第11話 再開 1
黒衣隊専用列車の搭乗口には、
黒い軍装に身を包んだ改札員が立っていた。
一般区画とは違う。
重厚な鉄扉。
黒衣隊紋章。
周囲に配置された武装兵。
そこだけ、
空気が少し硬かった。
レギアは小さく息を吸う。
そして胸元から、
帝国騎士学校の学生証を取り出した。
「レギア=ノクスです」
改札員は無言で学生証を受け取り、
刻印と書類を照合する。
数秒。
やけに長く感じた。
やがて。
改札員は静かに敬礼する。
「確認しました」
「帝国騎士学校入学予定者、レギア=ノクス」
「搭乗を許可します」
その言葉を聞いた瞬間。
レギアの胸の奥で、
何かが静かに鳴った。
本当に。
行くのだ。
この家から。
この場所から。
エマの隣から。
レギアは学生証を受け取り、
小さく頷く。
「……ありがとうございます」
漆黒の列車が、
白い蒸気を吐き出す。
出発を告げる鐘が、
駅構内へ低く響いた。
レギアは搭乗口へ足を向ける。
だが。
一歩進んだところで、
足が止まった。
振り返る。
そこには、
エマが立っていた。
黒い外套を羽織り、
いつものように落ち着いた顔で。
けれど。
その灰色の瞳だけは、
少しだけ揺れていた。
エマは小さく笑う。
そして。
いつもの声で言った。
「頑張って来なさい」
たった一言。
それだけだった。
だが。
その言葉を聞いた瞬間。
レギアの胸に、
五年間の記憶が一気に溢れた。
暖炉の火。
紅茶の香り。
眠れない夜に隣へ座ってくれた手。
泣けない自分の代わりに、
静かに待ってくれた時間。
何度も呼んだ名前。
エマさん。
その全てが。
今、
胸の奥で熱になった。
レギアは静かに頷く。
「……うん」
それ以上、
言葉が出なかった。
エマもまた、
何かを言おうとして。
けれど。
言葉にはしなかった。
次の瞬間。
エマは一歩踏み出し、
レギアを強く抱き締めた。
無言だった。
何も言わない。
ただ。
離したくないみたいに。
けれど、
ちゃんと送り出すみたいに。
強く。
優しく。
レギアは目を見開く。
そして。
ゆっくりと、
エマの背中へ腕を回した。
温かかった。
この五年間、
何度も自分を支えてくれた温もりだった。
レギアの喉が、
小さく震える。
それでも。
泣かなかった。
泣きたくなかった。
ちゃんと前を向いて、
行きたかった。
レギアはエマの肩へ顔を寄せる。
そして。
その耳元で、
小さく囁いた。
「……ありがとう」
一度、
息を吸う。
胸の奥にあった言葉を。
ずっと言えなかった言葉を。
今だけは、
ちゃんと伝えたかった。
「ありがとう……お母さん」
エマの身体が、
小さく震えた。
レギアは続ける。
「私、
頑張るね」
「必ず戻ってくるから」
「だから……待ってて」
エマは何も答えなかった。
答えられなかった。
ただ。
レギアを抱き締める腕に、
少しだけ力がこもる。
それが答えだった。
やがて。
出発を告げる二度目の鐘が鳴る。
エマはゆっくりと腕をほどいた。
その顔には、
いつもの笑みがあった。
少し泣きそうで。
でも。
どこまでも優しい笑みだった。
「……行ってらっしゃい」
レギアは小さく頷く。
「行ってきます」
そして。
レギア=ノクスは、
漆黒の列車へ乗り込んだ。
◇
漆黒の列車は、
重い駆動音を響かせながら帝都中央上層区へ向かっていた。
規則的な振動。
蒸気機関の低い唸り。
時折響く警笛。
車窓の外では、
灰色の雪が静かに流れていく。
レギア=ノクスは、
窓際の席へ静かに座っていた。
膝の上には小さな旅行鞄。
胸元には、
帝国騎士学校の学生証ケース。
向かい側の席には誰もいない。
黒衣隊専用列車。
車内は静かだった。
軍関係者らしき乗客達も、
皆どこか口数が少ない。
レギアは頬杖をつきながら、
ぼんやりと窓の外を見る。
流れていく雪景色。
白く煙る街並み。
遠くに見える鉄色の監視塔。
その景色を眺めながら。
レギアは、
静かに昔を思い出していた。
ノルドライン辺境区。
白い雪。
崩れた街。
赤黒い炎。
悲鳴。
血の匂い。
壊れていく家。
幼かった自分は、
ただ震える事しかできなかった。
