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第三話 魔王の恐怖

 アスカが城に戻ると、魔王は珍しく玉座を離れていた。


 城の地下深く、薄暗い研究室の中で、ヴァルゴスは無数の羊皮紙を前にして立っていた。羊皮紙には複雑な図形と数式が記されていた。これはアスカには理解できなかった。自分の知識に存在しない領域だ。


「戻ったか、アスカ」


ヴァルゴスは振り向かなかった。


「テラ・クアルタは?」


「喰らいました」


「勇者候補は確認できたか」


「できませんでした。命の輝きに個別の差異は感じ取れますが、どれが勇者候補かまでは」


「それでいい」


ヴァルゴスは羊皮紙の一枚を丸めた。


「候補がいた惑星の命を全て消せば、やがて勇者は現れなくなる。根を絶てば木は育たぬ」


 アスカは研究室を見回した。壁一面に張られた羊皮紙。そこに描かれたのは……星図だった。


「これは」


「勇者召喚の観測記録だ」


ヴァルゴスは初めて振り返った。


「千二百年分の記録だ」


 千二百年。アスカは数字の重さを感じた。この魔王は、千二百年以上生きている。


「千二百年間、勇者が現れるたびに倒してきたのですか」


「そうだ」


「強いのでしょう。なぜ恐れる必要があるのですか」


 一瞬の沈黙があった。


 ヴァルゴスの表情が動いた。怒りではなかった。アスカには魔王の表情を読む経験が乏しかったが、それでも分かった。あれは——動揺だ。


「恐れているとは言っていない」


「ですが」


アスカは言った。


「魔王様は星々を見るとき、怖い顔をします」


「黙れ」


「承知しました」


 アスカは従った。しかし観察をやめなかった。


 この男は恐れている。圧倒的な力を持ちながら、千二百年生きてきた存在でありながら、まだ来ていない敵を恐れている。なぜか。


 その答えを、アスカはまだ持っていなかった。




 その夜、城の地下で【執行官レイヴン】がアスカの前に現れた。


 レイヴンは人間の男の姿をしていたが、その目だけが普通ではなかった。深海の色——光を通さない、暗い青色の瞳。魔王直属の執行官で、アスカの『監視役』として任命された存在だ。


「初仕事は上々のようだね」


レイヴンは口の端を上げた。


「五十億の命を一度に喰らった。歴史上、そんなことをした存在はいない」


「……用件は何ですか」


「緊張しないでよ。僕はあなたの敵じゃない」


レイヴンは肩をすくめた。


「ただ、いくつか確認しておきたいことがある」


「なんですか」


「テラ・クアルタを喰らうとき、躊躇しなかったか?」


 アスカは即答しなかった。


 レイヴンはその沈黙を正確に読んだ。


「躊躇したんだね」


「……少し」


「なぜ?」


「五十億の命です。当然でしょう」


「いや、当然じゃない」


レイヴンは壁に寄りかかった。


「普通の魔族なら何も感じない。お前が人間のような感情を持っているのは、素材に人間が入っているからだ。ガイア・プリマの人々の感情が、お前に混じっている」


「……知っています」


「その感情が、仕事の邪魔をするかもしれない」


「邪魔はしません」


「本当に?」


レイヴンの目が細くなった。


「ガイア・プリマの人たちの声が聞こえるだろう? そのうちの誰かと、話してるんじゃないか?」


 アスカはわずかに表情を固めた。


 レイヴンは笑った。


「当たりか。まあいい。今のところは問題ない。ただ——」


彼は真剣な顔になった。


「もし命令を拒否するようなことがあれば、僕が処理する。分かってるね?」


「処理、とは」


「お前を壊すということだ。ガイア・プリマの命と一緒に、永遠に消える。それが嫌なら、仕事をしろ」


 レイヴンは去っていった。


 アスカは一人で、地下の石畳を見つめた。


 胸の中でカナが言った。


『ねえ、アスカ。あの人、信用できないと思う』


「分かっている」


『でも彼の言ってることは一つだけ正しい。あなたが命令を拒否したら、私たちは消される』


「分かっている」


『あなたはどうするつもり?』


 アスカは答えなかった。


 まだ、答えが出なかった。

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