4.
突然、雲の隙間からパッと日が射した。
瞬間、巨大な何かが駆け抜けたような轟音が彼女の肩越しから聞こえて来る。
遅れて届く人々の短い悲鳴、突風に耐える光景、しなる街路樹、そして――
『モーニングやっています』と書かれたコーヒーショップののぼりの支柱が、風に耐え切れず根元から折れ、宙に舞った。突風に乗り、まるで投擲のような勢いで、狙いすましたかのように。
乾いた音を立て、折れたのぼりの先端が俺の足元の地面を突く。
支柱を伝い、鮮血が地面に大きく広がっていった。
そして、まるで支柱を支えるオブジェのように、黒い女性は首を貫かれ、意味をなさない音を漏らしながら小さく痙攣していた。
「なッ――」
彼女を支えていた男が、信じられないとばかりに目を見開いている。
そこに再び突風が通り抜けた。
まるで、彼女の様を誇示するようにのぼりがはためき、そしてそれに誘われるように、彼女の首に二本目ののぼりが……
「はぁ!?」
どんな確率だよ!
ともすれば冗談にすら思えるような確率と状況に、思わず声が漏れ出た。
もはやそれは彼女の死が、あらかじめ決まった結末だと言わんばかりの不条理な状況。まるで現実味のない現象。
だが、そんな俺に訴えかけるかのように、のぼり二本に貫かれ、支えきれなくなった頭部がぼとりと落ちた。それはまるで、意思をもっているかのようにコロコロと転がり、俺の靴先にコツンと当たる。
触覚、重み、そしてなにより、狙ったかのように見上げるような形で止まった彼女の頭部の、冷たく凍えるような虚ろな視線。
訴えかけていた。これは現実なのだと。
「そんな……百合ッ、百合ーッ!!」
近くであがる悲痛な男の声が、どこか遠い世界のものように感じられる。
だが、そんな俺の感情をあざ笑うかのように、現実的な感覚が身体の底から押し寄せてくる。
胃が裏返るかのように波打ち、食道が焼け付きながら脈動する。口腔から鼻腔へ酸味と異臭が伝わり、身体がくの字に折れ曲がる。波打つ胃に合わせ、身体の輪郭が曖昧になる気がした。
「――ゔぅッ!」
その瞬間、周囲の空間を叩き割るようにけたたましくクラクションが鳴り響いた。
(ッ、この状況で鳴らすか!?)
呆れと怒り半ばに、俺は口を拭いながら音の発生源を睨みつけた。
そこには、何台もの車が列を成し、先頭の白のワンボックスカーの運転手は明らかにイラついた様子がフロントガラス越しに見えた。
「――ッ!」
はっと気付いて周囲を見渡せば、予想通り先ほどまで周囲にあった人の群れはなく、横断歩道の信号は赤。
そして当然の如く、目の前の惨劇は夢幻の如く消え去っていた。
「ははは……」
思わず乾いた笑い声が漏れる。
――俺は、オカシクなってしまったのか?
三度も凄惨な幻を見て、人前で吐き、他人に迷惑をかける。
ずっと……落ちこぼれてはいても、自分は普通だと思っていたのに。
鳴り響くクラクションの中、俺は頭を下げながら足早に横断歩道を小走りに渡っていく。
流石に、そのまま店に駆け込むのは問題があるような気がしたため、一度ぐるりと遠回りしてから、俺は店へ入った。
◇ ◇ ◇
「……おはようございます」
「おう、おはよう」
店に到着すると、店長はいつもと同じように、狭いバックヤードでPCを用いて作業をしていた。
振り向きもせずに挨拶に応える店長の雰囲気には、先ほど電話で感じた激しい怒りは微塵も感じられなかった。むしろ、そんな事実などまるで無かったかのような感じだ。
だが、それでも一応釈明は必要かと、俺はバックヤードの壁に貼りだされているシフト表の前に行き、その内容を確認する。
そこには、予想、というか希望したとおりの出勤予定が○×でついていた。
火曜日から木曜日出勤、金曜日休みで土日出勤。
いつも通りのルーティーン。
三日出勤した俺は、今日、間違いなく休みのはずだった。
カタカタとキーボードを叩く店長の背中を見つめる。
こちらを見ることもなく、無言で作業するその姿に何故か威圧感を感じるが、ここでビビっていても仕方がない。自分が正しい場合は、ちゃんと主張しないと。
意を決し、一度深呼吸する。
身体全体に酸っぱい味が染みわたる。
(ゔぇっ)
嘔吐の残り香、そして今朝の惨劇。
反射的に捩った身体が狭いバックヤードの壁にぶつかり、やけに大きな音が響いた。
「おい鈴木、暴れ――顔色悪いぞ、大丈夫か?」
音に反応し振り向いた店長は、一瞬咎めるような表情になっていたが、俺の顔、そして全身を見て眉をしかめた。
顔色……先ほど吐いたせいだろうか?
だけど、それよりもまずは身の潔白を証明する方が先だ。
「……店長、今日俺、休みですよね?」
「着替えて、そんな調子悪いのか?」
着替える? 店長、何を……?
「今日は火曜日で暇だろうし、体調マジでヤバイんなら、最悪、帰ってもいいが……着替える前に先に言えよ?」
は? いや……何を? それより、火曜日?
「いや、店長何言ってるんですか。今日金曜日ですよね?」
「鈴木……ホント、大丈夫か? 今日は火曜日だぞ。6月9日、火曜日」
6月9日……?
それは、あの黒い女の転落を初めて見た日の前日の日付。
揶揄うでもなく、騙そうと演技している風でもない店長の様子に、俺は足元の地面が、周りの空間がぐにゃりと歪んでいくような感覚に襲われる。
(何なんだよこれ……俺はいったい何に……)




