第1巻 第1話 アーデルハイド=セラフィーネ
アーデルハイド=セラフィーネ
暗く淀んだ空から、白い灰が舞い落ちていた。
――《天鱗粉》。
旧文明時代より降り続ける、白い灰。
成層圏を漂う高次元生命体の残骸が、大気圏との摩擦熱で燃え尽きずに残ったもの。
それは人類を滅亡寸前まで追い込んだ大災厄――
《星外降臨戦争》の名残だった。
灰に覆われた空のせいで、地上の日照時間は今なお不安定である。
陽光は弱く、空気は冷たい。
世界には今なお、“終わりきらない滅び”の気配が残り続けていた。
星外降臨戦争から五百年。
それでも人類は、滅びきることなく生き延びていた。
人々は女神の翼より生み出された《天翼兵装》を封印するため、高次元多重封印機構――《聖堂システム》を構築した。
それは旧文明が遺した超技術によって築かれた巨大封印建造物であり、その内部には《天翼兵装》が封印されている。
そして外殻部は、人々の祈りの場として巨大聖堂化されていた。
人類はその《聖堂》を中心に都市と防壁を築き、新たな国家を形成していく。
――十二の封印国家。
それが滅びを生き延びた人類の、新たな文明圏だった。
1. ルミナス教皇国
大災厄の女神を宗教神として崇拝する《ルミナス教》教皇が統治する国家。
2. ヴァルグリム帝国
軍事力と騎士文化を重視する巨大帝国。
3. ネレイス王国
海洋交易と水上都市によって繁栄する王国。
4. イルヴェリア公国
極寒地帯に築かれた雪と魔導の公国。
5. ゼノヴァ連邦
科学技術と天翼兵装研究を行う学術国家。
6. アビサリオン公国
深海文明と古代遺跡を有する海底国家。
7. フェルノア共和国
炎と戦闘文化を掲げる共和国家。
8. ユグドラ王国
森と生命を守護する自然国家。
9. アストレア観測領
星界観測と未来演算を行う特殊領域。
10. カルドニア同盟
重工業と防衛技術を支える工業国家群。
11. ソルシア砂漠国
砂漠と太陽信仰を中心とした国家。
12. エデン=ノア遺域
最重要聖堂封印が存在する封印国家。
五百年という長い年月の中で、崩壊した文明と各地の環境はそれぞれ独自の発展を遂げ、人類は新たな生存圏を築き上げていった。
海と共に生きる国。
雪と魔導に生きる国。
科学技術を発展させた国。
森と生命を守る国。
人類は滅びの世界の中で、それぞれ異なる文明を築きながら生き延びていた。
だが、どの国家にも共通した使命が存在する。
一つは、《レムナント》の討伐。
星外降臨戦争以来、人類を脅かし続ける高次元生命体の残骸群――それが《レムナント》である。
そしてもう一つ。
星外降臨戦争後、伝説として語り継がれる旧文明の超技術――《天翼兵装》を封印・管理し、来たるべき再侵攻へ備えること。
女神の翼より生み出されたその力を制御し、“天翼の適合者”を誕生させることこそ、人類存亡の為の最重要使命だった。
人類は生き延びるため、《広域防御壁構築塔》――通称を建造した。
それは星外降臨戦争後、人類が《レムナント》の侵攻から生存圏を守るために築き上げた超大型防衛施設である。
旧文明技術と《聖堂システム》を応用して建造された《タワー》は、都市外周部へ高次元防御障壁を展開し、《レムナント》の侵入を阻止していた。
各国家外周部には数千もの《タワー》が配置されており、それらが連動することで国土全体を覆う巨大防壁を形成している。
人類圏が五百年もの間、生き延びることができた最大の理由。
それこそが、《タワー》の存在だった。
だが同時に。
《タワー》は決して絶対ではない。
老朽化。
出力低下。
そして、《レムナント》による大規模侵攻。
その均衡が崩れた時、人類圏は再び滅びの脅威へ晒されることになる。
各国家は《タワー》を守るため、対レムナント戦の最前線に立つ戦士達を育成していた。
人類の盾となり、剣となる者達。
――《騎士》。
彼らは天使核より生み出された特殊戦闘装備《天骸兵装》に身を包み、人間の域を超えた力を振るいながら、《レムナント》と戦っていた。