あの日。
全部終わった。
家族も。
居場所も。
名前すら、
失いかけた。
今でも時々夢に見る。
雪の中へ倒れていた父。
動かなくなった母。
冷たくなった手。
あの頃の自分は、
もう駄目だったのだと思う。
もし。
ガルド=フェンリルが現れなければ。
もし。
エマ=リーデルが、
手を差し伸べてくれなければ。
きっと今、
ここにはいなかった。
レギアは小さく目を伏せる。
窓へ映る自分の顔。
黒髪。
赤紫の瞳。
少しだけ大人びた横顔。
昔とは、
もう全然違う。
五年間。
泣いて。
笑って。
怒られて。
紅茶を飲んで。
暖炉の前で眠って。
少しずつ、
生きる事を覚えていった。
エマの笑顔を思い出す。
最後の言葉。
――行ってらっしゃい。
その声が、
まだ耳へ残っていた。
レギアは小さく息を吐く。
そして。
窓ガラスへそっと額を預ける。
冷たかった。
けれど。
胸の奥には、
確かに温かなものが残っていた。
もう、
一人じゃない。
帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
その事実だけで。
不思議なくらい、
前を向ける気がした。
列車は雪を裂きながら、
帝都上層へ向かって走り続ける。
その先に待つのは。
五年ぶりの再会。
ガルド=フェンリル。
帝国騎士学校。
そして――。
レギア=ノクスの、
新しい運命だった。
◇
漆黒の列車は、
長い駆動音を響かせながら雪原地帯を走り続けていた。
帝都中央上層区まで、
およそ六時間。
短くはない旅だった。
窓の外では、
灰色の景色がゆっくり流れていく。
白雪に覆われた外縁区。
崩壊した旧防壁跡。
蒸気工場群。
監視塔。
途中、
幾度も検問停車を繰り返しながら、
列車は北方区画を抜けていく。
レギアはそのほとんどを、
静かに窓際で過ごしていた。
時折、
紅茶を飲み。
ぼんやり外を眺め。
気付けばまた、
昔の事を思い出している。
そんな時間だった。
やがて。
長く続いていた灰色の空が、
少しずつ赤みを帯び始める。
夕方だった。
朝、
エマと別れた時にはまだ薄暗かった空も、
今は静かな夕焼けへ変わり始めている。
列車内へ、
到着予告の鐘が低く響いた。
《――間もなく、
帝都中央上層駅へ到着します》
機械音声が、
静かな車内へ流れる。
その瞬間。
レギアの胸が、
小さく高鳴った。
帝都。
本当に、
着くのだ。
レギアは小さく息を吐き、
膝の上の鞄をそっと握る。
窓の外。
雪煙の向こう側へ、
巨大な城塞都市が少しずつ見え始めていた。
高層蒸気塔。
幾重もの防壁。
黒鉄橋。
空を貫く巨大煙突。
そして。
中央最上層で、
静かにそびえ立つ黒い塔。
ヴァルグリム帝国中央区。
帝国の心臓部だった。
レギアは静かに目を見開く。
五年前。
ここから遠く離れた辺境で、
全てを失った。
だが今。
自分は再び、
この帝国の中心へ戻って来た。
その事実が、
不思議なくらい現実感を持たなかった。
列車が減速を始める。
重い制動音。
白い蒸気。
巨大な駅舎へ、
ゆっくりと車体が滑り込んでいく。
ホームには、
黒衣隊兵士達の姿が見えた。
武装警備兵。
軍用搬送車。
帝国紋章旗。
空気そのものが、
外縁区とは違う。
重い。
鋭い。
まるで帝国そのものが、
ここへ集約されているみたいだった。
レギアは静かに立ち上がる。
胸の奥で、
鼓動が少し速くなる。
ガルド=フェンリル。
五年ぶりの再会。
その瞬間が、
もうすぐそこまで来ていた。
◇
漆黒の列車が、
重い蒸気音と共に停止する。
帝都中央上層駅。
巨大な駅舎の中は、
外縁区とはまるで空気が違っていた。
黒鉄と蒸気で構成された高層空間。
幾重もの警備線。
武装した黒衣隊兵士達。
軍用輸送車両。
行き交う軍関係者達の足音。
帝国中枢。
その言葉がよく似合う場所だった。
レギア=ノクスは、
小さく息を吐く。
そして旅行鞄を持ち、
静かに列車から降り立った。
冷たい空気が頬を撫でる。
夕暮れだった。
高層駅舎の天窓から、
赤灰色の光が差し込んでいる。
レギアは人の流れに沿って歩き出す。
やがて。
黒衣隊専用改札区画へ辿り着いた。
