第10話 別れ
レギアは静かに手紙を胸へ抱き寄せた。
まだ胸の奥が熱かった。
五年ぶりの再会。
帝都。
騎士学校。
ガルド=フェンリル。
止まっていた何かが、
再び動き始めている。
そんな感覚がした。
その時だった。
レギアの指先が、
封筒の奥へ何か残っている事に気付く。
「……?」
小さく目を瞬かせる。
まだ紙が入っていた。
レギアはそっと中を覗き込み、
もう一通の封筒を取り出す。
今度は小さかった。
封蝋も違う。
黒衣隊将軍紋章ではなく、
簡素な赤封印。
そして。
表に書かれていた名前を見た瞬間、
レギアは少し驚いたように顔を上げた。
――エマ=リーデル殿。
エマ宛だった。
レギアは目を瞬かせる。
「……エマさん宛?」
エマも少し驚いた顔をする。
「私に?」
予想していなかったのか、
珍しく戸惑った声だった。
レギアは静かに封筒を差し出す。
エマは少し迷った後、
ゆっくり受け取った。
封筒を見つめる横顔が、
少しだけ真剣になる。
ガルド=フェンリル。
あの男が、
自分個人へ手紙を書く。
それがどれほど珍しいか、
エマにはよく分かっていた。
暖炉の火が揺れる。
静かな部屋だった。
エマは小さく息を吐くと、
静かに封を切った。
レギアは何となく、
視線を逸らす。
個人的な内容かもしれないと思ったからだ。
だが。
数秒後。
エマが小さく目を見開く気配がした。
レギアがそっと振り返る。
エマは無言のまま、
手紙を見つめていた。
普段なら、
もう少し軽口を叩く。
なのに。
今は、
何も言わない。
その灰色の瞳だけが、
少し揺れていた。
やがて。
エマは小さく息を吐く。
そして。
どこか困ったように、
ほんの少しだけ笑った。
「……ほんと、
不器用なんだから」
小さな呟きだった。
レギアは少し首を傾げる。
エマはすぐには答えない。
ただ。
もう一度だけ、
静かに手紙へ視線を落とした。
暖炉の火が、
その横顔を優しく照らしていた。
レギアは少し首を傾げる。
「……何て書いてあるの?」
エマはすぐには答えなかった。
ただ。
手紙へ視線を落としたまま、
小さく息を吐く。
暖炉の火が、
静かな部屋を揺らしていた。
やがて。
エマは苦笑するように呟く。
「……将軍、
こういうの絶対口では言わないのよね」
その声は、
少しだけ震えていた。
レギアは静かにエマを見る。
エマはもう一度手紙へ目を通す。
そこに書かれていた文字は、
今までレギアが知っていた“黒衣隊将軍”のものとは、
少し違っていた。
無骨で。
不器用で。
けれど。
どこまでも真っ直ぐだった。
――エマ=リーデルへ。
書き出しは、
やはり簡潔だった。
だが。
続く文章には、
軍令書には無い温度があった。
――五年間、
レギアを育て、
支え続けた事へ感謝する。
――お前の働きが無ければ、
あの子はここまで生きられなかった可能性が高い。
――任務完遂、
ご苦労だった。
エマの瞳が、
小さく揺れる。
ガルド=フェンリル。
帝国最強の将軍。
鉄血。
冷酷。
誰よりも感情を表へ出さない男。
そんな男が。
“感謝”という言葉を、
自分へ向けて書いている。
それだけで、
胸の奥が熱くなった。
だが。
手紙は、
そこで終わらなかった。
エマの表情が、
少しだけ曇る。
――……本来なら、
お前から大切な家族を奪うつもりは無かった。
その一文だけで。
ガルドが、
何を思っているのか分かった。
レギアはもう、
エマにとって家族だった。
血は繋がっていない。
それでも。
五年間、
一緒に泣いて、
笑って、
生きてきた。
だからこそ。
ガルドは理解していた。
今回の召還が、
エマから再び“家族”を奪う事になる可能性を。
エマは小さく目を伏せる。
暖炉の火が、
灰色の瞳へ揺れていた。
手紙は続く。
――レギアを引き取った後の事は、
全てこちらで責任を持つ。
――今後、
お前と家族への支援も継続する。
――何かあれば、
俺を頼れ。
短い文章。
だが。
そこには、
嘘の無い責任感があった。
逃げない男の言葉だった。
エマはしばらく無言で手紙を見つめていた。
やがて。
小さく笑う。
少しだけ、
泣きそうな顔で。
「……ほんと、
ずるい人」
ぽつりと漏れた声。
レギアは静かにエマを見る。