そして各国家は、その力の象徴として巨大な《騎士団》を形成している。
思想。
文化。
戦闘様式。
国家ごとの差異は存在する。
だが、《騎士》と《騎士団》こそが、人類文明を支える根幹であることに変わりはなかった。
各国家は、《聖堂》を中心に築かれた国家象徴《王城》を核として発展していた。
《王都》は幾重もの城壁によって守られ、その外周部には無数の《タワー》が配置されている。
数千にも及ぶ《タワー》群は互いに連結し、国土全体を覆うオーロラ状の広域防御障壁――通称を形成していた。
人々は《カーテン》の内側に都市、農地、工業区画を築き、長い年月をかけて文明を再建していった。
浄化技術の発展によって、汚染された大地は再び農業や畜産が可能となり、干上がっていた海も徐々に再生していく。
焼け果てた植物群は再び芽吹き、やがて広大な森林を形成するまでに回復した。
天鱗粉は今なお空から降り続けている。
それでも世界には再び雷鳴が轟き、雨が降り、風が吹くようになっていた。
人類は滅びの世界の中で、それでも確かに、生き直そうとしていた。
――《エデン=ノア遺域》。
旧文明時代、人類最高峰の科学力を誇った超科学国家。
量子演算。
人工知能。
遺伝子工学。
次元観測。
あらゆる分野において人類文明を遥か先へ押し上げ、“神の領域”へ最も近づいた国家だった。
そして人類は、この地で初めて高次元世界への接触実験を行う。
――それが、全ての始まりだった。
高次元干渉実験。
空間裂断観測。
異次元生命反応。
人類はついに、“向こう側”へ触れてしまったのである。
その結果発生したのが、人類史上最大の災厄――《星外降臨戦争》だった。
空は裂けた。
天使群は降臨した。
世界は数日のうちに崩壊へ追い込まれていく。
そしてエデン=ノアは、最も早く滅ぼされた国家となった。
だが、それでも完全には消えなかった。
地下深部数千メートルに存在していた超大型科学研究施設群《深層遺域》。
そこは一部機能を維持したまま生き残っていたのである。
大戦中。
そこには旧文明時代の膨大な研究データが保管されていた。
多くの人命を犠牲にして得られた高次元解析記録。
天使生体構造資料。
禁忌と呼ばれた技術群。
それらは、人類存亡の為に生み出された最後の希望だった。
さらに、人類の主力兵装《天骸兵装》もまた、この地で開発された兵器群の一つである。
それを駆使して天使軍と戦った兵士達。
後に《騎士》と呼ばれる存在。
そして現在、十二国家が保有する《騎士団》の起源もまた、この地に存在していた。
皮肉にも。
“最初に神が降り立った地”は、
“神の最後の翼が剥ぎ取られた地”ともなった。
人類は命と引き換えに女神の翼を剥ぎ取り、その力を解析した。
対高次元生命体決戦兵器――《天翼兵装》。
それこそが、人類最後の切り札だった。
滅びを招いた罪の地でありながら。
同時に《エデン=ノア》は、人類文明最後の希望でもあった。
灰色の空を、一羽の白鳥が横切っていく。
舞い落ちる《天鱗粉》の中。
巨大防壁都市《エデン=ノア中央区》外周壁。
少女は静かに空を見上げていた。
白銀の長髪。
透き通るような蒼い瞳。
白を基調とした騎士候補生用外套。
年齢はまだ十代半ば。
だが、その立ち姿には既に騎士としての気配が宿っていた。
少女の名は――
アーデルハイド=セラフィーネ。
後に《白翼》と呼ばれる少女である。
だが、この時の彼女はまだ。
《エデン=ノア騎士学校》に所属する、一人の候補生に過ぎなかった。
冷たい風が長い髪を揺らす。
視界に映る遥か彼方。
《カーテン》の向こう側では、淡い閃光が幾度か瞬いていた。
レムナントが《カーテン》へ衝突し、崩壊していく残光。
最近になって増え始めた現象だった。
「また空を見ているのか」
静かな声が背後から響く。
アーデルハイドが振り返る。
