第2話 孤児院
暮れの鐘が、孤児院の中庭に静かに響いていた。
封印国家エデン=ノア。
国が戦災孤児保護を目的に運営する、教会の孤児院。
その二階の一室で、アーデルハイド=セラフィーネは制服の上着を脱ぎながら、小さく息を吐いた。
白銀の騎士候補生制服。
まだ袖は少し大きい。
けれど、それを着ている時だけは、自分が少しだけ“強くなれた”気がした。
窓の外では、白い終灰が静かに降っている。
「……今日も訓練きつかった」
誰に言うでもなく呟き、長い銀髪をほどく。
その時だった。
――バンッ!!
「アデルおねーちゃーん!!」
勢いよく扉が開き、五、六人の子供達が雪崩れ込んできた。
「遊ぼうよー!」
「今日は何して遊ぶ!?」
「また剣ごっこやりたい!」
「えー! 絵本がいいー!」
小さな手がアーデルハイドの腕を引っ張る。
だがアーデルハイドは慌てることもなく、振り返って困ったように微笑した。
「もう……扉はちゃんとノックしてから入りなさいって、いつも言っているでしょう?」
「はーい……」
全員が揃ってしゅんとなる。
その様子が可笑しくて、アーデルハイドはふっと笑った。
「ふふ……でも、ちゃんと来てくれたのは嬉しいわ」
彼女は着替え途中だった制服を整え直し、小さな子の頭を優しく撫でる。
「いいよ。今日はみんなで遊びましょうか」
「やったー!!」
一瞬で部屋が歓声に包まれた。
「ノアにいちゃんも呼ぼう!」
「絶対また本読んでるー!」
「アデルおねーちゃん! はやく!」
「はいはい、そんなに引っ張らないの」
小さな手に腕を引かれながら、アーデルハイドは笑う。
その笑顔は、戦場を知らない普通の少女のように穏やかだった。
そして彼女は、賑やかな子供達と共に部屋を後にする。
アーデルハイドは戦災孤児であった。幼少期から彼女はこ
の孤児院で育ち今は多くの「弟妹」達と共に穏やかに暮らしていた。子供達の「姉」として。
孤児院の中庭には、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。
白い《天鱗粉》が静かに舞い落ちる空の下。
子供達の元気なはしゃぎ声が響いている。
「いけぇぇ!!」
「レムナントなんかに負けるかー!!」
「うわぁぁ! やられたー!!」
男の子達は木の枝を剣代わりに振り回しながら、夢中で騎士ごっこに興じていた。
そのすぐ近くでは、アーデルハイドが小さな女の子達に囲まれている。
「それでね、白い騎士様が――」
膝の上に絵本を広げ、優しい声で読み聞かせるアーデルハイド。
少女達は目を輝かせながら、その話に聞き入っていた。
「アデルおねーちゃん、その騎士様つよい?」
「ええ、とっても強いわ。でもね――」
アーデルハイドは微笑む。
「誰かを守るために戦える人が、一番強いの」
夕陽が銀髪を淡く照らした。
その傍ら。
中庭の古いベンチには、一人の少年が静かに座っていた。
ノア=エルセリオン。
彼は子供達の騒ぎを横目に見ながら、分厚い騎士教練本を読んでいる。
時折、騒がしい声に小さく眉を寄せながらも、どこか穏やかな表情だった。
「ノアにいちゃんまた本読んでるー!」
「真面目すぎー!」
男の子達の声に、ノアは呆れたようにため息を吐く。
「お前達も少しは座学を覚えろ。実戦で死ぬぞ」
「うわ、また難しいこと言ってる!」
子供達が笑いながら逃げていく。
その様子を見届けた後、アーデルハイドは絵本を閉じ、小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
そして、そのままノアの隣へ腰掛ける。
ノアは本から目を離さないまま口を開いた。
「珍しいな。優等生騎士様が休憩か?」
「なによそれ」
アーデルハイドは少しむっとした顔をする。
「今日の教練、本当に大変だったのよ? カイル隊長、ずっと休ませてくれないんだから」
「アデルの場合、自分から訓練増やしてるだろ」
「……う」
図星だった。
ノアは肩をすくめる。
「そのうち倒れるぞ、お前」
「倒れないもの」
「その根拠のない自信、どこから来るんだか」
「むぅ……」
アーデルハイドは頬を膨らませ、不満そうにノアを睨む。
その反応が少し可笑しくて、ノアは小さく笑った。
「なんだその顔」
「ノアが意地悪言うからでしょう」
「はいはい。将来有名な騎士様になる奴は違うな」
「からかってるでしょ」
「半分くらいは本気だ」
アーデルハイドは呆れたようにため息を吐き、ノアの肩を軽く小突いた。
ノアは小さく笑いながら本を閉じる。