エマは慌てたように笑って誤魔化す。
「なんでもないわ」
そう言いながらも。
その指先は、
手紙をとても大事そうに握っていた。
レギアは何となく理解する。
きっと。
エマにとっても。
ガルド=フェンリルという人は、
ただ怖いだけの将軍ではなかったのだと。
暖炉の火が揺れる。
静かな部屋の中。
止まっていた時間が、
少しずつ動き始めていた。
翌日から。
レギアとエマは、
帝都中央区への移動準備を始めた。
出発日は十日後。
思っていたより、
ずっと早かった。
最初の朝。
レギアはまだ、
少しだけ現実感が無かった。
昨夜読んだ手紙を、
何度も見返してしまう。
黒いインク。
無骨な筆跡。
――待っている。
その一文が、
頭から離れなかった。
だが。
時間は待ってくれない。
エマは朝から慌ただしかった。
「はいレギア、
ぼーっとしてない」
「騎士学校入学って事は、
制服以外の服も必要なの」
「あと生活用品も揃えるわよ」
そう言いながら、
次々と紙へ必要物資を書き込んでいく。
レギアは少し戸惑いながら頷いた。
そして。
二人は久しぶりに、
帝都中央市場へ出た。
灰色の空。
石畳の街路。
蒸気車両の音。
人々の喧騒。
帝都中央区は、
相変わらず人で溢れていた。
レギアは少しだけ目を細める。
昔より、
人混みが怖くなくなっている事へ気付く。
エマが隣で笑う。
「レギア、
身長伸びたから服全部変えないとねぇ」
「……そんなに?」
「伸びたわよ」
「五年前なんて、
もっと小さかったもの」
エマは笑いながら、
黒いコートをレギアへ当てる。
だが次の瞬間、
少し眉を寄せた。
「……というかあなた、
黒ばっかり選び過ぎ」
レギアが小さく視線を逸らす。
「落ち着くから……」
「十五歳の女の子が、
そんな理由で服選ばないの」
エマは呆れたように笑いながら、
薄灰色のコートを持ってくる。
「こっち」
「え……明るすぎない?」
「大丈夫よ」
「あなた黒髪綺麗なんだから、
明るい色の方が映えるの」
レギアは少し困った顔をする。
だが。
エマはそのまま強引に試着室へ押し込んだ。
数分後。
ぎこちなく出てきたレギアを見た瞬間、
エマは満足そうに頷く。
「ほら、
似合うじゃない」
レギアは落ち着かなさそうに裾を触る。
「……変じゃない?」
「全然」
「むしろ今までが暗過ぎたの」
レギアは少しだけ困ったように笑った。
そんな小さな会話が、
不思議と楽しかった。
市場を歩く途中。
エマはふと立ち止まる。
視線の先には、
装飾品店の鏡。
そこへ映るレギアを見ながら、
エマはぽつりと呟いた。
「ほんと、
大きくなったわねぇ」
レギアが少し首を傾げる。
エマは苦笑する。
「最初なんて、
本当に子猫みたいだったのよ?」
「夜中になると、
窓際で丸くなってたし」
レギアの頬が少し赤くなる。
「……それは、
言わなくていい」
「ふふ」
エマは楽しそうだった。
その笑顔を見ながら、
レギアは少しだけ胸が温かくなる。
途中。
市場の一角で、
エマが小さな紅茶缶を手に取る。
「これ持って行きましょうか」
レギアが目を瞬かせる。
エマは少し笑った。
「将軍邸でも、
ちゃんと飲めるように」
その瞬間。
レギアの胸が、
少しだけざわつく。
ガルド邸本宅。
まだ想像がつかなかった。
帝国最強の将軍が住む場所。
きっと、
緊張する。
また上手く話せなかったらどうしよう。
そんな不安も、
今はまだ残っている。
その日の夜。
暖炉の火が静かに揺れる部屋で。
レギアは紅茶を飲みながら、
ぽつりと呟いた。
「……将軍、
変わってたらどうしよう」
エマは少し目を瞬かせる。
レギアは視線をカップへ落としたまま続ける。
「五年も会ってないし……」
「わたしも、
変わったし」
静かな声だった。
不安。
緊張。
期待。
全部混ざっている。
エマはしばらく黙っていた。
やがて。
ふっと小さく笑う。
「大丈夫よ」
「将軍、
そういう所は案外変わらないから」
レギアが小さく顔を上げる。
エマは紅茶を飲みながら続けた。
「不器用で」
「怖い顔してて」
「言葉足りなくて」
「でも、
変な所だけ優しい」
レギアは思わず小さく笑ってしまう。
「……怖いのは否定しないんだ」
「そこは無理」
二人は小さく笑った。
