しながら、
時折紅茶を飲む。
無駄の無い動き。
それだけで、
“将軍”だと分かる空気があった。
やがて。
ガルドは報告書を閉じる。
そして。
静かにレギアへ視線を向けた。
「……今後の予定を話しておく」
低い声だった。
レギアは小さく姿勢を正す。
「はい」
ガルドは淡々と続けた。
「騎士学校入学は五日後だ」
その言葉に。
レギアの胸が、
少しだけ緊張で強張る。
帝国騎士学校。
これから自分が通う場所。
辺境区画とは違う、
帝国中枢の教育機関。
レギアは静かに頷く。
ガルドは続けた。
「今日は一日、
屋敷内を覚えろ」
「執事に案内させる」
「図書室、
訓練場、
中庭、
生活区画」
「最低限、
迷わん程度には把握しておけ」
レギアは少し目を瞬かせる。
「……訓練場もあるんですか?」
ガルドは短く頷く。
「フェンリル家の私設訓練場だ」
「お前も使用を許可する」
その言葉に。
レギアは小さく息を呑む。
将軍家。
その重みを、
また少し実感した。
ガルドは静かに紅茶を口へ運ぶ。
そして。
何でもない事みたいに続けた。
「それと」
「午後から講師を呼んである」
レギアが少し目を瞬かせる。
「……講師?」
「ああ」
「テーブルマナー」
「帝国史」
「騎士学校学科対策」
「最低限、
貴族区画で困らん程度には覚えろ」
淡々とした口調だった。
だが。
レギアは少しだけ固まる。
「……き、
今日からですか?」
思わず声が裏返った。
ガルドは小さく眉を動かす。
「嫌か」
「い、いえ……!」
レギアは慌てて首を振る。
「ただ、
そんなに急に……」
すると。
ガルドは小さく息を吐いた。
そして。
ほんの僅かに口元を緩める。
「五日しかない」
「諦めろ」
その返答に。
レギアは思わず小さく目を見開く。
そして。
数秒後。
「……ちょっと横暴です」
ぽつりと漏らした。
静寂。
その直後。
ガルドが低く小さく笑った。
本当に、
ほんの少しだけだった。
けれど。
確かに笑った。
若い使用人の一人が、
思わず小さく目を丸くしていた。
レギアは少し驚いた顔をする。
そんな少女を見ながら。
ガルドは静かに紅茶を置く。
「安心しろ」
「講師連中には、
お前を泣かせるなと言ってある」
「それ、
安心材料になってないです……」
思わず返してしまった。
その瞬間。
食堂の空気が、
ほんの少しだけ柔らかくなる。
使用人達も、
どこか安心したように静かに微笑んでいた。
昨日まで。
レギアは、
辺境区画の少女だった。
けれど今。
少しずつ。
本当に。
この家の一員として、
迎え入れられ始めていた。
朝食を終えると。
ガルド=フェンリルは、
いつものように静かに立ち上がった。
「……では行ってくる」
低い声。
レギアは少し姿勢を正す。
「……はい」
まだぎこちない返事だった。
ガルドは短く頷く。
そして。
いつものように、
帝国中央庁舎へ登庁するため、
自室へ戻っていった。
重厚な扉が閉まる。
その瞬間。
食堂には再び静かな空気が戻った。
ガルドの私室は、
執務室ほど無機質ではなかった。
黒木の家具。
整理された書棚。
軍装保管棚。
壁へ掛けられた長剣。
そして。
机の上には、
一枚の古い写真立てが置かれている。
ガルドは将軍軍装へ袖を通しながら、
ふとその写真へ視線を向けた。
動きが止まる。
写真の中には、
まだ若かった頃の自分と。
穏やかに笑う女性。
そして。
幼い少女が写っていた。
静かな沈黙。
窓の外では、
灰色の雪が降り続けている。
ガルドはしばらく無言のまま、
その写真を見つめていた。
この部屋で。
誰かへ「行ってくる」と告げる事も、
もう長い間無かった。
やがて。
小さく息を吐く。
そして。
誰にも聞こえないような声で、
ぽつりと呟いた。
「……お前達がいてくれれば」
灰色の瞳が、
少しだけ細くなる。
「喜んでくれたか?」
静かな声だった。
だが。
次の瞬間。
ガルドはほんの少しだけ、
苦笑する。
「……それとも」
「犬や猫じゃないんだからと、
呆れたか」
その呟きには、
珍しく柔らかな感情が混じっていた。
暖炉の火が揺れる。
静かな部屋。
写真の中の笑顔だけが、
変わらずそこにあった。
ガルドは数秒だけ目を閉じる。
そして。
再びいつもの将軍の顔へ戻った。
黒衣隊将軍。
帝国最強。
感情を見せない男。
ガルド=フェンリル。
彼は静かに軍帽を手に取る。
だが。
部屋を出る直前。
もう一度だけ、
写真へ視線を向けた。
その灰色の瞳は。
ほんの僅かにだけ、
優しかった。