そして少しだけ真面目な表情になった。
「……でも、無理しすぎるなよ」
「え?」
「お前、頑張りすぎる時あるから」
夕陽が静かに二人を照らす。
ノアは視線を前へ向けたまま、静かに続けた。
「何かあったらちゃんと頼れ。カイルさんでも、ヴァイス司教でも……俺でもいい」
「……ノア」
「一人で抱え込むな。お前、そういうところあるから」
その言葉に、アーデルハイドは少しだけ目を丸くした。
いつも軽口ばかり叩くノアが、珍しく真面目な顔をしていたからだ。
やがて彼女は小さく笑う。
「……うん。ありがとう」
するとノアはすぐにいつもの調子へ戻った。
「ま、倒れたら運ぶの面倒だしな」
「せっかく感動してたのに!」
「はは」
夕暮れの孤児院。
子供達の笑い声。
静かに降る《天鱗粉》。
終末の世界だということを、一瞬だけ忘れられるような――
そんな穏やかな時間だった。
だが、この国に生きる子供達に、“平穏な未来”というものは存在しない。
封印国家エデン=ノアでは、すべての子供が十歳を迎える頃、《天使核》適合判定を受けることを義務付けられていた。
それは、旧文明より発掘された天使由来の核。
人類がレムナントや天使級存在へ対抗するために用いる力の源。
そして孤児院の子供達もまた、例外ではなかった。
適合判定が確認された者は、全員が騎士学校へ送られる。
そこで徹底的に戦闘訓練、座学、戦術教育を受け、才能ある者だけが前線へ進むことを許される。
中でも特に高い適性と戦闘能力を示した者は、対レムナント最前線部隊――《不死隊》へ配属される。
また、戦闘以外の才能を見出された者達もいた。
情報解析能力に優れた者は情報管理局へ。
旧文明技術への理解や整備適性を持つ者は技術院へ。
それぞれが別々の形で、この国を支えていく。
そして、《天使核》へ適合できなかった者達。
あるいは騎士学校で才能を伸ばせなかった者達は、一般職へ進み、都市機能、聖堂管理、物流、生産区画など、国家の基盤を担う。
誰かが戦い。
誰かが支える。
そうして封印国家エデン=ノアは、滅びゆく世界で今日まで生き延びてきたのだった。
ノア=エルセリオンは、《天使核》適合判定の時点で極めて高い適合数値を叩き出していた。
肉体適性、神経接続率、戦闘反応速度。
そのどれもが高水準。
特に天使核との波長同期率は、歴代記録の中でも上位に位置するほどだった。
騎士学校教官達は口を揃えて言った。
――将来、《不死隊》配属は確実。
と。
それほどまでに、ノアの才能は明確だった。
一方で。
アーデルハイド=セラフィーネの判定結果は、まるで違っていた。
適合数値そのものは、辛うじて基準値を超えている程度。
決して優秀とは言えない。
むしろ、数字だけなら平凡に近い。
だが――問題はそこではなかった。
波長データ。
《天使核》と接触した瞬間に観測された同期波形が、異常だったのだ。
建国以来、エデン=ノアは数百年に渡り膨大な適合データを蓄積してきた。
戦死者。
適合者。
暴走例。
高適性個体。
不適合者。
あらゆる波長パターンが記録され、分類されている。
しかし。
アーデルハイドの波長だけは、そのどれにも一致しなかった。
誤差ではない。
測定異常でもない。
明らかに、“存在しないはずの波形”。
静かな聖堂測定室で、観測士達が息を呑んだ。
誰も見たことのない波長。
そしてその記録は、即座に聖堂上層部へ送られる。
その異常なデータに、最初に目を留めた人物。
それが――
聖堂評議会最高司祭。
ヴァイス=アークヴェルだった。
封印国家エデン=ノア聖堂評議会最高司祭。
“エデン=ノアの統治者”と呼ばれる老人。
旧文明時代より受け継がれる聖堂システム、天翼兵装、封印機構。
そのすべてを管理する、エデン=ノアの統治者である。
常に冷静沈着。
感情を表に出すことは少なく、多くを語らない。
だが、その瞳は常に世界の行く末を見据えていた。
数百年積み重ねられた天使核適合データ。
そのすべてに一致しない、アーデルハイドの異常波長。
誰も理解できなかったその“異常”を、
ヴァイスだけは静かに見つめていた。
まるで――
その波長の意味を、最初から知っていたかのように。
そして時は流れ――
アーデルハイド=セラフィーネとノア=エルセリオンは、共に騎士学校へ入学する。
戦災孤児。
同じ孤児院で育ち、兄妹のように日々を過ごしてきた二人。
だからこそ、その背中を追い合うように、二人は訓練へ打ち込んだ。
剣術。
戦術教練。
座学。
天使核制御訓練。
