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6.

 あの日、横断歩道で黒い女にぶつかったとき、彼女を支えていた長身の男性がそこいた。目は窪み、頬はこけ、あの日と同じ6月10日の姿のはずの彼の姿はまるで――


「百合ッ、百合ーッ!」


 いつか聞いた声、言葉。

 そう、あの男はあの女の事を百合(・・)と呼んでいた。

「知り、合い……?」


 近寄って来る彼をじっと見つめる。

 助け出したレスキュー隊員を振りほどき、よたよたとしながら歩く彼の頬は、とめどなく涙が濡らしていた。


「ああああッ、何でだ。何でなんだ!」


 項垂れ、うずくまり、遺体に抱き着くように泣き崩れる。

 その死を見慣れていなければ、この光景に心揺さぶられるのだろうか。


「何でこんなッ、こんな事に……街から出ることさえ――」


 遺体に縋りつき嘆く彼に、誰も声をかけることはできなかった。


 やがて慟哭は終わり、男はゆらりと立ち上がった。

 顔には深く悲しみが刻まれており、百合と呼んだ女性に固定されたその視線は、世界の一切に意味を持っていないようにも感じる。


「次だ……」


 彼は呟くと、たすき掛けのボディバッグに手を入れると、何かを取り出した。

 掌に収まる大きさの、銃のような形状をしたもの。その質感は完全にチープなおもちゃだった。

 彼はそれを自らのこめかみに突き付けると、躊躇うことなくその引き金を引いた。


 映画やアニメで見るような派手な発砲音。

 火薬に着火し空気を震わせる、響き渡る乾いた炸裂音。

 ――そんなものは一切なかった。


「ゔゔッ!」


 代わりに俺に届いたのは嘔吐感。いつもの嘔吐感。あの、強烈な吐き気。

 自分の輪郭が一瞬曖昧になり、世界が溶けていく。

 食道を逆流するものを無理やり嚥下し、灼けつく喉を震わせ、俺は全身全霊でこの世界に対する恨みを吐き出した。


「ああああああああああ! 何でだ、何でだ何でだ何でだ! 何で戻るんだッ!」


 もはや何かに頼らなくても分かる。

 戻った。今戻った。確実に戻った。6月9日だッ!

 抜けたと思ったのに、抜け出せたと思ったのに。何で戻る。何故戻る。嫌がらせか虐めか?! 期待させておいて信じられない。俺が何をしたんだ。何で俺だけこんな目に遭う! 信じられない信じられない信じられない! 返せよ! 俺のくだらない日常を返せよッ!!


 地団太を踏み、地面を転げまわり、殴りつける。

 もはや俺に人目を憚る余裕など残っていなかった。

 叫び、喚き、地面を殴る。殴る。殴る。

 皮膚が裂け、肉が抉れ、骨が軋んで全身に痛みを走らせる。

 その痛みは、心を覆う分厚い霧を晴らし、自分の中の怒りと混乱を遠ざけていった。


 地面を打ちつけていた拳が止まる。

 それと同時に、意識を急速に痛みが侵食し始める。

 右手の拳を中心に広がる耐え難い痛み。

 握ることはおろか動かすことすらできなくなった右手は、まるでそこが新しい心臓であるかのように、ドクドクと大きな脈動を響かせている。もちろん激痛付きで。


(なんでこんなことしたんだよ、俺……)


 あまりの痛みに、自分の衝動的な行動に対して激しい後悔が湧き上がるが、それ以上に痛い。とにかく痛い。目も開けていられない程に痛かった。


 だが、ふと気付いた。


 周囲に気配がしない。


 別に、漫画のキャラクターのように『気』を感知して人の位置を察知するような能力じゃない。

 人のざわめき、自動車や電車、室外機などの機械音。

 それら日常的に発生する音が全く聞こえてこない。


 時間が戻っていようがいまいが、朝だろうが夜中だろうが、俺がいるこの場所でそういった音が一切聞こえなくなるなんてことはあり得なかった。

 それこそ、世界がひっくり返ったりでもしない限り。

 だが、目を開け、見回した世界は俺の想像以上の光景だった。


 見慣れたはずの駅前の景色は人っ子一人すらなく、ある建物はガラスが全て割れ、ある建物は焼け焦げ、ある建物は崩落し、何より、あの高架――

 電車の降ってきたあの崩壊した高架は、変わらず崩壊した姿を俺の目の前に晒している。


「――ッ」


 そこに広がっていたのは廃墟。

 全てが終わり、打ち捨てられ、放棄された俺の知らない6月9日……

 いや、本当に6月9日なのか?

 崩壊を免れ、残っている建物の姿は、確かに俺の知っている駅前の様子そのもの。

 だけど、俺のこれまで経験してきた人生の道では、街がこんな状況に陥る可能性は考えられない。

 もしかすると、本当にループを抜け、今度は未来に飛ばされたのかもしれない。

 そもそもが荒唐無稽で非現実的な状況。何だって可能性はある。

 まずは日付。とにかく日付、日付が知りたかった。

 スマホはもちろん更衣室にしまってある。

 廃墟と化している街は、当然の如く電気が通っていない様子で、電子公告も時計も全てが止まってしまっていた。いつもは気にもしたことがなかったが、今がいつ(・・)だということ知る術がなかった。


「……バックルーム」


 意識するよりも先に、言葉が漏れた。

 バイト先のバックルーム。

 こんな状況だ。さすがに店長がいるとは思えないが、更衣室の鍵があるかもしれない。

 そう思い、俺は店へと足を向けた。


「無理、だ……」


 店の下、いつもは軽快に駆け上っていた雑居ビルの階段。

 そこは暗闇に包まれていた。

 当然だった。

 今日は曇天。

 電気の通っていない密閉された空間には光の入る余地もなく、おそらく店まで登れたとしても、さらに防音性の高い内装は光も音も届かない完全な闇の中だということが想像できてしまった。

 そんな中で何かを探すことなんて、不可能以外のなにものでもない。


「コンビニ……コンビニ。行ってみるか」


 せめてライトの代わりになるものでもあれば……

 そんな思いで踵を返そうとした俺の耳に、はじめて音が届いた。


「――……ぃ、ぉーい」


 こちらに呼びかける人の声。

 反射的に振り返った俺の視線の先には――

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