重厚な鉄色のゲート。
帝国紋章。
複数の検問兵。
空気は張り詰めている。
レギアが学生証ケースを取り出そうとした――その時だった。
二人の兵士が、
静かにレギアの前へ進み出る。
黒衣隊正式装備。
黒銀色の軍装。
腰には対レムナント長剣。
胸元には、
フェンリル直属部隊章。
その姿を見た瞬間。
周囲の空気が少しだけ変わる。
兵士達はレギアへ向け、
静かに敬礼した。
「……レギア=ノクス様ですね」
低く落ち着いた声だった。
レギアは少し目を瞬かせる。
「……はい」
確認を終えた兵士は、
姿勢を崩さないまま続けた。
「お待ちしておりました」
「ガルド将軍の命により、
お迎えに上がりました」
その言葉を聞いた瞬間。
レギアの胸が、
小さく強く脈打つ。
ガルド=フェンリル。
その名前だけで、
空気が少し変わる。
兵士は静かに横へ身を引く。
「こちらです」
視線の先。
駅舎上層専用通路の向こう側へ、
一台の軍用装甲車が待機していた。
黒銀装甲。
重厚な車体。
側面には、
フェンリル将軍家紋章。
周囲にはさらに数名の護衛兵まで配置されている。
レギアは小さく目を見開く。
自分が迎えられている。
その現実が、
まだ少し信じられなかった。
兵士の一人が、
静かに車両扉を開く。
暖かな灯りが、
車内から漏れた。
レギアは小さく息を吸う。
そして。
静かにその車両へ足を踏み入れた。
五年ぶりに帰ってきた帝都は、
もう既に、
彼女を“将軍家の人間”として迎え始めていた。
◇
黒銀装甲車は、
静かな駆動音を響かせながら帝都中央上層区を進んでいた。
車窓の外を流れていく景色は、
外縁区とはまるで別世界だった。
巨大な黒鉄建築。
白亜の尖塔。
蒸気導管が張り巡らされた空中回廊。
高層軍事塔。
帝国貴族街。
全てが巨大で、
重厚で、
どこか冷たい。
やがて。
車両がゆっくり減速する。
重い門が開かれる音。
黒衣隊兵士達の敬礼。
レギアは小さく息を呑んだ。
視界の先。
雪の降る夕暮れの中へ、
巨大な邸宅が静かに姿を現す。
ガルド=フェンリル邸本宅。
それは、
もはや屋敷というより要塞に近かった。
黒鉄と白亜石で造られた巨大建築。
高い外壁。
幾重もの警備線。
庭園ですら軍施設のように整備されている。
けれど。
その中央に立つ本邸だけは、
どこか静かな威厳を纏っていた。
レギアは無意識に、
膝の上の手を握り締める。
緊張している。
自分でも分かるくらいに。
五年ぶりだった。
ガルド=フェンリル。
あの日、
雪の中で自分を拾った男。
怖かった。
でも。
ずっと忘れられなかった。
車両が正門前で停止する。
兵士が静かに扉を開いた。
冷たい空気が流れ込む。
「到着しました」
低い声。
レギアは小さく頷き、
静かに車外へ降り立った。
足元で雪が小さく鳴る。
見上げる。
巨大な邸宅。
暖かな灯り。
そして。
この先に、
ガルドがいる。
胸の鼓動が、
少し速くなる。
雪が静かに降っていた。
巨大な邸宅は、
まるで息を潜めているみたいだった。
レギアは無意識に喉を鳴らす。
この扉の向こうに、
ガルドがいる。
兵士の一人が先行し、
本邸正面の巨大扉前へ進む。
重厚な扉。
フェンリル家紋章。
兵士は姿勢を正し、
呼び鈴を鳴らした。
重い鐘の音が、
静かな邸内へ響く。
そして。
兵士は扉へ向け、
低く告げる。
「レギア=ノクス様をお連れしました」
静寂。
数秒。
やけに長く感じる時間だった。
レギアは小さく息を飲む。
やがて。
重厚な扉が、
ゆっくりと開いた。
最初に現れたのは、
年配の男性だった。
白髪混じりの黒髪。
完璧に整えられた燕尾服。
片眼鏡。
背筋は真っ直ぐで、
その立ち姿だけで只者ではないと分かる。
執事だった。
そしてその後ろには、
二人のメイドが控えている。
黒と白を基調とした使用人服。
動きに一切の無駄が無い。
三人は同時に、
静かに頭を下げた。
「お待ちしておりました」
老執事の低く落ち着いた声が響く。
その瞬間。
レギアははっきり理解する。
自分は今、
帝国最強の将軍の家へ足を踏み入れようとしているのだと。