そこに立っていたのは、白銀の騎士外套を纏った青年だった。
整った顔立ち。
静かな眼差し。
腰には細身の長剣。
《不死隊》所属騎士――
カイル・レオンハルト。
エデン=ノア遺域の騎士団「不死隊」
エデン=ノアが保有する最前線特殊戦闘部隊。
レムナント討伐や外周防衛を担う、生還率の極めて低い部隊として知られている。
その過酷さから“死者の行き着く場所”とも呼ばれるが、
人類の為に「死を許されざる者。」人々は彼らを敬意を込めてそう呼んでいた。
エデン=ノア最前線騎士団に所属する若き騎士であり、騎士学校では教導補佐も兼任している人物だった。
「……カイル先輩」
「訓練開始まで、あと十分だ」
「すみません。少しだけ、考え事を」
アーデルハイドは再び空を見上げる。
舞い落ちる《天鱗粉》。
曇天。
遥か彼方で瞬く《カーテン》の光。
生まれた時から見続けてきた、終わりきらない世界。
「お前は、不思議なほど空を見上げるな」
カイルは少女の横に立ちながら呟いた。
「……」
「何が見える?」
アーデルハイドはしばらく黙ったまま、灰色の空を見つめ続けていた。
「……空の向こうに、何があるのかと思って」
アーデルハイドは小さく答える。
「空の向こうか」
カイルは小さく笑う。
「騎士学校の連中なら、“レムナントの巣”とか答えそうだ」
「それは間違ってません」
「違いない」
淡い笑みを浮かべながら、カイルもまた空を見上げる。
灰色の曇天。
絶えず降り続ける《天鱗粉》。
遥か彼方で淡く揺らめく《カーテン》の光。
五百年前から変わらない、人類の空。
「でも、お前の目は少し違う」
「……違いますか?」
「ああ。恐れて見る目じゃない」
カイルは静かに言った。
「まるで、“探している”みたいだ」
その言葉に、アーデルハイドは僅かに目を伏せた。
「私、小さい頃から不思議だったんです」
「何がだ?」
「どうして人類は、空を見上げ続けるんだろうって」
「……」
「空から滅びが来たのに」
風が吹く。
白銀の髪が揺れた。
「怖いはずなのに。
みんな、それでも空を見るんです」
アーデルハイドは静かに呟く。
「騎士も。
子供達も。
街の人達も」
「……希望を見てるのかもしれないな」
カイルは低く答えた。
「希望?」
「人間って生き物は、案外しぶとい」
カイルは外壁の向こう側へ視線を向ける。
「滅びかけても、
空から怪物が降ってきても、
結局また立ち上がる」
その声音は穏やかだった。
だが、どこか実感の滲む言葉でもあった。
「だから空を見る。
次は負けないようにな」
アーデルハイドは少しだけ目を丸くする。
そして、ふっと小さく笑った。
「カイル先輩らしいです」
「そうか?」
「もっと難しいこと言う人かと思ってました」
「お前、俺を何だと思ってる」
珍しく困ったように笑うカイル。
その時だった。
「おーい! アデル!」
明るい声が背後から飛んできた。
勢いよく外壁通路へ飛び込んできた少年が、大きく手を振る。
黒髪。
まだ幼さの残る顔立ち。
だが、その瞳には真っ直ぐな強さが宿っていた。
ノア・エルセリオン。
アーデルハイドと同じ騎士学校に所属する候補生であり、《不死隊》候補生の一人だった。
――“アデル”。
それはアーデルハイド=セラフィーネの愛称だった。
「ノア」
「探したぞアデル!
セレス教官、完全に怒ってる!」
「……え」
アーデルハイドの表情が固まる。
「遅刻寸前だってさ。
今日実戦訓練だぞ?
また走り込み追加されるって!」
「……っ」
「お前また訓練メニュー増やされるな」
カイルが静かに追撃した。
「カイル先輩まで……」
珍しく焦った様子でアーデルハイドが立ち上がる。
その姿を見て、ノアは吹き出した。
「ははっ、さっきまで世界の終わりみたいな顔してたのに」
「してません」
「してたって」
「してません!」
少し頬を膨らませながら否定するアーデルハイド。
灰の降る空の下。
少年と少女の笑い声が、小さく外壁へ響いていた。