騎士学校で行われる訓練はどれも過酷だったが、二人は一度も立ち止まらなかった。
特にノアの才能は、入学直後から群を抜いていた。
戦術理解速度。
状況判断能力。
天使核制御適性。
教官達が驚くほどの成長速度で、ノアはみるみる頭角を現していく。
模擬戦では上級生すら圧倒し、座学成績も常に上位。
“次代の不死隊候補”
そんな言葉が、早くも囁かれ始めていた。
一方で、アーデルハイドは違った。
決して突出した才能があるわけではない。
天使核適性も平凡。
剣技も最初は目立たなかった。
同期達の中には、戦災孤児上がりの彼女を見下す者もいた。
だが――
アーデルハイドは、誰よりも努力した。
朝一番に訓練場へ現れ。
夜最後まで剣を振り続ける。
誰かが傷つけば手を差し伸べ、
落ち込む者がいれば声をかけた。
その真っ直ぐな姿は、少しずつ周囲を変えていく。
気付けば。
誰も彼女を“孤児院の少女”とは呼ばなくなっていた。
努力を知り。
人柄を知り。
背中を見た者達が、自然と彼女を認め始めていたのだ。
そしていつしか。
アーデルハイドの周囲には、人が集まるようになっていた。
孤児院の夜は静かだった。
夕食の時間も終わり。
賑やかだった子供達の声も、今はもう聞こえない。
小さな寝息だけが、建物の奥から微かに響いている。
白い《天鱗粉》が舞う中庭。
古い木製ベンチに、アーデルハイド=セラフィーネは一人座っていた。
手には、湯気の消えかけた薬草茶のカップ。
両手で包むように持ちながら、彼女はただ静かに空を見上げている。
暗く淀んだ夜空。
巨大防壁の向こう側には、終わることのないレムナントとの戦いが続いている。
時折、遥か遠方で防衛砲火の閃光が瞬いた。
それでもアーデルハイドは、じっと空を見ていた。
まるで――
何かを探しているように。
冷たい夜風が銀髪を揺らす。
薬草茶はもうすっかりぬるくなっていた。
それでも彼女は飲もうとせず、ただカップを握ったまま静かに空を見上げ続ける。
不思議だった。
昔から、こうして空を見ていると胸がざわつく。
怖いわけではない。
けれど。
どこか落ち着かない。
遥か空の向こうから、何かに見られているような。
何かに呼ばれているような。
そんな感覚。
アーデルハイドは小さく息を吐いた。
白い吐息が夜空へ溶けていく。
「……変なの」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その時だった。
背後で、静かに扉の開く音がした。
「風邪引くぞ」
背後から、聞き慣れた声がした。
幾度となく繰り返されてきた、いつもの光景。
いつもの言葉。
そして次の瞬間。
ふわりと毛布が肩へ掛けられる。
アーデルハイドは小さく目を細めた。
振り返らなくても分かる。
いつもぶっきらぼうで。
口を開けばすぐ人をからかう。
けれど――
誰よりも優しくて。
誰よりも頼れる存在。
血の繋がらない兄。
ノア=エルセリオンが、そこに立っていた。
「……ありがとう」
アーデルハイドは毛布を胸元へ引き寄せながら、小さく笑う。
ノアは隣へ腰掛けると、彼女の持つカップへ視線を向けた。
「まだ飲んでなかったのか。それ、もう完全にぬるいだろ」
「飲もうとは思ってたのよ?」
「この前も同じこと言ってたな」
「……覚えてなくていいのに」
ノアは呆れたように息を吐く。
その横顔を見ながら、アーデルハイドは静かに空へ視線を戻した。
白い《天鱗粉》が、夜の闇へ溶けるように降っている。
ノアはそんな彼女を横目に見つめる。
「また空見てたのか」
「うん……」
「好きだな、お前」
「……なんとなく、落ち着くの」
少しだけ間が空く。
そしてアーデルハイドは、小さく呟いた。
「でも、不思議なのよね」
「何が?」
「ずっと見てると……時々、胸がざわざわするの」
夜風が静かに吹き抜ける。
アーデルハイドは空を見上げたまま続けた。
「誰かに見られてるみたいな感じがする時があるの」
ノアは少しだけ眉をひそめた。
だが、すぐに軽く笑う。
「考えすぎだろ」
「そうかな……」
「訓練のしすぎで疲れてるんだよ」
「むぅ……またそうやって子供扱いする」
「実際たまに危なっかしいからな、お前」
「ノアにだけは言われたくないわ」
「はいはい」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。
遠くで防衛砲火の鈍い光が瞬いた。
終末は、今も世界のどこかにある。
けれど今だけは。
この場所だけは。
静かで、温かかった。