暖炉の火が揺れる。
その温かな空気を感じながら。
レギアは少しだけ、
安心している自分に気付いていた。
そして。
十日間は、
驚くほど早く過ぎていった。
その最後の夜。
レギアが眠った後。
エマは一人、
静かな居間へ座っていた。
暖炉の火は弱い。
静かな夜だった。
机の上には、
小さくなった子供用マフラー。
昔、
レギアへ買ったものだった。
最初の頃。
レギアは何も欲しがらなかった。
だからせめて、
寒くないようにと買ったものだ。
エマはそれをそっと撫でる。
脳裏へ浮かぶ。
怯えていた少女。
悪夢で震えていた夜。
初めて笑った日。
「エマさん」
そう呼ばれた時の事。
エマは小さく笑う。
だが。
その灰色の瞳は、
少しだけ潤んでいた。
「……ほんと、
大きくなっちゃって」
ぽつりと漏れた声。
嬉しい。
誇らしい。
でも。
少しだけ寂しい。
まるで。
娘が巣立っていくみたいだった。
暖炉の火が揺れる。
静かな部屋の中。
エマは小さく息を吐く。
そして。
優しく微笑んだ。
「ちゃんと、
幸せになりなさいよ」
その呟きだけが、
静かな夜へ溶けていった。
そして。
別れの日が来た。
帝都中央区の朝は、
静かな灰色だった。
窓の外では、
細かな天鱗粉がゆっくりと降っている。
まだ日も浅い時間。
家の中は静かだった。
暖炉には小さく火が入っている。
その前で。
エマ=リーデルは、
いつも通り紅茶を淹れていた。
静かな蒸気音。
揺れる湯気。
落ち着いた香りが、
部屋へゆっくり広がっていく。
いつもと同じ朝だった。
本当に。
何も変わらないみたいに。
エマは慣れた手付きで、
二つのカップへ紅茶を注ぐ。
その時。
二階から、
小さな足音が聞こえた。
やがて。
レギア=ノクスが、
静かに階段を降りてくる。
黒を基調とした外套。
纏められた黒髪。
小さな旅行鞄。
そして。
胸元には、
帝国騎士学校入学許可証ケース。
もう、
五年前の小さな少女ではなかった。
エマはその姿を見て、
ほんの少しだけ目を細める。
綺麗になったな。
そんな言葉が、
ふと頭を過る。
だが。
口には出さない。
代わりに。
いつも通りの声で笑った。
「おはよう」
レギアも小さく頷く。
「……おはようございます」
少しだけ緊張している声だった。
エマは紅茶を差し出す。
「はい」
「出発前の一杯」
レギアは静かに受け取る。
温かい。
この五年間、
何度も飲んだ味だった。
レギアはカップを見つめながら、
小さく息を吐く。
エマは向かい側へ座った。
そして。
まるで本当に、
いつもの朝みたいに。
穏やかな声で聞く。
「……準備はできた?」
その一言だけで。
レギアの胸が、
少しだけ苦しくなる。
本当は。
まだ少し怖かった。
帝都。
騎士学校。
ガルドとの再会。
何が待っているのか、
まだ分からない。
けれど。
レギアは小さくカップを握り締める。
そして。
静かに頷いた。
「……うん」
その返事を聞いた瞬間。
エマは小さく微笑む。
どこか安心したように。
そして少しだけ、
寂しそうに。
暖炉の火が揺れる。
紅茶の湯気が、
静かな部屋へ溶けていく。
それは。
五年間続いた、
二人の日常の匂いだった。
やがて。
出発の時間が近付いてきた。
窓の外では、
灰色の雪が静かに降り続けている。
暖炉の火も、
少しずつ小さくなっていた。
エマ=リーデルは、
静かに立ち上がる。
黒い外套を羽織り、
駅まで見送りへ行く支度を始めた。
その様子を見た瞬間。
部屋の空気が、
少しだけ変わる。
エマの弟達だった。
幼い二人は、
途端に不安そうな顔になる。
「……レギア姉ちゃん、
ほんとに行っちゃうの?」
小さな声。
レギアは少しだけ困ったように笑う。
「うん」
「でも、
ちゃんと帰ってくるよ」
その言葉を聞いた瞬間。
年下の弟が、
とうとう堪え切れなくなった。
「やだぁ……!」
泣きながら、
レギアへ抱き付く。
「行かないでよぉ……!」
もう一人も、
慌てたようにレギアの服を掴む。
「またすぐ帰ってくるよね!?」
「約束だよね!?」
必死だった。
五年間。
レギアは、
もう完全に家族だったのだ。
レギアは少し目を見開く。
胸の奥が、
ぎゅっと締め付けられる。
だが。
泣きそうになるのを堪えながら、
レギアは静かに膝をつく。
そして。
二人の頭を優しく撫でた。
「大丈夫」
「ちゃんと帰ってくるから」
「休みの日には、
また遊びにも来る」
優しい声だった。
弟達は泣きながら、
必死に頷く。
レギアは小さく笑った。
「そんな顔しないで」
「わたし、
遠い所へ行くわけじゃないんだから」
本当は。
少し怖かった。
これから始まる新しい生活も。
ガルドとの再会も。
騎士学校も。
何もかも。
それでも。
今だけは、
不安そうな弟達を安心させたかった。
エマは少し離れた場所から、
その光景を静かに見つめていた。
灰色の瞳が、
少しだけ細められる。
まるで。
本当に姉弟みたいだった。
やがて。
エマは小さく息を吐く。
「……そろそろ行きましょうか」
静かな声。
その瞬間。
弟達がまた少し泣きそうな顔になる。
レギアは最後にもう一度、
二人の頭を撫でた。
「いい子で待ってて」
「エマさん困らせちゃ駄目だからね」
弟達は泣きながら頷く。
レギアはゆっくり立ち上がる。
旅行鞄を持つ。
そして。
五年間暮らした家を、
静かに見回した。
暖炉。
白いカーテン。
小さな食卓。
笑い声の残る部屋。
全部。
自分を生かしてくれた場所だった。
レギアは小さく息を吐く。
そして。
静かに扉へ向かった。
その背中を。
エマはどこか誇らしそうに、
見つめていた。
家を出ると。
灰色の雪が、
静かに帝都中央区へ降っていた。
吐く息は白い。
石畳の道には、
うっすらと雪が積もり始めている。
レギアとエマは、
並んで駅へ向かって歩き出した。
朝の帝都はまだ静かだった。
蒸気車両の走行音。
遠くの警鐘。
開店準備を始める商店。
見慣れた街並みが、
ゆっくり後ろへ流れていく。
レギアは小さく息を吐いた。
「……なんか、
変な感じ」
エマが少し笑う。
「何が?」
「ずっとここにいたから」
「急に出ていくって、
まだ実感ない」
正直な言葉だった。
エマは少し目を細める。
「ふふ」
「最初ここ来た時なんて、
外出るだけでも怯えてたのに」
レギアが少しだけ頬を膨らませる。
「……それは忘れて」
「無理ねぇ」
エマは楽しそうに笑った。
レギアも少しだけ笑う。
そんな他愛もない会話をしながら、
二人はゆっくり歩く。
だが。
胸の奥には、
互いに同じ感情があった。
寂しい。
その気持ちだけは、
どうしても隠せなかった。
エマは横目で、
隣を歩く少女を見る。
黒髪。
赤紫の瞳。
少し大人びた横顔。
五年前。
ノルドラインから連れて来た時は、
もっと小さかった。
怯えて。
壊れそうで。
夜中に何度も悪夢で震えていた。
それが今は。
自分の足で前を向いて歩いている。
誇らしかった。
でも。
やっぱり少し寂しい。
レギアもまた、
静かに歩きながら思っていた。
この五年間。
どれだけ救われてきたのか。
エマがいなければ、
自分はきっと壊れていた。
暖炉の火。
紅茶の香り。
優しい手。
笑い声。
全部。
もう自分の“家”だった。
だから。
離れるのが少し怖かった。
沈黙が落ちる。
雪だけが静かに降っている。
その時だった。
どちらからともなく。
二人の手が、
小さく触れた。
一瞬。
互いに足が止まりそうになる。
だが。
離れなかった。
レギアは少しだけ視線を落とす。
エマも、
何も言わない。
ただ。
そっと。
優しく。
互いの手を握った。
温かかった。
五年間。
ずっと隣にあった温もりだった。
レギアは小さく笑う。
少し泣きそうな顔で。
「……エマさん、
子供扱いし過ぎ」
エマも苦笑する。
「あなた、
まだ十五でしょうが」
「立派に子供です」
レギアは少しだけ笑った。
その笑顔を見ながら、
エマは静かに目を細める。
本当に。
大きくなった。
やがて。
視界の先へ、
巨大な蒸気駅舎が見えてくる。
帝都中央駅。
黒衣隊専用列車発着区画。
巨大な黒鉄列車から、
白い蒸気が立ち昇っていた。
重厚な車体。
黒衣隊紋章。
周囲には武装兵の姿も見える。
目的地は。
帝都中央区上層。
ガルド邸本宅。
そして。
帝国騎士学校。
レギアは静かに駅舎を見上げる。
止まっていた運命が、
再び動き始める。
そんな予感がしていた。
だが。
隣にはまだ、
エマの温かな手があった。




